# 20
午後の稽古になんとか間に合う時間で職場を出て、電車に飛び乗った。オーナーから店長に話が行き、シフトを調整してもらえたのだ。
本当にギリギリのスケジュールだから、最寄り駅から小走りで向かっても2、3分は遅れるだろう。
汗ばみながら公民館に入る。今日は体育室だったはずだ。早足で階段を上る。
「あ、おつかれ」
体育室のドアの前に、みんながいた。どうやら遅刻ではないらしい。
「まだ前の人がいるみたいなんだ」と志波ちゃん。
「もう時間過ぎちゃったじゃん、つまみ出すぞ」と後藤さん。
「それが、声掛けても、みんな熱中しててさ」と朝田さん。
どういうことかと思い、半開きになったドアの間から中を覗く。
中にいたのは、小学生たちだった。男の子が水色のボールを投げようとすると、向かい側にいる子どもたちは一斉に後ろに下がった。
ドッジボールか。懐かしい。私も小学校でよくやったなあ。あの大きなボールが怖くて、一生懸命逃げてたっけ。
室内を見回すが、大人の姿は見当たらない。朝田さんの言う通り、みんな対戦に夢中になっている。
その中でたった一人だけ、こちらをチラチラ見ている女の子を見つけた。女の子は、ボールを投げようとしている男の子に何か話し掛けていた。けれども男の子はお構いなしにボールを投げる。
相手チームの子が、受け取ったボールを女の子に向けて投げた。女の子は身を縮こめて、頭を両腕で覆ったが、ボールは背中に当たった。
女の子は小走りで外野に回った。その表情は、少しほっとしたように見えた。けれども、もう一度振り返って、申し訳なさそうにこちらを見た。
「言ってくるよ」
私はそう言って体育室に入った。子どもに気を遣わせる訳にはいかない。
私は声を張り上げた。
「ねえ、ごめんね。もう時間なん……」
その瞬間、ボールが私の頭に直撃した。一瞬遅れて、ボールを持っていた男の子がコントロールを誤ったのだと気がついた。
「ごめんさない」と、男の子が駆け寄ろうとしたそのとき……
「おまえら、何してんだー!!」
男の人の、野太い声が響いた。
先生らしきその男性は、子どもたちを一通り叱りつけると、茫然としている私のところに寄ってきて、何度も頭を下げていた。
彼らが去ってからも、私はぼんやりと立ち尽くしていた。志波ちゃんが心配そうに私を覗き込んだ。
「大丈夫だった? ボール痛くなかった?」
「ああ、うん……」
痛くなかった。拍子抜けした。
小さい頃、あんなに怖がって逃げていたボールは、柔らかくて、少しも痛くなかった。
◆
「じゃあ、次は48ページのところからだけど……」
後藤さんが、台本をめくりながら指示を出す。
例の場面だ。自然と身体が強張る。
「中村さん、最初の台詞のとこ、ちょーっと溜めてみてもいいかも」
「本当ですか」
「うん。タイミングは任せるわ。1回試しにやってみよ」
「はいっ」
◆
「俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ。だから怖がらないで、君の声を聞かせて」
「……これが私の声よ」
思っていた以上に、自然な声が出た。確かに、数年ぶりに出す声なんて、大層な力のこもったものじゃなくて、マイクテストみたいなものかもしれない。
「きれーな声だ」
“カイ”も、自然な感じで合わせてくれた。
「ありがとう」
「なあ、マーシャ、このきれいな声を、他の人に聞かせないとはもったいない! お兄さんたちのところへ行こう! 今すぐに」
カイに手を引かれ、“舞台袖”までハケる。
後藤さんは頷いた。続けてという合図だ。
舞台には、黒河内さん演じる“お兄ちゃん”が座っている。私はカイに手を引かれ、舞台の中央に向かう。
「おかえり、マーシャ。カイくんと一緒だったんだね。……どうしたの?」
お兄ちゃんは私の顔を覗きこむ。カイが肩を小突く。
ここまで来たらしょうがないよなあ、マーシャならそう思っただろう。私は口を開いた。
「ただいま」
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