5・結界の中

 なぜこんな場所に来ることのなってしまったのかと、弦音はいまさらながらも後悔している。


 あの店の扉を開いてしまったのは自分だ。誘われるままにあの店に来てしまい、誘われるままに彼の“仕事”に同行するハメになってしまった。


 断ればよかった。


 いや断るつもりであの店にやって来たというのに、気がつけば有川朝矢についてきてしまっている。

 

 どういうことなのか。

 

どうやってきたのだろうと思い返してみるも、自分が辿った経路さえもぼやけている。そもそも、いまいる場所自体があいまいだ。


あいまいすぎて、現実味が欠ける。


それは夢ではないかとしか思えない現象が弦音の目の前で展開されているからだ。


化け物がいる。


化け物と対峙する青年の姿があり、弦音はただ呆然と眺めているだけだ。


 隠れたい。


 逃げたい。


 でも、逃げるすべを持たない。


 なによりも足が一歩も動かなかった。

 



 モノノケ


 アヤカシ 


 どこかで聞いたことのあるフレーズの言葉。


 どちらも同じ意味で想像上の生き物。漫画やゲームにしか存在しないものたちの総合ではなかったか。


 いや、架空ではない。


 少なくとも、弦音の目の前にいる得体のしれないモノは架空ではなく現実だ。


 夢だと思いたい。



夢であってほしいり


 その思いは床でぶつけた臀部の痛みで、これが現実だということを弦音に否応なく突きつけてくる。



 全身が凍る。

 

 いま目の前にいるものは猿。


 とてつもない大きな巨大な猿だ。


 イメージだと『ドラゴンボール』というアニメで主人公の孫悟空が化ける大猿。

  

それよりも筋肉質。


 大きな一つ目。


 頭部には一本の角。


「アヤカシに変化した?」


 隣で佇んでそれを見ている柿原がつぶやく。柿原の声は震えている。 


 彼らの話を聞いていると、柿原も霊力がある。モノノケといった類は見慣れているし、何度となる化け物と呼ばれる者たちに遭遇している感じもしたのだが、彼の表情は恐怖で満ちている。


「モノノケでもアヤカシでもないようだ」


 朝矢がいう

 いつのまにか朝矢の手には一本の刀が握られている。


「オニだ」


 また新たな単語。


 オニというのは鬼のことだろうか。


 弦音は柿原に視線を向ける。顔が青い。 


 どうも答えられる状況ではないことは十二分わかる。





「なにをごちゃごちゃいっている」


 大猿が腕を振り上げ、弦音たちと大猿の間に立っている朝矢へと振り下ろす。

 朝矢は後方へと下がる。


 朝矢のすぐ前で振り下ろされた腕が床をつらぬく。たちまち床にヒビが入り、穴が開く。瓦礫が下の階へ落ちる。


「うわうわ」


 弦音が狼狽する。


「結界は張っているんだよな」


「あっ……はい……」


 柿原が声を詰まらせながら答えた。


「ならいい。ついでに護衛札は?」


「あ……あります」


 柿原の手には一枚の札。


「それで身を隠せ。いちいち守ってやるつもりはない」


「はい」


 弦音がきょとんとしていると突然柿原が弦音のおでこに札を張り付けた。


「うわうわ」


 弦音は突然張られたお札を思わず剥がそうとした。しかし、その前に柿原が左手で札をはがそうした腕をにぎる。


「すぐに終わる。じっとしてて」


 そういうと右の中指と人差し指をクロスさせるように立てる。そして、御経のようなものをブツブツと唱えていると、札が忽然と消えた。


 それだけだ。


 あとは特に変化があるわけではない。


 ボロボロの室内。


 目の前には大猿。


 それに対峙する朝矢。


 大猿が何度となく大きな両腕で朝矢に攻撃を仕掛けている。それを易々と交わしていき、部屋中のあらゆるものが破壊されていく。


 ものすごい破壊音。


 壁もガラスもひび割れ、外の景色がリアルに見えてくる。


 こんなことしたら、外では騒動になるのではないか。


 いや、すでになっていてもいいはずだ。


 しかし、サイレンの音もしない。


 隣のビルから何事かと顔を覗かせるものもいない。


 時間的に人がいないだけかもしれないが、そうではない。


 部屋の向かい側のビル。


 電気がついている。その中でひとが動いている姿も見える。それなのに隣のビルの爆音に気づくものはいない。


 どういうことなのか。


「結界だよ」


「結界?」


 柿原の口調が少し柔らかくなる。


 落ち着きを取り戻したのか。


 いやそうではない。


 彼は朝矢と大猿の戦いを息を殺すように見ている。額に汗がにじむ。

 身動きひとつしていない。


「このビルの結界を張った。その空間だけは他の空間から切り離された空間になるから、外からはなにも見えないし、この空間の外に空間内の出来事が影響することはない」


 どうもピンとこない。


「君は渋谷の事件のことわかるよね」


 そう言われてはっとした。


 そういえばあの時、目の前にいた花の化け物が朝矢とともに忽然と消えたではないか。


 しばらくすると、化け物花へと飲み込まれた樹里が女性に抱きかかえられた形で忽然と現れて……。


 弦音はその光景を思い浮かべる。


「あれも結界が張られたんだよ。ある程度霊力のある人たちには見えていたかもしれないけれど、霊力が少ない人には見えていない。霊力がなくてみえているのは芦屋刑事ぐらいだからだ」


 芦屋刑事?


 どこかで聞いた覚えのある名前。


 そうか、病院にきた刑事だ。


「小僧。ちょこまかと逃げるんじゃない」


 大猿の怒りの声が響き渡る。


 見ると、確かに朝矢は刀を握りしめたまま攻撃をかわし続けている。


 それに対して、大猿の苛立ちが増していくのが見えた。


「さっさと捕まれ」


「うるせえよ。黙ってろ、バカ猿」


「バカ?ばかとはなんだ。小僧。人間の分際で!」


 大猿の眼が赤くなる。


 同時にさきほどよりも早いスビートでその腕を振り下ろした。その速さに弦音は目で追うことができない。一瞬のうちに朝矢の身体か大猿の腕の中にすっぽりとはまる。


 大猿の大きな手でつかまれた朝矢はそのまま大猿のほうへと引き寄せられる。


「有川さん」


 弦音は思わず立ち上がった。

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