第4話 星に願いを

 来奈薫は孤独な少女だった。

来奈薫はアメリカ人の父と母を持ち、アメリカで生まれた。ただ薫がアメリカにいたのは物心がつく以前だったので、実質上、薫が心身共に育ったのは、両親の仕事の関係から移り住んだ日本の社会だった。

薫は西洋人の風貌を持ちながらにして、純粋に日本人として育てられた。

小学校入学初日や中学入学当日において薫特有の奇異な存在感は人目を惹いた。

だが彼女の一種異様な風貌に慣れてしまえば、ごく普通の日本人と変わりがないことに周囲は気付いた。一方で少女は近寄りがたい雰囲気を発散していた。

薫に対するクラスメイトのたちの興味と関心は徐々に薄くなっていった。

加えて、薫は周囲の人間関係よりも本や音楽の方面に興味を示した。これが少女の周囲から同級生やクラスメイトたちを引き離すのを過分に助長させた。

中学に進学すると薫の人間関係に関心を持たず、興味の対象はもっぱら芸術一般に向けられるという傾向はより顕著になった。中学において授業のカリュキュラムに追加された英語の授業に行われる教科書の和訳、英訳の読み上げにおいて、その風貌とたどたどしい英語能力のギャップから薫は嘲笑の的になったからだ。異国の風貌を持ちつつ日本で育った薫は日本人の子供たちがそうであるように、英語という言語にまったく疎かったのだ。英語を喋れないガイコク人というのは、薫の周囲の子供達にとっては(また教師にとっても)コメディの光景に等しく、薫がたどたどしく英訳と和訳を読みあげるたびに、クラス内では忍び笑いが絶えず起きた。

こうして英語の時間毎に(要するに毎日)薫の人嫌いの性格は強くなっていった。同時に彼女の孤独も、強い暗部にさらに沈んでいった。

そういった環境に対して薫は時折、怒りを暴発させることがままあった。怒鳴り散らし、生徒たちに暴力を加えては、教室内の備品を損壊させた。

自然、薫の周囲からさらに人は離れた。薫は世界と自分との間に生じた深い溝に、ひとり耐えなければならなくなった。

そんな来奈薫の人生の転機は、高校になって訪れた。

入学式の席上で、粗鉱翡錬(あらがね・ひれん)が薫の隣に座ったのだ。

入学式はしめやかに行われた。その間、薫の隣に座った粗鉱翡錬は芸術を一生の友としてきた者が持つ、深遠な瞳の持ち主である来奈薫に対し、沈黙のうちに並々ならぬ好意と親愛の情を抱いた。薫が粗鉱翡錬の死んだ母に似ていた、という事実も薫に対する翡錬の好意の大きな部分を占めてもいただろう。

兎に角、入学式が終了し、来奈薫とクラスが一緒だと発表されると、翡錬は歓喜の声をあげて歓びの情を露した。それが中学からの友人などにではなく、来奈薫本人に直接、しかも抱きつくと言うスキンシップを伴なったことが、本来人間嫌いであったはずの薫の粗鉱翡錬に対する心の壁の崩壊と、薫には珍しい人間を愛するという感情の急速な成長を促すことになった。

そうした経緯を得た結果として、純粋な好意を持って薫と付き合いだした翡錬に、薫が粘質の膜のごとくに付きまとうようになったのは今迄孤独だった彼女には当然といえた。

遂に薫は毎週土曜日になると、翡錬の部屋に宿泊するようになった。

二人の距離は皆無に等しくなった。人間嫌いで通してきた薫には人との距離の測り方を学ぶ時間がほぼ無かったのだから不思議ではない成り行きではあった。

そんな薫と翡錬の不自然な蜜月を心配する友人達も居た。だが翡錬は気にするでもなく、二人だけの時間は平日、休日を問わず積み重ねられた。土曜の晩に薫が翡錬の家に泊まる、というのは恒例行事となった。

またこういった不器用な形ではあるが、翡錬と時間を重ねてきたことにより、薫に徐々に変化が起こり始めた。

芸術に関する博学と美麗な姿が同居するその存在が、翡錬という伴侶を得たことにより学構内において輝きを放ちはじめたのだ。

さらに薫が時折爆発させる感情も、常に傍にいる翡錬が暴れる薫をその身をもって抱きしめて抑え、受け止めることで、暴力性がかなりの部分において緩和されてもいた。

こうして高校はじめての三学期を迎える頃には、薫に向けられる周囲の視線は冷ややかなものではなくなっていった。むしろ尊敬の熱さえ帯びはじめた。

薫は翡錬の献身によって自分自身を昇華させ、周囲にもその能力を認識させることに成功したのだ。

『お泊まり会』は、薫と翡錬が高校を卒業するのと同時に、二人にとっては恒常的なものになった。

同じ大学に入って実家から抜けた薫と翡錬は、マンションの部屋でルームシェアをはじめたのだ。

来奈薫は大学では理学を専攻し、粗鉱翡錬は医学を専攻した。

薫の理学、特に得意とする天文学の授業は、講師の勤務時間にあわせて金曜の一時間目に行われた。天文台週末夜勤明けの教授が一日の最期の仕上げとして講師を行い、帰宅して眠りにつくからである。

毎晩夜遅くまでベッドの上で翡錬とじゃれあっていた薫の毎週土曜の朝は、いつも目覚まし時計と前夜からつけっぱなしのテレビの早朝番組、ミスター・フォッグのコーナータイトルのコールではじまった。

最初に目覚ましが鳴り、次いで毎週アメリカに滞在中の特派員、ミスター・フォッグの名がアナウンサーによってコールされる。

――さあ、みなさん、今週も刻々と姿が変化するとらえどころのない霧のような情報がミスター・フォッグの手によって鮮明に日本にやってきますよ! ミスター・フォッグ! アメリカの天気はどうですか?

――はい、フォッグです、日本のみなさんおはようございます!

「しまった、寝過ごした」

ミスター・フォッグの声で目を覚ました来奈薫は布団から抜け出す。一糸まとわぬ姿態で朝日が差し込むリビングを抜けてキッチンまで走った。

テレビではミスター・フォッグと呼ばれた中年男性がニューヨークのウォール街から中継を行っている。ミスター・フォッグのコーナーが開始されるのは毎週金曜の朝八時半だ。だからこのコーナーがはじまる直後に起きたのは薫にとってほぼ大学講座への遅刻寸前を意味する。

薫はパンをオーブンに入れてコーヒーメーカーに水と粉を注ぎ、スイッチを入れる。

「一寸、薫」

肌の上に毛布だけを纏った翡錬が顔をしかめて薫を追いかける。長い亜麻色のまき毛が腰まで優美に波線を描いている。

「毎回わたしの手、踏まないで。ちゃんと落ち着いて歩いて」

 薫を咎める翡錬の黒い潤った目にはしかし、憤激の色は見られない。静かに薫を見詰める翡錬の瞳の中には、親愛の情と、夕べの青い焔の残り滓がくすぶっている。

「あ、また踏んだ? ごめん」

薫はコーヒーメーカーからコーヒーを自分のカップと翡錬のカップに注ぐ。オーブンから生焼けのパンを取り出した。講座開始まで残り三十分しかない。

「それから薫、また裸のままでうろうろして。ちゃんと下着くらいつけて頂戴」

「誰も見てないって」

 薫は椅子に座ってパンを口に運んだ。その薫の髪を翡錬が櫛で丁寧にとかす。

「薫、すこーしのあいだだけ、動かないで。整えてあげる」

「食べながら動かないのは無理無理」

薫はパンをコーヒーで流し込む。勉強道具一式がおいてあるリビングに戻った。

 ふと、さっきまで二人が寝ていた布団に目をやる。薫はそのままふらふらとその中にもぐりこむと顔だけを突き出して眠たい、とぼやいた。

「そんな有様だと今回卒業しても、次回、医学部には行けなくなるわよ」

化粧道具一式を持った翡錬が薫の前に座る。薫の化粧は全て翡錬任せだ。薫の目の前に翡錬の顔が降りてくる。ファウンデーションが薫の肌を冷やした。

「高杉教授に薫の話をしたの。凄く興味をもってくれたの。医学を専攻しなくとも色々教えて貰えるかもしれないわ。いい機会ね。完璧にしてたら認めてもらえるかも」

「翡錬は卒業したら今度は天文学をとるんでしょ」

 薫の言葉に翡錬はいま口動かさないで、と言った。薫にマスカラを縫っている。

「そうよ。薫がとっているのなら、わたしも取りたい。薫の好きなもの、わたしも好きになりたい。わたしも知りたい」

 薫は顔の前にある翡錬の頬を手で撫でる。

「わたしもよ。翡錬。翡錬が好きなものならわたしも好きになるよう努力するわ」

 翡錬はグロスを薫に施し、ちょっと薫を眺めてからよし、といってグロスが塗られた唇に人差し指をあてた。

「完成。愛してるわ、薫」

薫は布団をはねのけ、翡錬の手をとると自分の白い胸に導く。

「わたしも。翡錬。愛しているわ」

翡錬は、薫の胸の肌に浮かんだ硝子玉の様な汗を指で拭った。塩辛い指先を舐める。

部屋は二人の汗と化粧品の香り、布団のほこり、昨夜流した愛液の臭い、それらがまざりあってできた、熟れた果物そっくりの甘ったるい香気に満ちていた。

「薫、服を着て。わたし、好きないひとにはきちんとして居て欲しいの」

「また、翡錬の完璧症がはじまった。面倒くさい。翡錬、手伝って。下着も選んで。着る服も」

翡錬は立ち上がり、クローゼットに歩み寄る。

「今日は妹の緋未が来るんだから、ちゃんとしてよね」

「してるわよ。ね、緋未は翡錬に似て可愛いわよね。緋未はお姉ちゃん大好きなんでしょ。わたしもあの子好きよ。ねえ、今日は三人で、一緒にお風呂はいって洗いっこして布団のなかはいって、そうだ、日曜はどこにも出かけないで三人で布団の中だけで過ごそう。うさぎみたいにずっとくっついてるの」

「はいはい」

翡錬は下着とワンピースを取り出した。

「そのワンピースと下着、翡錬のよ」

「そうね」

翡錬は薄く笑う。

「今日一日、薫は私の服を着て、わたしは薫の服を着て過ごすというのはどう?」

「賛成」

薫は毛布から抜け出る。

翡錬がブラジャーを手に薫の背後にまわる。薫は翡錬の差し出すブラの紐に腕を通した。翡錬はホックを留める。薫の胸の下に手を差し入れ、きつくないように整えた。翡錬が肩のひもを調節し、豊かな両胸は下着に綺麗に収まった。薫は黒の薄いショーツを穿いた。最期に翡錬のワンピースをまとう。サイズはぴったりだった。

「いつも思うんだけど、どうして翡錬のサイズはわたしのに合うんだろう。わたしのも翡錬には丁度合うし。わたし、これでもアメリカ人よ。なのにどうして日本人の翡錬の体型とあうのかしら」

「それはきっと薫が、死んだわたしのお母さんにそっくりだから。同じ年齢の母親と娘が着る服がちゃんと揃うのは、当然じゃない?」

 翡錬は時々、こういった奇妙なことを口にした。しかしその言葉のなかには相手を不安に煽りたてたり不快な気分にさせる夾雑物は入っていない。むしろ純粋に相手との距離を縮めるものとして機能する。薫は翡錬の言葉に胸が高鳴った。

「どう? この格好。変じゃない?」

薫は胸の高鳴りを押さえきれず、ワンピースの裾をひらめかせながら回転した。翡錬の手を引いて明るいキッチンまで戻る。

「似合ってる。薫、素敵よ」

 翡錬に腰を抱かれて薫の足は停止する。

 翡錬と薫はしばらく見詰め合った。ゆっくりと唇を近づける。

瞬間、窓の外が連続してフラッシュを焚いたような閃光に輝いた。

 薫と翡錬は抱き合ったまま、窓の外に目をやる。

「なに? 今の?」

薫はベランダに出て下を覗き込む。ここは五階だから、誰かがカメラのフラッシュを焚いたとはまず考えられない。

 ベランダの下には人間が二人いたが、それは目の錯覚か、凍りついたように微動だにしない。五階からの影響で光の加減がどうかなっているのか、人影は薫の目には不思議と輝いているように見えた。

「薫!」

屋内から翡錬の悲鳴があがる。薫が部屋に戻ると翡錬はテレビを凝視していた。

 テレビ画面には絶えず揺れるカメラ画像と、その前を行き交う混乱したスタッフの姿があった。

テレビカメラが外に出ると、先程のウォール街が映し出された。だが通りはいつのまにか硝子細工の彫像に埋め尽くされており、人影はひとつとしてない。

「みなさん、分かりますか? これはバラエティーでも、番組の趣向でもありません。いま、たった今ですね、閃光の後に人が硝子になって、私は無事なのですが、通りを歩いている人々全てがですね、硝子になって、硝子になっています!」

 テレビ画面は報道スタジオに移り替わる。

「緊急速報です。たった今、世界各地で日本も含めてですね、人々が硝子になってしまうという信じられない出来事が起こっています。ちょっとこれはどういうことなんでしょうか。急に我々の周囲で、分かりますか? 今、四カメの、カメラさん四カメ写して!」

 画面が切り替わり、スタジオ内部が写る。

 画面にはカメラを構えたまま、着ていた服ごと硝子の彫像と化した人間が立っていた。

 ひとりのスタッフが駆け寄り、硝子になったカメラクルーの体を揺らす。

 大丈夫か、そういってスタッフのひとりが硝子になったカメラクルーの頬を叩いた瞬間、カメラクルーはバランスを失って床に倒れ、スタジオの床に砕けた。スタッフのあげる悲鳴がノイズと共にマイクに響く。

「薫……」

 薫は身を寄せる翡錬の肩を抱いた。自分を求めて差し出された手を握り、それからそれが温度を伴なう硬い硬質になっているのを肌に感じる。目を手元に落とした。

「翡錬……!」

 翡錬が羽織っていた毛布が床に落ちる。翡錬のほそくしなやかな足と黒い茂み、くぼんだ腰と豊かな胸元が露になる。その胸の右脇から伸びている右手は、肩から先全てが透明な硝子になっていた。

 翡錬は己の手を目にして茫然自失となり、左右に身体を揺らすと膝から床に座り込んだ。

 キッチンからスマートフォンのコールが聞こえる。

二人は動けない。

 スマートフォンは五度コールを終えてから、留守録に切り替わった。スピーカーからあどけない少女の声が聞こえる。

「緋未です。姉さん、今日の六時に大学に行けばいいのかな。薫ちゃんでもいい。どっちか迎えにきてね。もし大学校舎で会わなかったらスマホで呼んで。今晩がすっごく楽しみ!」

 通話が切れる。

 外では警察車輌と救急車、消防車のサイレンが幾多にも重なって鳴り響いていた。

 世界で同時に発生した最初のグラスフラッシュの威力は強大だった。この一回目の瞬きで世界人口の約三分の一が硝子と化した。またそのうちの四分の三は突発的な事故で身体を粉砕されるという人為的要因によるなんらかの損傷を負うことになる。



立川、昭島、国立市と東京地区中心部に向けて螺旋を描きながらパジェロは武蔵野に進んでいた。それにともない、硝子化の密度が高くなっている、と道路左右に林立する硝子に浸食されつつあるビル群をパジェロを運転しながら緋未は仰ぎ見た。

 助手席の薫はカーステレオから流れてくるナパームデスというバンドのドラムに合わせて、人差し指と中指で胸の中央を小刻みに叩いている。

 ドラムのテンポは早く、ノイズみたいなギターとだみ声で歌うこのバンドは緋未には全く耳慣れないものだった。先程も、このだみ声なに? と薫に訊ねたが、逆に「だみ声じゃなくてデス声」と言われて新しい言葉に混乱した。このバンドと言うよりは、曲のジャンルそのものが緋未にとって全く見当のつかないものになってしまった。 

どう聴いたらいいのか、薫の様にすまして聴けばいいのか、それともついてゆけそうもない激しいリズムに併せればいいのか、混乱の極みだった。

 そんな緋未を置いて行くように激しい音が唐突に終わる。再生が終わったのだ。

 緋未はほっとする。

 パジェロの周辺は、曲が止まった途端に冷たい現実という名の静寂に襲われた。

 静謐の中、黙々とハンドルを握る緋未の目には、左右のビルの硝子部分がいやに怜悧な輝きを帯びているように映った。

 太陽の白い光もさらに強くなった気がする。その反面、建物の合間に滲むように浮かぶ黒い影はその色をより濃くする。

静かな風景は緋未の胸を不安に誘わせた。

 こうしていると、いつグラスフラッシュが襲ってくるか、薫の胸の硝子化の進行はいくらくらいのものなのか、それよりもこの姉の探索行自体に実りというものがあるのか、全てが不安定で不確実なものに思えてくる。

 不意に雷の音がした。脳の志向が逸れる。緋未は空を見上げる。

 空は青い。なのに続いて豪雨の音。そしてナイフのような鋭いギターの断続音と激しいドラムの音が緋未の耳を聾した。

薫が新しいディスクを再生したのだ。

 野太いがキーは高い男性ヴォーカルが、叩きつけるようにシャウトする。鋭いはずだったギターの音は、河に打ち寄せる波のように変化する。

 現実の問題はこれらの音の洪水に流された。緋未の意識は再びかき乱され、運転以外に必要な思考は中断を余儀なくされる。それに伴なって緋未の余分な邪推も頭から徐々に薄れていった。

「スレイヤーの『レイニング・ブラッド』」

薫が緋未に薄く笑う。

「どう? うるさ過ぎて余計なこと考える余裕、なくなるでしょ」

 変に説得力のある薫の説に、緋未は二度も頷いてしまった。

「まあ、あれよ。坊主が修行でやる滝打ちみたいなものよ」

「そうなの?」

強引な理論だったが、今の緋未には妙に現実味を帯びて聞こえる。

 薫は「うーん、どうかな」とすこし唸った後、「まあ、そうじゃないの?」と声を立てて笑った。

 こんな薫の図々しさにも似た、精神力の強さはどこから来るのか緋未には以前から不思議でならない。

 薫の精神の強さが、今のような楽しい雰囲気を作るのだろうか。それに知識量も緋未とは比べ物にならない。あやかりたい。こういうところは姉の翡錬と似ているなと思う。

「それはそれで色々苦労してきてるのよ」

 緋未の思考は全てお見通しというように、薫は緋未の先まで読んで会話をする。

 薫に心の全てを読まれそうで緋未はなにか誤魔化すものがないものかとデッキからディスクを抜いた。

「ねえ、薫ちゃん、私にも分かるのかけて」

「緋未にも分かるやつねえ。あんた、範囲狭いから。邦楽の当たり障りのない死んだような曲がいいんでしょ」

「死んだような曲?」

 薫の邦楽嫌いは知っている。それにしても死んでいるとは随分な言いようだと思った。緋未は少し腹が立ったのでハンドルをわざと左右に振ったが、そんな緋未を意にも介さず薫は話し続ける。

「そう。死んでる曲。死んでるってことはつまり、それ以上はそこにもっと面白そうなものが出来そうだなとか、もっと気持ちいいものがありそうだなとか、もっと希望にあふれたものがみつかりそうだなとか、そういうものがもう見つからない状態ということ」

 酷い理屈と考え方だ。一方的でもある。邦楽だっていいものはいっぱいある。緋未はそう反撃するが薫の口にはかなわない。

「じゃあ、今のメジャーな邦楽から受取る以外になにがあるのよ、邦楽に噛み付いてリスペクトできるものでもあるっていうの。あなたの傍にいますとか、だけどあなたが分らないとか、自分のことも分からない奴が、他人のことなんか分かるわけないでしょ」

「じゃあ、薫ちゃんがいいって認める邦楽はないの?」

 薫はすこし考えて、「七十年代あたりかなあ。サーカスとかのちょっと歌詞が可哀想なやつ」と言ってから、おもむろにディスクケースの中をひっかきまわし出した。

暫くしてこれこれ、これがあった、と嬉しそうに言うと探し当てたディスクをセットした。再生ボタンを押す。

 酷いノイズとハウリング音の後に、粗いざらざらの砂利みたいなベースとギター音があたり一面にぶちまけられる。ドラムが心臓の鼓動をせっつくように打つ。お世辞にも上手いとはいえない男性ヴォーカルが、単純な言葉を連呼して叫び始めた。

 緋未は最初は何語かと思ったが、耳をすましてよく聴いてみると、日本語らしい。

 薫はにやにや笑い、足をばたばたさせた。

「どう。心がざわざわするでしょう。こういうのがいいのよ!」

「薫ちゃん、要するにうるさいロックならなんでもいいんじゃないの? クラッシックとかないの? 心が落ち着くような」

「モーッアルトのピアノコンチェルト、ナンバー二十七とか?」

緋未はぎくっとした。薫はディスクを件のモーツァルトのピアノコンチェルト、ナンバー二十七に入れ替えた。ピアノの高音がデッキから流れ出す。

「でもこれも駄目ね。死んでるから」

「死んでるって、薫ちゃんは、洋楽以外にもクラッシックとジャズ、ラテンは好きだと思ってたのに」

「死んでるイコールよくないってことじゃないの。例えばモーッアルトの後期はみんな死んでるんじゃない。ベートーベンもナンバー七とか九、それとピアノ曲の大体は死んでるわね」

「いい曲ばっかりじゃない」

「だから死んでるのよ」

薫は腕を組む。

「いい? 不足がない生活をしてたら人間、どうなると思う?」

「不足がない生活?」

「働かなくともお金が入ってきて、エアコンがあってテレビがあって、音楽と映画と本があって、食事と睡眠がある生活」

 緋未は首を傾げて、

「家でずっと過ごすようになるかもしれない」

「部屋に飽きたら海とか山とか、買い物に出かけられる余裕もあるのよ。好きなひとといつでも遊べる」

「働こうとか勉強しようとか思わなくなっちゃうかも」

「そう、それがつまりというか……」

薫はそこで喋るのをやめた。緋未の顔の前に手をかざして黙るように促す。

「前のほう誰か居る。手を振ってる。女よ」

「どうしよう、薫ちゃん」

 薫は近づいてくる人影に目を凝らした。人影はガソリンスタンドの下で日を避けていた。

「無視。翡錬じゃない。ヒッチハイクにみせかけて他人の晩飯を自分の晩飯にするバカかもしれない」

 近づくにつれて、人影がなにかを叫んでいるのが、緋未にも朧ながらにも判別できた。

「それってつまり」

緋未はハンドルを強く握る。

「強盗」

 人影はパジェロが速度を緩めないのを悟ったのだろう、叫びながら手荷物を振り回しだした。明らかになにか企んでいる。

「もっとアクセル! そして突っ切るわよ!」

 人影が迫る。パジェロはスピードを上げた。九十キロオーバーの時点で人影の横をかすめる。かすめ際、ロングで赤毛の少女だと知れた。少女は大声で唄っていた。歌の内容はよくは分からない。

 パジェロは少女を後方に残す。だが少女はかすめ際、振り回していた大きな手荷物をパジェロの荷台に投げ入れていた。

少女は全てを予見していたのだ。荷物を荷台に放りいれるよう、慣性をつける為に振り回していたのだ。

荷台から爆音が流れ出した。モーツァルトを打ち消す。

爆音は少女が投げ入れた荷物から流れ出ていた。

爆音は歌らしいが、音量が大きく、よく聴こえない。

だがその音楽を聴いた途端、薫の命令が一変した。

「緋未、ブレーキ! 止めて! あの娘、乗せるわよ!」

「でも薫ちゃん、さっき……」

「いいから! ブレーキ! そしてバック!」

 荷台から流れる音は砂利を路面一杯にぶちまけたような曲で、ドラムが心臓の鼓動をもっと早く打つようにせかし、ギターが頭をかきまわして、ヴォーカルが同じフレーズを繰り返していた。単純な単語を叫ぶように連呼している。

 パジェロはバックして少女の立っている地点まで戻る。少女は手を振って二人に挨拶した。

「ごめーん。死人の曲がこんなところで聴けるとは思いもよらなくて。それで死人の音楽聴いてるひとなら気が合うんじゃないかなーと、こういう一風かわったヒッチハイクをしかけてみました」

「死人の音楽?」

緋未は眉根を寄せる。

「うん。死人の音楽」

少女はひとなつっこそうな笑顔を浮かべた。赤毛のシャギーしたロングをひるがえす。車の荷台に飛び込んだ。体全体の肉付きがよく、赤いダウンジャケットを羽織っていた。降ろしているフードの白いリアルファーが、赤い色のジャケットに映えている。長く整った足には青いジーンズを穿いていた。

今こうして改めて眺めると、かなりの背丈だった。

「やっぱり女のひとでも反応するひとはするんですね」

シャギーの少女は乱れた前髪を、手の先で撫でて整える。

 緋未が呆然と見守る中、少女は荷台のなかの荷物、大きなバッグからスティック型のプレイヤーと小型スピーカーを取り出す。音の元凶はこれだったのだ。

 薫が先程かけたアーティストだった。


 緋未は運転しつつ、後ろの荷台にあぐらをかいて座っている赤いジャケットに、さっきの死人の音楽ってどういうことなんですかと訊くと、赤いジャケットはあたしの名前は早瀬燈那子(はやせ・ひなこ)なんだ、ひなって呼んでと言ってから頭に手をあてた。

「うーん、そうね、死んでるって言っても、さっきあたしが使った意味で言うところの死人の音楽っていうのはそれはつまり希望がないってことじゃ全然なくて、勿論お葬式とかに葬儀室でかかるお客様用の音楽のことでもなくてね、たとえばモーッアルトの後期のやつとかベートーベンのピアノソナタとか静かな曲ってね、完璧で他人が入る余地ないじゃない」

 ひなの喋る内容は薫の喋ったことと似ているなと思った。完璧ですか、と尋ねる緋未に、ひなはうんと頷いた。

「だからさ、完璧な音楽は閉じてるっていうかもう不足もないし、かといって削るところもないから、そこで一度終わってるじゃない。死んでるっていうのはそういうことで、それにね、そういう音楽って聴いてると、聴くだけで他になんにもする必要がなくなるじゃない。

ロックだとざわつく衝動が抑えられないとか、ラテンだと辛いことを忘れられそうだか、クラッシックの例えばマーラーとかバーンスタインだったら媚びてるみたいに甘いメロディーラインなのに、時々うるさくなって自分を大きくみせようとするから心臓がどきどきするし、ポップはキャッチーで共感できるし、ジャズだとスリルがあるからどきっとさせられるけれど、モーッアルトなんかだと、他にすることが無くなって聴くだけでもういいって状態になるじゃない。そういうのはもう死ぬしかないっていうか死んでる人しか聴かないわけで、それで死者の音楽って勝手に呼んでるんだけど、あ、ごめん、あたし喋りすぎた?」

 緋未は首を横に振った。

「ううん、ひなさんの話、面白い」

 ひなはそうかなと言って、照れくさそうに笑った。

「それでさ、あたし、ひと探してるの。なんで東京にひとりで居て、しかもヒッチハイクなんかしてるかって言うと、ひと探してるからなんだよね」

「ひと探し」

薫は首を捻ってひなに笑いかけた。

「偶然ね。あたしたちも人探ししてるのよ」

「そうなの? これはご縁かもね、そうそうそれでね、あたしが探してるひとって言うのは、東京ってさ、バカみたいに広いじゃない、でもあたしには手がかりがあるのですよ」

ひなはにんまりと笑った。

「手がかり。言ってみてよ。なにか手伝えるかも」

薫は音楽にあわせて膝を両手の平で叩く。

 ひなは珍しいよ、と前置きしてからこう言った。

「うん、そのひとはね、歌を唄ってるんだ。どこでも。その歌声が探す目印」

「歌?」

緋未はブレーキを踏む。パジェロは急停止した。緋末はひなを凝視する。

「歌? なんの歌?」

薫もひなを喰い付くように眺めている。声は上擦っていた。

 ひなは二人に気圧されて少し身を引いた。

「どうしたの? なんか変なこと言った? だったらごめん、あたし、頭より口が先に動くから何も考えずに喋ってるんだよね。特に悪意はないんだけど、でもこれで結構、人を傷つけちゃうこと言ったりするから気を付けているんだけど」

「歌は、歌のタイトルは?」

薫の大声にひなは逡巡した。その後、

「ビョーク。ビョークのジェネラス・パームストローク。『ヴェスパタイン』にはいっているやつ」

 薫は深く息を吐いた。肩の力が抜ける。緋未は座席に背中をあずけた。

「わたしたちもひとを探してるの」

呆気にとられているひなに説明する。

「わたしの姉なの。姉もよく歌を唄っていて。モーッアルトのピアノコンチェルト、ナンバー二十七。ひなさん、心当たりない?」

 ひなはナンバー二十七ね、といって腕を組み、考える仕草をしてから首を振る。

「ごめん。知らない。あんな複雑なコード、口で歌えるひとなんか知らない」

 それからひなは前部シートの間に身を寄せて、

「でも、同じに唄うひとを探すなんて奇縁ね。さすが東京。やっぱり違うわ」

「東京は違うって、ひなちゃん、あんたどこから?」

ひなは薫に野辺山と応えた。

「野辺山国立天文台。そこから。あたし職員だから。今は休暇もらってるけれど。今のご時世、みんな暇だから簡単に休みとれたんだよね」

「国立天文台職員」

薫は上半身を捻って荷台に向ける。ひなにひさかたならぬ興味を持ったらしい。

「ひなちゃん、天文学好き?」

「それは大好きですよ」

ひなは得意げに澄まして背筋を伸ばす。

「職員になっちゃうくらいだもんね。そしてその職員となるべきあたしの人生の指針を決めたのは、まごうことなく、ビョークのジェネラス・パームストロークを唄うあたしのこころの先生なのですよ」

「ほう」

ひなへの興味がさらに増したのか薫の声は興奮していた。

「よかったら聞かせてよ。その先生の話。そうしたら見つかるまで付き合ってあげるから。ね、緋未」

「命令じゃなくても同意します」

「ラッキー」

ひなは正座に居住まいを正して膝を叩いた。

「話は長いんだけどね。あたしがまだ高校生の頃よ。

ねえ、あのさ、天井の染みってさ、面白くない? 人の顔だったり、動物の形だったり。植物の陰みたいだったり。雲みたいに見るたびに変わって、あたし、よく授業さぼって保健室でごろごろしてたんだよ。つまんねえ教師がつまんねえ授業してるのにいちいちつきあっていられるか、それだったらつまんねえ家に帰ってつまんねえ親の寝ている夜に起きて星を見て、つまんねえ親の起きてる昼は寝てるほうが遥かにまし、ってね。昼夜逆転してたな。いまもそうだけど、高校からなんだな、あたしの場合は。昼夜逆転も、星を見るのも」


 保健室の天井の染みは解釈しようによっては星座と言えなくもないな、とベッドに仰向けになって天井を眺めた早瀬燈那子(はやせ・ひなこ)は思った。

 瞼を閉じて昨夜遅くまで家のバルコニーに設置した反射式望遠鏡で見ていた星座群を頭の中に描いてみる。描いてビョークのハスキーな澄んだ声で唄うコーラスが清流のような曲、ジェネラス・パームストロークを心の中で再生することにした。

燈那子は心の中でよく曲を再生する。ご飯と小遣いを渡す以外は親らしいことをなにもしない癖に、なにかある度に勉強しろと両親がうるさい時や、鬱陶しい時、他にも物事がうまくいかなくなって、気分が悪いときなどは心の中で曲を再生する。すると妙に安心して燈那子は落ち着くのだ。単位の為に仕方なくテストを受けたり、体育で集団行動をしているときなどは、自分の知らない間に勝手に曲を再生している場合もある。

自宅の部屋にあるコンポにディスクを差し込み、曲を選択して再生ボタンを押すところを想像する。

曲が再生され、静かに歌詞が流れ出す。歌を背景に星座を頭のなかに描く。綺麗な冬の空が頭の中に描き出せた。

 うつらうらうつらとしてくる。寝ようかと考えた時、昼休を告げるチャイムが鳴った。

「昼飯でも食うか。喰わねーとまたうるせーし」

ひとりごちて燈那子は身を起こす。背伸びをして歌の続きを再生しながら皺にならないよう脱いでいたセーラー服とスカートを穿き靴に足を差し込む。ベッドから降りると保健室を後にした。

 廊下で同じクラスの生徒たちと偶然すれ違った。彼女達は燈那子の顔を見分けても、なんの反応も示さない。燈那子は彼女達のことを風だと思うことにした。心の中で一回終わったジェネラス・パームストロークをもう一度頭から再生し直し、風をかきわけながら廊下を歩く。

「燈那子さん」

不意に呼び止められて、燈那子は曲を中断し声に振り向く。心の中で曲を再生して歩いていたので気が付かなかったが、そこは職員室の前だった。職員室入り口に、少しおどおどとした雰囲気の、編んだ髪の毛を肩にかけた背の高い教員が立っていた。燈那子は自分の名を呼んだ人物の名を、今ひとつ思い出せなかった。燈那子は知っている顔と名前を総動員してそれぞれを組み合わせた。しかし、ひとつも目の前の先生らしき女と一致しない。

「あ、そうか、燈那子さん、私と会うのまだ二回目だったわね」

沈黙から自分が燈那子の記憶に入力されていないのを悟った女教師は、眉を八の字にして笑った。

「わたし、今年よりこの学校に赴任しています、新人教師。地学と物理担当の逢瀬巳琴(おうせ・みこと)です」

 燈那子は黙ったまま頷く。

「燈那子さん、選択したんだから、わたしの授業にちゃんと出てね」

 燈那子は頷いた。一応、分かった、ということだ。返事はしたが確約はしていない。

「朝礼にも出てね」

 燈那子はまた黙って頷く。

「ほんとうに出てくれる?」

 燈那子は首を縦に振る。

 校庭から男子生徒のふざけあっている叫び声が響いた。中庭では女生徒の嬌声が聞こえる。廊下を歩いてきた女生徒が巳琴に黙礼すると巳琴も返礼した。

 廊下のスピーカーからは放送部が昼休時間中にかける、安っぽいクラッシックの曲が流れていた。

 巳琴は口に手をあてて首を傾げた後に、

「ね、燈那子さん、今夜、天文台に星を見にいきましょうか」と言った。

 燈那子は黙ったまま頷いた。ややあって間延びした声を上げる。

「はァ?」


「また随分唐突な」

薫は小型コンロに水を張った小鍋をのせる。火を点けた。既に周囲は暗く、住宅街は昼間より一層静まり返っている。空には薄く星が輝いていた。

「そうよ。どうしてあのとき承諾しちゃったのか、あたしもわかんないのよ。いきなり過ぎるよね」

 ひなは乾燥野菜のパックを開けて、人参をひとつ摘むと口に放り込んだ。

「兎に角、天文台に行っちゃったのね。先生と」

緋未はパジェロの荷台から取り出したビニールシートと毛布を歩道に広げた。おかまいなく、と言うひなに、いいえ、と言いながら、三人分の毛布を用意する。

「そう。あたしは天文台に行っちゃった」

ひなは空を見上げる。

「丁度、今の時期、今みたいな星座が、今よりもっと空一杯に広がってて。そりゃもう」


「すごいでしょ?」

 星空に潜り込むような潜望鏡を連想させる大型の光学望遠鏡を覗いたまま動けなくなった燈那子の背中に巳琴は笑いかけた。

「……ああー」

燈那子は小さな声で呟いた。目は星にむいたままだ。

「……こんなに本格的なのははじめて……段違いに違う……」

「じゃあ、やっぱり自宅とかでは見てるんだね、燈那子さん」

「え」

燈那子は後ろを振り向く。巳琴が微笑んで立っている。

「何で知ってるの」

「目よ、目」

巳琴は得意そうに自分の目を指差す。

「星を見るひとの目をしてるもの。燈那子さん。どこか遠くをみているんだけれど、それでも焦点が定まらなくて、でもなにかを絶えず求めている目」

「……あたしはそんなに寂しそうなひとに見えますか」

「違うわよ」

巳琴は手を振る。

「星を見るひとって、いいものって言いたいの」

「星を見るひとねえ……」

燈那子はまた望遠鏡を覗く。光の瞬きにピントをあわせ、ズームすると神秘的な宗教画のような精巧なつくりものめいたこの世に二つとない星々の姿があらわれる。

 これで音楽でもあったら最高なのにな、燈那子がそう考えた時、不意に唄が耳に届いた。

 燈那子が好きでいつも心の中で再生している曲だ。

ビョークのジェネラス・パームストロークだった。

 唄と星々のコンチェルトに燈那子は陶然となった。

望遠鏡から目を離す。唄っていたのは巳琴だった。燈那子の視線に気付いた巳琴は唄うのを止めた。

「燈那子さん、どうしたの?」

じっと自分を見詰める燈那子に巳琴は慌てた。

「ごめんなさい。これ、私の好きな曲なの。つい、いい雰囲気だから口ずさんじゃって、でも、うるさいわよね、ごめんなさい」

「決めた」

燈那子は巳琴を轟然と見下ろした。

「あたし、天文学者になる」

「え、燈那子さん、え?」

「いま決めた。天文学者になる。それで巳琴先生と一緒に毎晩星を見る。巳琴先生はあたしが星を見ている間は歌を唄うのよ。今みたいにあたしの後ろで」

 巳琴は深い溜息をついた。どこか嬉しそうだった。

「それはちょっと難しい注文ね」

「やるって言ったらやるのよ。巳琴先生、勉強教えてよ。理学で有名な大学に入りたいの」

「二年生でよかったわね、燈那子さん」

「巳琴先生。あたしを呼ぶときはひなって呼んで」

「ひな、さん、でいいの?」

「ひなよ。ひな。あたしは巳琴先生のこと今からずっと、みことって呼ぶわ。家でも、外でも学校でも、どこででも! いい? ひなよ? みこと、分かった?」


「薫ちゃんに似ている……」

緋未は毛布にくるまったまま、荷台から取り出した各々の高性能光学望遠鏡を覗き込む薫とひなの後ろ姿を眺めた。

「それからはね、あたし心の中で曲を再生しなくともよくなったんだ。みことがいつも居てくれたからね。いつでもどんなときでも」

ひなは北の空を見ていた。

「みことの部屋に住み込みでね、あたし勉強したんだ。大学受かるように。狭い部屋だったけれど、楽しかった。みこととの同居についてはうちの阿呆親はなにも言わなかった。

母さんは先生、宜しくお願いします、なんて言って、完全にあたしをみことに預けちゃって、親の義務放棄して、学校の延長だと思ってるし。父さんなんて酷いよ、吸血鬼みたいな生活して、親の言うことを訊かないお前を、おれはもう自分の娘とは思ってなかったから、今更どうこう言う理由もない、とかさ。

あたしも学校の教師と同じで、もう親に期待してなかったからさ、すっきりしたんだけど。逆に万歳って言ってやった」

「先生との生活はどうだったの」

薫は南の空を見ている。

「楽しかったよ。狭い部屋でなんにもなくて。引越しであたしの勉強道具いれただけで、もう他になんにもはいんなくなって、服とかは押入れにいれて、使う都度取り出してさ。

引越し初日の引越し蕎麦なんか、ざるもおわんも揃ってなかったから、カップにつゆ注いでそのなかに茹でた蕎麦を半分づついれて食べたんだ。

ベッドも狭いの、夏なんか熱くてね、それでもくっついて寝るしかないんだけれど、同じもの食べて、同じシャンプーとリンスとボディソープ使ってるじゃない? 出る汗の臭いが一緒なの。どっちがどっちか分からなくなりそうになるくらいで、でもそれも気持ちよかったな。

熱くて寝れないときはね、静かにオーディオかけてふたりで朝までじっとしてるの。体力だけでもなんとか翌日までには回復するように。でも冬はぐっすり眠れたな、あったかいからさ、人間暖房器具」

「それがどうして、その、探してるのよ。巳琴先生を。こんな東京まで」薫はレンズから目を離す。ややためらった後、ゆっくりと口の端にのせる。「突然消えたとか? グラスフラッシュ現象が起きたその日に、とか」

 ひなは顔を上げた。口の両端がつりあがっている。悲しそうな笑顔だった。

「さあ? それはどうでしょう?」

 薫はそれ以上なにも言わなかった。緋未もなにも言わず、ひなを眺めた。

「グラスフラッシュの話でなんだけどさ、数年前にちょっとおかしい論文出たよね。

超新星の爆発は新しいもうひとつの宇宙のはじまりであり、グラスフラッシュはそれらとなにか関連があるって。確か、新しい宇宙も含めて世界全体の質量、物量は一定であるから、我々の宇宙と、新しい宇宙の間で物資のやりとりが行われているって。

グラスフラッシュはその瞬間であり、人やモノが硝子化するのは新しい宇宙の不必要な硝子の成分と、あたしたちの世界にある、新しい宇宙に必要ではあるが、逆にあたしたちの世界には不必要な物質の交換が行われているからだって。共同論文で、女性学者三人だっけ。えらいものがネイチャーに掲載されたって話題になったよね」

「あ」

緋未が声を上げる。今、ひなが喋ったのは薫と翡錬、それと二人の友人の啼耶が学会に提出した論文の話だったからだ。

どうもひなはその論文の提出者を詳しくは知らないらしい。緋未は腰を起こし、ひなに論文の提出元を説明しようとした。それを見咎めた薫が思い切り歯をむきだして笑った。面白そうだから黙っていろ、というサインだ。

 薫はひなに向き直ると尋ねた。

「ひなちゃんはどう思ったの。その論文」

「天使がペンの上で踊る、って格言あるじゃない、あたしはそれかなと思ったけど、みことが熱心にそれ読んでてスクラップしてたから一応、価値はあるのかなと思った」

「変わったひとね」

「変わってるね。みことは。でもそれだからあたしを発掘できたんじゃない?」

「発掘って、随分に自分を評価してるのね。自分に自信があるのね」

 ひなは腰に手を当てた。

「前はなかったけど、みことと一緒に居て自分に自信がついた。ねえ、薫ちゃん。いいもんみせてやるから望遠鏡覗いて見てみ?」

「なによ。新しい彗星でも発見したの?」

「いいから見てみ?」

 薫は望遠鏡を覗く。ひなは薫の高性能光学望遠鏡に横付けされた液晶画面で方位を確認し、薫に自分の言う通りの方角に、望遠レンズを向けろと指示した。

「もうちょい右。ストップ。なにがある? 言ってみ?」

「輝いてる光があるわね」

「それ、目印。物差しです」

「え」

薫はレンズに顔をすりよせた。頓狂な声を出す。

「もしかして、これ、分離食連星とか言うんじゃないわよね」

「なに? 薫ちゃん、ひなさん?」

緋未は二人の会話の意味が分からなかった。

 薫はレンズから目を離さない。ひなが手のひらを上下に振って、緋未を望遠鏡付属の液晶画面に招き寄せた。液晶画面はレンズを中継点として薫がいま見ているものと同じ光景を画面に出力している。

「あの画面の真ん中。光ってるのがあるでしょ」

 液晶画面の中心には、確かに輝く星がある。

「ほんとだ。綺麗。なんて言う星ですか?」

「その星自体の名前は知らないけれど、それは分離食連星と言うのですよ? 他にも」

 ひなは薫の肩を叩くと、新しい方角を指示した。望遠レンズが動く。

「薫ちゃん、それも分離食連星なのよ」

薫がまた声を上げた。

「何? なんなの?」

事態がさっぱり飲み込めない緋未の肩を、ひなが抱き寄せて、また液晶画面を検めるよう促した。画面中央に、光が瞬いていた。

「それも分離食連星」

ひなは口に手を当ててくすくす笑った。

「薫ちゃん、緋未ちゃんに説明してあげてみ?」

「あのね、緋未」

薫の声は上気している。

「宇宙の広さ、星々と地球との距離ってね、どうやって測ってると思う?」

 緋未は首を傾げる。

「わかんない」

「緋未ちゃん、昔は赤方偏移ってやつで計ってたのよ」

ひなが補足を加える。

「でもそれは見るものの主観によっていろいろ変化するから、正確とはいえない。緋未、あんた夜道で、たとえば道路の先の光が強かったらまず、どう思う?」

「光源が近くにあるんだなって思う」

「光が弱く、薄暗かったり小さかったら?」

「遠くにあるんだろうね」

「その光の明度を計算して、光との距離を測ることは可能だと思う?」

「色々な方程式とかコンピューター使ったら計算可能だと思う」

「宇宙に、その光源があったらどうする? 夜道の先に輝く光があったら?」

「星の光りのこと?」

緋未は昔、翡錬が話してくれた星についてのレクチャーを、うろ覚えにも記憶から引き出し質問に答える。

「でもそれは星の寿命とかがあるし、遥かに遠いから、絶対の目安にはならないんでしょ。それに星の光は遠いものだと、地球にはあまり届かないんじゃない?」 

「それがあるのよ。しかも安定した確立というかたちで。それが通称、分離食連星」

「分離食連星」

緋未は鸚鵡返しに呟く。

「そう。安定した強い瞬きを持つ、二つの星。しかもそれらは遠い場所に位置するもので、それ故に遠い星と地球との距離を測るには絶好の基準になる」

ひなは得意げに鼻を鳴らした。望遠鏡を叩く。

「どうよ。あたしの才能は。二つ見つけたの。もうデータとってあるし、あとは発表するだけ」

「発表してない? あんた、大変な発見よ? 既存の星の距離がほぼ全部書き換えられる可能性だってあるのよ?」

「だってみことはまだ知らないんだもん。みことが見てから、発表するの。薫ちゃんと緋未ちゃんはサービス。みこと探しに協力してくれるもんね。それで見せてあげました」

 ひなは星空を仰いだ。

「もうこんな時間か。続きは明日。寝るね」

ひなは自分の望遠鏡をケースに手早く収めると、パジェロの脇に広げてある毛布に潜り込んだ。

「そう、もうそんな時間なのね」

薫も中天を仰いだ。カペラが頂点にある。


 午前二時までは薫が見張りを請け負い、それ以降から朝までの見張りは、緋未が受け持つことになった。ひなは寝るには寝るが、緋未か薫、どちらかが疲労から睡魔に抗えなくなった場合に備えて、二人の代役として見張りを行う旨を引き受けた。

 午前二時、約束どおりの時刻に、緋未は薫に起こされて不明慮な頭で見張りの役についた。

 午前五時までは何事もなかった。緋未はぼうっとしていた。

夜が明け始める直前、目を覚ましたひなが起き出して緋未の横に座った。 

「ひなさん、まだ寝てていいのに」

「気使うことはないよ。あたし、東京に来てからはこれくらいのタイムスケジュールになってるのよ」

 遠くでカラスの声が聞こえる。

「ひなさん、東京に来てどのくらい?」

「一ヶ月。こう、らせんを描いて東京をぐるぐるまわって」

 薫の採った方法と同じだ。緋未がそう言うとひなはそれ、鬼ごっこの定番だからね、と言った。

「ひなさんの先生は」

「みことね」

ひなが力強く訂正する。

「みことさんはその、どうして居なくなったの? やっぱり薫ちゃんの言う通り、グラスフラッシュの後に?」 

「うん。幾度目かのグラスフラッシュの後にね、ふって居なくなっちゃった。緋未ちゃんのお姉さんも居なくなったんだよね」

「うん」

「お姉さんもグラスフラッシュの後に?」

「うん」

「理由は?」

 緋未は首を左右に振った。

「みこともね、理由が分らないの。突然居なくなった。学校から部屋に帰ってこなかったんだ」

緋未はひなから巳琴のことを訊いた時に浮かんだ疑問を訊いた。

「ひなさん、どうしてみことさん、東京に居るって分かったの? 書置きとか、あったの?」

「書置きもなんにもなし。だから、あてずっぽうかな」

ひなはちょっと笑った。

「いざ探す段になってね、地図を広げたんだ。日本の地図。そしたら東京のとこだけ、匂いっていうのかな、オーラみたいのが出てたから、それで」

「地図からオーラ」

「それっぽいやつね。あたし超能力者じゃないから。ほら、あるじゃない。新しいアーティストの名前とかさ、まだ聴いたことのないアルバムの名前とか、ジャケットとか、それについての知識は全然ないんだけれど、店で見つけて妙にひっかかって、どうしようもなくなってそれを借りたり買ったりして、聴いてみたら当たりっていうの。

それ、そういうのに似てるよね。あ、格好よく言うと予感とかいうやつかな。普通にいうとジャケ買いだけど」

「それでもし、みことさんが東京に居なかったら?」

「他の場所を探す」

 緋未はすこし黙った後に、

「それは大変だね」

ひなは声を立てて笑った。

「そうだね、大変だね。でもみことがいないと楽しくないからね。天文台に帰ってもいいことないよ」

 ひなは仰向けに寝転がった。霜が降りている。

「地面、冷たい」

 緋未も横たわる。

「ほんとう、冷たいね」

 二人は横たわり、薄暗い空を見上げた。

「ひなさん、まだ日、昇らないね」

「そうだね、暗いね。ねえ、そうだ緋未ちゃん、硝子化した東京の都市伝説って知ってる?」

「都市伝説」

初耳だった。

「あのね、東京の中心地のどこかにね、ひとが居ないんだけど、時々まだ動いている工場があるんだって。

なんの工場かはあたし、知らないんだけど、そこは全部硝子で出来てるんだって。工場も、木も草も家も、地面ですら全部硝子なんだって。でもだからといってぱーっと輝いてるんじゃなくてね、逆に暗いんだって。周囲の建物も全部が硝子だからね、そのせいで太陽が出した光を全部、地上に届く前に硝子が吸い込んじゃってね、内部に取り込んだ光を下方に屈折させていって落としちゃってね、光全部を地面に塞ぎいれちゃうんだって。

ほら、硝子化の硝子は本来の硝子と違うから、屈折率とか違うらしくって、そのせいだって。

でね、逆に夜はまだ少し残っている光がいつまでも地上の硝子の中で反射してるから、少しだけ明るいんだって。だからそこってね、一日中薄暗いらしいよ。昼も、夜も、ちょっとだけ照明みたいな残光があるだけらしいの。暗くて、軽い日蝕がずっと続いてる状態そっくりなんだって」

「それって悪い夢みたい」

「悪夢嫌い?」

「嫌い。でも目が覚めて薫ちゃんがいると大丈夫かな」

「あたしもみことがいてくれれば大丈夫なのに」

空には霞んだ雲がかかり、東の空の下端は、薄い白色に滲んでいる。

こうしていると遠くに歌声でも聴こえてくるような気が緋未にはした。

「いや、違う」

緋未は半身を起こす。

「ひなさん」

 ひなはあおむけのまま目を見開き、口をあえがせていた。

「ジェネラス・パームストロークだ」

 緋未は起き上がると、パジェロの座席で寝ている薫を揺すった。

「薫ちゃん、起きて。早く。唄が」

「唄?」

薫は迷惑そうに目を開ける。

「どこから?」

「いま、聴こえるでしょ」

 薫は身を起し、耳を澄ます。

「ごめん、あたし先に行く」

ひなが声の方角に走り出した。住宅街の細い道にその姿が消える。

「え、なに、どこから聴こえるの」

 薫は周囲に顔を巡らせるが、歌声はもう途切れている。

「薫ちゃん、わたし場所を覚えてるから、早く」

 薫は毛布を乱暴に丸めると、荷台に放り込んだ。緋未もひなと自分の毛布と、地面に轢いてあったビニールシートを荷台に投げ入れた。

 薫がイグニッションをまわす。

緋未は荷台に乗り込む。

「早く出して。薫ちゃん」

「分かってるって」

薫はアクセルを踏んだ。

「薫ちゃん、こっち!」

歌声は消えたが方位なら覚えている。緋未は後部の荷台から指示を出す。住宅街の細く入り組んだ道だ。薫に行くべき先を指差す。

「ここを入って」

「厄介な」

薫は時速十キロで車を進める。塀に左右を囲まれており、道幅は自動車が通れる幅しかない。いまにも車体を擦りそうだ。

「もっと早く!」

「やりたいけれど出来ないの! 車体、ぶつけたい? 他に車がいないっていっても、この細い道ではこれが最速なの」

 犬が脇道から飛び出して反射的に薫はブレーキを踏んだ。車は急停止して、緋未は反動でパジェロから前のめりに落ちそうになる。

「だから言ったでしょ!」

 薫はホーンを鳴らして犬を追い払おうとする。

「あっちいけって!」

 だが犬は飼い犬だったのか、久し振りの人間に会えたのが嬉しいのだろう、尻尾を振ってなかなか車の前から離れようとしない。顔半分が硝子になっていた。

 薫は続けてホーンを鳴らしたが、それもあまり意味をなさなかった。

仕方なく緋未はパジェロから降りて犬を抱き上げ、道路脇に引きずっていく。

「薫ちゃん、早く!」

 薫は犬を追いぬくと一時停止して緋未が乗り込むのを待った。

 車は入り組んだ小路を縫うように走った。声で特定可能なのは方位だけだ。物理的にはかなりの隔たりがあった。何度目かの紆余曲折の末、ある家の玄関先で叫んでいるひなをようやく見つける。

「みこと、開けて! お願い、どうして駄目なの」

 二人はパジェロから降りる。家は一般的な二階建て住宅だった。

 家の中からくぐもった声が聞こえる。

「ひな、お願い。帰って。私、もうあなたには会えないのよ。本当にごめんなさい」

「ごめんなさいって」

ひなは目を伏せた。

「ごめんなさいって、あたしにごめんなさいって、みこと、本当に駄目なの?」

 扉の奥から嗚咽が漏れはじめた。

「ごめんなさい、ひな。本当に、ごめんなさい」

 ひなは足元を見つめた。

「……みことが謝ってまであたしに会えないって言うことは、みこと、そんなに思い詰めてるの」

 扉からは啜り泣きのみが応える。

「……分かった」

ひなは息を吸った。顔を上げる。

「みことの声聞く前はね、どうしてもって思ってたんだ。でもね、なんだかみことの声聞いたら安心した。みことは生きてるし、大丈夫なんだね。あたしがいなくてもやっていけるね」

「ごめんなさい、ひな」

「気にすることないよ、みこと」

 ひなは振り返った。ひなに追いついた二人に頭を下げる。

「薫ちゃん、緋未ちゃん、ご迷惑おかけしました。探索行は終わり。なんだかひとりだけすっきりしちゃって悪いね。お騒がせしました」

 ひなは扉をノックした。

「みこと、あたし帰るね。ごめんね、わざわざ隠遁までして東京で暮らしてるのに押しかけるみたいな真似して。あたし帰る。天文台も色々あるしね、よかったら、気が向いたら、遊びにも来てね。みんなも待ってるよ」

 ひなは唖然と立ち尽くしている薫と緋未の間をすり抜けると、今来た道を戻り始めた。我に帰った緋未が慌ててひなを追いかける。

「ひなさん、ちょっと待って」

 その場には薫と、扉の奥の啜り泣きだけが残された。


「ひなさん、ちょっと待ってってば!」

ひなに追いついた緋未は、辛うじて掴んだひなの服の袖を引っ張った。ひなの足の動きを止める。

「ひなさん、あれでいいの? もう、会えなくなっちゃうよ? みことさんとしたいこと、まだ沢山あるんでしょう? それに、グラスフラッシュの後だって、みことさん、居なくなって、それきりなんてもう嫌なんでしょう? ちゃんと会って話しして、一緒に帰って欲しいんだよね?」

 ひなは軽く笑った。

「いや、だから会いはしたじゃない。それで一応は話もしたわけだし」

「でも」

緋未は言い澱んだ。

「一緒に帰りたいんでしょう?」

「帰りたいけど、みこと本人が駄目って言ってるんなら無理かな」

「そんな、ひなさん、本当にそれでいいの? もう東京でしか会えないんだよ? 最期のチャンスだよ? その東京でも、みことさんに会うの断られたのに」

「うん、それでいい」

緋未はひなを睨む。

「ひなさん、本当に、ほんとうに、それでいいの?」

ひなは緋未の正視を受けて少し身を引いた。

「いいよ、別に。緋未ちゃん、怖い顔しないで。落ち着いてイージーにいこうよ」

「ひなさんの嘘つき!」

 いきなりひなの右腕が緋未の背中にまわされた。ひなは緋未を引き寄せる。

「もう、かわいいなあ。緋未ちゃんは。可愛すぎ。緋未ちゃん、いいリアクション。可愛い」

 ひなは緋未の頬に、自分の頬をすり寄せた。

「ちょっと、ひなさん、なにするんですか。私の話をちゃんと聞いて」

 ひなは声を出して笑う。

「いやいや。一途なのは素敵ですよ。乙女的で」

「ひなさんも乙女でしょう」

「乙女だよ。恋する乙女。だからね、みことのことがね、本当に好きだからね、あたし、みことにこうして欲しいとか、ああして欲しいとかね、そういうこと言うの嫌なんだ」

 緋未はひなの言葉の意味が計りかねた。ただ、少しは分かるような気もする。

「ひなさん、どういうこと?」

「だからね、グラスフラッシュの後にみことが消えたのだってそれは昔のことじゃん。昔は昔だからね、関係を修復しましょうとか、やり直しましょうとか、東京で会ったからそれが最期のチャンスだ、なんてそんなのはもうどうでもいいじゃん。

みことにだって考えがあるんだし、みことも悩んでの策だったんだろうと思う。あたしと同じでみことも捨てるもの、拾い切れなかったものが多かったとも思う。でもそれは後戻りしなきゃ出来ないことだし、時間っていうのは前進しかできないわけだしさ。

みことと一緒に居て、楽しかったし、消えた時はショックだったけど、だからってみことにどうこうしろなんて、そこまで偉くはなれないな、あたしは。昔は思ってたけど。だって、みことはみことで、あたしはあたしなんだから。あたしの考えどおりに動いてくれるみことなんてみことじゃない。

それはみことって言う名前のついたなにか自分に都合がいい、別のものだよ。ファッションとかと一緒。みことはあたしのファッションの小道具じゃないんだから。でもなんかみことはいつか帰ってくるような気がするしね、だからいまは撤退すんの。本音は一緒に居たいだけどね」

 緋未は呆然とひなを眺めた。言葉がない。

「なに、緋未ちゃん、あたしに惚れた? 一緒に東京区外に出ようか? 一緒に暮らす? 緋未ちゃん、可愛いから大歓迎だよ」

 緋未は、体中からそれまで張りつめていた緊張が抜け落ちるのを感じた。

ひなは星空を眺める。

「分離食連星ね、名前つけようかな。名前はひな星とみこ星。あたしとみことの名前が宇宙空間における距離のニュー・グローバル・スタンダードになるんだよ。名前も広まるしね」

 ひなと緋未は野営地に戻る。戻る道すがら、ひなは天文台に帰ってからの予定を緋未に語った。そのどれもが希望に満ちていて、緋未は聞いていて、とても楽しかった。


薫は星空を見上げ、扉に寄りかかった。

「……あんた、あの子、どれだけ苦労したか知ってるの? あの子、出世を棒にふってまで、あんた探してたのよ」

「ひなだから、そうでしょうね」

扉の向こうの声はまだえずいていた。

「でも、もう、会えないんです。私、二度と人目には出られない姿になったんです。あの日の前日、ひなが天文所の残業で昼は自宅で寝ていたのもなにかの救いだと思います。昼間、私と街を歩いていたら私のようになっていた可能性が大きかったでしょうから」

 薫は扉に向き直る。

「あんたね、「こうならなかった」って硝子化程度でしょう。それがどうしたのよ、そんなのどうでもいいじゃない。あんた、あの子のこと、好きなんでしょう。一緒に居たいんでしょう。なら硝子化なんて関係ないじゃない!」

 薫は扉を乱暴に蹴りつけた。

「あんた、勝手よ!」

「勝手です。でもひなには負担をかけたくないんです。ひなはこれからがあるんです。私がいると負担になります」

「負担どうこう言う前にどれだけ負担か、あたしが見てあげるわよ、ここを開けろ、このくそババア!」

 薫は何度も扉を蹴った。

「壊してでも入るわよ。引きずり出してやる。ひなちゃんの前にあんたを立たせてやる!」

「待ってください」

「なに、もうひなちゃん、あっち行っちゃったわよ。遅いのよ、馬鹿。それともあっち行くの待ってたの?」

「それもあります」

鍵が外れる音がした。扉が静かに開く。

 戸口から最初に姿を出したのは細長いタイヤだった。車椅子に座った女性が姿を表す。ただ、その姿は女性かそれとも男性かは判別しかねるものだった。

 薫は息を呑んだ。

 車椅子に座っていたのは、人の形をとった硝子人形だった。硝子人形の体全体には血の線が縦横無尽に走り、枝分かれしていた。肩で切りそろえてある髪の毛は透明で、精巧な彫刻のように暗闇に星明りをうけて微細な光を放っている。髪の毛の奥に脳が見え、ときおり脳漿の薄赤い色がちらちらと瞬いた。眼球は白内から靭帯、脳に届いている神経まで手にとるように見える。顔面下には辛うじて硝子に侵されていない筋が見えたが、歯茎は剥き出しで、火傷か交通事故で唇を失っているかのようだ。背中に脊髄が走っている。胸は薄い脂肪だろう、白い膜が張り巡らされており心臓と肺を隠していた。赤いホースのようなものが下腹部に折り畳まれて左右に走っているが、それは腸だった。腕には筋肉の筋が走り、膝から下は布がかけられて見えなかったが、おそらく体と同じで皮膚が透けて見え、なんらかの筋か骨が覗いているだろうことは薫にも容易に想像できた。

「体の一部はまだ動かせるんです」

巳琴が顎を上下させる度に、かたかたとカスタネットのような音がして、歯茎が噛み合わされる。

 巳琴が僅かに残された筋肉を使って右腕を持ち上げた。薫は後じさる。

「とても見れたものではないでしょう?」

「食事はどうしてるの」

薫は唾を飲み込んだ。

「辛うじて食事はまだなんとか」

「病院へ行くべきよ」

「それは嫌という程分かっています。でも、病院にいってもなにをされるのか、それともなにもしてくれないのか。分かりますよね」

「わたしは『国境なき医師団』のメンバーよ。優遇処置をとるわ」

「それでどうなりますか? 入院すればひなは毎日会いにきてくれるでしょうね。自分の生活も仕事も人間関係も省みずに」

「分かってるわよ、そんなことくらい」

薫は膝をついた。

「あの子見てたら、そんなの決まってるじゃない」

 薫は頭を抱える。歯ぎしりの音をたてる。

「神を呪う。世界全てを呪う。全部硝子になってぶっ壊れればいいんだ。いっそ」

「あなた、とても優しいのね」

「優しくはない。憎いだけ。世界が憎い。腹が立つ。全部破壊したい」

「世界を憎むなんて、そんなことを続ければ、世界と心中をする結果になるだけよ」

「うっさい! 逃げてるお前が説教すんじゃねえ、クソババア!」

「あれ、薫ちゃん、どうしたの」

 不意の声に、我に帰った薫は喉が詰まる。半身を捻ろうとして、腰を落とした。尻餅をつく。緋未とひなが門口に立っている。


 顔面をくしゃくしゃにしている薫の正面立っている硝子人形のような姿に緋未は一瞬、ぎょっとなった。このひとが巳琴さんらしい。隣のひなに目線を移す。ひなは平然としている。

「薫ちゃーん。みことの家にいつまでも滞在してると、みことに迷惑かかるよ。あたしが気遣ってやってるのに、怒鳴ったりして薫ちゃん、台無しじゃない」

 巳琴は家の闇の中へ逃げこもうと、慌てて車椅子をバックさせた。

「待って」

ひなの声に巳琴は手を止める。

ひなは巳琴に嬉しそうな眼差しを投げた。

「みこと、変わってないね、全然。よかった。みことが生きててくれて」

「……ひな?」

巳琴は体全体を使って腰を浮かせた。ナイフのような細長い閃光が、薫と緋未、ひなの前を横切った。

「いや、もうなんにも出来ない状態で死ぬ寸前みたいだったら、どうしよかとか思ってて、それが心残りでね。まだ動けるんだよね。ご飯、ちゃんと食べてる?」

「私って分かるの?」

「だからみこと全然変わってないっていってるじゃん、みこと、休日には昼後に起きる癖、直った? みこと昼後に起きると夜までご飯食べないから、そういうのよくないよ。それもちゃんとやってる?」

「私、おかしいでしょう?」

「みことがおかしかったらあたしなんか精神科行きよ。うん、よかった、姿も見られて。薫ちゃん迎えに来て、意外な報酬がもらえたな。みこと、気が向いたら帰ってきなよ。住所はね、全然変更なしだから。あたしが昼勤の時はさ、部屋の鍵は例のあそこに隠しとく」

「ひな……」

巳琴の声は震えている。

「私、帰れるの? 帰ってもいいの?」

「それは大歓迎」

ひなは両手を広げる。

「みこと帰ってきたら仕事もやりがいができるし」

「私、あなたの負担になるわ。あなた、私の面倒見ながら仕事なんて。好きなこともままならなくなるのよ?」

「そう思うのはみことの勝手。あたしにいわせれば、このまま帰るほうが実は辛いかな。だから帰ってきてくれると嬉しいな」

「私、あなたになにもしてあげられないわよ?」

「あたしがなにかしてあげる」

「私、あなたの足を引っ張るわ」

「あたしがみことの足代わりになる。ね、みこと、歌唄えるよね。ジェネラス・パームストローク。あたしがメインヴォーカル受ける。みことはハーモニーね。簡単だから出来るでしょう?」

 ひなは喉元に手を当てて喉を鳴らし、静かに唄い始めた。巳琴に手を振る。

 合図をうけて巳琴はハーモーニーを口ずさみはじめた。

 二人の声が薄闇の世界に響く。

 緋未は薫に寄り添い、薫の手を握った。薫は強く握り返す。 

 東の空が白く、明るくなる。雲間に隠れた太陽から漏れる光が住宅地を射る。

 雲間が左右に開く。太陽の白っぽい光が、さあっと地上に差し込まれた。

 ハーモニーを口ずさむ巳琴の体全体が、太陽光に反射して輝きだした。

 輝く存在と一緒に唄っているひなはまるで天使と歌を唱和している聖職者のように緋未には映った。

 その輝きが瞬きだした。

「グラスフラッシュ?」

薫は上空を見上げる。太陽光の白い光に似た天からの連続光が、辺り一面を照らす。

 ひなと巳琴は唄い続ける。光の中で二人は唱和し、歌詞のひとつに、ひとつの光の輝きが宿っているような光景だった。巳琴の体に陰影が付いてゆくのに緋未は気付いた。

「治ってる。硝子が肉体に、回帰している……?」

 薫は唖然と美琴の姿を眺めている。

 巳琴の体は徐々に硝子から人間の肉体へと変化していた。

 グラスフラッシュが終わった。

 ひなと巳琴は太陽のひかりを浴びて、背中に長い影を刻んだ。

 二人は唄い終える。ひなが巳琴の手を取り、立ち上がらせた。巳琴の体は完全な人間の肉体に回帰していた。

 緋未にはこの光景が信じられなかった。薫も全く同じだったようだ。身体全体が微かに震えていた。

「そんな、硝子化が治癒するなんて、それもグラスフラッシュを浴びて」

 ひなは巳琴に頬をすりよせる。巳琴もくすぐったそうな顔をして、ひなの腰を抱いて引き寄せた。

「緋未、翡錬捜索再開よ」

薫にいきなり手をとられ緋未はパジェロまで誘導された。

「薫ちゃん……?」

「いいから!」

 緋未は運転席につくとイグニッションを回した。

 ひなと巳琴は肩を並べて朝日を浴びている。緋未にはそれは二人が光を発している姿に映った。

 助手席の薫は胸に手をあて目を閉じている。

 緋未はブレーキペダルから足を離すとハンドルをきった。



 エンジン音に気付いて、ひなは遠ざかるパジェロの長い影を目にとめた。

「あ、薫ちゃんたち、行っちゃった。まだ話したいこと一杯あるのに。みことの家も、みんなで探検したかったし、みことのご飯もおいしいのに食べてない。まだお礼いってないし、でも、また会えるよね、そんな気がする、今じゃないかもしれないけど、ずっとずっと後で。ね、みこと、ひきこもりやっててどんな感想ですか?」

 巳琴はひきこもり、と言う単語をおかしそうに口のなかで反復した。

「そうね、ひな、私ね、東京に来てずっと部屋のなかにひきこもってた時はね、論文読んでたのよ。

アメリカから取り寄せたユニークな天文学論文を本にまとめた叢書があって、そのなかでも来奈薫っていうひとと粗鉱翡錬、藍銅啼耶、この三人の書いたものが面白くてずっと繰り返し読んでたの。そのなかでも翡錬ってひとは完璧なものばっかりで、読んでると、ずっとそのなかに居続けたいって思わせる文章で書かれた論文で。

でも来奈薫ってひとは、理論と実践の中間みたいなものばっかりでね、読んでるともどかしくって。でも、来奈準教授の論文はすべてから解放される寸前みたいな感じがして、読んでてうずうずするの、ねえ、ひな、読んでみたらどうかしら。読んだ後、どっちが好きかって訊かれたら、あなただったらきっと……」

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