第6話 新生活
元の次元世界に、少なくともすぐには帰れない以上、ここで生活を始める事になる。
戸籍や必要なものを揃える資金、言葉や文化面でのケア、仕事を見付けるまでの職業訓練を含んだケアなど、政府はできるだけのサポートはする方針だ。
紗希は、不満顔で表を見た。五十音のこちらの文字での対比表だ。
「幸い、一音一文字だ。これさえ覚えれば、あとは語彙を増やせば最低でも筆談で通じる。辞書を持っていれば何とかなるし、買い物なら、筆談と指さしでできる。
だから、これだけでもいいから覚えろ。そう難しくはない」
澄まして言う篁文に、紗希が膨れっ面で文句を言う。
「単語を覚えるのが物凄く大変じゃないの!英語が嫌いって知ってるわよね!?」
それに篁文は、
「困るのは紗希だ」
とだけ言った。
「……」
「……」
「わかったわよう!もう!」
紗希は、ノートと筆記用具を出した。
「自らですか」
ヨウゼは、連絡係であるマルマからの定期報告を受けていた。
「はい。最初は身の回りのものから初めていましたが、絵本を見なが語彙を増やし、文字を併記して、独自に会話と読み書きを習得し始めています」
「現実的ですね。それで、どうですか」
「はい。日本という国では、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字、数字と表記方法がたくさんあったようで、こちらはかなと数字のみなのでそこは簡単だと言っていました。なので、あとは、語彙を増やす事と発音と文法だと言っています」
馴染むのに問題はないだろうと、ヨウゼはホッとした。
「結賀さんの方はどうですか」
「こちらの文化に興味があるようです。不安そうな様子は見られません」
「ふむ。まあ、友人と一緒だったのが幸いでしたね。
会話や読み書きに必要なものは構わずに与えて、協力をしてあげてください」
「はい」
マルマは一礼して退出し、次の、別の者の連絡係が入室した。
篁文達は庭のようなところでの散歩や運動を勧められており、篁文はここで、日課のトレーニングを再開させていた。
するとドルメも剣の素振りを始めた。流石に斧はここでは使えないと言われたらしい。
型をなぞる篁文とドルメは無刀取りと練習用の剣とで一度やり合い、時々、一緒に体を動かす仲になった。
紗希は見ているだけで、同じく日向ぼっこのパセと、仲良くスイーツの話などをする仲だ。
セレエも日向ぼっこに出て来る時は、文句を言いながらもグルメ雑誌の写真を一緒に見ており、篁文やドメルにご苦労な事だとか何とか言いながら、結局見学したり、手合わせの時は紗希やパセと応援に熱を上げる。
各々、読み書きや会話の習得に取り組みながら、この世界で生きていく準備と覚悟を固めているといったところだろう。
手合わせの後、休憩しながら皆で飲み物を飲んでいると、ふと、パセが溜め息をこぼした。
「読み書きや会話を覚えるのも大変ねえ。先生も教科書もないから」
それには皆同意した。
「母国語とアクシル語の辞書がないってのは大変よね」
紗希は、肩を落として言った。
「でも、何とかしないことには自立できない。一生ここで面倒を見てもらえるわけじゃないだろうしな」
篁文が言うと、セレエはクッキーのようなものをつまんで言った。
「僕はここで、技術力の発展に尽力するよ。この不便さはたまらない!物理を勉強していたしね。効率のいいモーターを普及させるのが最初の一歩かな」
「へええ。早くて安全でクリーンな車とか?」
紗希が目をキラキラさせて訊く。
「そんなものもあるね。それと並行して、元の世界に帰れないか研究する」
「ほわあ」
パセも目を丸くした。
「吾輩は体を動かすしかできんからな。かと言って、ここの軍は戦い方が違い過ぎるし、警察は流暢に喋ったり法律や考え方を深く学ばないと難しいしな。猟師か農家になるか」
ドルメはハッハッハッと豪快に笑った。
「パセはどうするの?」
「あたしは決めかねてるのよねえ。耳が目立つのもあるし」
ほかの皆は外見的には大差ないが、パセだけは耳が特徴的だ。奇異に思われるのは間違いない。
「そういう紗希と篁文はどうするの?」
「未成年だから学校にって言われてるけど、読み書き会話でこれだものね。これでこっちの授業とか、無理だわ」
紗希はギブアップ宣言をした。
「俺は、できれば基礎教育程度の知識と、こちらの社会通念は得たい。それには学校はうってつけだ。それから仕事に就きたい」
「ええー」
不満そうな紗希に、パセは吹き出した。
「色々な考えがあるな。うむ。お互いにここの生活に上手く馴染んでいきたいものであるな」
しかし、そんな人生設計が覆されてしまうとは、まだ夢にも思っていなかったのである。
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