第5話 常夜の国で見る夢
翡錬が入院している病院から消えた、という報せが緋未のスマートフォンに入ったのは、中学三年の三学期の始業式を終えて学校から帰宅した昼過ぎだった。
また翡錬が失踪したことで友人としてずっと付き添っていた薫が手のつけられないヒステリーを起こしている、とも電話向こうの父は告げた。
薫の両親では抑えが効かないらしい。薫が心を開く緋未が行けばなんとかなるのではないかと言う。
タクシーで病院に駆けつけ、病室に飛び込んだ緋未が目にしたものは、空のベッドと床にぶちまけられた花瓶の水と花びら、千切れたカーテンとベッドカバー、そして一人椅子に座って俯いている薫の姿だった。
薫の両親は遠巻きに娘を見守っているが、母親はこの光景にうんざりしているようだった。不機嫌な顔をして困惑している薫の父親に、神様とか世界の真実とか現世とか、因果とか教祖様と口にしていた。
廊下を伺う。緋末の父親が警察に事情を説明していた。一区切り終えたところで、こちらに来るよう手招きをした。
緋未の父は出張先から一時的に帰っていた。顔に脂汗を浮かべていた。不測の事態に精神的に許容量以上の圧迫を受けているのが緋未にも察しがついた。
緋未の父は流れ落ちる汗も拭わず、啼耶と石榴というひとも消えたのだが心当たりはないか、と緋未に尋ねた。
啼耶と石榴なら知っている。啼耶は医学生で翡錬と薫と同じく、高杉という大学教授が研究室に組んだ硝子化現象研究チームメンバーのひとりだった。
啼耶と石榴もグラスフラッシュに襲われた際、体の骨の一部が硝子と化したので翡錬と同じ病院に入院していた。
啼耶はニヒリストでいつも苦笑いを浮かべていた。利口なひとで、弟に石榴という男の子が居て、薫と翡錬、緋未と会う時には必ず随伴させていた。
石榴と啼耶の間にはいつも特別な空気が流れていた。まるで恋人同士みたいで、それを緋未が一度口にしたことがあるのだが啼耶は苦笑いをしただけだったのに、石榴はひどく怒って顔を真っ赤にして緋未につまらないことを言うな、と大声で怒鳴った。なぜ怒ったのか緋未には理解出来ず謝るしかなかった。ともかくも仲のいい姉弟には違いない。
「啼耶さんと石榴ちゃんね。友達。薫ちゃんと姉さんの同期。よく遊んだもん」
最近、二人はよく会っていたそうだけれど、なにか、関連した事柄でもいいから知らないか?
父が必死になっており、緋未から訊きだせる情報は全て引き出そうとしているのが口ぶりからもうかがえた。しかし動揺が激しく軽い混乱もきたしているようで、具体的な質問が巧く言えないようだ。
それは緋未も同じだった。思うように答えられない。
「特になにも。それより姉さん、どこに行ったの?」
それを今、警察のひとに説明してて、捜してもらおうとしているんだ、緋未、心あたりはないか?
「全然。見当もつかない。いつ、居なくなったの」
今朝、介護師さんが朝の検診に来たら居なくなっていたそうだ。昨夜の消灯時には翡錬を見かけたひとが居るそうだから、その間だろうな。
「啼耶さんと石榴ちゃんは? 一緒の時間にいなくなったの?」
それはよく分からん。啼耶さんの親御さんはその件を父さんたちとは個別で警察に話しているよ。
「姉さん、見つかる?」
すぐに見つける。あの身体だ。遠くへは行けない筈だ。もうしばらく父さんが探してから、見つからなければ捜索願の手続きをとる。
緋未は父と話している内に気分が沈んで吐き気がしてきた。体がふるえて全身が痙攣しているみたいだった。気持ちが悪い。
足が萎えて立っていられなくなる。父の緋未、大丈夫か、と言う声が遠くに聞こえた。
不意にしびれて感覚のなくなった緋未の身体を支えるものがある。
背後に薫が立っていた。緋未を後から抱きとめていた。
「緋未ちゃんは少し混乱しているようですから、ちょっと休ませてあげましょう」
緋未を支える薫の身体も微かに震えていた。声もどこかか細い。
父はどうしていいのか判断がつかないらしい。頼りなく、そうだね、と頷いた。
緋未は姉のベッドに横たえられた。
薫は「ちょっと待ってね」というと廊下にでていった。
薫が薫の母親と廊下で言い争っている声が聞こえる。母親の大声がして言い争いの声は途絶えた。
薫が戻ってきた。薫の顔が、緋未に覆い被さる。
「大丈夫よ、緋未、翡錬は必ず見つかるから。見つけてみせるから」
緋未は力なくうんと言って、差し出された薫の手を握った。まるで翡錬がそこに居るような気分になって、緋未は安心感に包まれた。
「ちょっと待ってて」
薫は緋未の頭をやさしく叩く。緋未の父と自分の両親に相談をはじめた。薫の声音はしっかりしており、さっきまでヒステリーを起こしていた気配は微塵もない。
途中、薫の母親が脇にかかえていた分厚い本をひろげて、人間の本質とか魂の叫びとか、無欲とか使命とか最後の審判などと叫びだしたが、薫はそれよりも大きな声で喋って母を黙らせてしまった。
やがて薫と父が緋未のベッドに戻ってきた。父は言った。薫くんと相談したんだけどね、父さん、仕事も捜索もあるしちょっとの間、臨時として薫くんに緋未の保護者になってもらおうと思うんだがどうだろう。翡錬の情報も一番に薫君に届くように手続きをするし。薫君の方が動きやすいからね。
緋未はうん、いいよと言った。
そうか、すまないな。姉さん探しはこのまま続行する。啼耶さんもだ。緋未はとりあえず今日は薫くんと家に帰りなさい。薫くんの言うことをよく聞いてな、ちゃんとしなさい。気をしっかりしてな。
父は娘に力なく笑いかけると、緋未の頭を撫でて警察に事情を説明する為に廊下に戻った。
残った緋未に薫が微笑む。
「緋未、翡錬は居なくなったわね。私が代わりに守ってあげる。だから緋未はわたしの言うことをよく聞いて、ちゃんと翡錬が帰ってくるのを待ってるのよ?」
うん、と緋未は首を縦に振った。
「緋未、今夜からはうちにいらっしゃい。翡錬のふとんがまだあるの。二人で翡錬翡蓮を待ちましょう。勿論、わたしも常時、翡錬を探すわ。使えるネットワークは全部使う。だから緋未はわたしの言うことよく聞いて。ね? でないと翡錬、見つけにくくなるから」
緋未はうん、と何度も言った。
「うん、約束する。わたし、薫ちゃんの言うことなら、なんでも聞く」
薫は笑って緋未を抱きしめた。
最初のグラスフラッシュから三年の時が経過していた。
これ以降、来奈薫は、粗鉱緋未の保護者として終業式から進路相談、卒業式、高校の入試や入学式などに顔を出した。緋未は自分の望むことなら、なにもかも叶えてくれる薫に頼りきりの状態になった。
薫が翡錬探索行の中心地と設定していた武蔵野市に近づくにつれ、緋未は奇妙な感覚に襲われた。
昼だというのに緋未には世界全体が少し薄暗く感じられるのだ。
太陽に雲がかかっているのかと緋未は思った。しかし中空には太陽が浮かび、白っぽい光を放っている。
「薫ちゃん」
胸の中心に手を当てて、考え事をしていた薫は顔を上げる。
「え? 何かあった?」
薫の返事はうわの空だった。この状態はひなと別れてからずっと続いていた。
今朝のグラスフラッシュに緋未は影響を受けていなかったが、薫は影響を受けたのだろうか。胸元の硝子化が進んだから薫は落ち込んでいるのでは。緋未はそう考えて試しに一度、薫に尋ねたのだが、彼女が胸元を開いてみせると硝子化は進んではいない。緋未は安堵を覚えたのだが、それでも釈然としないしこりが頭の隅に残った。
「ねえ、薫ちゃん、世界全体がうす暗くない?」
緋未の言葉に薫は天を仰ぎ、周囲を眺めた。周囲の建物の硝子化の浸食度は、今までよりも顕著になっている。いまや硝子化していない建物はなく、最低限でも壁の一面が硝子と化している。それどころかビル丸々一つが硝子と化しているものもあった。
「そうね、雨でも降るんじゃないの」
ぞんざいに応えて薫はまた自分の中に閉じこもってしまう。
緋未は溜息をついて地平線をみはるかした。そこであることに気付いてビル横にパジェロを停車させる。
「どうしたの、緋未。トイレ?」
「そうじゃなくて、ちょっと確かめたいことがある」
緋未は車を横付けさせたビルに入ると、階段を上がった。
ビル内の電灯は点いてはいなかったが、天井と床下の一部、外壁がほぼ硝子と化しているので太陽から採光される光で灯りは十分事足りた。
緋未が硝子の階段を昇ると、こんこん、という足音がする。
緋未の後に薫が続いた。
七階まで上がって硝子張り状態になっている踊り場で足を止めた。ビル横に止めたパジェロが見える。もうこの壁は、壁ではなくなっていた。窓と同じだ。
この階だけでなくビルの全ての壁は、ガラス張りと同じ状態になっていた。
緋未と薫は硝子の階段をまた昇り続けた。九階、十階は完全に硝子になっていた。
まるで設計された当初から九、十階は全部、硝子の材料で作る、そういうことが決定されて建築されたかのようだった。
透明な屋上出入り口への扉を開けて、二人は屋上に出る。強い風が二人をとりまき、スカートや服の袖をはためかせた。
足元に視線を落とすと十階、九階の様子が見渡せた。緋未は屋上の北側へと歩く。
硝子と化したフェンス越しに北の地平を見晴かした。北の地平は暗かった。黒い染みが地平線に横たわり、青い空を犯している。
「なんだろう、あれ」
右に並んだ薫も、いぶかしんで目を細める。
「確かに明度が落ちてる」
「どうなってるの」
「ちょっと判然としないわね」
興味をもったらしい薫はまた地平を眺めた。
「衛星で東京を撮った時に、武蔵野方面は暗く滲んで写っていたらしいけれど。でもそれは通信機器かネットワーク、カメラの調子が悪いって一蹴されたのよね。実際に確かめにいくのも皆は嫌がったし」
「あれが写ったんじゃない?」
「どうかはともかく、おかしなことはおかしいわね」
薫はフェンスから離れた。
「緋未、行くわよ。どのみち私たちが進む方面はあちら。暗くなってる方面よ。蜃気楼に似た自然現象、あるいはそれ以外のなにかだとしても、その内、はっきりするわ」
パジェロが螺旋状にまわりながら武蔵野市の中心部に進むにつれ、辺りの明度はさらに落ちていった。緋未の時計の針は午後二時だが、この季節の午後四時と遜色ない明るさにまで明度が落ちていた。緋未は自分たちが世界の法則を無視して午後四時の世界に来てしまった感覚に囚われた。こんな体験は全くしたことがないし、聞いたこともない。
前方に弱弱しい赤い光りが点滅していた。
「なに、あれ。薫ちゃん、分かる?」
「だれかの悪戯でしょ」
光に近づくにつれ、赤い瞬きは赤色灯が発していると朧に伺えた。
「警察?」
「居るわけないでしょう。悪戯よ悪戯。無視無視」
パジェロが進むと赤い瞬きは赤色の回転灯が棒にしばりつけられ、硝子の建物の間で赤い光を振り撒いているからだと分かった。回転灯の傍で緋未はパジェロを止める。
直ぐ傍からパジェロとは別のエンジン音が聞こえた。棒の根元には小型の発電機が設置してある。発電機の稼働音だった。赤色灯は棒にガムテープで縛り付けられ、その棒は発電機にビニール紐でくくり付けられていた。回転灯から出ているコードは発電機に繋がっている。
「だれがこんなことを……なにか意味があるのかな……警告……? 救助を求めているのだとしたら……? ひなさんの時みたいに……?」
緋未はパジェロから降りた。
「あ、馬鹿、降りちゃだめだって」
薫の言葉を背に発電機に触ろうと手を伸ばす。
「動くな」
緋未は腰を屈めた姿勢で静止した。目だけを動かして右横を見た。
赤いジャケットをまとったサングラスをかけた少女のような少年が、ライフル銃の銃口を緋未の額につきつけていた。
一体、いつの間に現れたのか。緋未も薫もこの瞬間まで気付かなかった。森のなかで気が付いたら肉食獣に一気に間を詰められていた、そんな感じだった。
「お前達にはなしがある」
「もう止めて、石榴ちゃん、こんなことしても、意味ないよ」
「余計なことは言うな。言う通りにすればいい」
石榴は銃を薫に向ける。
「お前も……」
パジェロの助手席に薫の姿はなかった。次の瞬間、石榴は背後に回りこんでいた薫の体当たりを背中に受けた。石榴は前のめりによろめき、バランスを崩してうつ伏せに倒れる。
SIGを持った薫が石榴に覆い被さり、額に銃口を突きつけた。同時に石榴も身を捻って、薫と同じく額に銃を向ける。
「やめなさい!」
緋未が回転灯が縛り付けられていた棒をエンジンから引き抜き、石榴のライフルの銃身をおもいきり叩いた。
ライフルの銃口は水平に倒れ地面に叩きつけられた。そのショックで発砲する。銃撃音が寂しげに響く。
薫は石榴に覆い被っていた身を引く。石榴のライフルの銃身を足で押さえて動きを封じた。SIGの狙いを石榴につけ、遊底をスライドさせて撃鉄を起こす。
「ちょっと待て、待てよ」
石榴は銃を捨てた。素早く身を起こすと後退して腰の後ろから新たにコルトを抜き出し構える。
「お前達は誤解している」
「なーにが誤解、よ」
薫は顎を石榴にしゃっくった。
「緋未、そいつの生意気なサングラスなんか取っちゃいなさい。石榴、あんた人と話すときは目を見て話しなさい。少なくとも、わたしはそうしているわ」
緋未は顔を緊張に強張らせ、石榴に恐る恐る近寄る。
「やめろ!」
サングラスに手をかける。
「やめろっていってんだろうが!」
コルトの狙いを薫から外さず石榴は叫ぶ。薫のSIGの狙いも石榴から離れない。
「外すな!」
緋未はサングラスを取り上げた。息に詰まる。声にならない呻きを漏らす。
薫は目を細めて舌を鳴らした。
石榴の瞳は硝子と化していた。
両眼共に眼窩に眼球はなく、まるでその代用として硝子玉を目に嵌め込んでいるようだった。
「あんた、見えるの?」
薫は銃を降ろす。
「さあな、一メートル前後なら顔の見分けはおおよそならつく。五メートル以上は怪しいけどな」
そう言う石榴のコルトの銃口は、よく見れば薫の立っている位置より少し、右にずれていた。
不意に緋未は、五月が腹を押さえて倒れたシーンを思い出した。
「じゃあ、五月先生を間違えて撃ったのは」
「ブリトルチマーゼの女か」
石榴はせせら笑う。
「いいじゃないか。お陰でゴミ掃除が出来たんだから。あながち外したのも、悪いとはいえないだろ?」
薫は嘲る少年の傍まで歩いて行くと、おもむろに掌で石榴の頬を強く打った。
「石榴、あんた、なに言ってるの」
薫はぶたれた頬に憮然と手を当てる石榴を見下ろした。
「謝りなさい。五月に謝って」
「なにを謝ることがあるんだ?」
薫はSIGのグリップの底で石榴の腹を殴った。
「謝れ。黙ったままだと分からないでしょうが! それとももっとわたしに殴ってほしいのかしら」
石榴は打たれた腹を抱える。薫を忌々しげに睨む。
「このサド女が!」
薫は屈んだ姿勢の石榴の腹を、もう一度SIGで殴った。
石榴はふらふらと後退する。唾を地面に吐いた。
「真性サド女」
「声は出るじゃない。それとももっと、殴って欲しいから黙ってたのかしら。なにがサド女だ、マゾ豚が! 生意気をいうな!」
「ここまでとは思わなかったな。翡錬と一緒の時はそんな態度はみせなかったのに」
石榴は荒い息をつく。
「翡錬や啼耶姉さんはこんな奴がいいのか?」
「やっぱり、翡錬姉さんを知っているのね」
緋未は棒を落とした。
「どこ、姉さんは」
「だからそのことではなしがあるんだと言っているだろうが!」
石榴は嘔を二、三度した。腹を押さえて呻く。
「今頃になって効いてきやがった。よく心得てるな、サド女」
「翡錬と啼耶の居場所を知っているのね」
薫は銃を降ろす。
「ふたりはあんたと一緒にいるの」
「そうだ。ぼくは二人のところにずっと居た。はなしっていうのはそのことだ」
緋未はすがるような声を我知らず上げていた。
「どこ、姉さんは、どこ」
「武蔵野の工場だ」
石榴はもう一度、嘔をした。息をつく。
「お前たちを案内しに来た。翡錬と啼耶姉さんに、お前達を迎えにいけと言われたんだ」
「翡錬と啼耶が……」
薫は深い溜息をついたが、それはどこか寂しい印象を緋未に与えた。
三人はパジェロに乗る。運転手はナビゲートも兼ねて石榴が請け負った。薫は助手席、緋未は後部の荷台についた。
「あんた、運転、出来るの?」
石榴はガソリンの残量を調べてからイグニッションキーを回す。
「この辺りなら目をつむってでも運転できる。心配か?」
「多少はね」
「僕は東京に来てからずっと、東京都内を車の乗り捨てを繰り返して走ってまわった。地形は全部覚えた。心配ない」
「石榴ちゃん、どうして東京都内を走る必要があったの?」
石榴は緋未に顔を向けた。硝子の目が光っており、緋未はその中に吸い込まれてしまいそうな気がした。
「お前達は知らなくともいいことだ、どうせ後で分かる」
パジェロが走り出してから三十分経過後、周囲の暗さの度合いはさらに増した。
この明度だと冬季での午後六時と変わらない。つまり完全に暗闇だ。石榴もヘッドライトを点灯させてパジェロを走らせている。それなのに腕時計は午後三時を指していた。
「これ……どうなってるの?」
薫はひっきりなしに首を周囲にめぐらせている。
ふと風の中になんの匂いも混ざっていないことに緋未は気付いた。
「なにこれ。空気がスカスカした匂いしかしない」
薫も気付いたらしい、鼻を鳴らした。
「この辺はもう硝子しかないからだ。とうの昔に死ぬことも腐ることも止めてるんだ。生物の匂いは皆無だ」
石榴は黙々と運転を続ける。
緋未はひなのはなしを思い出した。東京の中心にあるという、全てが硝子だけで出来た常夜の国。常夜の国には工場があって、今はもう無人なのに時折稼動していると言う。そんな都市伝説を。
「ねえ、石榴ちゃん。この辺りの硝子化の度合いってどのくらい?」
「百パーセントに近いだろうな。この暗さでははっきりしないだろうけれど。武蔵野は最初のグラスフラッシュの直前に新しく駅が新設されたから再開発が進んで新宿や渋谷よりも人口密度が高かったからな。その影響もあるんだろう。
ここが世界で一番被害が大きかったらしい。だから東京区外の人間は慌てて東京の縁にバリケードを張った。東京と一緒にここを見るのが怖かったんだろうな。今ここにあるのは硝子だけだ」
「ここ、武蔵野市のどこいらへん?」
「武蔵野市ではあるがここがその市のどこかかは確証できない。ほぼ全てが硝子になっているから確認の仕様がない。しかしここは確かにかつての東京の中心地だ」
周囲には完全に闇の帳が降りていた。闇のなかには硝子の家やビルが、岩あるいは山のごとく並んでいる。人の住んでいそうな気配は欠片もなかった。
緋未は武蔵野市のこんな風景を知らない。武蔵野ではなく日本のどこにもこんな風景はない。映画でも、写真でも、テレビでも、あるとあらゆるメディアを探してもこんな異常な風景は皆無だろう。
まるで現実感というものが欠けていた景色だった。ここが地球とは思えない。
「百パーセントに近いってあんた、地面まで硝子化してるって言うんじゃないでしょうね」
石榴は薫の顔の前に人差し指を突き出す。その指先をパジェロの外から下へと降ろした。
地面は一面、硝子だった。暗さでよく判別できないが、表面に光るものがある。
「硝子はもっと下まで続いているはずだ。ただ硝子は分厚い断層状になっているから、底までは透かし観られないだけでな」
「そんな……。じゃあ、石榴ちゃん、もしかして暗いのは、この地の硝子が太陽光を全て吸い尽くしたから?」
「都市伝説を知っているのか?」
緋未は頷く。
石榴は右手を荒野に差し出す。周囲にはただ、硝子の街が広がっているだけだった。遥か彼方に黒い影が浮かんでいる。
「硝子だけの世界へようこそ。ここがそうだ」
緋未は遠目に影を認めた。細長い影が横たわっている。
「あの影は」
「都市伝説を知ってるんだろ? 噂の工場だよ。そこで姉さんたちは暮らしている」
パジェロが近付くにつれ影は大きくなってゆく。
二十分も走ると横に長く横たわっている工場の黒い姿が暗闇に浮かんで佇んでいるのが識別できた。
工場は人間が生まれるずっと前から存在しているように佇んでいた。そもそも人間全てがここで製造されたのではないか。工場を眺めた緋未はそんな錯覚に陥りそうになった。
石榴はパジェロを工場の硝子の塀沿いに西に走らせた。暫く塀と並走してからブレーキを踏む。
パジェロのエンジンを止めて石榴はキーを抜く。緋未に投げて寄越した。緋未は慌てて受け取った。
「こっちだ」
石榴は工場の塀の隙間に姿を消した。緋未と薫も石榴の後を追って隙間に身を差し入れる。すきまから抜けると小さな空き地と十メートル程度の四角い小さな黒の硝子製の小屋があった。小屋は窓とドアがついていたが、それらも全て黒い硝子だった。中は伺えない。窓のひさしには硝子になった木の葉がいくつもぶら下げてあった。それらはお互いに身をすり寄せ合い、その度に風鈴に似た、ちりちりという音を鳴らした。
空き地の四方はすべて工場の壁で出来ている。ただ、右壁には照明が切れた四角い非常灯の下に、赤黒い錆に腐食されている鉄の扉が不気味に張り付いていた。この二つだけが不思議なことに硝子と化していない。
「常駐していた警備員の控え室だ」
石榴は小屋のドアの前で二人に振り返った。
「二人はここに住んで居る」
緋未は急に自分の姿見が気になった。服に目を落とすと、コートには、あちこちに染みが出来ている。髪に手をやると乱れてばさばさだった。このままだと顔もどう汚れているのか怪しい。場合によっては真っ黒というのもありえる。
緋未は隣の薫に自分の姿を確認して貰おうと声を掛ける。
「薫ちゃ……」
言いかけて言葉を止める。
薫も緋未と同じことをしていた。服をはたき、髪に手をやって、頬を掌で擦っている。
「ねえ、緋未、わたしの格好、おかしくない?」
緋未は笑ってしまった。
「薫ちゃん、ね、お互いに整えあおうよ」
二人は向き合った。鏡の中に手を突っ込んでその中の己の身繕いをするように、互いの服や髪の乱れに手を入れ合い、整え合った。
「これでよし。薫ちゃん、いい感じになってる」
「緋未の顔についてる汚れは落ちないけれど、今はちょっと無理ね。でも髪も直したし、いい出来なんじゃないの」
石榴がうんざりした面持ちで言った。
「もういいんだな? 翡錬を呼ぶぞ」
「うん」
「呼んで頂戴」
石榴は硝子のドアをノックした。
「翡錬、僕だ。二人を連れてきた。緋未と薫だ」
ドアノブが回る音がした。
硝子が擦れる音をたててドアが開く。
「二人ともいらっしゃい」
亜麻色の長い巻き毛。宝玉のような瞳。色素が抜け落ちたかと錯覚させる白い肌。その中を流れている血が見えそうな淡い赤の唇。
どこか光り輝く鉱石を連想させる粗鉱翡錬がドアの前に立って二人を出迎えた。
「姉さん」
翡錬が現れた瞬間、自分の中でなにかが激しく暴れるのを緋未は感じた。同時にその暴れるものを抑えようとする自分の意志が存在するのも覚える。
緋未は暴れるなにかが心の中で翡錬の元まで走れと叫ぶのを意志で抑えた。ゆっくりと翡錬の傍らまで歩いて行く。翡錬の顔が間近に迫った時、今度は暴れるなにかが意志を押さえ込んだ。緋未は翡錬の首に抱きつく。
「姉さん」
息が荒くなるのを覚える。再会は大人しく慇懃に、とはいかなかった。
「元気でよかった。もう、わたし、なんにもいらない。姉さんが居る。薫ちゃんが居る。もう、何もいらない」
翡錬は緋未の頭を優しく撫でた。
薫も腕を組んで翡錬に近づく。
「翡錬。探したのよ、ずっと」
「ごめんなさい」
翡錬は緋未を抱いた腕に力をいれる。
「ほんとうにごめんなさい」
「翡錬、その腕、治ったの?」
薫の声には抑揚はあったが、どこか力の抜けたものだった。
「ああ、これね」
翡錬は右手で緋未の髪の毛を首筋まで長く撫でた。
「訳は後で話すわ。薫だったら予想はついてるはずよね」
「あんたがそのよくする、強制的な同意はちょっと嫌なんだけど」
「薫にだと、ついそう言っちゃうのよ」
「ちゃんと分けてよね。他のひとにも似たようなこと言って、そのひとの選択肢、減らしてない?」
「姉さん? 薫ちゃん?」
緋未は翡錬の胸に押し付けていた顔を離す。
「喧嘩? 私、なにか悪いことした? だったらやめて。謝るから。折角久しぶりなのに、喧嘩はいや」
翡錬と薫は吹き出す。
「緋未、いいのよ、薫はわたしにはこうなの。喧嘩じゃないわ。遠慮しないのよ」
「緋未、あんたの姉さん、一見マゾっぽいけれど、実はわたしよりサドよ」
緋未は不安そうに二人を見比べる。
「ほんとう? 喧嘩してない?」
「してない」
薫は手を振る。
「大丈夫よ。緋未」
翡錬は緋未の肩を掴んですこし離れた。
「二人とも、昼食、まだなんじゃない?」
「うん、そういえば、まだ」
不意に部屋の奥から声がかかった。弱弱しい、つぐみに似た声。
「そうだと思ったのよ。食べてよ。用意してたのよ」
薫と緋未は翡錬から離れて奥の暗がりに目をこらした。入り口の奥には小さな部屋があった。右手に肌色のソファと左手に簡易キッチンとベッド、中央にテーブルがあった。天井からランタンがぶら下がって、室内を橙色に照らしている。しかしその灯りも周囲の硝子に吸い込まれて威力を弱め、本来よりもいくぶんか仄暗かった。
中央のテーブルによりかかるように、黒髪を首の部分で切りそろえたミドルヘアの女性が立っていた。
女性は細い目を一層細くして二人に笑いかけ、やせた手足を使って入り口まで歩く。
石榴が黒髪の女性の手をとって付き従っている。黒髪が一歩歩くごとに着ているパイソン柄の黒いキャミソールの袖と、上に羽織っている紺のボレロが力なく揺れた。
「私たちは奥に居るから。三人揃って食事でもして。薫、緋未ちゃん、久しぶり」
緋未は久しぶり、といわれて躊躇った。啼耶は昔会った時とはかなり印象が違っていたのだ。以前会った時に覚えた利発さが消えていた。かなり痩せていて、けだるい空気をまわりに発散している。これが啼耶なのか、一抹の不安が心を揺する。
「あの、すいません、啼耶さん、ですよね……」
啼耶は口を手で押さえて明るく笑った。
「安心して。啼耶よ。それより、弟がごめんなさい。昔はよく皆で遊んだから、面識もあるし、まさかこの子があなた達を殺そうとしていたなんて予想外だったの。ごめんなさい。わたし達のことを思うあまりに暴走したのね」
腕を組んだままの薫は憮然とした口調で啼耶に告げる。
「あんたには石榴の姉としての責任を色々取って貰いたいんだけれどね。なんだか翡錬と会ったらそんなことも、どうでもよくなった。それよりあんた、骨の硝子化の進行具合はどうなの?」
「啼耶には一日に数回、ブリトルチマーゼを投与してるの」
翡錬の説明に薫は目を剥き身を乗り出す。
「ちょっ、あんた、なに考えてんのよ……!」
「いいのよ。私の同意の上で、というよりも私の要請で翡錬は投与してくれてるの」
啼耶が薫を制する。
「それでも回復しないし、進行しているの。もう駄目だって覚悟は出来てる。翡錬が投与してくれなければ、自分でしていたでしょうね」
「啼耶はその身をもってわたし達の最期のラインを守ってくれているの、薫。わたし達の禁忌を赦して。彼女、もう限界なの」
薫は顔をしかめた。何も言わない。
緋未は、薫と翡錬、啼耶の顔を順に見ていくしかなかった。三人の会話は緋未には入る余地がない。緋未には不安げな視線を三人の間に泳がせることだけしか出来なかった。
緋未に気付いた啼耶が、大きく明るい声を出した。
「それはそうと二人とも、せっかく用意したんだから食事をとって。わたしは石榴と奥に居るから」
啼耶は石榴の肩に腕をまわす。
「私も石榴とふたりだけ」
石榴は頬を紅潮させた。
「風呂の用意をする。この二人、身なりが気になって仕方がないみたいだから」
石榴は奥の部屋へ消える。
「風呂」
薫は不思議そうな顔をした。
「通ってるの? ガス」
「ここには軽油を使って水を沸かす小型のボイラーがあるの」
「そりゃまた随分用意周到ね」
翡錬はくちびるの両端を軽く上に曲げた。
「そうね、だってここ、遺伝子操作装置と免疫研究室をそなえている薬品会社の門外不出の工場だったんですもの。緊急時に隔離された場合にでも十分対応できるようになっているのよ」
「薬品工場」
薫は今通った塀の出入り口を振り返った。
「どこの製薬企業なの。いや、そんなのはどうでもいい、翡錬、あんた、ここで実験してたのね? 自分と啼耶の身体を使って」
翡錬は黙ったまま頷いた。
「そんな、そんなことって」
緋未には相変わらず話の流れが理解できなかった。だが翡錬と翠、啼耶の三人にとっては重要な会話だと察知は出来た。ブリトルチマーゼという単語が出ただけでも重要度はかなり高いと推測出来る。
「姉さん、啼耶さんとここでなにをしていたの」
「それは二人がゆっくり休んだ明日にしましょう。長い話になりそうだから。まずは食事、お風呂、それに睡眠」
硝子で作られたテーブルに二人の食事があった。缶詰めのイワシと乾燥野菜、缶の百パーセントオレンジジュースと乾パンだった。
質素な食事だったが、各々は缶詰めに詰められたままではなく、硝子化はしているが、ちゃんとした食器皿とコップにきちんと配膳されたものだった。
見た目は綺麗で、これらは緋未の目を十分に愉しませた。二人は椅子に腰を落とし、食事をはじめたが、お皿にもってあるだけでも随分と味が違うものだなと、緋未はよく咀嚼してこれまでになく丁寧に食べた。そういえばイワシが出ている。薫は残すかもしれない。翡錬は薫の好き嫌いを知らないのだろうか。それとも薫用に分けているのだろうか。
緋未は薫の皿を確認する。薫の皿に分けてあるものは緋未と一緒だった。ところが、薫はそれら全てに、きちんと口をつけている。イワシも食べていた。
姉さんの出したものなら、ちゃんと食べるんだ、緋未が感心していると歌声が聴こえた。
キッチンの翡錬が、使用済みの食器を洗いながら唄っていたのだった。
「ピアノコンチェルト、ナンバー二十七だ」
不意に全ての今、この時が逆流して硝子化症候群がはじまる数年前の世界に戻った気がした。
翡錬が居て、薫が居て、緋未が居る。緋未は胸の奥が熱くなって、自然に口元がほころんだ。懐かしく、そして嬉しかった。緋未の心はナンバー二十七にあわせるように踊った。
「姉さん」
翡錬が手を止め振り返る。
「なに? 緋未」
「なんでもない」
緋未は乾パンを口に運ぶ。
「呼んでみただけ」
薫も呼んでみる。
「薫ちゃん」
「なに」
呼びかけに薫は顔を向けた。
こちらに向けた薫の顔に、緋未はぎょっとなった。
薫は普通の顔をして普通に食事をしていた。だがその目からは涙がこぼれていた。
大きな水の粒子が薫の頬を伝い、テーブルに音も立てずに落ちてゆく。
薫は自分の目から大量の涙がこぼれ落ちているのを自覚していないらしい。食事を続けながら、驚いている緋未に肩をすくめた。
「どうしたの? 緋未」
翡錬は手を止めた。テーブルをまわりこんで薫の後ろに立つ。
「薫」
翡錬は薫の肩に両腕をまわす。
「なに。翡錬まで」
「愛してるわ、薫」
薫は翡錬の手をとると自分の胸に導く。
「わたしもよ。翡錬。愛している」
翡錬は薫の目尻に口付けをした。薫ははじめて、自分が泣いていた事実に気が付いたようだった。薫は身を震わせて大きく泣き出しそうになるのを堪えていたが、震えは止まらず、激しくなって、次第に大きな泣き声に変わった。
泣いている薫と、薫の涙をぬぐう翡錬の姿は、緋未には嬉しかった。すこしだけ口惜しい気もしたが、それが翡錬になのか薫になのかはよく分からなかった。しかしそれは嫌な口惜しさではなかった。
食器洗いを薫が引き受けると聞いて緋未は吃驚した。薫は食生活の破綻はもとより、家事全般を酷く嫌う。基本的に興味対象外で手間がかかる作業は、薫は絶対にしない。
「薫ちゃん、大丈夫?」
薫は嬉しさのあまり、頭の回転が少しずれたのだろうかと心配になった。
「まかせなさい。家事は翡錬と分担してたんだから。それより、緋未、先にお風呂にはいってきなさい」
薫は明るく笑った。こんな明るい顔の薫を緋未は久し振りに見た。
「顔の汚れ、お湯と洗顔フォームだったら落ちるんじゃないかしら? 風呂は奥の部屋のさらに奥にあるって」
うんと頷いて、奥の部屋に緋未は走った。奥の部屋にはさらに扉がある。それは啼耶と石榴の部屋にあてられていた。
奥の部屋は基本的には食事をした翡錬の部屋と構造はかわらない。
右手のソファに翡錬が座って膝上に硝子化した木の葉をのせていた。茎に抗菌コートを施された糸をくくりつけている。小屋の窓のさっしに飾られていたアクセサリーの追加分を作っていた。
壁の左際には啼耶がベッドに伏しており、その傍らに石榴が座って居る。
「どうしたの、緋未」
緋未の大きな足音に翡錬は手元から顔をあげる。
「姉さん」
「なに?」
「お風呂、一緒に入って」
翡錬は口に手をあてて笑う。
「小さな子供みたいなことを言うのね」
「子供だもん」
「二年後には大学生か社会人でしょう」
「大学生時代の薫ちゃんと姉さんのはなし、薫ちゃんから聞いてるんだから」
翡錬は忍び笑いをすると膝上のアクセサリーを机の上にそっと置いた。立ち上がる。
「いいわ。緋未と一緒にお風呂なんて、これも久し振りだから。そうそう、着替えを用意しないと」
「とってくる!」
緋未は回れ右をして部屋を駆け出し、外に出た。塀を抜けて停めてあるパジェロの荷台から替えの下着と服、タオルをとりあげると踵をかえして室内に戻った。翡錬の姿は消えている。啼耶は軽い寝息を立てていて、石榴は寝ている啼耶の手を握っている。
また駆けて、キッチンに戻った。やはり居ない。薫はひとり皿を拭いている。
「あれ。姉さんは?」
「先にはいってるって」
「先になんて、姉さん、ずるい」
緋未は笑うともう一度回れ右をし、奥のドアに向かって走った。ベッドを横切り、勢いよくドアを開ける。
床はコンクリートからタイル張りになり、左手に便器が、右手に大きな姿見があった。
床上の籠の中には翡錬の服と下着が畳んで仕舞ってある。
硝子張りの波打つ仕切り越し、おそらくカーテンだったのだろう、から湯気が立ち昇り、水滴の音がする。
「緋未?」
硝子越しの影が動く。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「慌てていいの。今は慌てる!」
緋未は服を乱暴に脱ぐと、下着も急いで脱いで籠の中につっこんだ。
硝子の仕切りを横に引くと、湯気が顔を覆う。
翡錬が、硝子化した大きめのユニットバスに張られた湯の中に身を浸していた。髪の毛は結わえて頭の上に上げてある。
「シャワーは使えないから、これを使って」
翡錬は床にある硝子の桶を示した。
緋未は桶を掴むと湯を汲んで体にかける。飛沫が飛んで数滴がバスタブに飛んだ。
「落ち着いて」
緋未は湯船に足を差し入れ、微笑む翡錬の横に滑り込んだ。バスタブのスペースにはまだ少し余裕がある。
肩まで浸かってそれから頭を翡錬の肩にかける。おもわず溜息が出た。
「気持ちいいの?」
緋未は目をとじたまま頷く。
「うん、最高」
姉の体温を肌に感じる。ふといたずらを思いついて、緋未は手を姉の背中に伸ばすと指で背中の溝を上になぞった。
翡蓮が悲鳴をあげて立ち上がる。豊かな胸が上下に揺れた。
「姉さんの弱点」
「そっちがその気なら」
翡錬は桶を取り上げると湯をなみなみまで注いで緋未の頭の上に一気にかけた。
緋未は一瞬、息に詰り、激しく咳き込む。
「悪い子におしおき」
緋未は桶を姉から奪おうと手を伸ばす。その拍子に硝子に足が滑って、頭から湯船のなかに引っ繰り返った。
「ほら、悪いことをするから罰が当たった」
緋未は顔を湯から出すと、翡錬の足を引っ張った。翡錬も湯船に身を沈める。
「姉さんにお返し」
翡錬が喘ぎながら顔を湯船から出すと、緋未はそこへ湯をかけた。
「ちょっと、緋未、止めなさい」
翡錬の髪はほどけ、ぬれた髪の毛は顔に貼りついている。
「顔の汚れ、落としてあげるから。大人しくしなさい」
「うん」
緋未は湯船から出て椅子に座った。背中を翡錬に向ける。
「姉さん、身体も洗って」
「今日の緋未は甘えてばかりね」
翡錬も湯船から上がる。ボディソープを手につけて泡をたてた。
泡のついた手で緋未の背中を洗う。
「んん」
背中にくすぐったい手触りが走り、その感触はやがて熱を帯びて背中を中心に体を溶かすみたいに全身に広がった。
「うひゃ」
緋未はぞくぞくして身を捻らせる。口元が緩む。
「姉さん、気持ちよすぎる」
「わたしは洗ってるだけよ」
洗っているだけ、が信じられなくて、試しに振り返ると確かに翡錬は、掌の泡で緋未の背中を泡立てているだけだった。
それでも緋未は存外に心地よいマッサージを受けている気分になった。翡錬に任せるままにしていると、その内、頭の中の芯が溶けて、真っ白になりかけた。正気に戻った一瞬、逃げようと腰を浮かせる。
「駄目。ちゃんと洗ってから」
翡錬に肩を掴まれ、半強制的に座らせられる。緋未は背中の熱に身震いした。
「大学時代にね、風俗でバイトしてた子がいて、その子に洗い方、教えてもらったの。気持ちいいでしょう。でも、洗ってるだけなのよ」
たまらず緋未は翡錬の手から逃れた。
翡錬の手が緋未を追いかける。
緋未は四つん這いになって逃げる。
「止めて、姉さん」
「どうして逃げるの。洗ってるだけよ。緋未はわたしに洗って欲しいんでしょう」
緋未は笑って逃げる。翡錬がその後から抱え込むかたちで緋未を捕まえた。
「ひゃっ」
風呂場から聞こえる嬌声を耳に、薫はテーブルに両膝をついて宙を眺めていた。
「薫、どうしたの。深刻な顔をして」
二人の嬌声に目が覚めた啼耶が薫の傍に来て、苦笑いを浮かべる。
「いや、わたしは東京の最奥地になにしに来たのかなと思って」
「翡錬を探しに来たんでしょう」
「緋未を連れてね。でも全体の経緯を考えてみるとね、わたしが緋未に連れてきて貰ったんじゃないかって気がしてきたの」
啼耶は軽く首を傾けた。
「どっちでもいいんじゃない」
「よくはないわよ。わたしはなにしにきたんだろう。翡錬と緋未に何を期待してたんだろう」
「期待してたって今、気付いたのね」
薫はこめかみを揉みほぐした。
「そう、数年経って、今気付いて。自分のこと、子供だなって」
「その子供はなにをしたいのかしら」
「それを考えているのよ」
「ブリトルチマーゼの投与禁止? 硝子化の状況説明を訊きに? 硝子ウィルスに対するサイトカインについて? 今後の対応策?」
「そんなややこしいことじゃなくて、もっと最優先すべきこと」
「簡単そうじゃない」
「簡単じゃないわ」
「余計なプライドを持つからよ。今しか出来ないことなんじゃないの?」
薫は目を閉じて殻にはいってしまう。
啼耶は薫の心が遠くを彷徨っているのを知り、息を吐いてテーブルから身を離す。
啼耶の手を、後に立った石榴が引いた。
「ねえさん、横になってないと駄目だ。足と背中の骨が折れる」
「横になって何したいの。石榴」
啼耶は石榴の手を握り返す。
石榴は俯く。
「変なこと言わないで。僕は心配してるんだ」
「はいはい。横になりましょう」
突然、薫が立ち上がった。
「あら、薫。おかえり」
啼耶のからかいの言葉が聞こえないかのように、薫は啼耶と石榴の脇を抜けて真っ直ぐに浴室に向かった。
浴室の硝子の仕切り向こうでは、ふたりのはしゃぐ声が聞こえる。
薫は上着とズボン、下着を乱暴に脱ぐと仕切りを思い切り横に引いた。
冷気が蒸気を追い払う。緋未と翡錬が湯船に肩を並べて座っていた。
「薫ちゃん、どうしたの」
緋未は裸で仁王立ちの薫に驚いている。
薫の肌が湯気で湿る。
濡れた樫の木を複雑な稜線をもって削りだした彫刻を連想させる薫のその身体は、緋未の住んできた世界とは全く別のところで作られたのではないかと思わせた。どこか人間離れした職人によって書面に設計を施され、その後に念入りに時間をかけて作られたかに見える。とらえどころのない夢の中だけでしか見られない、妖精のような肢体だった。
薫は無言のまま湯船に近寄り、そして思い切り勢いをつけて湯船のなかに飛び込んだ。
翡錬と緋未の顔に、大量に飛沫が飛び散る。
緋未と翡錬が目を開けると、二人の間に身を滑り込ませた薫が膝を抱えて座っている。
薫は顎まで湯に浸けて、不服そうに口を尖らせていた。
「薫ちゃん、どうしたの?」
薫は一度口を湯につけて、息を噴出し、泡をだした。顔を上に遣る。
「わたしは翡錬や緋未は、わたしについてきたいんだってずっと思ってた」
「薫ちゃんの行くところなら、わたし、どこへでも行くよ」
緋未が薫を抱擁する。
「でも本当は違ってた」
薫は緋未を絡ませたまま翡錬に抱きついた。
「わたしが翡錬や緋未について行きたかったのよ」
翡錬の胸元に、薫は顔を埋める。
「わたしはずっと翡錬に憧れてた」
薫は緋未を抱いた。頬擦りする。
「緋未の顔にずっと魅入られてた。ふたりのこと、いままでずっと遠くから見てた」
「薫、今は一緒よ」
翡錬が翠を胸に引き寄せる。
「薫ちゃん、わたしも一緒」
緋未が抱きつく。
「翡錬」
薫は翡錬の胸に顔を押し付ける。
翡錬は身をよじってくすぐったそうに笑う。
「薫、なんだかまるで子供みたいよ」
「子供だもん」
薫は翡錬の胸に顔を埋めたまま緋未を抱きしめる。
「ふたりはずーっと、わたしの憧れだったんだから」
緋未は濡れた薫の前髪を左右に分けた。
「薫ちゃん、今日は三人で一緒に寝よう」
「うん」
薫は翡錬と緋未を離さない。緋未と翡錬も薫から離れなかった。
「わたしが右に寝て、姉さんが左で薫ちゃんが真ん中。薫ちゃんの右手をわたしが握って、姉さんが左手」
「うん」
「色々お話しよう。姉さん、話したいこといっぱいあるんでしょう。薫ちゃんも」
翡錬は微笑んだ。薫の背中を優しく何度も叩いた。
「枕持ってこないと。そうだ、毛布を丸めて長枕にしよう。それに三人で頭を並べて寝よう」
緋未は湯船から上がる。上がり際、薫の腕が緋未をすり抜けた。
振り返ると薫は、翡蓮の胸を枕替わりにし、息を立てて寝ていた。
「薫ちゃん」
緋未は再び浴槽に入り、薫を抱きしめる。
「薫ちゃん、ありがとう。疲れてたんだよね。ずーっとわたしのこと、守ってくれたもんね」
翡錬は翠の髪の毛に長い接吻を施す。
「薫、ありがとう。緋未を守ってくれて。わたしをずっと探してくれて」
だが二人の声は薫には届かない。
来奈薫は熟睡に身を委ねている。
下着と翡錬が用意した寝巻きをつけてから緋未と翡錬翡蓮は、二人がかりで薫を湯船から引き上げ、身体を拭いてベッドまで運んだ。そのあいだ薫は起きる気配をまったくみせなかった。
身体を拭く途中で翡錬は翠の胸の硝子に気付いたが、なにも言わなかった。
緋未が毛布を三枚薫の上に広げ、翡錬は丸めた毛布を翠の頭の下に差し込む。
作業をおえると緋未、翡錬共に息が上がって、ソファにふたりで座り込んだ。
「薫ちゃん、子供みたいだったね」
「ほんと、子供みたいね。安心したのね。旅の最後が近づいたって知って、解放されたのかしら。薫、いままでずっとひとりで頑張ってきたもの」
「あのサド、どこかガキっぽいと思ってたけど、やっぱりガキなんじゃないか」
いつのまにか石榴が二人の前に立っていた。背中にタンクを背負い、手には噴霧器。
「薫ちゃんはガキじゃない」
「ガキさ」
石榴は緋未にそう告げると、奥の部屋に足を運ぶ。
「風呂を消毒しとかないとな。お前らが入って今日は後はもう誰も入らないからな」
あまりにも酷い言い草に、緋未は頬をふくらませた。
「違うのよ、緋未、本当に消毒なの」
翡錬がおかしそうに笑う。
「硝子ウィルスはね、無機物にもとりついて浸食を行うの。でも生き物と違って無機物は血管を持たないし細胞もないからそのなかを移動することも、結晶を産出し破裂させて増殖することもできない。つまり無機物に対しては硝子ウィルスは外側から徐々に浸食していって硝子化させてゆくしかないの。だから無機物に浸食している硝子ウィルスへの処置はこまめに殺菌するだけで済むのよ。石榴ちゃんが持ってるのはアルコール。あれを一日の終わりとはじめに、住むところの主要な場所に吹きかけておけば、その建物は硝子に浸食されずに済むの」
「みんなそうすればいいのに」
翡錬は両手を膝の上で重ねた。
「東京区外ではね、生きて居る人がすくなくとも存在しているから、そのひとたちの免疫系が免疫の持ち主を触媒として無機物にとりついた硝子ウィルスにも攻撃をしてくれているの。だから建物は消毒しなくとも硝子化はしない。
でも東京区内では生きて居るひとは少ないから建物は硝子化する。ね、緋未、あなたが東京で出会った硝子化していないひと達はどんな人達だったか覚えてる?」
緋未は東京での人々の顔を思い描いた。
「みんな一生懸命だったかな」
「他には?」
「明るくて、目標があった。ちゃんと足が地についている感じ。なかにはふらふらしてるようなひともいたけど、でも、ちゃんと芯はしっかりしてた」
「そう」
翡錬は満足そうに頷いた。
「ちゃんと見てきたのね」
「緋未、翡錬」
ベッドのなかの薫が手をつきだして、宙に振り回し夢うつつに二人を求めていた。
「どこ」
「薫ちゃん、ここだよ」
緋未はソファから立ち上がると、ベッドの足元から毛布のなかに入り込んだ。毛布のなかを這い進み、薫の左脇に顔を突き出す。薫が寝たまま二人の名を呼んでいた。
翡錬が薫の右隣に横になる。
三人揃って川の字に並び、真ん中の薫の左手を緋未が握り、右手を翡錬が握る。
薫は二人の名を呼び続ける。やがてその声は小さくなり、薫はまた深い眠りに落ちた。
緋未もうつらうつらとしてきた。
「姉さん」
「なに? 緋未」
姉の返事を聞いて安心した緋未もまた深いまどろみに沈んだ。
夜半過ぎに、隣の啼耶の部屋から囁き声が聞こえて緋未は目を覚ました。腕時計の針は二時過ぎを指している。啼耶がうなされているようだった。
緋未は呻き声が気になった。薫の右手に絡んでいる左手の指一本一本を慎重に両手をつかって外し、ごめんね薫ちゃん、すぐ戻るからと薫の耳元に囁いて身を起こす。
薫の左脇の翡錬は熟睡していた。相変わらず外からはなんの物音もしない。
そっと足を床におろす。ランタンは消えていたが部屋は真っ暗というわけではなかった。
夕焼けか、それとも遠方の火事の光を受けているように、四方から不可解な薄い光が小屋全体を包んでいる。
光を全身に浴びながら、緋未は啼耶の部屋まで忍び足で歩いた。間口からそっと顔の半分を突き出し、啼耶の部屋の様子を探った。
啼耶は起きていた。啼耶は自分のベッドの上で、キャミソール姿のまま、犬そっくりの姿勢をしていた。
その下に蠢く黒い影があった。石榴だった。
「姉さん」
石榴は熱に浮かされたように呟いている。
「僕はふたりがここに居るのは反対だ。伝えるべきことがなくなると生きていけない」
「生きるとはそういうことではないのだけれど」
啼耶はかすれた声で自分の下にいる石榴に答える。
「だから薫が羨ましいのね、石榴」
石榴は、姉さん、姉さん、と何度も繰り返した。
「僕は羨ましくなんかない。姉さんがいれば、それでいい」
「かわいい石榴。わたしも石榴が好きよ」
石榴は、ベッドに四つん這いになっている姉の首に手をまわした。
緋未はそこで怖くなった。翡錬のベッドまで戻ると、毛布にもぐりこんで身を丸めた。
体に熱がたまっているみたいで、なかなか寝付けない。
顔の前にあった薫の手を握った。そこから熱が吸い出されてゆくようで気持ちがいい。
緋未はまた眠りに落ちた。
緋未、という翡錬の声で、目が覚めた。部屋はまだ薄暗く、時間にすれば午前五時といったところだろうか。
翡錬がキッチンで朝食の用意をしている。薫も起きており、白いウールセーター姿で、翡錬の後にぴったりと立っていた。薫はその手に、翡錬の服の裾をしっかりと掴んでいる。母親に従がう子供のようだ。緋未はおかしくなった。
「姉さん、早すぎだよ。今、何時?」
翡錬がコーンフレークとコンデスミルクを手にテーブルに移ると、薫もその後に続いて座る。薫の姿に愛嬌を覚え、緋未の口元はほころんだ。
「朝の八時よ。もう起きてもいいんじゃない?」
「八時!」
緋未は腕時計に目をやった。針は八時を指していた。ベッドから転がり落ちて、玄関口まで這ってゆき、ドアを開ける。
外は薄暗く、昨夜、最後に見た景色と寸分も違わない。工場の壁があり、あたりは遅い夕刻のように、赤みがかった暗黒をひろげている。
しかし空を見上げると、白い太陽が東の空に輝いていた。
ああ、ここは本当に常闇なんだ、と思った。ひなに話したら驚くだろうな。
部屋に戻るとミルクがかかったコーンフレークが三人分盛ってある。翡錬が正面に座り、その対面に昨夜と同じく、薫と緋未が座った。
薫は緋未の隣の席だったが、さらに椅子を横にずらして、緋未の椅子に長椅子のかっこうになるよう繋ぎ合わせた。腰を動かして緋未の真横にぴったりと移動する。
「薫ちゃん、ほんとうに子供みたい」
薫はえもいわれぬ笑顔を浮かべる。
「うん、子供。期間限定」
「期間限定」
「緋未」
翡錬が緋未にゆっくりと語りかける。
「食事が終わったらね、石榴ちゃんの仕事を手伝ってあげて。彼に色々訊くといいと思うの。姉さんたちは準備があるから、午後までは一緒に東京でもまわってて」
「準備?なんの準備?」
「大切なことを、薫と緋未に伝える準備よ」
嫌な予感がして、緋未の背筋におぞけが走った。
「伝える? 姉さん、一緒に帰るんでしょう?」
翡錬は黙って食事を続ける。薫が不安そうに緋未に抱きついて翡錬に懇願する。
「翡錬、また居なくなっちゃうの? あたしはそんなのは嫌」
乱暴な足音をたてて、作業服姿の石榴が翡錬の部屋に入ってきた。涙ぐむ薫に一瞥を与えてから、緋未を睨む。
「聞いたろ。ほら、さっさと行くぞ。いつまでも食べてるんじゃない」
そのまま石榴は部屋を横切って外に出てしまった。
緋未は急いでコーンフレークを咀嚼した。好きなはずのコンデスミルクはどこか喉にひっかかって、ひどく食べにくい不快な食べ物に思えた。
姉が準備してくれた作業服を羽織ると緋未は小屋を出た。出掛けに小屋を振り返る。姉が手を振っていた。薫は翡錬にしがみついている。
二人は緋未達が乗ってきたパジェロを使って工場を後にした。石榴は八十キロ越えでパジェロ走らせている。
「どこに行くの」
サングラスをかけてパジェロを運転する石榴は、薄闇のなかでやけに大人びた印象を緋未に与えた。
「武蔵野の端。そこにまだ無事で、手付かずなガソリンスタンドがあった。そこまでだ」
「ガソリンスタンド? ボイラーの軽油?」
「それもあるが今度は別口で大量に必要だ。工場の一部を大型発電機で動かす。久しぶりだな」
緋未が荷台を振り返ると、空のポリタンクが大量に詰め込んであった。
「これも準備?」
「翡錬からなにを聞いた?」
前触れの無い問に緋未は一抹の不安を催す。
「……なにも」
緋未の応えを石榴は鼻で笑った。急にパジェロは右にカーブした。緋未は振り落とされそうになる。
「急に何?」
「あのまま進んでいたら、ビルにぶつかっていた」
「ビル」
後方を確認し、なにもないじゃない、と言いかけて光の加減で、背の高い建物が背後に聳え立っているのが分かった。ビルが全部硝子で出来ていた上に、この明度なので緋未はその存在に気付かなかったのだ。
「よく気付いたね」
「東京区内にガソリンを求めて散々走り回ったからな。今でなら目をつむってでも運転できる。東京の地形は全部、頭の中に入っている」
「それで走れるんだ」
石榴は黙って首を縦に振った。サングラスをとる。
「これででもな」
石榴の眼の硝子はずっと遠い彼方を眺めている。
「緋未、もし、おまえの好きなひとが消えたら、おまえは自分がどうなると思う」
いきなり虚を衝かれて、それもあまりにも直接的な質問に緋未は背筋を伸ばす。
「え、居なくなったらって、それは、誰が?」
「誰でもいい。そうだな、薫とかいうあの退行しちまってる女はどうだ」
退行、という言葉にむっときたが、今現在、その言葉は、石榴の質問に無関係だ、とどうしてだか緋未には得心出来た。だから特に非難はしなかった。逆に深く考え込む。
「薫ちゃんが消えたら? 死んじゃうかな」
「死ぬか」
石榴は高速でパジェロを走らせる。
「そうか。そういう愛し方があるのは知っているんだな」
「どういうこと? 翡錬姉さんに関係あるの?」
「翡錬の妹だけあって勘がいいな」
石榴は忍び笑いを漏らす。
「それに、よくみると、かわいいな、おまえ」
石榴にかわいい、と言われてそれがキーワードになったのか、昨夜の光景がフラッシュバックを引き起こし、緋未の頭に蘇った。石榴は啼耶の下で姉を連呼している。啼耶は身を伏せ、弟にこう言う。
『かわいい石榴。わたしも石榴が好きよ』
緋未は石榴が男の子だ、という事実に急襲された。
昨夜の光景と、石榴の先程の、かわいいなおまえ、という言葉。
石榴はまた声を低くして笑う。
「おまえ、昨日の夜、見てただろ」
「見てたって、なにを?」
緋未の心臓の鼓動が早くなる。
パジェロが急ブレーキで停車する。周りは相変わらず、暗くて静かで無臭だった。
石榴はハンドルを握っていた左手を、緋未の肩にまわした。
「見たんだろ。おまえ」
緋未はシートベルトを外そうと腰のベルトに両手をまわして、金具の解放ボタンを押した。ベルトが外れる。ドアをあけた緋未は腰を動かして、パジェロの座席の外側に移動する。それを追うように石榴が緋未にさらに身を寄せる。
「なにをしていたか知っているのか。知ってるのなら、言ってみろよ」
シートのへりまで追い詰められた。
「ひやっ」
緋未はパジェロから地面に仰向けに落ちる。尻餅をついて着地した。石榴もパジェロから降りて緋未に覆い被さった。昨夜の啼耶そっくりの、犬の格好で。
「知ってるんだろ」
石榴は腰のベルトを外す。
「言えよ。僕は昨夜、姉さんとなにをしていた?」
石榴はジッパーを引き下げる。
「やめて」
「言えよ、なにをしていた?」
「やめて」
「言えよ! 言ったら許してやるよ!」
石榴はズボンをずり下げた。
出るのは悲鳴の筈だったのに、緋未は声が出なかった。かわりに石榴が笑う。
「言えないよな! なにもしていないんだから! ぼくはなにも出来ないんだから!」
石榴の腰の部分は硝子と化していた。
腰全てが硝子で、どこがどうなっているのか見分けがつかなかった。ただ、腰上部と下部、足はまだ硝子化しておらず、それで歩くのに必要な筋肉は機能しているらしい。
石榴は着ていたシャツをたくし上げた。胸の部分が丁度、胸当て状に硝子と化している。
石榴はのろのろと身を起こすとズボンをたくし上げた。
「手伝えよ。翡錬にそう言われたんだろ? ガソリンスタンドだ。到着だ」
石榴は緋未の手をとって立ち上がらせる。辺りに目をやるとパジェロが停まっていたのは、屋根全体と設備が硝子に侵され、廃墟となって放置されているガソリンスタンドの前だった。
「ポリタンクを取ってくれ」
緋未はなかば呆然としたままポリタンクを一個ひきあげ、石榴に手渡す。
「これがぼくの仕事だ。啼耶と翡錬が使用する工場を動かす石油が必要だ。研究には発電機を動かして電力をとらないといけない」
石榴は運転席が硝子となっている給油トラックのタンク側面に取り付けられている梯子を、紐でまとめたポリタンク数個を背中に背負ってよじ登った。
上蓋の鍵はこじ開けられていた。石榴は、ポリタンクの取っ手に紐をくくりつけるとタンクの上蓋を開けてタンク内部に飛び込んだ。しばらくしてタンクの反対側から、ごんごんという音がする。緋未が音の方にまわるとタンクの一部が硝子になっている。
硝子越しに膝までタンクの中の石油に浸かって、タンク内側を叩いている石榴の姿があった。
石榴は硝子と化したタンクの壁越しに、ポリタンクの口を石油に浸し、次いで指をタンク上部に向けた。両手を使って、紐をひきあげるゼスチャーをしてみせる。
緋未がタンク上部によじ登ると、蓋と本体を繋げている蝶番に紐がくくりつけてある。
「それを引っぱれ」
中から石榴が叫ぶ。声は反響して遠くに聞こえた。
緋未は重いポリタンクを時間をかけて引き上げた。やっとひきあげ、一息つくと別のロープをつたって石榴が顔を出した
「遅い。石油が揮発してしまう。もっと早くできないのか?」
緋未は息を喘がせて首を振る。息が切れて返事も出来なかった。
石榴は肩をすくめてから、またタンク内部に飛び込み、ポリタンクに石油を満たし、紐を引っぱれと緋未に命じる。
緋未がポリタンクを引き上げ終わると、石榴も顔を出した。ふたりはその作業を黙々と繰り返し、時計の針が十二時を指す頃、石榴は休憩しよう、といってようやくタンクの外に出た。
石榴はパジェロの荷台から小さな段ボール箱を取り出し、なかから缶パンと缶ジュースを取り出す。二人は硝子のトラックの車輪に背をあずけて昼食を口に運んだ。
パンを食べ終えて手持ち無沙汰になった緋未が話題を頭の中で模索していると石榴が急に喋りだした。なんの話か緋未は一瞬混乱したが、よく訊くとさっきの話の続きだった。
「啼耶と翡錬が研究のために工場の施設を使う際、電力が必要になった。幸い、発電機とキュービクルは地下の隣同士にあったから、配電を書き換えて発電機の電力供給先を工場の電気動力システムにまわすのは、そんなに時間のかかることじゃなかった。
発電機も緊急時、工場が閉鎖される寸前まで動力を一定ランクまで動かせられるように大型だったのも助かった。勿論、配電の変更には勉強が必要だったけれど、啼耶の為なら勉強も我慢が出来た。むしろ、進んでやれた。
こうして発電機だけで動く工場が完成した。工場の設備を使って啼耶と翡錬の実験は毎日続いた。発電機を動かし続けるにはガソリンが必要だ。僕はガソリンを探して東京中を駆けまわった。
これで啼耶の役にたてると思うとぼくにはまた生きていく理由が出来たんだ。出来たと思って、毎日馬鹿みたいに啼耶のためにガソリンを探した。
ガソリンを探して東京を、乗り捨ての車で走り回っている間は自分の体と啼耶が姉であるということは忘れた。トラウマっていうのは常にその傷を負ったものにつきまとい、そのものが生きがいを感じている時にだけその傷から解放されるっていうのを昔、本で読んだ記憶がある。
その通りだなと思った。もっともその時はそう思っただけで今になって本当にサイトカインが心の傷ではないけれど、体の傷を癒してくれるのを知ったんだけれど。
啼耶が姉であるが為に、ぼくの願いが成就されない事実に気が付き、体にも硝子化がはじまって絶望にとらわれ、それでも未練が捨てきれずに啼耶と相談して東京に来て良かったと改めて思った。
啼耶は僕がガソリンを給油する度に、感謝の気持ちとして口付けをくれた。僕はそれよりも、もっと啼耶そのものが欲しかったが、今の体では無理だった。
だから僕はせめて口付けだけでももらえるよう、こうやってガソリンを補給している」
石榴は立ち上がった。
「馬鹿な話だろう。昨夜のあれは口付けさ。口付けだけなんだ。啼耶と結ばれない絶望は続くから、口付けは慰めにしかならない。僕は日々、破滅に向かっている」
石榴の体からはガソリンの甘い香気が立ち上っている。
「仕事を再開しよう。このペースだと帰るのが遅くなる」
石榴は別のタンクの内側に下りると、ポリタンクに石油を注いだ。緋未は再びそれを引き上げる。非力な緋未がポリタンクを持ち上げるのにはひどく時間がかかり、頻繁に休憩をとらなければならなかった。だが石榴は緋未を急かすでもなく、緋未のペースに併せた。
その単純作業は持ってきていたポリタンクすべてが満杯になるまで続き、二人は時間を忘れて作業に没頭した。作業が終わって時計を覗くと、石榴の言った通り、六時を少しまわっていた。
工場に二人が帰る頃には、夕食時を迎えていた。
石榴と緋未が、荷台のポリタンクを小屋脇に全部置き終えてから食事を摂る。
今度は五人揃って食事を食べた。薫は相変わらず翡錬にべったり付き従っていたが、食事の準備時も手際がよく、喋り方もいつもの薫に戻っていた。
食事が終わると、啼耶と翡錬、薫、石榴は工場の内部に消えていった。
自分も手伝うと言う緋未に翡錬は、あなたは少し休みなさい、と穏やかに告げた。
「お風呂入って、服も着替えて。準備が出来たら起こすから。石榴ちゃんの手伝い、大変だったんでしょう。そうそう、薫ったら結局、昼まで十歳児だったのよ。いっぱい甘えさせてあげたから、もうそうそうはないと思うけれど、多分、これからも時々、薫は気が抜けると子供になるんじゃないかしら。
そうなったら緋未、あなたに薫をお願いしたいの。今は十分休んでちょうだい」
翡錬は冗談めかしてくすくすと笑った。
小屋横の、錆びまみれの非常出入り口から薫の呼び声が聞こえる。
「翡錬、なにしてるの。わたし、ここなんにも見当つかないんだから」
「薫ちゃんの担当は姉さんじゃないと勤まらないよ」
翡錬は微笑んで小屋を後にした。
「そんなことないわ。緋未は薫のお母さんで、薫は緋未のお姉さんなんだもの」
姉の奇妙な発言は随分と長い間、聞いていなかった。だが、久しぶりに耳にすると、妙に現実味を帯びていたので緋未は無条件に承諾してしまった。
だから翡錬が翠の面倒を自分に任せたのは何故なのか、その時はまだ、緋未は疑問に思わなかった。
緋未は低い単調な唸りに目が覚めた。ベッドから身を起こし、姉が洗ってくれたワンピースに皺が寄っていないか確かめる。
風呂から上がって着替えた後に横になったのは覚えている。疲れでそのままうっかり寝てしまったらしい。
低い唸りはまだ聞こえる。外からだ。
ドアを開けて外に出ると、工場の一部に灯りが点いていた。
三人が入っていった非常口上の誘導灯は、緑の輝きを放っていた。
緋未は非常口を開けて工場中に入った。非常口を抜けてすぐ横に、エスカレーターが二階に伸びている。唸りはエスカレーターが立てていた音だった。
エスカレーターの横に翡錬が立って居る。
「緋未、丁度よかったわ。呼びに行くところだったの」
緋未は姉の手をとる。エスカレーターに二階まで運ばれ、そのままエスカレーターは動く歩道に姿を変えた。
歩道に運ばれながら、緋未が横手を見ると、左右の壁は全部硝子張りで、右手には武蔵野の硝子の荒野が、左手には硝子で出来た研究施設があった。以前は研究機材や器具らしきものだった硝子細工が、透明な光をエスカレーターに瞬かせている。
「必要最低限の動力源と配線、保安灯は毎週、石榴ちゃんが消毒してくれていたの」
灯りのついた誘導灯が、時折頭上を過ぎてゆく。
「一部の研究設備もね。でも数月前からこの研究設備はもう必要はなくなってしまったから、それらのすべては一部を除いて硝子になったんだけど。ここで降りましょう」
翡錬に手を引かれ、緋未は動く歩道から降りて、《第二会議室》という立て札がついたドアの前に立った。この部屋は硝子と化していなかった。
翡錬は壁についているセキュリティボックスにカードを差し込み、暗証番号を打ち込んだ。
数秒、ボックスは小さなLEDの赤い光を明滅させた。ドアが横にすべって開く。
部屋の中央には、大きなドーナッツ状のテーブルが据えられていた。テーブルを囲んで椅子が並んでいる。部屋に入ってすぐ右手には大きなスクリーンが、奥にはホワイトボードが立てかけてあった。
椅子には薫と啼耶、ジャケットに着替えた石榴が座っていた。
スクリーン手前に緋未は導かれた。椅子に座るよう翡錬に促される。緋未は腰掛けた。翡錬はスクリーン横に立つと、壁の操作パネルに手を走らせる。
部屋の明かりが消えて、スクリーンが青色に輝く。
スクリーン左右のスピーカーから、音楽が流れ出した。モーツアルトのピアノコンチェルト、二十七番だ。
「薫、これからわたしが説明することは、あなたにさっき渡したメモリーと同内容のものなのだけれど、わたしたちはどうしても、緋未と薫に直接伝えたくてこうして説明の機会をつくったの」
「えらく大仰ね」
薫は腕を組んでいる。
「スクリーン用意して、音楽までかけて。緋未が驚いてるじゃない」
「ピアノコンチェルトがかかっている時が一番リラックス出来るの」
翡錬は緋未の元まで歩いてゆくと、隣の席に腰を下ろした。椅子を緋未の椅子と繋げて身を寄せ、肩に手を回す。それから一定のペースでぽんぽんと緋未の肩を叩いた。
「緋未、今、分からなくてもいいのよ。後で薫が細かく教えてくれると思うから」
「最低限、緋未にも理解できるように、説明しなさい」
薫は不機嫌な声を出す。
「はい。それでは免疫学准教授、粗鉱翡錬先生、講義をお願い出来ますか?」
「はい。薫准教授。では、まず、硝子ウィルス粒子から」
翡錬がリモコンを操作すると、スクリーンに幾つもの球体が写った。
「これが硝子ウィルスを拡大した映像。このウィルスは現在、世界のあらゆる人々の血液中に、必ず侵入していることが《世界の国境なき医師団》の手によって公式に確認されています」
「これが硝子化の原因ね」
「原因ではないわ、薫。硝子ウィルスはマーキングするだけ。人体内に影響は及ぼしません。ただ、あらゆる生き物の血液中で結晶を生み、増殖するだけ。これ単体のみの影響で硝子化することはない、というのがわたしの見解なの」
「では硝子化の原因は?」
「数十年前から、超新星の爆発が頻繁に起こっているのは知っているわね?」
「話が飛ぶわね。まあ、いいでしょう。知っています」
画面が切り替わる。光の粒子が中央から画面端にまで拡散している超新星映像だ。
「超新星の爆発は何を意味するのか。天文学の薫准教授、どうですか?」
「意味っつっても、星が消えてるだけよ。それだけ。後はなにもなし」
「あなたなら、想像してるんじゃない。薫。以前、話してたわよね」
薫は深く息をついた。
「わたしの予測でよければ。
まず、宇宙は、わたし達の住んで居る宇宙はどうやって出来ているのか。現在一番有効な説は、なにか圧縮された途轍のない質量の《なにか》がある時、爆発し、それが拡がるに伴ない内部に宇宙空間が形成されていったというもの。
一部では違う見解もでているけれど、わたしにとって一番現実的なのはこのビックバン説ね。そうすると、他の宇宙の誕生も説明できるから。
この宇宙のほかには並行して別の歴史をつくっている別の宇宙がある。
それは現在、量子学で測定可能、という仮説がたっています。仮説だけね。ではその別の宇宙はどうやって誕生しているのか。そこで超新星の爆発。これはビックバンのひとつではないかというのがわたしの見解なの。つまり」
「つまり、薫、超新星が起こる度に新しい宇宙が誕生している、という予想かしら」
啼耶が椅子に深く腰掛けて、苦笑いを浮かべる。
「失礼しました。ここでわたしの説をはなしてもいいかしら? 丁度あなたの説と繋がるのよ」
薫は黙って頷く。
「わたし、藍銅啼耶の予想では、全宇宙の質量は一定なの。
つまり、家に入っている家具はあらかじめ分量が決まっていて補填がきかない。もしこの家がある日突然、増築され、部屋数が増えたらどうなるか。無論、新しい部屋にも家具は必要だけれど、家具の補填はきかない。
では、どうするか。前にあった部屋からもう使用しない家具を運んできて修繕、あるいは作り変えて、あたらしい家具としてリフレッシュさせ、新しい部屋に置く。
わたしはこの現象が宇宙が増えた現在、地球上や宇宙で起こっていると推測します。
その瞬間がグラスフラッシュ。つまり、グラスフラッシュとは新しい宇宙が誕生しても、新しい宇宙に住む、新しい生命に必要なものが足りない、そういう状況下のなかにおいて古い宇宙で不要と判断されたものを新しい宇宙で不要と判断されたものとを交換している、強制的に置き換えている瞬間の現象だと考えています。考えるだけね。仮説にもならないから」
「古い宇宙において不必要だと判断する、その規定は?」
薫は腕を解いた。
「古い宇宙で、既にその目的を果たしていないもの。与えられた機能を全うしていないもの」
「誰が決めるの?」
啼耶の苦笑いが深くなる。
「さあ、神様かしら」
「宇宙論にアニミズムや擬人化はナンセンスよ」
「薫、紙の一番簡単な再利用法って知ってる? 誤字のあるワープロ文章や必要な時期が過ぎたメモなんかの」
「文章の上に、でっかいバツ印をマジックで書いて、その裏をメモ用紙として使う、かしら」
啼耶は頷く。
「それも手ね。わたしは硝子ウィルスが、そのバツ印であると考えているんだけれど」
「あんた何言ってるの? いや、ちょっと待って。話がまた飛んでるわよ。
わたし達の今の議題は、硝子ウィルスに対抗できる方法がいまの人類にあるのか、あるいは硝子化を無効にする、あるいは治療しうる方法があるのかという点じゃないの?」
翡錬が操作したスクリーンがまた球状の硝子ウィルス映像に切り替わる。
「そうね。ではまず硝子化を防ぐにはどうするかを説明しましょうか。
それでは硝子化進行していない時の、被験者、藍銅石榴の胸部の通常時の血液写真」
緋未と薫はスクリーンから石榴に目を転じた。
石榴はサングラスをかけていて、そのレンズは鈍く光っていた。
スクリーンが血中を映した白色に変わる。白色に映し出された血液のなかに、球状の硝子ウィルスが泳ぐように五、四個浮かんでいた。
「今度は胸部の硝子化直前の血中状態」
画面が変わった。血液の中には球状の硝子ウィルスが、隙間もないほどに、いっぱいに詰め込まれていた。
「このように写真のように血中にウィルスがある一定量まで増えた時点で、グラスフラッシュを浴びると、そこから硝子化してゆくことが判明したの。そして次」
また画面が切り替わる。おなじ血中の写真だが、血液の状態は、一番最初のものとほぼ同等だった。球状のウィルスはやはり泳いでいるが、それは四、五個で、後は白い空間が拡がっているだけだ。
「ブリトルチマーゼ投与後ね。飽きるほど見たわ。これ、必要なの?」
「必要ね」
翡錬は一定の間隔をおいて緋未の肩をやさしく叩き続けている。
「これはブリトルチマーゼ投与後の映像ではなく、仕事の後の藍銅石榴の血中状態」
「仕事」
緋未は昼間の出来事を思い出した。作業服姿の石榴はこう語った。啼耶の役に立てるという事実が、石榴を生かしている。啼耶の為に生きることが、社会の規範から逸脱することで生まれる苦痛から、石榴を解放してくれる。サイトカインは生きる人間を癒してくれる。
薫は緋未の言葉を聞き逃さない。
「仕事? なにか特別な部位を動かす、刺激することで血中の硝子ウィルスを減らせるの? それとも思考? 脳内薬物が影響してるの?」
「緋未、薫に説明してあげて」
緋未は言葉に詰り、躊躇った後に口を開いた。
「あのね、石榴ちゃんの硝子ウィルスが減っている時っていうのは、多分、石榴ちゃんが生きがいを感じている時に減っているんだと思うんだけど、姉さん、あってる?」
翡錬は緋未に、ありがとうと言うと立ち上がった。
「わたし、粗鉱翡錬と藍銅啼耶は、自身を被験体として脳内と身体部位、血中を観察し、多大な実験を重ねました。結果、以上のことが判明したの。
大脳辺縁系を中心としたニューロンの働きを情動を変化させたり、ブリトルチマーゼを投与しつつ観察した結果、感情の波が常に起伏し、多幸感や安定、自律的な苦痛を感じ、またそれらに抑制が十分に効果をあげている状況下にあると一部のサイトカイン、つまりあるインターロイキンが働きはじめ、特別な作用を促し、ナチュラルキラー細胞などの免疫系に硝子ウィルス撃退の効果を促進させることが判明しました。
インターロイキンは現在百種類以上が確認されています。蛇足ながらわたしと啼耶の検証ではこれ以後も新しいインターロイキンは確認されるものと思われます。
だって検証結果、見つかったんですもの。でも今はそれは関係ないわね。
わたしと啼耶が発見した硝子ウィルスに対し免疫能力を発揮するインターロイキンの話よね。わたし達は先ほどの実験を繰り返すと同時に、血中の硝子ウィルスが減る瞬間に、各インターロイキンの産出量を調べました。
そこで分かったのが、硝子ウィルスに対し、免疫効果を促すのは二十七番目のインターロイキン、インターロイキン二十七だということ」
「インターロイキン二十七。二十七番目のインターロイキン」
薫は唾を飲み込む。
「そう。インターロイキン二十七は感情の波が常に起伏し、多幸感や安定と共に、自律的な苦痛が抑制された状況下におけるならば、ナチュラルキラー細胞などの免疫系に硝子ウィルスへの攻性処置、つまり攻撃方法の伝達、及び攻撃の強力な補助をします。
つまり自発的な行動から誘発される感情が、インターロイキン二十七の特殊性を発現させるのよ」
「質問。いい?」
緋未が挙手した。
「インターロイキンって、何?」
「インターロイキンというのは」
薫は腕を組む。翡錬の説明に対し遅延が生じるのに焦れているようだった。
しかし緋未は、いつものように薫の機嫌に構ってはいられなかった。翡錬と啼耶、石榴は明らかに重要な事実を、自分たちの見つけた大切なことを、緋未と薫に伝えようとしている。
訊き逃すわけにはいかない。わたしには分からないはなしでした、では済まされないし、済ませてしまうわけにはいかない。
薫も承知しているらしい。含めるように緋未に説明する。
「サイトカインが総称の人体に反応する液性タンパク因子のこと。
普通、人体内にウィルスが進入すると、まず人体は、サイトカインでウィルスに対する攻性を強化するの。
次にB細胞から補体と抗体という、鍵ね、鍵が数限りなくつくられてどれがウィルスの鍵穴に嵌るか総検索するの。その鍵穴にうまく嵌る鍵が見つかれば人体はウィルスにまず勝利確定。
その鍵の形状を記憶B細胞が覚えて鍵穴に嵌る鍵をどんどん生産するの。次にナチュラルキラー細胞やT細胞やCTLがその鍵穴に嵌った鍵を目標にウィルスめがけて攻撃。そしてマクロファージが最終的な掃討をおこなう。
インターロイキンはね、それも特定のインターロイキンは全部が全部、同じ働きをするんじゃないんだけれど、特定のインターロイキンは、これらの過程に対し、免疫系が持つウィルスへの攻撃にある種の手伝いをするの。
免疫系に対し、有効な攻撃方法を伝達したり、ウィルスへの攻撃を強化させたり。
例えばインターロイキン一。これは免疫反応の割と初期に出るんだけれど、さっき言ったT細胞、免疫系を活性化させるの。
インターロイキン十二は一と似てるわね。感染症に反応して、免疫系のナチュラルキラー細胞を活性化させる。インターロイキン四はさっき言った、B細胞が抗体、鍵、つまり攻撃目標への目印を産出してくれるのを促進してくれる」
「ウィルスに対して、すごく有効な物質っていうこと?」
「しかもいま説明したインターロイキンは無条件で出てきてくれるの。ウィルスが体内にはいると、反応してほぼ勝手に産出されるのよ。ただし、一部のインターロイキンはある条件が整わないと出てきてくれないことも分かっている。インターロイキン二十七も」
ここまで説明して、薫は自分の説明の齟齬に気付いた。
「翡錬、啼耶、おかしいじゃない。インターロイキン二十七は無条件に出てきてくれるサイトカイン。一と十二とほぼ同じに。いえ、もっと恒常的に」
翡錬は頷く。
「そうね。Th一反応が起こる早期に出てくるものよ」
「Th一反応ってなに。姉さん」
「細胞性免疫反応。免疫細胞の機能を調整して、例えばインターフェロンを産出してキラーTを助けるとか、抗原を認識しようとしているB細胞を助けるとか」
啼耶が苦い笑いを口元に漂わせる。
「わたしってね、薫や翡錬と違って免疫学の知識は全くないから、翡錬がさっき説明した話なんかを聞いちゃうとつい妄想が働いちゃうのよね。
例えばインターロイキン二十七はTh一反応に働きかけるものだから、ある条件が整えばTh一にさらに働きかけて、そうね、キラーTにウィルスに対する攻撃性をさらに促すとか。それも特に硝子ウィルスに有効に働くよう、伝達物質で硝子ウィルスに対するもっとも有効な攻撃方法を伝達するとか」
「馬鹿馬鹿しい。それになによ、ある条件って? それはもしかして緋未が言っていた、生きがいを感じる、ということ? 自発的行動によって誘発される情動が起動の鍵になる? そうすればインターロイキン二十七がウィルスを殺す作用を促進させてくれる?」
「そんな感じかしら」
薫は顎をそらす。
「素晴らしい答えね。じゃあ、訊くけれど、生きるってどういうこと? 自発的行動とは?」
「人それぞれよ」
啼耶は低い声で笑う。
「そう、ひとそれぞれ」
「答えになってないわよ」
「僕の場合は啼耶姉さんだ」
石榴が薫を眺めた。
「それがないと僕は硝子化してゆく。これが事実だ」
「わたしは石榴。薫、あなたなら大体は感づいていたんじゃないかしら」
挑発するように自分を見つめる啼耶に、薫は顎を引いた。
「結ばれないっていう絶望が、生きる、という行為をあなた達から放棄させたっていうの?」
「死に至る病っていうわけ。よく言ったものね」
「……そんな馬鹿な! インターロイキン二十七の話が事実だったとしても、そんな……」
「つまり、あの、啼耶さんと石榴ちゃんは人として生きるという、人間が持っていて当たり前の機能に支障をきたしているから古い宇宙では不要と判断されて、新しい宇宙の新しい部品となるためにこの世界から消える。その同等物として多分、わたしの推測なんだけど、新しい宇宙の要らない部品、つまり硝子ととって変わるっていうことですか……」
翡錬と啼耶、石榴が伝えたい内容に、緋未はあらかた見当がついた。
硝子ウィルスが蔓延しているこの世界では、これからの人類は人生の全てにおいて、《ひととして生きなければ、本来の機能を果たしていない不要物として世界から排除される》のだ。
「納得してくれたみたいで教えがいがあったわ。さすが翡錬の妹ね。これまでの説が全部繋がった」
啼耶は緋未に微笑むと危うい足取りで立ち上がった。
薫は歯噛みする。
「納得したわけじゃないわ……! 緋未はなにも分からないから、今聞いた話を総称してあてずっぽうを言っているだけ……!」
翡錬が挙手する。
「でも、インターロイキン二十七に関していえば薫、あなたのブリトルチマーゼの効果が証拠よ。わたしだってそう。
わたしは石榴ちゃんの手を借りて啼耶と研究を進めている間は夢中だった。
研究の最中はいつも緋未と薫が傍に居るイメージがあったから、啼耶と石榴ちゃん、揃って五人で協力して実験をしている、そんな思いがしていて、そう考えながら研究してると毎日がとても充実していてね、そんな日々のなかでグラスフラッシュが起たとき、右腕が回復していたの。
論より証拠ね。つまり薫、あなたのブリトルチマーゼ投予後にインターロイキン二十七が活動をおこすのは、多幸感を催している大脳辺縁系に反応しているからなの。
ブリトルチマーゼが引き起こす《擬似幸福》に反応しているのね。
ブリトルチマーゼを投与された被験者は、《擬似幸福》で生かされている」
「そういうこと。薫も納得して頂戴。宇宙の話はともかく、硝子化に関しては事実と断言できるわ。もう、わたしと石榴のなかは絶望でいっぱい。多分、擬似幸福、ブリトルチマーゼの投与を中止したわたしは、今度のグラスフラッシュに耐え切れないでしょうね。次が最期よ」
「姉さんが居なくなるのなら、僕の存在理由も消える。生きていたって仕方がない」
「だったら新しい生きがいを探せばいいでしょうが! あんたらの説に拠るなら! 翡錬はそれで回復したんでしょう!」
啼耶の口元が苦笑いから微笑に変わった。
「そうね。でもわたし達にはそれが出来ない。だから薫、あなた、幸せよ」
「どういうことよ! 知ったふりしてお高くとまってるんじゃないわよ!」
薫は机を叩いた。椅子を蹴り上げる。
「勝手な憶測で死ぬのを予言して、苦悩気取ってるんじゃないわよ!」
緋未が薫に駆け寄る。
「薫ちゃん、落ち着いて」
薫は緋未を抱きしめる。喉から出る声は苦渋に満ちていた。
「そんなの、全然納得できないわよ」
緋未は薫の背中を優しく撫でる。薫の荒い息は、徐々に小さくなっていった。
啼耶はこの光景に確信したように、翡錬に目配せをした。翡錬は頷く。
翡錬が頷くのとほぼ同時に、ピアノコンチェルトを掻き消して電子音が室内に流れた。
部屋出入り口の操作パネルが点滅している。自動ドアが横にすべって扉が開き、次に室内の照明とスクリーンの画面が落ちた。動く歩道の低い唸りも止まる。
石榴が立ち上がる。
「発電機の電源が切れたんだ。よく持った。みんな、出るぞ」
石榴は啼耶の傍に行き、手を取る。
「姉さん、足元に気をつけて」
緋未も、薫に手を引かれ会議室を後にする。
暗い会議室でひとり翡錬は佇んだ。
「翡錬、なにしてるの。はやくこっちきなさい」
「姉さん、はやく」
翡錬は誰にも語るともなしに呟く。
「薫。緋未。あなたたちには未来があるのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます