# 8
「傘持った? さっき天気予報で、雨降るって言ってたよ」
玄関で母に言われた。
「そうなの? ヤフーの天気予報じゃ、くもりってなってたけど」
「知らない。あんたがそう言うならいいけど」
母は少し不機嫌そうに言った。
「やっぱ、小さい折りたたみ傘持っていくよ」
そう答え、下駄箱に常備してある傘を鞄に入れた。鞄がぎゅうぎゅうだ。
「じゃあ、行ってきます」
◆
志波ちゃんに連れられ、ドキドキしながら公民館の多目的室へ入る。
「おはようございまーす。皐月ちゃん連れてきましたよー」
「おっ」
長身の男性がこちらを振り向いた。くるくるのパーマに、濃い眉毛に、幅広の二重。
ああ。後藤さんてこの人か。文化祭か何かで会ったことあったわ。特徴的な顔立ちが、なんとなく印象に残っていた。
「お久しぶりですー。団長兼演出の後藤です。今日は来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、急にお邪魔してすみません。よろしくお願いします」
私は頭を下げた。
部屋の端に座って台本を読んでいた男性が、顔を上げた。
「中村さんじゃん」
この人はよく知っている。3個上の先輩、
「お久しぶりです。よろしくお願いします」
挨拶をすると、黒河内さんは、イヤホンを片耳だけ取って「よろしくー」と言って、また台本に目を戻した。
「おはよーございます」
続いて、凛としたアニメ声が後ろから響いた。
振り返って驚いた。声の主の女性は、その姿もまるで本当にアニメから飛び出てきたかのようだった。猫耳パーカーに、音符柄のスウェットパンツ、パーカーの下のTシャツには“天使”の文字が入っている。けれど、その格好が痛々しくないほど可愛らしい。目がくりんとしていて、本当に猫みたいだ。こんな後輩、いたっけな。
「志波ちゃん、その子がマーシャ演るって子?」
見た目とは対照的に、ニコリともせず彼女は訊いた。
「あっはい、中村です。よろしくお願いします」
声を掛けられたのは志波ちゃんなのに、そしてまだ演ると決めた訳じゃないのに、私は反射的に頭を下げた。志波ちゃんという呼び方と、予想外のタメ口に混乱する。
「ふぅん、
アニメ声だけども冷ややかな声でそう返すと、彼女は私の横を通り過ぎて、部屋の中へ入っていった。
志波ちゃんは、圧倒されている私が面白いのか、笑いを堪えるように私を見て、声を潜める。
「あの人が例の声優さんね。黒河内さんの1つ上の代」
黒河内さんの1つ上? ってことは、30歳!? 信じられない……
「あっ、中村さん、お久しぶりです」
続いて部屋に入ってきた黒髪ロングの女性は、私を見ると会釈した。3つ下の後輩、
そうか。彼女も、もうOBなのか。私が知っている限り、サークルでは衣装担当で、舞台に乗ってはいなかったが、彼女もメンバーなのか。
室内を見回すと、あとは知らない男性が2人。1人は多分30代位で、長髪を後ろで束ねている。もう1人は、この中では特徴の薄い、会社員風の男性。40代位だろうか。
後藤さんは部屋のドアを閉めて、みんなに呼びかけた。
「
宮坂さんというのは、田中さんと仲のいい宮坂さんのことかな。彼女も裏方だったはずだ。2人一緒に入団したのかもしれない。そういえば、女が足りなくて、裏方総出で出演するって話だったっけ。2人とも、元は裏方のつもりだったのかも。
それと高取さんという人で全員ということは、メンバーは9人か。思っていたより小規模だ。
「じゃあ準備体操始めるので広がってー……じゃなくて、その前に、中村さん紹介しないと」
後藤さんは、私のことを素で忘れかけていたようだ。もっと歓迎されるかと思ったのに。
「11月公演マーシャを演っていただける――で、いいのかな?――の、中村さんです」
で、いいのかな? のとき、後藤さんは私の顔を窺うように覗き込んだ。ただの見学のはずだったのに。もう私が演る方向になってしまっているじゃないか。
私は苦笑いで「よろしくお願いします」とだけ言った。
見学だけのつもりだったが、体操や発声くらいは一緒にという空気だったので、久しぶりに身体を動かし、声を出す。
そして、読み合わせを最後まで通すからマーシャの箇所を読んでほしいと言われ、台本を渡される。他のみんなは、既に台本を読み込んでいるのに、そこに初見で加わるとは。とはいっても、台詞少ないからいいか。
◆
「あなたは……自分がどれだけ、たくさんの人を傷つけてきたか、分かってないのよ」
「俺は、人を傷つけてなんていない!」
「まだそんなことを言うのね。ねえ、この前、セナに会ったの……まだあなたのことを許せないって」
「セナ?」
「忘れたの? あなたのせいで、この町を出て行ったのよ」
「ああ。まだ子どもの頃の話じゃないか。セナもお前も、物覚えがいいもんだなあ」
「小さい頃から気が弱かったセナにとって、それだけ辛いことだったのよ」
「あーあーあー、何だよ急に。俺よりセナちゃんが大事かぁ?」
「あなたが大事だから、言ってるのに!」
「よけーなお世話だぁ! ほっといてくれ!」
「もう、あなたなんか知らない! 北の魔女にでも、呪われればいいわ!」
「いや、カイはチンピラじゃないんだから」
後藤さんの指摘で、我に返る。星川さん演じるアンナと、長髪の男性が演じるカイとのやり取りに、圧倒されていた。自分が読み合わせに参加しているということも忘れ、観客の立場で聞き入っていた。
「『あーあーあー』って威嚇するんじゃなくて、『あーあ』くらいの感じでいけるかな。語尾も伸ばさない」
後藤さんの指示も鋭い。素人目には、完璧だと思っていた演技の、少しの粗をも見逃さない。
「じゃあ、次」
サークルのノリかと思ったら、みんな真剣そのもの。私、もしかしたら、とんでもないところに紛れ込んでしまったんじゃあ。
◆
「私はどんくさくて何をやってもうまくいかない。小さい頃カイくんに毎日のように言われた通りだわ。学校に行けなくなって転校しても何もかもうまくいかなかった。もう生きていてもしようがない、ん? しょうがない?」
「そうだね、しょうがないの方が自然かな」
あ、こういう人もいるんだ。後藤さんにフォローされ、照れ隠しのように笑う田中さんを見て、私は安心した。田中さんは、台本を読むときも、少し緊張しているようだった。私から見ても抑揚がいまひとつ足りない。
まあ、そりゃあそうだよね、もともと裏方だったんだから。少し気が楽になる。
◆
「うーんそうだよなあ、どの言葉が人を傷つけるか、分かったもんじゃないからなあ。そうだ! じゃあ、まずは、関わりの浅い異国人で試してみたらどうだ」
自分の台詞が近づき、そわそわしてくる。
「俺ならどうせ、どうにかして元の世界に戻ってみせるから、何を言っても怖くない。そうだろう?」
“カイ”は、長台詞も難なくこなす。
「身近なお兄さんやおばあさんならともかく、俺がどう思うかなんて気にすることないじゃないか。俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ」
もうすぐだ。
「だから怖がらないで、君の声を聞かせて」
次だ。
「これが私の声よ」
うまくやれているだろうか? 不安そうに周りを見ると、“カイ”が、本当に数年振りに声を発した少女を励ますような笑顔で、親指を立ててくれた。
◆
「おつかれさまでした。今日は、ありがとうございました」
「おつかれさまー。どう、乗ってくれる気になった?」
帰り際に挨拶をすると、後藤さんにそう返された。
「えっと……仕事で、稽古もあんまり来られないですし……」
「いーのいーの、なんとかなるって」
「そうそう、気楽に来てくれればさ」
志波ちゃんもそう言って、肩をポンと叩いた。
私は困ったように笑って、首を縦にも横にも振らなかった。
でも、気持ちはもう決まっていた。
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