こわひはなひ

アングル

足音


 数週間前のこと。私はすこし身震いするような体験をした。


 それは冬が本気を出し始める12月初頭、外に出ると、家の暖房が恋しくなるような寒風に見舞われる日のことだった。



 私は普段、家と会社を行き来するだけの生活をしている。

 ただ、その日は普段の例に漏れる、3日も続いた出張からの帰りだった。



 本格的に疲れているわけではないが、少しの脱力感が残っているような体調で、いつもなら飲みにいってもいい程度の時間ではあったが、駅前の賑やかな雑踏に踏み入るよりも、早く自室に帰って一息つきたいという思いが勝った。


 そして駅から徒歩20分のわが家に向かって、ボロの社会人が出して許されるギリギリの早足で歩き始める。そんな帰り道でのことだ。



 歩きながらぼんやりと「今月は若干懐が厳しかったからいいや」なんて、する必要もない正当化をしたりしていると、車がすれ違えない幅の道に差し掛かった。

 この道は少し、他の道より個性があった。



 駅から自宅へと帰る道中には、人気が少なく、電柱の明かりもぽつぽつと間隔が空く、住宅街と住宅街のちょうど狭間を繋ぐような、名無しの道がある。

「けっこう前に何かの事件があったよね」と訊かれたら、何となく信じてしまいそうな少し怪しい雰囲気を持つ道だ。


 まだそう遅い時間ではなかったはずだが、冬季の力というのか、とっくに暗がりになったそこは、禍々しいような”邪”な雰囲気を纏っていた。世に門限というものがある一因かもしれないその”邪”は、とてつもない近寄りがたさを道に宿していた。


 とはいえ、電柱の頼りない明かりも灯っている。幾つになっても暗闇に多少の恐怖を感じてしまうものだが、私はその邪道に身を投じることにした。当然ではあった。馬鹿の遠回りになるし。



 全くと言っていいほど何も起きない、起きるはずもない道。しかし、そこを歩く私の胸には不思議な焦燥感のようなものがあった。今思うと、暗闇の恐怖から無意識に逃れようとする内に、それにたどり着いていたのかもしれない。

 そして




 ヒタ……ヒタ……




 奇妙な音が聞こえた。

足音のようにも、全く別の何かにも聞こえる妙に快くない音。

それはまるで、魚が地面を跳ねているかのような音。

まるで、雨にずぶ濡れた長靴で、アスファルトの上を歩いているかのような、

そんな音だった。


 初めは何かの聞き間違いかと思ったが




 ヒタ……ヒタ……




その音はどこからともなく発し続けられ、これは現実に、私の後方数mから聞こえているものだと理解させられた。

 しかし、聞き間違いではないとするなら、なんだというのだろう。

 こんな音が、雨も降っていない乾いた冬の道の途中で、聞こえるはずがない。

後ろから、私の歩行音に少しズレたそれが響き続ける。不快感、いや恐怖からか、私は後ろを振り向けなかった。

 電柱の光が何かにあたって反射している気がする。間接的にその存在を感じ取れた。



 ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…



 不意に恐怖が高まった。

 何度目かに鳴ったその音で気づくことになる。


 私は家に歩き続ける。

 その音は、耳の異常、突発性の難聴とか、もしくは何かの現象とかその類のモノなのだと思うことにして。

この音は一切何の変哲もない、一般にありふれていないから今まで経験していないだけで、その類のモノではないのだと自己暗示をかけて取り繕っていた。



 音はただ大きくなったのではなく、少しずつ厚みを増していく。

 やはりそれは、近づいてきていた。



 私は、あえて音の正体を確かめるべきかと思った。

触らぬ神に祟りなし、という。背後に迫るものがどういった存在かは分からない。しかし、振り向くという行為は音の脅威に気付ききってしまった今、状況を逆転させる可能性の一手ではあった。

 考える間も、先方は留まるところを知らない爆音ずぶ濡れ足音を鳴らす。

 そして私は




 ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…


 ……私には結局、振り返ることは出来なかった。

振り返って、何かを見てしまえば、私の日常の日々は二度と戻ってこないと分かった。それが真実かは分からない。とにかく、私には、その状況で振り返るほどの度胸はなく、まとまった思考をする余裕もなかった。


何もできない、何をすることも最適ではないその状況の中で、唯一選ばれたのは足を極限まで速めることだけだった。走って逃げることは、この鍔迫り合いの様な駆け引きの均衡を崩す行為な気がしたからだ。純粋な競歩バトルが始まっていた。

 そしてそれは間違いだった。



 ヒタヒタ……ヒタ……

 音は鳴り続ける。足が無に引っかかってもつれる。何かが近づいてくる感覚が確かにそこに感じられる。


 そして目の前に現れるのは、信号機だ。

いつもの帰り道なのだから当然分かっていたはずなのに、選択をここまで先延ばしにした。ここから先は、直ぐに自宅だ。


ヒタヒタと、あの忌まわしい音が聞こえてくる。信号は赤。

 車の通りも少ない今、余裕で渡れるだろう。

音は近づいてくる。

 ヒタヒタ……ヒタヒタ……

理性を保とうとする自分と、一刻も早く逃げ出したい思いがもみくちゃになって、すっとそこに立ち尽くした。信号を待っているわけではなく。

 ビダ……ビジャ……

鮮明な音。

そして、もう真後ろかと思うくらい、音が近づいて



 その瞬間信号も気にせず、横断歩道を駆け抜けた。

胸の鼓動がバクバクと体に訴え、目の前に見える光景すらまともに見ることができない。極高音の耳鳴りが広がる。冷えた喉と肺が渇く。体中を巡る血と本能に従って走り続ける。








無我夢中で走ると、気づいた時には、そこは我が家だ。

ちなみに一軒家。

 

 もう、周りから妙な足音はしない気がするが、耳鳴りと拍動のせいでそれも定かではない。何かが解決したわけではない。はずだ。

 分からないことだらけなのだから、もう、分からない。





 私は震える手で鍵を開け、ドアノブを引く。


 家の扉を開けた途端、妙だと思った。


 玄関からそろりと足を伸ばしていく。

 進んでいく中で、額に嫌な汗が広がる。


 それは、この時期ではごく普通のことだが、玄関から”入った”時に感じては決してならないもの。

  

 家の中に一歩、また一歩と足を踏み入れ、そして疑惑は確信へ。

 そこにはあられもない真実、そう





  __室内がとても快適な温度を維持していた







 この事件と、あの奇妙な足音が何か関係があったのかは分からない。

 あれ以降、奇妙な出来事にはあっていないし、全ては謎に包まれている。ただ、間違いなく起きたことではある。多分いい霊とかなんだと思う。きっとそう。死んでねぇから。てか環境問題に取り組んでいるタイプなんじゃない?そんで、電気代やばいぞおめぇって圧かけにきた。この説がアツい。



 精神衛生上。





 そして、一番肝心な電気代についてだが……


今からすでに、迫る電気代請求の恐怖の足音が聞こえてくるかのようだ。 

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