セミ眼病幻視ミンミン



 セミのことは別に好きでも嫌いでもなかった。

 夏になったら現れて、一週間で消えていく儚い命。まぁ実際は何年も地下で育つらしいが。


 見た目の若干のグロテスクさや、虫というカテゴリーに属していることから嫌ってる人も多いだろう。


 だが、私はセミに対して何か特別な感情を持ち合わせていない。

 セミという生物は、私にとってただ夏になったら現れる生物の一種であり、本当にそれ以上でも以下でもなかったのだ。




 だからこそ、今この状況について、これほどまでに不可解なのだ。

 「蛭川さん?大丈夫ですか?」

 同僚の糸村の声だ。糸村は同僚にも敬語を使うような、よく気が利く礼儀正しい女性だ。

 声の方を向き、もう一度自分の状態を確認する。


 「あぁ、いやごめん、寝不足で。何の話だっけ?」

 浮ついた声でそう答える。

 「えーっと、つまり、蛭川さんの__が__で_」

 もはや糸村の声は私の耳に届いていなかった。



夢じゃない。確かに私の視線の先には、バカでかいセミの腹があった。





 それが始まったのは数週間ほど前のことだ。


 なにをしたわけでもない。

 何故起きたのか見当もつかないが、身の回りに見えるものが全て、セミに変わっていった。


 最初にそれを見たのは、道端だった。セミの死骸が落ちているような季節はとうに過ぎ去ったにも関わらず、路地のそこら中にセミが蠢いていた。死骸だけではなく、動いているセミもいたが、妙なことに鳴き声を一切発さなかった。

 その何とも言い難い状況、腹の内に何か気持ち悪いものを抱かせるのに十分だった。ただまぁ、異常気象がどうとかなんとか、かろうじて納得できる範囲のことではあった。



 次は、上司が着てきた奇抜な意匠のスーツだった。ボタン部分が全て、精巧なセミの羽模様だった。精巧という言葉には荷が重いほど精巧すぎるそれは、私に一つの歴史的な作品を思い出させた。

 名をなんと言ったか。たしか大昔に玉虫の羽を使った細工物があったのだ。

 つまるところ、これが本物であろうとよく似たボタンであろうと大した問題ではないということだ。芸術的センスが爆発するとこうなることもあるというだけのことだ。

 セミボタンを見ているはずの誰も、勿論私自身もそれについて何も言わなかった。

 だから、そういうこともあるもんだ、こういう服を着たい気分もあるもんだと自分の中にある確信めいた予感を誤魔化した。



 その次は、社食の味噌汁の中だった。味噌汁のおぼろげな輪郭に、わかめ、豆腐と共に蠢くセミが鎮座していた。

 これは、もしかしたら弊社自慢の珍味かもしれない。思い切った経営方針に定評がある弊社らしい、母の味代表を冒涜するあまりにも大胆な改革だったのかもしれない。

 と思いながら、そっと箸を置いて味噌汁には手をつけなかった。勿体ないとかの話をしている場合ではない。純粋な恐怖心が、心の中の一角に確かに住み着いていた。



 味噌汁に出没してからは一気にあらゆるものが浸食されていった。町を駆けずり回るセミ車に、肢体を薄くそいで羽に巻いていただくセミケバブ。ただのデカいセミが打ち上がる打ち上げセミ火に、セミを浸けることによって効果を高めるという波動水素セミ水。比較的リーズナブルなセミに眉唾物のマニアックセミ。この世の全てにセミはいた。



 病院にいった私に、医者が処方したセミ。この現象をただのストレス性のものだとして本当にいいのだろうか。パックから小さなセミが産み落とされる。セミは胎生ではない。私は目を閉じてセミを飲み干す。

 幸いなことに、喉を通る感覚は錠剤だ。見さえしなければ、まだ耐えられる。




 まともに食事すら出来ない私を心配してか、糸村はよく声を掛けてくれた。元々仲は良かったが、このことを機に一緒に食事をとることもあったりした。


 

 糸村と話している間は、視界の端のセミたちから気が紛れた。



 はずだった。はずだったのに。セミ糸村が爆誕してしまった。



 何故だろう。私は何かセミに対して罪を犯したのだろうか。いや、正直ここまでのことになるまでセミに関しては本当にどうでもよかったのに。

 もっとこうなるべき人はいるだろう、セミを食べる人とかいるし。何故私なんだ。考えても出てくるはずもない。

 

 ある日、フラフラと足を動かして会社を早退した私は、自宅へと帰る。セミは未だ浸食を続けている。道路を構成する幾対もの脚と羽が私の帰路を覆っていた。


 自室は蠢き続ける。うねり、羽ばたき、変化を続ける。いや、むしろこれが正常なのだろうか。私が知らなかっただけで、みなセミの世界を生きているのだろうか。動物は大抵、人間とは違う世界を見ているという。だとしたら何も悪いことはない。私という動物の眼の曇りが取れただけだ。


 なのにどうして、こんなにも意識を保つのが辛いんだろう。この光景は正常なはずなのにどうして苦しんでいるんだろう。

 おかしい。おかしい?おかしいのは何だ?いや、そうか。世界が正しいのなら私がそうなのか?

 私は目にセミを刺した。薄れゆく視界に液状のセミが滴りおち、唯一その形を留め続けた闇が私に安寧をもたらす。





 「あぁもう随分良くなってきたよ」

 それからしばらくが経ち、私は平穏な日々を過ごしていた。眼球は完全に潰したので、視界が戻ることはない。色々と困ることはあるだろうが、それでもようやくあの忌むべき存在から解放されたのだ。

 そんな折に、糸村から電話がかかってきた。退職した私に、わざわざ見舞いの言葉や世間話、残してしまった仕事の処理をさせられたという恨み言など、私を元気づけるためにあれやこれやと話してくれた。本当にいい奴だと思った。



 電話を切る間際、糸村は少し声を震わせながらこう言った。

 「蛭川さん、その……セミっているじゃないですか」



 私の動悸は激しくなった。続く言葉が分かったからだ。外から妙にうるさいセミの鳴き声が聞こえる。季節外れのセミの鳴き声が。


 

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