第3話 親子の腕には林檎の実が零れ落ちるくらいに

 空が白みはじめた頃、公園に止めたパジェロのタイヤに薫はスライムを注入し終わった。

タイヤを押し、填度合いを確認する。プラステックで穴を塞ぐ。ならしに車を軽く転がす必要がある。パジェロのドアを開けようと手を伸ばすと、ショットガンをもった丸いサングラスをかけている長い髪を後ろでまとめた十三、四歳らしきの少女のような少年が現れて、お前達が粗鉱緋未と来奈薫かと尋ねてきた。

助手席に座ってうたたねをしていた緋未がぼんやりした頭のまま身を起こしてそうだと答えると、少女のような少年は銃口を二人に向けて小鳥がさえずるような声で言った。

「粗鉱翡錬はお前たちとの再会を望んでいない、だからお前達がここにいる理由はなくなった、立ち去れ、でないと撃つ」

なんの権利があってそんなふざけた口がきけるの。薫が突き付けられた銃身を横に押しやろうとした刹那、発砲音がしてパジェロのフロントガラスにひび割れが走った。

運転席のシートが千切れ、ビニールクッション材が緋未の頭の上や顔の前、膝や腕にふりかかる。

緋未はあまりのことに一気に覚醒する。

少女のような少年は銃をポンプアップした。

「今度は外さない」

太陽が昇りだした。三人に影がつき、西に長く伸びてゆく。それも周囲に建っている一部が硝子化した建築物の乱反射で屈曲し、薄くなり、やがて消える。

あたりは反射光で満たされ、雪が積もった銀世界そっくりになる。

「帰るか、死ぬかどちらかを選べ」

「そりゃあんた」

薫は右手を腰の後ろにまわすと、少女のような少年が引き金を引く寸前、再び前に突き出した。その手にはSIGが握られている。狙いは定まっていなかったが威嚇には十分だった。

「どっちもなし。ところで翡錬の居場所を知っているのね? 翡錬はどこ? それより、あんた、誰?」

 緋未も、少女のような少年に誰何しようと腰を浮かす。

「動くなって言ったろ!」

少女のような少年が緋未に小鳥のように高く囀る。

「撃たれたくなかったら座れ!」

「緋未、この子、本気よ。座って」

「でも薫ちゃん、この子、姉さんのこと知ってる……」

「座りなさい! わたしの言うことがきけないの? 命令よ!」

 緋未は薫の怒号に身を震わせた。

「はい、すいません」

緋未は座席に腰をおろすと顔を俯かせる。

「さて」

薫は少女のような少年に向き直った。

「色々知ってそうね。翡錬と親しいのかしら? そうよ、あんた、どっかで、たしか……」

「もう一度尋ねる」

少女のような少年は銃口を薫に向けた。

「去るか、死ぬか、どっちだ?」

「あんた、もしかして」

 瞬間、不意に太陽が二つになったのかと緋未は錯覚した。二つの太陽が瞬いているのではないか。そんなカメラのフラッシュに似た白昼夢めいた閃光が緋未を、薫を、少女のような少年と世界全体を覆った。

 グラスフラッシュだった。

グラスフラッシュは政府によって自然現象と認定されているが、その説も定かではない。世界規模で一斉に光が瞬くと、硝子ウィルスを保持している人間は硝子と化す。

硝子ウィルスを保持している限り、光を浴びる、浴びないにかかわらずフラッシュの後、一部の人間は体の一部、あるいは全身が硝子になる。硝子になる確率は不明。そもそもこのグラスフラッシュの光、その後に硝子になる要因と目されているウィルスがどこからきているのかが定かではない。人類はこの理不尽な脅威に対して対抗手段を持てない。

 目がくらんで緋未は反射的に瞳をすぼめた。

その細くなった視界に薫がこちらに走ってくるのが窺えた。

 少女のような少年は、眩しさに両腕で顔を覆っている。

 薫はパジェロのギアを入れる。

「薫ちゃん」

 バン、という音がしてサイドミラーの一部が欠ける。

「あのアホが。本当に撃ってきた。まくわよ」

薫はアクセルを全開まで踏んだ。景色が猛烈なスピードで後方へと流れていく。閃光は何時の間にか収まっていた。

「薫ちゃん、硝子になってない?」

緋未は薫の頬を触る。やわらかい感触に安堵の息を吐く。

だが薫の頭に手をやり、髪にそって下に撫でると、さらさらと塩分の結晶のようなものが髪の毛から剥がれ落ちた。硝子化した髪の毛だった。緋末は声を失くす。

「髪の毛だけよ。いまのところ分かってる分では。後で二人とも総点検よ」

薫は自分の頭に置かれている緋未の手を取り、強く握った。

緋未は呆然として声が出ない。

「だけど緋未が心配する必要はないの。大丈夫よ。心配しないこと」

 緋未は不安に眉をよせて薫の手を握り返した。

「うん、緋未は薫ちゃんを信頼するよ」

ここで言葉が切れた。緋未はためらいつつも続きを口にする。

「心配はしないよ」

 

時速九十キロで走って、港区から千代田を越えて荒川、富島、中野区、小平市を経過したところでパジェロの前方右手に、『五月(さつき)クリニック 二階』とかかれた袖看板が突き出ている小さな三階建てのビルが視界に入る。

「あそこに隠れよう」

薫はバックミラーを一瞥した。

「あの子が追いかけてくるかも。あそこに一時的に隠れてまく」


 誰もいない無人の廃屋だろうと思っていたのだが、意外にも『五月クリニック』がある二階の廊下には、十数人の患者が壁際に設置してある椅子に座って診察の順番を待っていた。

 受付窓には子供の姿がある。診察室のドア窓からは光が漏れていた。『五月クリニック』は現在も開業中らしい。

 多種多様な患者が居た。その人々に共通しているのが、いずれも硝子化現象を体のどこか一部に患っているということだった。

 母親に抱えられた子供や労働者風の筋骨逞しい中年、ひどく衰弱した老人、俯いたまま顔を上げずにじっとしている青年、それから目をつぶって手を膝の上に置いている女など、そのどれもがどこか体の一部分に包帯をまいて、ひどく卑猥なものでも隠し持っているかのように、他人の視線からその包帯を逸らそうと不自然に身体を斜めにしたり、あるいはバッグを抱え込んで隠していた。

「患者さんが居るんだ……」

呟く緋未の声には、驚きと困惑がない交ぜになっていた。

「東京市街なんだし、硝子化を治すっていうインチキ闇医者は吐いて捨てるほどいるんじゃないの」

薫は外来患者達を気にも留めていない素振りだ。

「院長の顔を拝んでみたいわね。あの子をまく時間稼ぎにもなるし」

 時間稼ぎは兎も角、闇医者なんてかかわり合いにならなければいいのに、と思いながらも緋未は壁右手にある受付窓へ悠然と歩いてゆく薫の背中を追いかけた。薫は興味が湧くとすぐそちらのほうへふらふらと吸い寄せられる。

 待合の廊下は硝子化の患者ばかり、というのを除けばごく普通の市街の個人病院の待合室風景と遜色がなく、外の荒廃ぶりとは大違いだった。

 薫は受付で説明を受ける。受付窓にいたのは十三、四歳頃の精悍な顔つきをした少女だった。

「当院は硝子化を専門に扱う病院です。ただし軽度の負傷やその他、内科を中心としてですが、その他の病気も二十四時間体制で扱っています。キャッシュさえあれば、すぐその場で治療をうけることが可能です」

「わたし、硝子化してるんだけれど」

薫は胸に手を当てる。

「いまここで説明しにくいの。先生に直接診てもらえるかしら」

「院長は硝子化専門ですので、ここで硝子化のレベルを説明しなくとも診察室で直に説明できます」

少女は幾分かの昂然さを匂わせながら微笑んだ。

「プライバシーは完璧です。硝子化における患部や病症は診察の際、院長にだけ説明されれば結構です。色々な箇所が患部となりうる場合がありますからね」

 薫は少しはにかんでから指先で自分の胸を押さえた。指で押した部分が軽くへこんで薄い陰をつくる。

「それは助かるわ。ありがとう。場所が場所だけにね」

 そういって薫が金色の髪をかきあげると幾本かの硝子と化した髪の毛がさらさらと黄金色に明滅しながら、床に舞い落ちた。

「ごめんなさい。汚したわね」

 薫はゆっくりと胸襟を広げてその中に手を突っ込み、首のまわりに散り落ちた硝子を払い落とした。さらに胸元、脚部を手で叩いた。

 少女は薫の美麗な姿に陶然とした。幾分か頬を上気させ、口を半開きにしたままでいた。ややあって我に帰る。

「いえ、当然です。病院は本来、そうあるべきなんですから。ではこちらのカードを持ってお待ちいただけますか」

 受付が薫に差し出した紙には十二番と記入されていた。

「ありがとう」

薫は両手を使って少女の手を挟むようにカードを受け取る。

「わたしは来奈薫。あなた、名前は?」

「ええ、名前、ですか」

少女は困ったように身を竦めると薫から目を逸らした。耳まで紅く染めた。

「さつきこいじ、といいます。恋愛の恋に路の路。さつきは病院の名前と一緒で、五月と書くんです」

「こいじちゃんね。ここには、アルバイト?」

「いえ、母を手伝っているんです。母が院長なんです」

恋路の口調は得々とした自信に溢れていた。

「だから病院の名前が同じ五月。母の診察にみなさん喜んでくれて、やりがいがあります」

 薫は口元の両端を思い切り吊り上げる。

「お母さんだけじゃないわよ。みんながよろこんでいるのはお母さんの他にも、かわいい恋路ちゃんが頑張ってるからよ。きっと」

「いえ、そんな、恐縮です」

恋路はまた身を竦める。

 薫と恋路の後ろでやりとりを聞いていた緋未は苛立った。恋路が悪い訳ではないのに、この少女に憎しみを覚えた。訳もなく心が騒ぎ、怒鳴りたくなるのを抑える。訳も分からずとにかくこの二人を引き離そうと薫の手をつかんだ。

「薫ちゃん、お仕事邪魔しちゃ悪いから、あっちで待ってようよ」

「恋路ちゃん、まだ外人さんとかと話したことないだろうから、経験のひとつにでもなってあげようと思っていたのに」

薫は無責任に笑いながら恋路に同意を求める。

「ね、恋路ちゃん」

「あの」

恋路は困惑気味に視線を手元の書類に落とした。

「あちらの椅子でお待ちいただけますか」

「駄目よ、外人さんには英語でお願いしないと」

「ええ、英語ですか……」

恋路は困っている。

「あの、シッ・ダウン・プリーズ」

「どこに?」

薫は目を細める。

「恋路ちゃんの膝の上?」

「薫ちゃん」

緋未は薫の腕を掴んで引き寄せる。

「おっさんくさいセリフを吐かない」

「どこがおっさん?」

「膝の上とか!」

「膝の上のどこがおっさん?」

「あの、あちらでお待ちいただけますか」

苦笑を浮かべながら、恋路が二人に再び手で椅子を指し示した。

「ちょっと黙ってて! 取り込み中なの!」

緋未は先程からの苛立ちの矛先を目の前の少女に意味もなく向けてしまう。

 本当なら薫に向けなければいけないのに、どうしてだろうと緋未は自分でも分からなくなってしまった。

 ともかく緋未は薫を強引に受付窓口から引き剥がすと、廊下壁際の椅子に座らせた。

 緋未が受付に目をやると少女は落ち着いた態度に戻りカルテの整理をしている。緋未と目が会うと軽く会釈をして微笑んだ。

 緋未の勘にさわった。しかし恋路を責める咎はないのだと自分に言い聞かせ、自分も落ち着こうと深呼吸する。

「つまんない」

薫は薄暗い宙を睨んだ。

「時間が楽しく潰せるのに」

「インチキ医者の顔を拝むだけでしょ。それだけでも悪趣味なのに」

 今の緋未の気持ちを知ってか知らずか薫は無邪気に頷いた。

「恋路ちゃんが駄目ならそれよね。自分の子供まで丸め込んで」

 薫は腰を上げる。なるべく小さな声で恋路の耳に届かないように配慮し、椅子に座っている患者たちから病院の印象や、院長の診察内容や態度、病症の処置の仕方、料金体制、診察後のバックアップ体勢などについて具体的に訊き出せるだけ訊いた。

 薫が得た回答はどれも及第点以上だった。

皆、院長を一様に高く評価し、院長が処方してくれる薬に感謝を述べた。特に恋路との母娘で行われる病院経営と診察、治療には崇拝に近いものを感じているようだった。

「これだけの賛辞が貰えりゃ、医者としては申し分ないわね」

薫はちょっと驚いているようだ。だがひとしきりの感心が済むと厳しい顔つきで呟く。

「それだけになにも知らない恋路ちゃんや患者を騙して。対面が楽しみだわ」

「騙す?」

緋未は会話が恋路や患者に聞こえないよう椅子に戻った薫の前に立ち、半身を倒して顔を薫に近づける。

「治療してるんでしょ?」

「硝子化には治療法はまだ確立していない。『国境なき医師団』でもやっているのは硝子化が進む患者に対してのカウンセリングのみ。でもここの患者は診察を受け、治療を受けている」

 薫は天井を仰いだ。足を組む。

「あるはずのない治療をしている。しかも薬も処方しているときてる。こりゃ、いかさま以外のなにものでもないわ」


 恋路が十二番の方、と告げるのを最期まで聞かずに、薫は診察室に入った。診察室に入り際、恋路に手を振るのは忘れないで。

 診察室は右壁際にベッドがひとつと移動用のカーテンが二つ、壁の左際奥に戸棚が据え付けられているデスクがあった。デスクには銀の薄いフレーム眼鏡をかけた厳しい顔つきの白衣の女性が座っていた。髪はストイックさを強調するかのようにショートヘアだった。

 この女性が五月らしい。

診察室の入り口左手にはプラスチックの間仕切りが置いてあった。向こうに恋路が座っている。

薫は患者用の椅子に座る。両手を慇懃に膝の上に乗せて身を乗り出した。

「どんな治療を行っているの?」

 自己紹介前のぶしつけな質問に五月は薫と緋未を睨んだ。少なくとも睨らまれた気が緋未にはした。五月は溜息をつく。

「当病院では薬の投与がメインになっています」

「薬の名前は?」

 五月は指先で机を小刻みに叩いた。神経質な音が室内に響く。

「それは医者が知っていれば十分です。まずは症状をどうぞ」

「インフォームド・コンセプトって知ってるわよね」

 五月は白衣の裾をひっぱった。緋未は辛抱強いひとだなと感心する。

「それは治療が開始されてからの話だっていうの、あなた、知ってる?」

「じゃあ、どんな治療? 硝子化に施す治療って。メインの薬って」

 五月は顎をやや上にそらして薫をじっと見詰めた。

「投与される薬の名前でも訊きたいの?」

「是非」

「訊いて、分かるの?」

「トラニルシプロミン? 最悪、プロザック? それともドーパミン簡易誘発剤?」

「勉強は結構だけれど、素人は変な知識を持たないほうがいいわよ」

「はーい。気をつけまーす」

薫は微笑み、両掌を組み合わせた。

五月は立ち上がると机の上の棚を開け、小壜を取り出した。

「メインはこれ。患部を診せて。それと腕も出して。注射します。これを投与すれば進行が抑止されるのが実際によく分かりますから」

薫は嬉しそうに小壜を受け取る。仔細に小壜を眺めて中の液体の色を確かめた。

「本当に効くの? わたしまだ患部も見せてないのに」

「硝子化されておられる方の大半はこれで回復します。恋路、ちょっと注射器用意して」

 はい、と言う返事が間仕切り越しに聞こえた。

「はい、それじゃ、薬を返して。気が済んだでしょう。患部みせて。あなたのどこが硝子化しているかなんてことは他人には絶対に喋らないから。そのための闇医者業よ」

 薫は小壜を両手持ちにしたまま薬壜のラベルから顔を上げた。

持ち上げられた薫の顔は凍りついていた。緋未はこんな硬い表情の薫をいままで見たことがなかった。

「ブリトルチマーゼ」

薫の声は震えている。

「ブリトルチマーゼね? これ?」

 五月は薫の言葉に身体を強張らせた。

「知っているの?」

 薫は小壜を床に叩きつけた。

 鈴が鳴るような音をあげて小壜は砕けた。中のピンク色の液体がタイルに撒き散らされる。

「あんた、この薬の効果、知っててやってるの?」

 薫は立ち上がると五月を椅子から押しのけた。五月はバランスを崩し、椅子から滑り落ちる。片膝をついて倒れこむのを防いだ。

「これも、これもそう! 全部ブリトルチマーゼじゃない!」

 薫は五月が小壜を引き出した棚のなかを引っ掻き回した。

「やめなさい!」

五月は、立ち上がろうとしてまた薫に押され床にくず折れる。

「薫ちゃん、落ち着いて」

緋未は訳が分からない。薫の肩を掴んだ。

「離しなさい! 緋未! あんた、邪魔よ!」

薫は緋未に掴まれ腕を戸棚から引き剥がされた。その手には小壜が数本握られていた。緋未からのがれようと暴れる薫の手から薬壜数本が床に滑り落ちる。小瓶は四方に転がっていく。

「なに? お母さん、どうしたの?」

仕切りから現れた恋路は診察室の惨状に呆然としている。

「恋路、待合の人を呼んで、誰でもいいから!」

 母の言葉に恋路は萎縮したまま後退し、ドアにたどり着くとおぼつかない手でノブをまわして扉を引き開ける。誰か来てくださいとヒステリックな悲鳴を上げた。

「まだブリトルチマーゼの在庫あるんでしょう! どこ! 言いなさい!」

薫は緋未の静止を振り切ると倒れている五月の襟首を掴んだ。猫の威嚇そっくりに歯を剥き出す。口の端から細い息を吐いた。

「あんたこんなもの使って、ただで済むと思ってんの?」

 この診察は闇医者への単なるいやがらせの冷やかしではなかったのか。緋未は混濁した頭で現状を把握しようと努めた。薫がなぜこんな薬ひとつで怒号をあげるのか見当がつかない。

 はやく、お母さんが、お母さんが、と叫ぶ声と複数の足音が背中に響く。緋未は後ろを振り返った。

 男が二人立っている。恋路が薫を指差して叫ぶ。

「このひと、ちょっとおかしいんです! お母さんから離してください!」

 男二人は薫を押さえにかかった。

薫は額に浮かんだ汗に髪の毛を張り付かせ、衣類が乱れるのもかまわず抵抗した。しかし容易く男二人に両腕をつかまれ、動きを封じられる。床にねじ伏せられた。薫は大声であんたこんな薬使って患者の将来のこと考えてないの、今はよくても後々困ることになるのは患者なのよ、あんたは使用しないのが自分だからって投与してるんでしょうけれど、本人たちには深刻な事態なのよと喚き続けた。

「薫さん、お母さんの悪口言わないで!」

薫は恋路を睨む。

 恋路ちゃん、あなたのお母さんが使ってる薬は認可されていないものなの!

「知ってるわ、だから企業の独占を避けて善良な医師たちだけに配給されているものなんでしょう?」

 善良な医者だけにって、なに言っているの、あなたは患者さんたちも含めてお母さんに騙されているの!

「母は立派な医者です! 皆さんからも感謝されてるんです! 変ないいがかりをつけないでください!」

「彼女の頭固定して!」

五月は注射器を右手に持っている。

「五月さん、やめてください! すいません! お詫びならなんでもします! 何打つんですか!」

緋未は五月の手から注射器を取り上げようといくつもの壜が広がった床をよたよたと歩き、その腕にとりすがろうとする。しかし恋路に後ろから背中に押し付けられてタイルの上に倒れた。恋路の体重で身動きが出来ない緋未は、手を振り回して薫を求めた。

かろうじて首だけを動かして左手を見やる。男二人に取り押さえられている薫は死んだように動かず、目を閉じたまま微動だにしない。薫の横には空の注射器を持った五月が膝をついている。五月は新しい注射器を机の上から取り上げると緋未に歩み寄る。

「薫ちゃん!」

 自分の首に冷たい針が突き刺さる感覚。徐々に抗いがたい眠気に襲われる。

 暗く暗転する世界から声が聞こえる。

恋路、早くあっちへ行きなさい。あなたたち、麻酔を打ったからこのふたりを地下室に連れていって……。


 目を開ける。薫の顔があった。緋未は上体を起そうとした。頭に霞がかかっている。

「まだこのままでいいわよ」

薫に肩を優しく押さえられた。緋未は横になる。後頭部に暖かい弾力がある。手で触ると薫の膝だった。

「薫ちゃん、あれからどのくらい経った? 先生は? 恋路ちゃんは? ここはどこ?」

「現在、深夜二時。あの母娘はもう寝てるでしょうね。ここは地下室。軟禁されたみたい」

 緋未はまだ寝てなさいと言う薫の静止を振り切って身を起こした。

 二人が座っている部屋の天井は、床から四メートル以上はありそうだった。天井近くの窓から月明かりが漏れている。

 立ち上がると頭がふらふらとして重い。

「まだ麻酔の効果が残ってるのよ」

 緋未は薫の横に座り込んだ。肩を薫が抱き寄せる。

「寝りなさい。ここからどうやって出るかは、それから考えればいいから」

温かい薫の体温を感じながら、緋未はまた眠りに落ちた。


目が覚めて上体を起こすと、眠り過ぎの為か頭が痛んだ。窓から黄色い光が差し込んでいる。部屋全体を薄く照らし出していた。

部屋は天井が異様に高く、四方の壁はコンクリートが剥き出しになっていた。右隅に汚れてぼろきれ同然になった毛布がころがっている。部屋の左側にある出入り口用ドアの対面右隅に便器替わりのバケツがある。

全裸の薫がひっくり返したバケツの上に座り込んでいた。頭がはっきりするまで緋未は黙って部屋を眺めていたがその間、薫は動かなかった。緋未は薫が用を足しているのかと思った。だが薫は首を垂れたままいつまでたっても動かない。

緋未は不安になった。

「薫ちゃん」

 緋未の声に薫は垂れていた首をあげる。苦笑した。

「緋未、おはよう」

薫の顔は強張っている。緋未は嫌な予感を覚えた。

「薫ちゃん、どうしたの……」

「あんたが寝てる間にね、暇だからね、あのときのグラスフラッシュの影響がないかと思って身体検査してたの。そうしたら、ほら」

薫は足を床に伸ばし、両腕を広げる。

「……!」

 緋未は口を押さえた。薫の両乳房の間に薄く光る、うろこのようなものがあった。

 急いで薫まで這って行き、もう一度確認する。薫の豊潤な両胸の間の肉の一部が硝子と化していた。その硝子が外光を反射して光っている。

 薫が右手を挙げる。血塗れだった。その手には硝子の破片が輝いていた。

「表皮だけかと思って、切除しようと思ったんだけれど」

薫が手で自分の胸の硝子を叩くと、こん、という音がする。

「かなり深いみたい。グラスフラッシュが効いたのね。わたしにもとうとうきたか」

緋未は絶望感に襲われ、嗚咽が漏れて涙が止まらなくなった。

「大丈夫よ、他のところは硝子化していないから」

「薫ちゃん」

緋未は薫に抱きついた。大声で泣き出したいのを堪える。

 薫は緋未の背中を撫でた。すこし身を離した。

「脱ぎなさい。緋未も硝子になっていないか診てあげるから」

 緋未は泣きながら頷いて、ワンピースの背中のボタンを外した。キャミソールは薫が肩の紐をひっぱって頭から抜き取ってくれた。ブラのホックは背中にあったのでそれも薫が外した。緋未はショーツを引き下ろす。

「立てる?」

 緋未は立ちあがり目を固く閉じて、薫がもういいわよと言ってくれるまでずっとそのままでいた。

 緋未は姉の翡錬を除いて、これまで親しい誰かが硝子になるのを体験したことがなかった。

心の外で他人事だと考えていた。だがこの場で、薫と言う姉と同じ最愛の者が硝子になろうとしている。

薫の胸は硝子になりかけている。緋未ははじめて硝子化の脅威に慟哭した。

薫のもういいわよ、との声にまぶたをあけると、薫が正面に立っていた。薄く微笑んでから緋未を抱き寄せる。

「安心しなさい。緋未はどこも硝子化していないから」

 薫はまた緋未の背中をやさしく撫でた。

「でも、薫ちゃんが硝子化してる。薫ちゃん、硝子になっちゃう」

 緋未はそれからしばらく薫の腕のなかで泣き続けた。薫は黙って緋未を抱き続けた。

 緋未が泣き止むと、薫は緋未の頭をゆっくりと何度も撫でた。

「薫ちゃん」

「なに?」

薫の声は優しかった。

「あの薬、使えば治る? 恋路ちゃんのお母さんの薬。それともあの薬はなにかの事情で使えない薬なの? 薫ちゃん、すごく怒ってた」

「あの薬はね」

薫は抱いていた緋未をゆっくりと離すと、自分の胸の間にある卵型の硝子体に、指を上下に滑らせた。

「ブリトルチマーゼ。硝子化を抑制させてなおかつ、硝子の浸食を阻止し、通常の肉体に回帰させる特効薬よ」

 薫は眉根をよせ、指の動きを硝子体の中央で止めた。

「ブリトルチマーゼ。メチレンジオキメトアンフェタミンとMDMAを軸にして作った、セロトニン、エンケファリン、エンドルフィンの過剰を促す薬。

だからブリトルチマーゼが使用された被験者は薬が効いている間は多幸感と抑制の状態が自発的に促される。

結果として多好感と恍惚状態を伴なう状態に被験者は陥る。過剰な投与がない限り、多幸感と恍惚感により身体の特別なインターロイキンの産出が促され、浸食中の硝子ウィルス粒子に対しナチュラルキラー細胞といった免疫系の攻撃を促す。としかいいようがないんだけれど被験者の硝子化を促すウィルスをーー正確な言い方ではないけれどーー多幸感によって産出されたインターロイキンがマーキングをほどこしてくれる。

同時にそれを目標に人体の免疫が硝子ウイルスを攻撃して殺してくれるのを助けもする」

「じゃあ、治るんだ」

緋未は薫が説明してくれる話の内容があまり分からないまでも、言葉の端々から微かな希望をすくい上げようとした。

「硝子ウイルスに対して抗体の生成とマーキング、免疫系からの攻撃を、ある種のインターロイキンが促進くれるのは分かっている。

多幸感と恍惚感でそのインターロイキンが一時的に産出される。でもそのインターロイキンがなにであるのかはまだ不明。百種類以上のインターロイキンが判明しているけれど、どのインターロイキンがどうやって産出されるのか、どういう働きをするのかはまだ分かっていない」

「特別なインターロイキンがひとの体が持つ硝子ウィルスを殺すための作用を強くしてくれるってこと?」

 薫は緋未の肩を抱き直した。

「そう、でもなんのインターロイキンかは分からない。そのインターロイキンがどのような条件が揃えば産出されるかも。

そこでブリトルチマーゼ。

ブリトルチマーゼはね、いま言った経緯で、特別なインターロイキンの生成を一時的に促して、最終的には硝子ウィルスを殺してくれる薬。でも、インターロイキンの産出条件までは突き止められない。それにブリトルチマーゼを長期に渡って使用すると、セロトニンニューロン群に細胞死を促すのが判明したの。

このニューロン群は脳幹の上位の脳の領域に軸策を送っているから、ブリトルチマーゼを服用し続けると睡眠や神経なんかの基本的な脳機能が阻害されるのは間違いないわね。

さらにブリトルチマーゼを繰り返し使用すると神経終末を殺してしまうのが判明した。神経終末が死ぬと神経信号は受け取れないから、日常に、ごく普通に促されるはずの情動を司る脳内物質が受容できなくなる。神経信号が受取れなくなると脳内のバランスは崩れる。

だからブリトルチマーゼの被験者は最終的に欝状態に陥り、最悪、自殺してしまう」

「ブリトルチマーゼを使い続けると欝病になる?」

「結果だけ言うとそうなるわね。副作用で、恒常的な欝状態になるの」

 緋未は欝状態の自分を想像してみようとしたが出来なかった。

「緋未」

薫は再び緋未を抱き寄せた。

「翡錬が居なくなったとき、どんな気持ちだった?」

「死んじゃうかと思った。薫ちゃんがあのとき居てくれなかったら、死んでたと思う」

 薫は緋未を抱く腕に力を込めて言った。

「じゃあ、翡錬とわたしが存在しない世界がブリトルチマーゼを多用した結果、招かれる未来なんだと思ってもいい」

 今度は想像が出来た。薫と翡錬、二人とも居なくなってしまったら自分はどうしたらいいのだろうと緋未は考えて、死ぬしかないなと思った。

 死ななくても、二人が居ない世界で自分は正気を保っていられるかと疑問に感じた。

 二人がいない世界では、弱い自分は些細なことで死ぬという選択を選ぶようになるだろう。生きていても楽しいことはひとつもなく、正気は保てないだろうと思った。

「死にたくない」

緋未は不安に襲われた。身体全体の感覚が朧なものとなる。

「死にたくない」

 緋未は慌てて薫の身体をきつく抱き直した。

「薫ちゃん、いなくなっちゃったらいやだ。いなくならないで。姉さんみたいに消えたりしないで」

 薫が強く抱き返す。

「居なくならないわ。緋未と一緒よ。ずっと一緒」

「うん、薫ちゃん、居なくならないでね、絶対」

「わたしは緋未の前から絶対、居なくなったりしない。安心しなさい。だからこそ、わたしはブリトルチマーゼを使うことが許せない。ひとひとりの世界が崩壊するなんて。絶対にどんな事情があろうと赦さない」

薫の怒りが伝わってくるような気がして、同時になぜ薫がそこまでの使命感に脅かされなければいけないのか悲しみが湧いてくる。緋未は薫の胸に顔を埋めた。

「薫ちゃん、薫ちゃんがそんなに考えることないよ」

 薫は額を緋未の額に寄せて、ありがとうと小さな声で言った。

「やさしいのね、緋未は。でもね、責任はとらないと。だってわたしが開発したんだから。責任はわたしがとらないといけないの」

「……え?」

緋未は顔をすこし離して薫を見た。耳を疑う。

「……薫ちゃんが、何?」

「ブリトルチマーゼを開発したのはわたし。恋人たちが互いの歓喜を高めあう時に、そこへさらなる恍惚感と激しい躁状態を伴わせようとして、麻薬のエクスタシーを真似て作ったものがブリトルチマーゼ。

なるべく神経終末に影響が出ないよう実験を繰り返しはしたんだけど、短期間では結果は出なかった。個人的な使用に限定してはいたんだけど、こずえと二人で確かめたのがまずかった。

こずえ経由で製薬用の原材料を貰ってたから大目にみてたんだけど、あの子、利用できるものはなんでも利用するから。高杉と一緒ね」

 東京に来る前にで会った『国境なき医師団』の年配の煙草を吸う女性と、ミドルヘアのノートパソコンをもった茶髪の女性を緋未は思い出した。

「こずえはわたしから開発中のブリトルチマーゼを盗み出した。

こずえは硝子症候群に罹っている子と一緒に寝た時にその盗んだブリトルチマーゼを使用したみたい。意外な効果がでたってわけ。後は大体想像がつく。高杉がにやついた顔でわたしの部屋に来るまでの経緯が。

高杉はブリトルチマーゼを即、特効薬として『国境なき医師団』上層部に申請。硝子化に対し、いつまでも対抗策がこうじられない『国境なき医師団』はブリトルチマーゼを即採用。これでわたしの医学の知識は、非公認に認知された。

そしてマウスによる実験結果が出たのがその一年後。

結果報告がおおやけになったのがさらにその一ヵ月後。世間は騒然となり、ブリトルチマーゼは回収され、処分されたはずだった。だったのよ。だけど実際にはブリトルチマーゼは正規のルートから外れた闇ルートにも流れていたのね。そのルートで恋路ちゃんのお母さんのような闇医者が手にしている」

薫は緋未を体から離すと、緋未の頬を撫でた。

「昔話はここまで。わたしがブリトルチマーゼを嫌う理由はもうわかったでしょう。服を着なさい。そして休みなさい」

 緋未は肯首した。

薫から少し離れて床に散らかった下着と服を集めると身に纏った。薫も再び服を纏う。

「現時点で軟禁されてから一日半。今は気が立ってるから体の異常はさして覚えないけど、休んで気が落ち着けば猛烈な疲弊感と脱力感、空腹と喉の渇きを覚えるようになるはず。体力もかなり消耗している。緋未、横になりなさい。出来る限りエネルギーの消費を押さえて向こうの出方を待ちましょう」

 薫は床に仰向けに寝転がった。その脇に添い寝のかたちで緋未も身体をすこしまるめて横たわる。

「薫ちゃん、あのね、恋路ちゃんのお母さん、悪い人じゃないと思うの。恋路ちゃん、あんなにいい子なのに。お母さん、尊敬されてるのに」

「尊敬されるイコール善人じゃないわ。現実では大概その逆なの」

「なにか、理由があるんじゃないのかな」

 薫は仰向けの身を捻ると緋未と向かい合う形になった。

「どんな理由があるにしろ、現実としてはブリトルチマーゼは使用されている。それは変わらないわ」

 緋未は目をつむった。

「恋路ちゃんのお母さんは悪い人じゃないと思う」

 緋未は額に薫の手を感じた。

「緋未、あんたは余計なことを考える必要はないの。寝なさい。おとなしくして。喋るのももう、控えましょう。このままずっと放置ってこともありうるんだから。出来る限り、ぎりぎりまで待ってチャンスを窺う。まだ翡錬も見つけてないうちに死ねるもんですか」

 緋未はうん、と言うと大きく深呼吸をした。息を吸う時、薫の汗の臭いが鼻腔に入ったけれどもそれはどこか甘い香りを宿していた。


 再び目覚めて緋未は起き上がろうとしたが、強烈な脱力感に全身が被われていることに気づいた。咥内は乾き、空腹が虚脱を呼んでいる。

 目の前の薫も同じらしい。横になったまま力のない笑顔を緋未に向けた。

 薫はかすれた声で三日目に突入、と呟いた。その言葉を発した唇は、潤いがすこし薄れている。

 薫は横になったまま時折、自分の胸に手を差し込んで硝子体の大きさを計っていた。身体が弱まれば免疫系も働きが弱まる。薫の体に宿った硝子の浸食を促進させる。

 不安な目で薫を見詰める緋未に、薫は弱々しく微笑んだ。かすれた声で緋未に大丈夫よと繰りかえす。

 大丈夫よと十回くらい繰り返して薫は深い溜息をつき、目を閉じ、それからまたなんども大丈夫よといいながら薫は緋未の頬に力なく左手を乗せて撫でた。

 緋未は寝付こうとしても眠れない。覚醒とまどろみの間を幾度も往復する。


 緋未は目が覚めた。正確にいうと身体を揺すられ微睡みから現実に強制的に引き戻されたのだ。

目の前には二十歳くらいの青年の顔があった。その顔は煤けていた。

「起きたか」

煤けた青年の肩に担ぎあげられた。

煤けた青年が歩きだすと、宙に浮かんだ緋未の腕と脚は力なく左右に揺れた。緋未は首をかろうじて動かす。左手にやはり煤けた男が歩いていて、その男の肩に薫が担がれていた。

「悪く思うなよ」

青年が誰に言うともなしに呟いた。

「五月先生は俺たちの頼みの綱なんだ。あのひとがいないとおれたちは全員硝子になってしまう。恋路ちゃんも、路頭に迷う羽目になる」

 緋未はうんと弱々しく返事をした。

「五月先生はいいひとなんだ。希望なんだ。誰にでもやさしいし、誰にでも治療をほどこしてくれるだ」

 うん、知ってるよ、優しい先生だよね、と緋未はまた呟く。

「あんたたちがつまらない噂をひろめたり、外からつまらない連中を呼ぶと、五月先生の信用は一時的にも失墜する。失墜する連中は構わんが、先生を信頼しているおれたちは困るんだ。先生がいなくなると俺たちはなすすべを失う」

 恋路ちゃん、あんなにお母さんが好きなんだもん、それは分かるよ。

「だからあんたたちには悪いが、ちょっと黙っててもらうことになる」

 うん、先生の邪魔はしないよ。わたしが薫ちゃんを説得するから。

 体の揺れが大きくなる。男は階段を昇っているらしい。

「苦痛はない。十五階立てだからな。なにかを考える暇もなく、楽になれる」

 わたしはどうなってもいいから、薫ちゃんだけでもなんとかならないかな?

「それはできない。その薫とか言う女が元凶だ」

 これも先生の指示?

「おれたちが勝手にやっている。先生は知らない。先生は監禁して弱ったところで東京市街から追い出せと命じた。だが俺は先生ほど甘い考えは持ってはいない。これは五月先生に対する、おれたちの重要度の度合いに準じての考えなんだ」

 大切なんだね。先生、大好きなんだ。

「大切で大好きだ。俺の親父もお袋も弟も、先生に助けてもらった。俺自身もだ。それとみんなも」

 みんなのかみさまなんだ。

「そうだ。だからあんたらの死体もみんながすぐに片付ける。死体は丁重に扱おう。あんたの話を聞いていると、お前らが理由もなしに先生を告発したがっているとは思えない」

 薫ちゃんもつらいんだよ。その薫ちゃんはわたしにとってのかみさまなの。みんなの五月先生と同じに。

「この三日間、あんたたちをずっと見てたからその気持ちは分からないでもない。だからあんたたちに消えて欲しいっていうのも、余計になんだ。なあ、おれたちを勝手だと思うか?」

 ううん。誰も好き勝手なことはやってないよ。ただ単にかみ合わせが悪いだけで、誰も悪いことはしてないよ。絶対に。

「そう言ってもらえると楽になる」

 青年は階段を昇り続けた。時々踊り場にさしかかる。ふとした瞬間には窓からのやわらかい光が何度も緋未の顔の上を横切っていった。

 緋未は首を少しだけ動かしてみて、踊り場の窓から青い空を眺めた。雲ひとつない綺麗な空だった。緋未は綺麗なものを、それも特別に綺麗なものを見ると必ず姉を思い出す。

 今の空なら蒼穹の下、緑の海原に薫と翡錬と緋未が揃って散策したことを思い出す。

姉の翡蓮は蒼い空をとても喜んで、こんなに綺麗な空だったなら、藍銅啼耶と藍銅石榴(あいどう・せきりゅう)も誘っておけばよかったわねと言って、でも今日の蒼い空と緑の海原は薫と緋未と私だけの宝物にしておきましょう。と微笑むだろう。

啼耶とは、翡錬の唱えたウィルス説を薫と共に支持してくれた翡蓮の数少ない友人だった。啼耶は青い空よりも遥かに澄んだ心と瞳をもった女性だった。

石榴は啼耶の弟だった。姉への懐きかたは尋常ではなく、十三歳年上の啼耶が外出する時にはかならず同伴した。そのさまは傍から眺めていると姉弟というよりは年齢が離れた恋人たちのようだった。石榴は長い髪を必ず後ろにまとめており、少年とは思えない少女のような容貌で、鳥が歌うような声で喋った。

 石榴の目も啼耶とおなじくらいに澄んでいた。一度石榴はみんなで海に行ったとき、サングラスをかけていたことがあったが、それだと素敵な目が台無しになるからといって翡錬がサングラスを取り上げたことがある。そのとき石榴は怒ってやめてくれと翡錬に怒鳴り、逆に啼耶に怒られた。

そう、サングラスをかけて、髪を後ろにまとめた少女のような少年の石榴は、鳥が歌うような声で喋って……。

緋未がそこまで考えた時、ふいに視界全てがひどく明るくなって、緋未の腕やワンピースの裾を冷たい風がすり抜けていった。

 前を歩いていた薫を抱えているすすけた男が振り向き、着いたぞ、と言った。

「ここから、こいつらに飛んでもらおう」

 刹那、薫が手足をばたつかせて抵抗した。

すすけた男は薫の腕と胸を締め上げた。

「落とすぞ」

すすけた男は宣言して、ビル屋上のフェンス越しまで近寄ったが不意にあっといって顔を押さえ、薫をコンクリートの上に放り出した。

「こいつ刃物を持ってるぞ!」

 すすけた男がフェンスを背に立ち上がった。顔を押さえた手の隙間から血が流れ出ている。薫に刃物で両眼球を真横に切られたのだ。

 すすけた男から転がり落ちた薫は立ち上がると背中をまるめて男に突進した。

薫が体ごと体当たりすると目が利かないのも手伝い、すすけた男はバランスをくずし、数歩酔っ払いのようにふらつきながら後退した。フェンスを背中の軸にしてあっけなく頭から地上に落下した。

すすけた青年はコンクリートの床に緋未を放り投げた。

青年は薫に向かって走ると、薫が右手に持っている硝子の破片を取り上げようとした。

薫の腕を掴もうとするが、青年は右掌を硝子の鋭利な部分で切られた。青年は苦渋の声を漏らすと、左手で出血がおさまらない右手を庇う。その瞬間を狙って、薫は硝子の鋭利な部分で青年のわき腹を突いて横に薙いだ。激痛に倒れた青年のさらに左右の太ももに、また硝子を使って縦に長い切り傷を作った。移動手段を奪われ、手足の激痛に青年は大声で叫んだ。

薫は男の痙攣的な動作を黙って見下ろすと、悪いわね、といってコンクリートの上に放り出されたままの緋未までおぼつかない足取りで歩み寄った。立てる? と右手で緋未の額をなでた。その手は真っ赤に染まっている。薫の衣服も所々が血を吸って赤く濡れていた。

緋未は頷いて、両手で上体を起こすと震える足で立ち上がった。だがまるで力がはいらない。薫が支えてくれなかったら倒れこんでしまうところだった。

薫は左手に持っていた硝子片を投げ捨てた。

「わたしの硝子化した体から剥ぎ取ったやつよ」

 立ち上がると緋未の虚ろな意識に安定が戻った。緋未はもがいている青年を指で示す。

「このひと、死なない?」

 青年は歯をくいしばって喉の奥から声を絞り出し、二人を睨んでいる。

「急所は外しているから大丈夫」

薫は緋未にというよりは、青年に話し掛けているようだった。

「わき腹と腿は損傷すると痛みが酷くて血も大量に出る。死ぬような苦痛もあるわ。でも即死はない。これだけの傷なら最低でもあと一日は生きていられる」

 薫は屋上のフェンスを振り返った。

「あの落ちた男には悪いことしたわね」

 薫は緋未と互いに支えあい、屋上から屋内に戻った。

二人は震える足で階段を降りたがその一歩一歩は重かった。これなら身を階段に投げて転がり落ちた方が楽なのではないかと緋未が思うくらいに酷く手間のかかる作業だった。

 階段横の壁はところどころが硝子化しており、外の風景がかすかではあるが垣間見えた。

 抜けるような青い空だった。その蒼穹に緋未は先程、青年に抱かれていたときに連想した翡錬と啼耶と石榴を思い出した。

「ねえ、薫ちゃん。あのサングラスをかけた子」

 薫は緋未の言葉に反応しない。ただ黙々と、足を交互に下ろす作業を続けている。

 多分、今、薫の頭の中はブリトルチマーゼのことでいっぱいなんだろうなと緋未も足を下ろしながら考えた。

 薫はひとつの事柄について没入してしまうと、周囲に気がまわらなくなる癖があった。

 過度の疲労もある。緋未の声も聞こえているのかどうか怪しかった。

 緋未は黙って、薫と一緒に足を下ろす作業に専念することにした。


 一階踊り場まで降りる。緋未は自分の足が棒のように思えた。感覚がまるでなく、気を抜くとくず折れてしまいそうだ。

 一階の入り口はドアが壊され完全に開け放たれた状態になっており、光が建物内部に差し込んでいる。白光の中に五人の人影がある。なにかを喋っている声が緋未の耳に薄っすらと聞こえた。

「正面はひとが集まっているはずよ」

薫は階段の最期の段を降りきると裏口へ移動した。緋未も薫と一緒に建物の一階の奥へと足を運んだ。

「わたしたち二人じゃなくて、違う人間が飛び降りてきたんだから。当然よね」

 幸いにも一部が硝子化した壁が外光をとりこんでくれて、裏口への廊下はすぐに見つかった。非常口の掲示が傾いて天井にぶら下がっている。

「あの院長に会うのは、ちょい難しいかもしれないわね」

 細い廊下を右に曲がると引き戸式のドアがあった。ドアにとりつけてあるのぞき窓から薫は裏出入り口に誰もいないのを確認する。ドアを開けた。強烈な日差しがふたりを襲った。

 薫はそこではじめて立ち止まって身をかがめると、喘ぐように息を吸った。体力が限界を迎えたのだろう。

「薫ちゃん」

緋未は薫の顔を覗き込む。

「すこし休む?」

薫は姿勢を立て直すと、緋未の両肩を掴む。

「そうね、あんたはここで休んでいなさい」

「薫ちゃんはどうするの?」

「あの院長に会いに行く」

「じゃあ、わたしも行く」

緋未は両肩にかかった薫の手を払いのけた。

「駄目。病院に行く途中で五月信者と出会うかもしれないし、病院内でまた捕まる恐れもある」

「わたしひとりで居たくない」

 薫は空を仰いだ。大きな雲がゆっくりと二人の頭上を流れてゆく。

「緋未はここで待ちなさい。必ず帰ってくるから」

「いや」

緋未は薫の腕を掴んだ。

「ついて行く」

 薫は何か言かけた。しかしその先が容易に想像が出来たのか、諦めて口を噤んだ。歩き出す。緋未もその後に続いた。

「ここから五月クリニックへはどういけばいいの?」

「さっき屋上でこの街をざっと鳥瞰したの」

薫は確信を持った足取りで建物の裏口から真っ直ぐに前進する。

「五月クリニックは、ここから一キロ先よ」

 冷たい風が砂塵を巻き上げる中、ひたすら前進した。

 砂塵は汗まみれの二人の顔に張り付き、服にほこりとなってまといつく。

 緋未は気分が悪くなってきたが黙ったまま薫に従って歩いた。視界はぼやけ、またもとに戻る。カメラのピント修正に似た現象が眩暈と共に緋未を襲った。

 砂埃は酷く、前方遥か彼方から海の波のように幾度となく二人を包み込んだ。

 不意に緋未、という薫の叫び声がして、緋未は意識の焦点を合わせ直した。

 どうやらはっきりとしない意識下のまま、緋未は足だけを動かし続けたらしい。

「病院に着いた?」

「病院は近いけど違うわ。あっちから出てきてくれた」

 薫は首を上げて、真っ直ぐに背筋を伸ばした。握り拳を作り立ち止まる。

 前方から五月がこちらに向かって歩いてくる。

 一人だった。手に診察用の鞄を持っている。しばらくして向こうもこちらに気付いた。女院長は唇を引き締め、二人の前で静止する。照りつける太陽の光に眩しい顔をした。

「調べたわ。あなた、開発者の来奈薫だったのね」

 薫は歯を剥く。

「だったら来奈薫が何をしていたのか、何を知っているのか、大体見当はつくわね」

「あなたはどうしたいの?」

「ブリトルチマーゼを全て破棄しなさい。そうしたら何もしないでいてあげる」

「それは出来ない」

五月は鞄を持ち直した。

「だから東京から出た後、告発するなり『国境なき医師団』に報告するなり勝手になさい。でも私はやめないわよ」

 それから五月は苛立ったような仕草をみせた。

「消えて。私はいま、忙しいの。たった今、ビルからひとが落ちたって聞いて……」

 薫と緋未の後ろでターン、という音がした。

五月は口を閉ざす。唇を引き締めた。次いで膝をくずし手を腹部に当てた。腹部からは血が出ている。

 二人が後ろを振り向くと、五メートル後方にサングラスをかけた少女のような少年が猟銃を手に顔をしかめて立っていた。

「しまった」

少女のような少年は眉をきつく寄せる。

「外した」

 青い空に銃口から紫煙が薄く立ち昇っている。

「石榴ちゃん!」

緋未は叫ぶ。

 少女のような少年は、緋未の呼びかけに身体を戦慄かせると、頼りない腰つきで銃の狙いを薫につけた。

「あんた石榴ね。啼耶の弟の」

薫は首だけを後ろに向けて、少女のような少年を睨みつけた。

「石榴。あんたいま、全く関係のないひとを撃ったのよ」

「殺すつもりはない」

石榴の声には動揺の色が滲み出ている。

「あんたらふたりを狙ったんだ。でも、銃の反動が大きくて」

「消えなさい」

薫はそれだけを宣告すると、五月に駆け寄った。

緋未は石榴に咎めるような眼差しを向ける。

「姉さんと啼耶さんは知ってるの? あなたがわたしたちを殺そうとしていること。どうして殺そうとするの?」

石榴は銃口を上に向ける。

「二人は知らない。でもあんたたちは」

「石榴ちゃん」

緋未は石榴の言葉を遮ると噛んで含ませるようにゆっくりと言った。

「わたしたちに付きまとうのは構わない。でもあなたはわたしたちを撃ち損ねて関係のない他人を撃ったんだよ」

「事故だ」

石榴の足は少し震えている。

「姉さんと啼耶さんが知ったら、ふたりはきっと哀しむ」

「うるさい!」

石榴は緋未の声を打ち消すように叫ぶ。

「うるさい、黙れ!」

石榴は踵を返すと自責の念から逃れるように駆けていった。

 五月は仰向けに倒れて横たわっている。薫は五月が持っていた鞄から出した鋏で傷口周辺の服の生地を切り裂いていた。

 緋未は二人に駆け寄った。

 薫は服を切って銃痕を露にする。鞄から出したタオルで傷口を押さえる。そのタオルも二秒と経たないうちに大量の血を吸い込み、白から赤色に変わる。

「どう? わたしの傷は? 酷いでしょう。分かるのよ。痛みで」

五月は息を喘がせた。

「ねえ、わたしのはなし、聞いてくれる? 最期のはなし。懺悔よ」

「喋っちゃ駄目。傷は大したことない。懺悔したかったら恋路ちゃんになさい」

 薫は五月の鞄から痛み止めをとりだす。緋未は噴出す血を押さえようとタオルで傷口を押さえた。薫が痛み止めを打つ。

「内臓がやられてる」

薫は焦燥した口調で緋未の耳もとに囁いた。

「タオルは無意味。それより早く、誰か呼んで来て」

 立ち上がりかけた緋未の手に、五月の震える手がかけられる。

「はなしを聞いて」

 五月は堰をしたが、それは器官にまでせりあがった血に咽た為だった。血飛沫が飛び散り薫の顔に跳ねる。

「最初にブリトルチマーゼを使った時はね、随分と悩んだものよ」

五月は唇を血で潤わせながら苦笑いをした。

「ブリトルチマーゼの効用と副作用、両方を承知の上で使用したの。現在、普通に使用されている薬が全く効用がないと痛感していた時期だったし。

なすすべが無い病院に苛立ちを感じてね。東京都内なら闇医者ででも、患者と向き合えるって思って東京に来たの。それから何人くらい診た時期だったかしら。百人は越えてたんじゃない? 丁度そのころ恋路が生まれてね。一緒にここまでついてきてくれてた私の旦那はいいひとだった。

でもいいひと過ぎたのね。わたしがブリトルチマーゼを使用したことについて酷く怒ったわ。別れるくらいに」

 五月は薫をいつになく愛しい目で見た。

「あなたの目、旦那の目にそっくり。恋路も同じものを感じたんじゃない?」

 薫は黙って痛み止めを五月の腕に打つ。これが現段階での投薬量の限界だった。

「なにも出来ない自分って惨めよね。患者がね、次々と硝子になっていくのを見送るのは辛かったわ。完全に硝子になったらなったでね、今度は遺族とつきあわなくちゃならないじゃない? 泣いている遺族を前にしてね、医者って病気を治す以外はなにも出来ない人種なんだって思い知らされたわ」

五月は呻いた。

 薫はさらに痛み止めを打つか迷う。痛み止めを大量に打つと逆に死を早める。

「迷ったわ……今の死を選ぶか。遠い未来の杞憂を排除して今生かすことを選ぶか。答えは恋路の友達が全身、硝子と化して死んだ時に出たわ……一度打ったら歯止めが利かなくなるものでね。だって、そうでしょう。自分の患者が死なずに済むのよ? 遺族が泣かずに済むのよ。患者自身が死の影に脅かされる心配がなくなるのよ。

……ブリトルチマーゼの入手は意外と簡単だった……『国境なき医師団』の監視が甘かったのか、わざと甘くしたのか。……ラットの結果しかいまのところ報告されてないらしいじゃない。……今にして思えば私と私と私の患者がラットだったのかもね。……その考えは自己欺瞞の役にも立ってくれたから、悪いものでもなかったのかも。

……ブリトルチマーゼの当時の管理者の名前はたかすぎ、だったかしら……裏ルートに目をつむるなんて『国境なき医師団』も苦しいんだなって……」

五月の呼吸がさらに浅くなる。

薫は下唇を噛んだ。緋未は薫の手に自分の掌を絡める。

「みんな、ありがとうございますっていって、退院していくのを見送るのは……自己満足……恋路がお母さんは偉い人なんだねって言ってくれて……患部が治っていくのを見て安心感を覚えて……これで苦しむひとが減るんだと思うと嬉くて……報告された鬱病のことなんか……」

声は途切れ途切れになる。

「しっかりなさい!」

薫は五月の頬を叩く。

「……ごめんなさいね……あなたたちの車は、そのまま手をつけないで……ビル脇の駐車場に……」

五月の眼鏡奥の瞳孔が開きだした。

「五月さん、しっかりして」

緋未は五月を揺さぶる。

「恋路ちゃんが残されたままになっちゃう」

「……恋路? あの子は大丈夫。患者さんたちに人気があるし、いい子だし……しっかりしているし、溜めておいたお金を信用できる人に預けてあるから、私が死んだ後は東京を離れれば……恋路……お母さんごめんね……患者さんばっかりで……学校にも行けずに……あなたが私のことを患者さんに話しているのを見ると、お母さん……」

五月の瞳孔が開く。

「恋路……ぃ、あい……し……て……る」

五月は咽から笛のような音を出し、一度痙攣して、それから動かなくなった。

「この詐欺師が!」

やおら薫は五月の胸を両手で叩いた。

「このバカ!」

頬を叩く。

「最悪よ、あんた!」

両手を握り締めて握りこぶしをつくると、五月の胸を何度も強打した。

「死んで当然よ! 地獄に落ちろ!」

「薫ちゃん、やめて」

薫を静止させようとする緋未の手を、薫は乱暴に払いのける、唐突に振り返った。

「緋未、パジェロまで戻るわよ。翡錬の捜索再開よ」

 無言のまま歩き出す。

 緋未も慌てて立ち上がる。動かない血塗れの死体となった五月を見つめる。

 薫は振返らずに黙ったまま歩いた。緋未もどう声を掛ければいいのか分からない。薫の後に従った。

『五月クリニック』の袖看板を掲げたビルに到着すると、薫は看板を見上げた。

 緋未がどうしていいかわからずに困惑した面持ちでいると、緋未と薫の後ろから甲高い怒鳴り声がした。

「薫さん! 緋未さん! 何しに来たんですか!」

 薫と緋未が視線を後ろにやると、恋路が二人を睨んでいた。

「恋路ちゃん……」

緋未は言葉に詰まる。

「あなたのお母さんがね……」

「わたしたち、あなたのお母さんに謝りにきたとこだったの」

薫が固い声で言った。

「薫ちゃん……」

緋未は唾を飲み込んだ。

 恋路には薫の言葉が意外だったようだ。誇りに満ちた顔になる。

「そうでしょう。やっとわかったの? 薫さん、鈍い。おかあさんはすごいんだから」

「そうね。凄いひとよ。ごめんなさい。わたし、あなたのお母さんにとても及ばないわ」

薫は足を駐車場に向ける。

「緋未、行くわよ。五月さんの言ってた通り、ちゃんとパジェロはあるみたいだから」

 薫が助手席に座ったので、緋未は運転席に腰を下ろす。キーはついたままになっていた。

「早く出して。気分悪いわ」

 薫はモバイルプレイヤーで選曲する。再生。

 スピーカーから流れてくるのはバッハのマタイ受難曲だった。

 パジェロは駐車場を出る。後ろでビルの階段を駆け上がる恋路の声が響く。

「お母さん、今さっき、ビルから落ちたひとがいたからすぐに来て欲しいって……」

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