# 13
仕事の日、いつもはワイシャツの上にジャケットやパーカーなどの上着を羽織って家を出て、店に着くと上着を脱いでワイシャツの上に制服を着る。仕事を終えると、反対に制服を上着に替えて、行きと同じ格好で帰る。下は1日中スラックス。
けれども今日は、仕事が終わったら着替えるためのTシャツとジーパンを持ってきていた。今日は、待ち遠しかった、2週間ぶりの稽古参加だ。
仕事を時間通りに終え、かなり時間に余裕のある電車に乗り込む。スマホを開くと、志波ちゃんからLINEが入っていた。
《今日は稽古だよね。おつかれさま~。私は友だちの結婚式で行かれないけど、よろしくね! あ、休むことは団長には連絡済です》
その後に、なぜか知り合いでもない新郎新婦の写真が添付されていた。
そうか、今日は、志波ちゃんは来ないのか。なんとなく心細い。
いやいや、志波ちゃんがいようがいまいが、稽古することに変わりはないんだからがんばらなきゃ。
そう思った瞬間、ハッとした。慌てて鞄の中を探る。
探したって、ある訳がなかった。2、3日前に読み返してから、机の上に置いたままだったのだから。台本は。
やってしまった。仕事の後に稽古に行くのは分かっていて、着替えを持ってくることは忘れなかったのに、台本を忘れないようにしなきゃいけないということに結びつかなかった。
どうしよう。家に取りに戻るだけの時間はある。
でも、今日は朝から夜遅くまで仕事をしていることになっている。親が家にいる限り、取りに戻るという選択肢は、私にはない。
せめて志波ちゃんがいてくれたらなあ。
いっそ仕事が延びたとか言って、稽古を休んでしまおうか。
どうしようか考えているうちにも、電車は進んでいった。
◆
稽古場に着くまでの間に考えついた中で最善の策は、今日最初に会った人に台本を借り、公民館のコピー機でこっそりコピーさせてもらうことだった。いっそグループLINEでおおっぴらに言ってしまって、誰かに助けてもらおうかとも思ったけど、やっぱりそれは気が引けた。
乗り換えの駅で少し時間調整をして、公民館に着いたのは、稽古開始20分前。誰が来ているだろう。
多目的室のドアを開けると、いたのは星川さん1人。他に誰もいない部屋で、白い脚を晒してジャージを履こうとしているところだった。
「あっ……すみませんっ!」
慌ててドアを閉めかけたが、
「いーのいーの、上にスカート履いてるから」と星川さんが止めた。
けれど、そのスカートだって、どこかの女子高生並みの短さだ。私は目をそらしながら、部屋に入った。
部屋の隅に荷物を置き、横目で星川さんの方を見る。着替えは終わったようだ。今日は、セーラー服みたいなパーカーに、下は星柄のジャージ。
星川さんとは、この前のこともあって余計に気まずい。ましてや台本のコピーなんて頼みづらい。
でも、星川さんには何も言わずに、この後に来た人に頼みごとをするのも、それはそれで失礼な気がする。思い切ってお願いしてみることにした。
「――は? 台本忘れた?」
「すみません……」
「何しに来たの?」
「すみません、仕事場から直接来たもので……」
「私もさっきまでそこのコンビニで働いてたけどねー」
うっ……
◆
結局、渋々という感じで、台本を貸してもらえた。変な折り癖がつかないよう、慎重にコピーを取る。
星川さん演じるアンナの役名には、ピンクのマーカーで印がしてあり、余白には鉛筆で細かい指示がびっしりと書き込まれている。
すごい。やっぱり声優さんなだけあって、意気込みが違う。それに比べて私は、何をやっているんだろう。本当に、こんな人たちと一緒に舞台に乗っていいのだろうか。
そんなことを考えながらコピーを続けるが、マーシャの登場するシーンを目にした瞬間、手が止まった。
マーシャの役名には、黄色のマーカーが引いてあった。その近くの余白には、同じく鉛筆での書き込み。
登場人物みんなの動きを細かく把握しているのだろうか。そうではない。他のキャラクターの箇所は真っ白だ。
台本を最後のページまでめくる。最後まで、アンナにはピンク色、マーシャには黄色のマーカーがしてある。
そして、2つの役は、舞台上で一時も交わらない。ピンクのマーカーが続いた後に、しばらく主人公と魔女のシーン。そして、黄色のマーカーが続いた後に、主人公と友人のシーン。その後に、主人公とアンナが結ばれるシーン。
ヒロインと、他の役の、一人二役。あまり聞いたことはないが、役者が足りないこの状況だ。アンナ役の星川さんなら、物理的に可能なはずだ。
もちろん、能力的にも。
きっと、私が来なくても、舞台は成り立っていたんだ。
◆
「君の声が聞きt……」
「これが私の声よ」
台詞を発してから、しまったと思った。朝田さんも、一瞬びっくりして素の顔に戻った。けれども演出の指示があるまで芝居は終われない。カイは台詞を続ける。
「きれいな声だ」
「ありがとう」
ちっとも感謝の気持ちなんてこもっていなかったと思う。
「なあ、マーシャ、このきれいな声を、他の人に聞かせないとはもったいない! お兄さんたちのところへ行こう! 今すぐに」
舞台袖にハケるなり、後藤さんは苦笑交じりに言った。
「中村さーん、今のはさすがに早すぎるよー」
「すみません」
私は眉間に皺を寄せて、申し訳なさそうな顔を作った。身体がカーッと熱くなり、うっすらと汗ばむ。
「じゃ、もう1回、今のとこ」
「はい……」
◆
「ああ、戻ったのね! カイ……! 会いたかった……」
星川さんの声は、凛として美しい。声だけでなくて、身のこなしも。両手を大きく広げて、全身で喜びを表現する。本当に、好きな人と再会を果たした少女のような、幸せに溢れる表情。
「うん。もう、あんまり言うことないなあ」
後藤さんは、くしゃくしゃの頭を掻きむしりながら笑った。
私は、体育座りをしながらそれを眺める。
田中さんと宮坂さんが、台本を見ながらヒソヒソと話している。
私は居心地の悪さを感じた。今日は調子が悪い。早く今日の稽古の時間が終わってほしかった。
◆
「中村さん、来週また来られないなら、最後にもう1回48ページやっとこうか」
来週また来られないなら。その言葉に、心なしか刺を感じた。毎回来られなくてもいいって言ったのは、そっちなのに。
すでにあちこちのシーンで動きまわっていた朝田さんも、一瞬、不機嫌そうな顔を見せた気がした。けど、定位置に着くと、役の顔になって、長い台詞を言い始めた。
ごめんなさい。私のせいで同じところばかりやらせてしまって。
「――俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ」
もうすぐだ。間を空け過ぎず――
「だから怖がらないで」
――けど食い気味にならないように……
「君の声を聞かせて」
…………
しまった。
身構え過ぎて、声が出てこない。
朝田さんも、後藤さんも、こっちを見ている。
ああもう駄目だ。ここは思い切り頭を下げるか、笑ってごまかすか……
そう思った瞬間。
「これが私の声よ」
左から、凛とした声が響いた。
星川さんだった。
私もみんなも、彼女を見た。
「ごめんなさい、つい」
星川さんは、笑って首を傾げた。
◆
次までにはなんとかしてきます。その私の言葉に、後藤さんも、もう一度やり直そうとは言わなかった。
もういいや。稽古が終わると、誰とも目を合わせずに、足早にその場を去った。
外に出ると、夜のひんやりした空気が頬をなでる。季節は、いつの間にか移り変わっていた。
駅からの人の流れと逆方向に、周りにぶつからないよう気をつけながら、帰りを急いだ。
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