転生の湖

 



 私は、ただ人生を終えたかったわけではない。



 目の前には睡蓮の花が一面に浮かび咲いた湖がある。

 花々の隙間から見える湖面は、そこに映るすべてのものを反射している。今は夜なので、空に瞬くたくさんの星々が水面に浮き、湖は仄かな輝きを放っていた。

 周りには山や木々が立ち並び、湖の様子とあわさり、厳かな雰囲気を醸し出している。

 この不思議な様相の湖は、そこらのただデカいだけの水たまりとは違い、世にも奇妙な力があると、まことしやかに囁かれていた。

「湖に入ると、理想の存在へと生まれ変わることができる」という噂である。







 私が、現在この湖に至るきっかけとなったのは、4か月前のことに起因する。私が会社を辞めたことだ。


 やめた理由は単純なことだった。

 私がその仕事をすることで、今までの生き方で何も満たされていなかったからだ。


 思えばなんとなくであがった高校、とりあえずで選んだ大学、そして義務感だけで入った会社。

 そんな考えで選んだ会社、いや、人生が何も満たさなかったのは自然なことかもしれない。人生の取り返しがつかないところまできてやっと、心に宿る虚無感や焦燥感、自分自身の無知さや無計画さへの無意識の内の後悔に気づいた。言ってもしょうがないことだけど、皆色々な可能性を切ってきたんだ。何もない私にはそれがしょうがないで済まなかった。


 普通なら食い扶持を稼ぐため、社会的地位のためにそんなことはしないだろう。しかし私は、ここが私が私に存在意義を見出せる最後のチャンスだと思った。

 そう考えてからは何も覚えてないくらいすぐに、堕落したのか昇華したのか分からないような生活が始まった。


 仕事を辞め何もせずに過ごす毎日。決して良くはなかったが、社会で身を削り働いているよりは自分の形を維持できるような気がした。

 しかし、働けるにも関わらず働かず会社も自分勝手な理由で辞めるような人間を、世間が許すはずもない。


 お金ももうそろそろなくなる。お金が尽きたらどうしよう。いや、どうもこうもなく私が選ぶ私の存在意義はそこにあるのだろう。

 


 そんな時に見つけたのが、「転生の湖」のうわさだった。


 〇県〇市の山奥にある、地元の人しか知らないような伝説の秘境にある湖。

 地元の人しか知らない割にはネットに噂が広がるもんだな、そう思いもした。だけど、噂の内容を聞くと途端に興味が沸いてきた。

 「湖に浸かった人は、輪廻の輪に導かれ、理想の自分に生まれ変わる」のだそうだ。なんといえばいいのか。全然ご利益とかじゃないし誰が得するんだろう。だけど、私みたいな人間にはきっととても興味深いものだったんだ。

 そこはきっと、私の人生にとどめを刺すのにぴったりの場所だろうから。

 



 そして、数日間色々と調べてみると、もうかなり虜にされていた。

「死者と会うことができる」とか「自分の未知なる可能性を引き出す」とか、もう眉唾物のオンパレードだ。通販かよ。ちゃんとB級映画のノリしてるし、書き込み主失踪オチの実況スレも建っている。これはアツい。

「転生の湖」などという肩書は、この怪人二十水面相の一面に過ぎなかったわけだ。

 私はやっぱりどうしようもなく愉快に思えて、そこに行くことを決意した。お金もまだ足りているし、それほど遠いわけでもない。今なら全てが好機だ。そして、そのネットの渦の底ともいえる怪奇談に足を踏み出したのだった。



 電車にのってバスに乗ってと乗り継いで、○○バス停から徒歩約一時間半の場所にそのヤバ湖は鎮座していた。


 

 湖の縁に立ち、湖面をよく眺めてみる。山奥にあり、明かりもないから星が綺麗に反射して、この世のものとは思えない光景が作り上げられていた。

 一説に、あの世とこの世との渡し舟のようなものと言われていたのも納得できる。今までの人生で最も死に近づいていると、はっきり感じて少し鼓動が早くなる。睡蓮が持つ妖しいオーラがそうさせた。


 一歩踏み出すことを忘れ、ただぼーっと湖面を眺めていると



 バシャっ




 何かが水を散らした。




 水が跳ねる音を確かに耳で聞いた。湖には波紋が広がり、チラリと星の光が急に反射した。

 睡蓮の花が波紋で揺られていた。この宇宙を映す水の、奥深く、沈んでいく何かの影を確かにこの目で見た。




 あれは魚?いや、違う。何を確認できたわけでもないのに、頭の中の自分はその可能性を否定していた。私は、今更になって本能が警告を告げていることに気づいた。



 ここは、理想を現実にする場所で、予想もつかないような力を秘めた場所で、そして死者が常世にわたるための架橋なのだ。


 怖気が体を支配する。命が惜しければここから離れるべきなのは間違いない。体中の神経がなくなったかのように、空蝉にでもなったかのように、湖の縁にピタりと硬直してしまう。


 睡蓮は月光に照らされより妖しく咲き乱れはじめ、木々に抜ける風音が私に語り掛ける。包み込む夜の暗闇に、体が明かりを求める。


 私は月に向かって歩き出す。重たい水の音が耳に入り、視界いっぱいに透き通った闇が目に入る。これは死の近似値のようなものだ。


 意識は明瞭で、全ての出来事を把握できていた。もはや抵抗しない。遥かに大きな存在の中でもがくことに意味はなく、その力を拒むことは出来ない。



 それに、結局それが私にお似合いの最期だろう。

 



 私はゆっくりと目を閉じ、肺の空気を使い切ると、意識を手放す前に微笑んだ。








 水が流動する音。



 空をみると、いつでもおぼろ月が見える。蓮の葉が、見ようによっては雲に見えなくもない。



 辺りに目を向けてみると、


「アッ、スー……ドウモ」

「ウェ、アッ、……コンチハ」

「……ウィ…!!」


 社会不適合感あふれる面子が揃っていた。



 大きく息を吸ってえらから水をだす。


 どうやら私たちの業は、転生程度でどうにかなるものではなかったらしい。

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