第2話 そして愛で世界はいっぱいになって、

  二人を乗せたパジェロはレインボーブリッジを抜けた。道中、薄い氷そっくりに日に閃き、葉脈にとおっている水分が目に見える樹木の葉、ガラス製のショーウィンドウと壁や装飾との区別がつかなくなっている店舗、あるいは解体された様を思わせる透けた自家用車や、トラック群などを横目に中央区、江東区、江戸川区を沿岸に伴走した。次いで葛飾区、足立区、北区と埼玉県をなぞるかたちに針路を進める。さらに板橋区。日が暮れる頃には練馬区を通り過ぎ、奥多摩の先端にパジェロをころがしていった。

 コースは薫が提案した。こうすれば翡錬に会える確率はあてずっぽうに車を走らせるよりも高いものになる。ハンドルを不安そうに握り締める緋未に薫は確信をこめて断言した。

 このコースは鬼ごっこと同じ要領。翡錬は東京近辺にしか確認されていない。東京都以外の場所に住んでいる可能性もあるけれど、確認情報が東京都と告げている以上、今のわたしたちは東京を走るしかない、闇雲に埼玉や山梨に足をのばし、余計な手間をとる必要はない。後は消去法よ。東京を鬼ごっこのグラウンドにみたてて、確実に獲物を追い詰める。つまり外縁から内縁に向かうように円を狭めていきながら走れば、ローラーの要領で全ての地域を隈なく捜索できるわ。

「だから緋未は何も考えなくてもいい。わたしの言うとおりにしていればいい。走るのも、食事を取るのも、寝るのも、起きるのも」

 薫が言う何も考えなくてもいい、は緋未のこころのどこかを妙にくすぐった。

 緋未はなんでも薫の言う通りにしてきた。今もそうだ。だが改めて『言うとおりにすればいい』と言われると、その言葉は魔法の呪文の囁きのように緋未には自分のこころの一部にぴったりと嵌る気がした。

 パジェロのスピーカーからは薫が持参したモバイルミュージックプレイヤーを通してローリング・ストーンズの『ルート六六』という曲が流れている。

この曲は薫の選曲だ。出発前にプレイリストを作った。退屈しないで済む。

雑な曲を流すバンドだ、と緋未は思った。だが薫がいいと思っての選択だ。何も言うことはない。きっとこの『ルート六六』もローラー作戦と同じで、なにかの案があってのことに違いない。もし違ってもかまわない。薫が選んだ曲だから、いい曲に違いない。翡錬の好きなピアノコンチェルトナンバー二十七と同じに。自分も好きになるに決まっている。緋未は心からそう信じて出発前の薫の指示通り雑草が生えている道をなるべく避け、広い道路に車を流した。

「雑草は避けてね」

 車が道路の隙間から生えている雑草を踏んだのを薫は咎めた。ガラスを踏み潰す音が車体の下から響く。

「草の中には硝子化したものがあるから踏むとパンクする可能性があるし。パンクしても修理液を流し込んでもいいんだけど、それを放置したまま東京一周っていうのもちょっとね。タイヤの替えもそんなにないし。慎重に」

「うん」

 自然と笑みが漏れる。

「なに、あんた。なにがおかしいの」

「だって、いま、薫ちゃんと二人きり」

 薫も引き込まれて笑う。

「だからなんなの。おかしな子ね」

「うん。おかしいって自分でも思う。薫ちゃん、おかしなわたしを守ってね」

「バカ言わないで」

「バカだよ。薫ちゃんに命令されないとなんにも出来ないもん」

 二人で声を立てて笑う。

 緋未は視界の端に映ったものに反応しブレーキを踏んだ。座席の薫と緋未は前につんのめった後に背中をシートにたたきつける。

「なに?」

薫は身体がどこか痛んでいないか確かめ、周囲を見回す。

パジェロは塀が並ぶ住宅街に入っていた。その塀も一部は硝子化し、一戸建て住宅の全てが見渡せるものもあった。さらにその住宅も壁の一部が硝子化し、巨大な昆虫に齧られた痕のような姿をさらしていた。

「なに? 緋未」

「今、ひとが居た」

緋未の顔は強張った。薄い汗がにじむ。

「ひとくらいなに。ひとだって居るわよ。公式上はいないことになってるけれど、実際は……」

「おんなのひとだった。姉さんに似てたかもしれない」

パジェロは急発進すると空き地に入りUターンし、今来た道を辿る。

「緋未、もっとスピードを落としなさい! 命令!」

緋末の荒い運転に薫はハンドグリップを握って身体を固定させる。

「あの角、曲がった!」

 緋未は急カーブを切る。タイヤがスリップしかけるがスピードは緩めない。背中を冷たいものが走るが、高揚感と焦りを抑えきれない。

「薫ちゃん、居た!」

緋未は前方を指差す。

「あそこ!」

 緋未の指先の延長線上、住宅の塀と塀の間の舗装路に確かに女性の立ち姿がある。

 緋未はさらにスピードを上げる。

「緋未、スピードを落としなさい。それと、草、ガラスになってる草があるから」

 薫が言い終わらないうちに、パジェロの車輪がバーストした音をあげた。

緋未はハンドルを強く握り、ぶれはじめた車体の進路を安定させようと試みる。人影まであと少しの距離。

 人影はパジェロに気づいた。こちらを振り向く。

 パジェロはそのまま人影を追い越す。緋未は人影を避けてハンドルを右に切った。パジェロは一度右に大きく揺れた。路肩に放置されたまま全体がガラスと化している自家用車に頭から突っ込む。きらめく破片をあたりに撒き散らした。

 薫がサイドブレーキを引いて強引に急停車させる。塀にぶつかる寸前で停車した。

「なにやってんのよ、このバカ! 死ぬかと思ったわ!」

 薫は緋未を叱責する。緋未は構うことなく、シートベルトを外しパジェロから飛び降りると人影に走った。薫も緋未に続く。

 緋未は人影に駆け寄り顔を見た。

人影はつばが広い帽子をかぶっていた。右目に怪我か病気を患っているのだろうか、顔面右半分に眼帯と包帯を当てている。女性だった。

「違った」

 薫も人影を確認した。

翡錬ではない。安心したような、期待はずれでがっかりしたような複雑な気分に緋未は陥る。ため息を吐いた。

「このバカ!」

薫に怒鳴られて我に返る。身体が震えた。

「あんた、わたしの言うことも聞かずに無茶苦茶な運転して、死ぬところだったのよ」

 緋未は怯えの色をあらわにする。薫に嫌われる、もしかすると捨てられるかもしれない、そんな被害妄想さえ心に滲み出してくるのを緋未は感じる。目尻から涙が浮かぶ。

「ごめんなさい」

 だが薫にははごめんなさいでは済まないらしい。歯噛みしてさらに緋未に切迫しようとする。

「あんたね……」

 薫ちゃんの言う事を聞かなかった。もう終わりだ。嫌われる。緋未の心にそんな恐怖が湧き出る。

「あの……」

遠いところに呼びかける、どこか焦点があっていない間延びした声が二人の間に割って入る。テンポがずれた喋り方は二人の熱を一気に冷やした。

「あの……誰かお探しですか?」

 我に帰った緋未は、眼帯の女を眺め、自分たちとのテンションの違いに言葉に詰まる。

「ええと、あの、すいません。いきなり。わたしたち、ひとを探していて……」

緋未は頭を下げる。

「だけどひと違いです。すいません」

「ひと探し……」

眼帯の女は、帽子のつばを軽く下へ引っ張った。

「暇があるとモーッアルトのナンバー二十七、あの、クラッシックのピアノ協奏曲なんですけれど、その曲を歌う癖がある二十代後半のウェーブした長い髪の毛の女性なんです」

 眼帯の女は、支離滅裂な緋未の言葉を黙って聞いていた。眉根を八の字にしてすこし考える仕草をする。

「……ピアノコンチェルト、ナンバー二十七……知りませんね。わたしもモーッアルトは好きなんですけれど、ナンバー二十七なんて複雑な曲を唄うひとは知りません。この辺には居ませんね」

「そうですか。どうもありがとうございます」

 緋未は気まずい気分のままもう一度謝る。急いでパジェロに戻ろうとした。その肩を薫が掴む。薫は明るい作り声で眼帯の女に尋ねた。

「すいません、このへん、まだ電気が生きてるところないですか」

「電気はちょっと、さすがに……」

眼帯の女は困惑した表情を浮かべた。

「ここ三、四年は……変電所も電線の一部が硝子化しているので通電してませんね」

「やっぱり、今夜はどこかで薪ってところね」

「たきぎ?」

緋未は首をかしげる。

「どうして?」

「もう十六時になってる。季節が季節よ。じき日が傾く。早めに灯りを確保しておきたいから」

 最大規模のガラス化現象が五年前に東京を襲って以来、この旧都市は外部とのあらゆる接続が完全に絶たれた。生活インフラ全てが硝子化している。事実上、この地は廃墟の孤島同然となっている。だからこの地になんの対策もなしに、住んだり、あるいは訪れる人間は居ない。

 それを見越して薫は早めにキャンプ地を探そうとしている。どこか適切な場所はないかそう考えて「ここに住んでいる」住人に助けを求めてみたのだ。

東京に住むという選択肢は余程の理由が介在しない限りない。

 それだけに余程の理由がある以上は、それなりの前もった準備、あるいは環境に順応したライフラインを構築しているはずだと薫は推測したのだ。

緋未もその推論に遅まきながらぴんと来た。怪訝な表情で眼帯を見詰める。

「わたしたちはひと探しで東京に来ている。失礼ですけれど、あなたは一体なんの為に……」

「妹がここに居るんです」

眼帯の女はためらうかのように薄く笑う。

「どうしても離れたくないって、それでわたしも」

「妹……」

緋未の目には眼帯の女性と自分の姉が一瞬重なって映った。

「だったら、あなたが住んでるところで一晩、世話してくれない?」

薫は持ち前の厚かましさを発揮して眼帯の女性に両手を合わせる。

「お願い。ほら、東京の夜はきついでしょ」

 眼帯の女性は愉快そうに笑う。

「なに?」

薫は下げていた顔をあげる。

「横柄過ぎ? やっぱり駄目?」

「ちがうの、ごめんなさい」

眼帯の女性は肩を震わせて笑いを堪えている。

「本当にごめんなさい。日本人でもないブロンドの外人さんが両手をあわせてお願い、だなんて。すいません、なんて言葉も。こんなのはじめて見たものですから」

 それは確かにそうだと緋未は今更に思った。薫と付き合いが深いから今まで気にも留めなかったが、平手で願をかけて、すいません、なんて日本人しかしないジェスチャーだ。

 眼帯の女は口に手をあてて一度咳払いすると慇懃な態度で失礼しました、と言うと改まった笑顔を二人に向けた。

「いいですよ。なにもありませんけれど。寒気をしのぐくらいは出来ますから」


 眼帯の女を後部に乗せ、黄昏が近寄ってくる住宅街をパジェロで五分ほど走った。眼帯の女性が住んでいるという家に辿り着く。ごく平均的な二階建て住宅だった。

 家の玄関右手にあるガレージに薫がパジェロを入庫させた。ガレージの屋根は全てがガラスと化していた。赤い夕陽の灯りをすいこんで輝くガレージの屋根は血を凍らせて作った巨大な氷のイメージを緋未に連想させた。

 家は硝子化の影響を受けてはいなかった。また手入れも行き届いており、硝子化現象以前の世界の一部を切り取って、そのまま嵌め込んだ、そんな印象を緋未に与える。

 裏手からは強烈な悪臭が漂っていた。眼帯の女性は苦笑する。

「裏手の家も掃除したんですけれど、どこかにゴミが溜まってるらしくて。臭いを除ききれないの」

 眼帯の案内で家に上がる。家のなかは薄暗かった。眼帯は家に入っても帽子は脱がない。そのままだ。多少奇異な風体ではあったけれども、客人である薫と緋未はなにも言えない。とりあえず三人共にスリッパに履き替えた。薫は東京でスリッパだといって面食らった表情をしている。

 眼帯の女がスリッパを差し出すとき、手首に赤い痕が見えた。しもやけかあかぎれなのか、緋未は旧東京市街での暮らしの一端を垣間見たような気がした。

家屋内は、ほこりひとつなく掃除が行き届いていた。

芳香剤のものだと思われるキンモクセイの香りが家内に充満していた。かなりきつめの芳香で、キンモクセイの他にもジンチョウゲやムラサキハシドイ、ヒメモクレンなど多種多様な香りが家屋に入り乱れていた。緋未は軽くむせた。薫も同じく小さくむせる。面には出さなかったが眉をしかめている。

しかし眼帯のおんなは二人の表情を読み取ったのか、ばつが悪そうに笑った。

「妹が好きなんです。花の香り」

眼帯はうっとりとした顔つきになった。

「まるで花園のなかにいるようでしょう? いいアイデアだなってわたしも賛成したんです。でもきつすぎるかしら? 窓、開けましょうか?」

 薫は手を振って遠慮なく、慣れていないだけ、いい香りですと眼帯の気遣いに陳謝した。

台所には稼動していないものの、冷蔵庫が据えられていた。食器類は硝子戸棚に収まり、これが食事ですけれどいいかしらと眼帯が言って開けた戸棚の下扉奥には、缶詰めと干し物が、四人家族くらいならゆうに十日はしのげる量が備蓄してあった。

「コンビニとかスーパーとかに行くと、まだ残ってるんです」

冷蔵庫の扉を開くと、水がペットボトルに備蓄してあった。

「日が暮れたらあとは寝るだけですから。食事にしましょうか」

 眼帯は戸棚の下からイワシとコーンの缶詰めを取り出す。棚の上の段ボール箱にはいっていた袋からビスケット大の乾パンを数枚取り出した。

「いいんですか、ご馳走になっちゃって」

緋未は、眼帯が薦める椅子に座りかねて薫の顔を伺った。薫はいいんじゃない、と言って席につく。

「ほら、緋未も座りなさい。少ない食料くれるっていってるのに断るの、かなり失礼よ。相手の最大限の好意をバカにしてるわよ」

「ごめんなさい」

緋未もテーブルにつく。眼帯の女にありがとうございます、と頭を下げる。

「いいのよ」

眼帯の女はフォークを二人に差し出した。

「どうぞ。すくないですけれど」

 ふたりは乾パンの上にイワシの切り身、コーンを乗せて齧りつく。

「おいしいかしら。口にあう?」

「おいしいです」

緋未は手を振る。

「そう、よかった」

眼帯は緋未に笑う。

「でもこれだとなにかお返しがいるわね」

そういって乾パンを齧る薫だが乾パンとコーンしか口にしていなかった。

薫は魚が嫌いだ。特に骨付きのものはまず口にしない。つまり今、緋未と、眼帯の女が食べている骨ごと煮詰めてあるイワシの缶詰めは、薫が大嫌いなもののひとつにはいる。

薫は意識的にイワシを避けている。しかし自分が嫌いだからという理由でイワシを避けるのは、さっき薫自身が言った最大限の好意をバカにしてる行為じゃないのかなと緋未は思った。かといって、ここで薫の機嫌を無駄に損ねることはあるまいと、見ぬ振りを決め込むことにした。薫は歪な箇所でわがままだ。

「いいんですよ、そんなものは」

「でも、なんかあるもの返さないと。こういうのってキャッチ・アンド・リリースって言うんだっけ? ペイする? だったっけ? ほら、この子、緋未っていうんだけれど、あなたのもうひとりの妹にしてもいいのよ。一日くらいなら」

 眼帯は口を押さえる。

「ほんとうに面白いひとね。カオルさんって。英語が苦手なんですか?」

「苦手なんですよ。ずっと日本で育ったから、日本語しかしゃべれないんです」

 笑って、不意に眼帯はカシミアのセーターの襟に手を差し入れた。スマートフォンを引き出す。常時首にかけているらしい。

「はい、もしもし……」

「繋がってる」

薫は陶器製のコップの水を一口飲んだ。

「これだと一度、都外に繋がってから、それからまたこっちに、だわ」

 眼帯はスマーとフォンをセーターの中に戻した。

「妹からです。今夜はもう遅いし、移動は危険だから、友達の家に泊まるそうです」

「スマホの充電はどこでしているんですか?」

薫の問いに眼帯は薄く笑う。

「二階に小さな発電機があるんです。妹がスマホが必要と言ったので、近くの工場からガソリンと一緒に持ってきて置いてあるんです」

「妹さん主体の生活ね」

薫はコップの水を飲み干す。

「いいお姉さんね。どっかのアホとは大違い」

「あの、妹さんはどうして都内に残りたがっているんです?」

緋未は、眼帯に妹がいる、と聞いて一番気になっていた疑問を口にした。緋未の姉の翡蓮は東京に消えた。そんな翡蓮の意図が緋未には分からない。だがここでヒントを貰えるかもしれない。

「それは、妹が、わたしとここで新しいことができるんじゃないかって提案したからなんです」

「提案? したいことって?」

緋未は思わず身を乗り出す。

「純粋に私たちだけでできることです。今、この時代に、この地でしかできないこと」

 薫が手をあげて二人の会話を中断させた。

「ごめん。トイレどこ?」

「庭になります」

「とうとう来たか」

薫は立ち上がり、苦笑する。

「大丈夫ですよ。布で囲ってあって、穴には踏み板も用意していますから」

「用意周到ね。でもまさか水と紙まであるとはいかないわよね」

「雨水を溜めたペットボトルと、紙はちょっと雑なんですけれどリサイクル工場からとってきた広告や雑誌がありますからそれを使って」

「さすが、東京に住んでるだけあるわ」

翠は席を立った。

「いってきます」

「足元に気をつけて」

 薫が闇に消えると眼帯は残った緋未をじっと見詰める。

 緋未は突然の眼帯の凝視に、緊張した。せっかく食料をくれたんだし、歓迎してくれたんだし。気まずいのもいやだな。なにか話題はと考えて、そうだ、と思い至る。さっきの薫の話しの続きだ。あの、わたしたち、お返しになにをすればいいんでしょうか。

 そんなことを考えていると眼帯が口を開いた。

「お返しの話ね。緋未さんのこと、まやって呼んでもいいかしら? どう? いや?」

 緋未は心臓が止まりそうになった。まるで緋未の心を読んでいるようだ。しかしそんなことがある訳がない。この人はさっきの薫ちゃんのお返しの話の続きをしてるんだ。妹として扱うだとかの。緋未はそう考えて妄想を頭からかき消す。

「まや……。あの、妹さんの名前ですか?」

「流石まや、よく分かりました。やっぱり、私たちどこかで繋がっているのね。以心伝心」

 今日はお嫁さんになったり、妹になったり、大変な日だと緋未は思った。

でも、相手にまかせるのはやはりどこかいらない力が抜けて、気が楽にはなる。

眼帯の女はテーブルに膝をつくと、手の甲に顎をのせる。

「まや、今日、まやが連れてきた外人さんとまやはどういう関係?」

「あの、姉の、わたしの姉の親友です。それで薫ちゃんと姉はいつも一緒にいたから、それで、わたしも自然に」

「そう、そうね、わたしの親友だったわね。薫ちゃん、最近、落ち込んでるの?」

 会話に噛みあわないものを感じつつも緋未は話をあわせる。

「以前みたいには。でも、どうして?」

「薫ちゃん、ちょっと元気ないみたいだったから」

「姉さんが突然消えちゃったからだと思う。元気ないの、それからだし」

 眼帯の姉は微笑する。

「親友としてはちょっと心配。でも大丈夫。お姉ちゃんはここに居るわよ」

 眼帯の姉は椅子から立ち上がった。帽子は取らない。

「布団ひくわ。まや、手伝って」


時間までもが硝子と化したかと思われる暗い静寂の中、緋未は縁側に座って、澄んだ夜空を仰いでいた。

時刻にすればまだ十九時、あるいは二十時あたりなのだろうが周囲は全くの無音だ。

こごえた空気のなか、冷たい星の光を眺めていると、自分の知らない間に身も心も凍ってしまうのではないかと緋未はそんな錯覚に囚われる。

横に目を遣れば薫も星空を眺めている。

だが薫は裸眼ではなく、荷物として持ってきた携帯光学式高性能望遠鏡を使って緋未よりも遥か彼方の星々の世界に心を委ねていた。薫の持っている望遠鏡の精度は桁外れに高いらしい。十数年前の十メートル光学望遠鏡とほぼ、同性能にあると言う。

その望遠鏡は性能に反して小型式だ。そんな望遠鏡を天に伸ばし、夜空を探索している姿は、望遠鏡を夜空に向けると言うよりもむしろ夜空にサーチライトを向けて輝く星のひかりをもうひとつ夜空に加えているかのようだ。

「東京の夜空はどうなってるんだろうなって気になってたんだけれど、やっぱり他のところと全然変わらないわね」

レンズを覗き込んだまま薫は望遠鏡の向きを変える。

「超新星はやっぱり今夜も見えるの?」

 緋未の問いに翠は月明かりに右手の指を三本立てた。三個あった、ということらしい。

 超新星の目撃数は五十年前から異常な値で増え続け、今もその数は膨らんでいる、というはなしは、緋末が小さい時からテレビや新聞、雑誌などで頻繁に取りあげられていた。

 緋未は基本的にメディアは無条件に信用しない。だが薫もこの件に関しては認めている。だから漠然と緋未はそうなのかな、とは思うようにはなっていた。

また、姉が消えてその代わりに薫と共に夜を過ごす時間が増え、実際に夜空をふたり一緒に望遠鏡をのぞき込んで、ひときわ大きく輝くいくつもの超新星の光を認めるようになると、その「超新星の数が増える」という事実も遠い宇宙の他人事としてではなく、身近なものに感じられるようになってはきていた。

 超新星が増える傾向については不明で、薫も分からないらしい。

とりあえず薫としては、今現在は宇宙が誕生して星が生まれ、そして死ぬ時期に丁度今、世界全体がさしかかっているのではないか、といういわば『ひとつの死期のサイクル』というものを仮説の一つとして打ち出してはいる。

だがそれも憶測の域を出ない。だからその自説を薫は、緋未以外の他人には絶対に喋らない。

 それが緋未には、その星の世界の秘密をささやかではあるが、薫と共有している気分に陥らせた。世界の重大な秘密を知っているのは薫と自分だけだという気持ちが心を高揚させる。

またそれとは別に、夜空を熱心に観察する薫の後姿をすこし離れたところから見ているだけでも、緋未はなんとはなしに嬉しくなってしまう。超新星のことなどどうでもいいような気がしてくる。

 何かをしている時の薫は、緋未を構ってはくれないけれど、それでもその薫の姿勢は普段以上に緋未には魅力的だった。そんな薫を目に入れるだけでも十分、充足した気分になれる。

庭は屋内から流れてくる強烈な花の香りが漂っている。そんな中にこうして薫といると、夢の中のようで限りない至福感に包まれた。

「緋未、あの女、どう思う?」

 ぼうっとしていたから不意に声をかけられて緋未は吃驚して一瞬、身動ろぎした。

「え、なに、おんなのひと?」

薫は首だけをこちらに向けて、

「そう、あの眼帯の女。どう?」

「どうって……妹想いのいいひとだなって」

身動ぎした拍子に崩れて瞳の前にかかった髪の毛を手で横にやる。

「うん、いいひと」

「ふーん」

薫は身体も望遠鏡から逸らせて、こちらを向いた。

「自分と翡蓮にあの姉妹を重ねちゃってるのね」

「そんな、わたしはそんな気持ちで……」

 俯く緋未の手を薫が掴んだ。緋未の心音が跳ね上がる。

「眼帯は寝てるのね?」

「あ、うん、寝てる。奥の部屋で」

食事の後、眼帯の女は縁側のある部屋に薫と緋未を案内した後に、自分は奥の部屋で寝ますから、と言って家の深い暗がりに消えていったのだ。

「なら好都合。緋未こっちへ来て」

薫は緋未の手を取る。引いて立ち上がらせた。

薫の突然の行動に緋未は戸惑う。

「なに、薫ちゃん」

「いいから、ちょっとこっち来なさい」

 薫に手を引かれ、緋未はひきずられるようにしてその後に続く。

「どこに行くの、薫ちゃん。恐いよ」

「黙って付いてきなさい」

 玄関を横切り正面左手の簡易トイレがあるという家の裏手にまわる。

 徐々に花の芳香は薄れ、かわりに異臭が緋未の鼻をつきはじめた。

 最初、緋未は排泄物の臭いだと思った。布に囲まれている一角からは確かに異臭が漂っていた。人間という生き物が出す排泄物特有のどこか甘いにおいだ。

だが今、花の香りを完全に殺いで漂ってくる匂いは違う。緋未の鼻をつき、吐き気を促す。胸をえぐるなにか別の異臭がある。なにかが腐敗した時に強く匂うものだ。

 腐敗臭は簡易トイレを通り過ぎ、家の裏手に近づくにつれて強くなった。

「薫ちゃん、気持ち悪い」

喉元にこみ上げるものがある。臭いは一呼吸するごとに喉の奥へと侵入する。緋未は体内の臓器全てを入れ替えたい気分になった。

 家の裏に達した時、目に入った光景と今までの吐き気が一気に波となって押し寄せ、緋未はかがみこむと嘔吐した。

 吐いて、咳き込み、酸素が欲しくなって息を吸うと、また腐敗臭が肺を埋め尽くし、さらなる吐き気を催す。

 刺激臭を受けた目からは涙がこぼれ、口からは嘔吐物が混じった唾液が糸を引いて地面に垂れた。汗が体中をつたった。怖気が全身を震わせ頭がくらくらした。

 家の裏手には眼帯とその妹が食べ終わったと思われる食べ物の缶がなんの処理も施されずに山のように累積されていたのだ。

食べ滓がついた缶には、蛆虫が無数に蠢き、細長い虫が缶と缶の間を身をくねらせて行き来していた。缶の隙間からは鼠の目が放つ光があちこちにみられ、その上を無数の蝿がいくつもの羽音をたてて飛翔していた。家の壁には大きく肥大した五センチ強の大きな油虫が触覚を揺らし、びっしりと密集している。

薫が足元にあった小石を拾って缶の山に投げつけると、大量の蝿が一斉に飛び立ち、今まで聞いたこともない数の羽音をたてて屋根の上に舞い上がった。

「どう、緋未。家のなかはほこりひとつない清潔な部屋。でも裏手に行くとこう。食べ滓がついた空き缶をそのまま捨てている。埋めるなり遠いところに捨ててしまえばいいものを、それらを認識していないかのように完全に放置している。トイレの時に気付いた。あの女は臭気の原因を別のところに求めているけれど、元はここ」

 家の壁に手をついてかがんでいる緋未の背中に、翠は手を当てて上下にさする。

 緋未は二度、空嘔をしてから唾を飲み込んだ。全ての感覚が麻痺した気分で、背中にあたる薫の手の温度だけが緋未が感じられる唯一の現実感だった。

「立てる?」

 薫に肩を抱かれ、ようやく緋未は立ち上がった。

「あの女の手首、見た?」

 半分泣きながら緋未は頭を左右に振った。

「リストカットの痕だらけよ」

 緋未は薫の腕からすり抜けるとまたかがんで吐こうとしたが、もうなにも出てこなかった。

 過呼吸で頭が真っ白になる。不意に、緋未の口と鼻を、薫のハンカチが覆った。

 なにか柑橘系の臭いがしたが、柑橘系のなにかまでは頭が混乱している緋未には考える余裕もない。

 薫のハンカチは緋未の鼻と口に涼やかな空気を送り込む。緋未はなんとか立ち上がって薫に支えられ、玄関前まで歩いた。

 ハンカチが外れると、冷たい澄んだ外気と花の香りが、緋未の胸の腐臭を追い払う。

 緋未は深呼吸をして、またむせた。かがみ込む。軽くえずいた、

「緋未、この家、今のうちに抜けましょう」

 薫は緋未の震える頬に右手を添えると、腰を落とす。汗が浮いている緋未の額を左手でぬぐった。

「妹さん、多分、妹さんがあのひとの心の支えになってるんだと思う」

緋未は荒い息を吐いた。

「妹さんに会ってみたい。眼帯のあのひとがああなってしまってまでも、どうして東京なんかに残っているのか、知りたい。それはわたしの姉さんへのヒントに繋がるかもしれないから」

「あのね、緋未、女のあの目。ちょっとおかしいわ、明らかに。それにさっきの空き缶も。緋未、この家は危険よ。出ましょう、いますぐ」

「でも、妹さんだけでも。なにか事情があるのかもしれないし」

薫は目を細める。

「緋未、わたしの命令が聞けないの?」

「薫ちゃんは姉さんへのヒントが欲しくないの?」

 薫は暫く無言でいたが、やがて緋未を抱きしめて立ち上がった。

「とりあえず一晩ここで寝て、妹さんが帰ってくるかどうかはともかく朝まで待ってあげるわ」

 緋未は力なくごめんねと言った。自分を抱きしめている薫を抱き返す。腕を薫の首に回し、互いの身体をより密着させる。

 二人は抱きしめあったまま、縁側に戻ると靴を脱いで眼帯が用意したふとんに潜り込んだ。薫は震える緋未の肩や胸、腕や足をさすってくれた。大きな安堵感がひろがる。

「ゆっくりしてなさい。緋未。わたしが朝までずっとこうしててあげるから」

 薫の髪の毛と汗、息の臭いに包まれて緋未はしばらくの間、まどろんだ。


 何時間経ったのかは分からない。薫に揺り動かされて緋未は目を覚ました。

 薫は腕時計を緋未の目の前にかざすとバックライトを点灯させた。針は深夜零時過ぎを指している。

「眼帯が隣で着替えてる。こんな夜中に」

 緋未は耳をそばだてた。ふすま越しに隣の部屋からの衣擦れの音が聞こえる。

 その音が止んで、ふすまを開けるすっという音がした。

 緋未は目を固く閉じる。自分の腰と頭にまわされた薫の腕も強張ったのを感じる。

「まや、起きているんでしょう」

眼帯の女の声が冷ややかな響きで枕もとから聞こえる。

「まやに会いにいくの。まやは私の妹だから一緒についてくるのよ。まやにまやと私がどれくらい固く結ばれているか、見てもらわないといけないわ。薫ちゃんも親友なんだから来て」

 自分の身体にまわされていた薫の腕がすり抜けていく。緋未は薫を求めて半身を起す。顔をあげると眼帯の女が帽子も、服も、昼間の姿のまま枕もとに立っていた。

 薫は半身を起して女を睨んでいた。その目には攻撃の色が染み出ている。

「まや、薫ちゃん、行きましょう。ほら、まやからの呼び出しが来たの」

 眼帯はスマートフォンを突き出す。画面は真っ黒だった。繋がってはいない。電源がはいっていない。恐らくそれ以前に充電されていないのだろう。

 緋未は薫の手を握った。薫と緋未は立ち上がる。

「ついてきて」

眼帯は玄関に向かう。その手にアイスピックを持っているのを緋未は目にして一瞬、身体が硬直した。

 眼帯のもう一つの手には硝子製のコップ。

「まや、薫ちゃん、早く」

 催促の声が玄関から聞こえる。その声はどこか期待に満ちており嬉しそうだった。

 緋未はもう一度、薫の抱擁をうける。身体の硬直が解けた。玄関で靴を履くと、ふらふらと歩みだす眼帯の後を追った。

「六年前よね、わたしのまやに対する想いにまやが気づいてくれたのは。あの当時、まやは私の気持ちを知ってから、わたしを避けていた。最初は嫌われたんだってすごく落ち込んだけれど、それが、まやもわたしのへの想いに悩んでいることだって知って、すぐに嬉しさにかわったわ。

あの日、覚えてる? まやが私の気持ちを知って部屋にきてくれた時、私は死んでもいいって思った」

 三人は住宅街を歩いた。途中、猫が塀の上に乗って三人と並んでしばらく歩調をあわせた。その猫の毛は汚れ、尻は爛れ腹の部分が硝子と化していた。

十分ばかり歩いて三人は二階建ての賃貸アパートにたどりついた。眼帯はアパートの階段を昇る。二人も後に続いた。

「父さんと母さんに見つかって、すごくおこられて、二人の距離をつくるためにわたしじゃなくて、まやが一人暮らしを強いられるようになった時には、世界中が敵にまわった気がした」

 眼帯の女は、二階中央ドアの前で歩を止めた。ノックして扉を開く。鍵はかかっていなかった。

「でも私はこんなふうに毎晩まやに会いにきているのよね。ね、まや」

眼帯が懐中電灯のライトを点けた。

光の先には女の硝子の彫刻があった。全身が硝子化に侵されている。ライトに光り輝く女の硝子の彫刻は薄暗い部屋に青くおぼろげに煌いている。女の彫刻はなにかをしている最中に全て硝子化した女性らしい。

女性は大学生くらいか、幼い顔立ちと背丈だった。よくみると肩からその右手がなくなっている。緋未はさらに暗闇を透かし見た。硝子全体になにか黒い膜が付着している。

「まや、あなたの右手がなくなっているの、見える?」

眼帯はまやと言う名の硝子の妹に近寄り、欠けている右肩をそっと撫でた。

「一年でこれだけなの。右手一本。でも、毎日、これからも毎日続けていればいずれ願いは成就される、私たち、完全に繋がるのよ」

眼帯は右手に持っていたアイスピックで、自分の妹の右肩を打ち始めた。

眼帯がアイスピックで二、三度叩くと、砕けた二センチほどの硝子の破片が四個、床に落ちる。

「なにをしてるんですか……、妹さんの……!」

 緋未は身を部屋の中央に乗り出そうとしたが、薫に抱き止められた。

「口出ししないで。あの女、なにをするか分からないわ」

 眼帯は左目で暗い床に落ちた硝子片を手で探り当る。拾うと、その破片三個を、持ってきていたコップに入れた。、残りの一個、やや薄い刃物のような硝子を指につまんだ。

眼帯はコップを床に置く。おもむろに持っている硝子の破片で自分の左手首を切った。

 緋未は口を押さえ、薫は眼帯を睨んだ。

 眼帯の左手首から赤い球が二、三個滲みでる。それはゆっくりと、紅く細い縦の線になった。

 眼帯はまや、まや、と言って左手首を妹の彫刻の唇にあてがい、その当てた手を、ゆっくりと彫刻のあらゆる部分に滑らせる。

 硝子の人形は赤色に染まってゆく。

「まや、分かる? 姉さんがあなたを侵しているのが。まや、これはわたしだけの特権なのよ。姉さんだけがあなたに禁忌を働いてもいいのよね」

眼帯は振り返った。左目は左右に震えて白内の毛細血管が異常に浮いている。

「まや、気持ちいい? 姉さん、あなたをちゃんと気持ちよくしてる? まや、正直に教えて」

 眼帯は歌うように気持ちいい? まや、気持ちいい? と繰り返した。

 薫が耳元で囁く。

「この女の言動を否定しないで」

 緋未は眼帯に震える声で答える。

「姉さん、気持ちいい。ちゃんと気持ちいいよ」

眼帯は熱を帯びた目で緋未を見詰めた。

「ほんとう? ほんとうに?」

「ええ、姉さん、とっても」

「よかった。じゃあ、今度は姉さんが気持ちよくなる番よ。まや、冷蔵庫にいれてあるワイン、あなたの好きだったワイン、出してきて」

 眼帯は彫像を抱きしめる。

 緋未は震える足で玄関のたたきをあがり、その横、部屋の一番左隅奥に置いてある冷蔵庫まで音を立てないよう気をくばりながら近寄った。

冷蔵庫の中には、半分からになっている赤ワインが三本入っていた。ワインには丸いシールが貼ってあって、『シャトー・マルゴー』と読めた。

「まや、それ、早く頂戴」

 緋未がワインを一本冷蔵庫から取り出し、眼帯となるべく距離をおくようにしてビンを突き出す。眼帯は血だらけの左手でそれを受け取った。ワインの栓を抜く。床に置いてあった硝子片が入ったコップに赤い液体を注ぎいれる。

 コップに満たされたワインに浮かぶ硝子は、緋未には氷そっくりに見えた。

 眼帯はグラスを天に掲げてからそれを硝子片と共にゆっくりと飲み下しはじめる。

 緋未は薫まで駆け戻った。薫が再び緋未を抱擁する。その薫の腕が、唯一、緋未の心を瀬戸際で保ち、泣き出したくなるのを抑えてくれた。

 眼帯は硝子の入ったワインを嚥下し終えると、いとおしそうに腹部をさすった。

「これでまた、まやが私の一部になったわ。一緒になれたの。気持ちいい。この繋がりは誰にも絶つことは出来ない。ね、まや」

眼帯は緋未に満足そうに微笑みかけた。

緋未の身体を悪寒が駆けぬけ、肌は薄ら寒さを感じて粟立ち始めた。

「まや、私ね、あなたとひとつになるのを試みはじめてから、よく夢をみるの。私の中に入ったまやが姿を変えてね、赤ちゃんになるの。硝子の赤ちゃん。まやが私のなかで硝子の赤ちゃんになるのよ」

 薫が緋未の手を固く握った。緋未も握り返す。

「まや、あなたがいつでも帰ってこれるように準備はしてあるの。お部屋も掃除しているし、食べ物もあるわ。二人で一緒に、私達だけの家で、私達だけの子供を育てましょう」

眼帯の女が頬を硝子の妹にすりよせるあまりに、女が被っていた帽子がずれ落た。帽子はつけていた包帯と眼帯を引きずり下ろす。帽子はフローリングの床に静かに舞い落ちる。

「……!」

 緋未と翠は互いに強く身を寄せ合った。お互いの身を守る為に、目の前の女から発する光を避けようとして。

 眼帯の女の顔面右と、頭蓋右側は硝子となっていた。まだかろうじて機能していると思われる脳が、光る硝子の断片からちらちらと姿をみせる。

「緋未、行くわよ」

薫に手を引っ張られて緋未は部屋を出た。階段を下りて早足で家に向かう。

「まや、まや、まや」

後ろで眼帯の声が聞こえる。

「まや、待って、姉さん、今夜はまやと一緒にいたいの。久しぶりにまやの暖かい体に触れていたいの」

 薫と緋未は、眼帯の家のガレージに停車してあるパジェロまで全力で走った。

 薫は後れがちな緋未の手を引いて懸命に走る。

「あの女、右脳が硝子化してるんだわ。家の裏の空き缶の山は、右脳の認識能力の一時停止によるものなのね」

「妹さんのことも?」

「妹と隔てられた時点でああなっていた可能性もあるし、右脳の認識能力や思考統一の機能が硝子化によって停止状態になったからなのかは分からない」

 パジェロに辿り付く。薫が運転席に座った。遠くからまや、まや、と言う声と足音が響く。

「パンクしててもある程度までは走れるから大丈夫。スライムを注入しないと駄目になるぎりぎりまで走るわよ」

 まや、まやと言う声が近くなる。

「薫ちゃん、怖い」

緋未は目をきつく閉じて薫の腰にしがみついた。

「だから危険だって言ったのに」

薫はイグニッションをまわしてギアをドライブにいれるとハンドブレーキを解除してアクセルを踏む。

 パジェロは急発進し、暗闇の中を走った。女の声はちいさくなり、やがて闇に溶けて消えた。

 パジェロに強い風圧がかかり、それは緋未の身体を強く叩いた。

 緋未は目を半分開けて薫を見上げる。

「薫ちゃん、あのね、女のひとが妊娠したときってすっぱいものが食べたくなるっていうの、それって異食っていうんだよね。硝子を飲み込むのも異食の一種なんだって、本で読んだことある。実例があるんだよね」

 薫はハンドルを握って小刻みに左右に振る。

「だからなんだっていうの。硝子を飲むのも異食の一種だから、あの女の行為は狂気の開花ではなく、本当に妹との赤ちゃんが出来た印、なんて理論の飛躍どころか、あてずっぽうにもならない戯言を口にするんじゃないでしょうね」

 空が白みはじめるまでパジェロは走った。

パジェロに乗ってから蒼い日の光が世界を包み込むまでの記憶が緋末にはない。うつらうつらと寝ていたからだ。緋未は夢をみた。

 緋未の夢の中では眼帯の女は、帽子を脱いで大きくなった自分のおなかをなでている。

 緋未ちゃん、薫ちゃん、会いたかったわ。見て、もうすぐまやと私の子供が生まれるの。きっとお父さんもお母さんも喜んでくれるわ。硝子から生まれた宝石よりもきれいな私達の子供。この子を産むとき、私、きっと痛みに耐え切れずに死んでしまうと思うの。でもそれでいいの。私とまやがひとつになってるんですもの。私達の子供はちゃんと大きくなってくれるわ。私とまやはひとつに溶けてしまうけれど、この子は一人でも生きて行けるわ。この子はまや。この子は私。この子はまやと私の、今までとは全く違う、ふたりが結ばれたという証拠のひとつなのよ。体も心も綺麗な硝子の子供。まやと私の子供。

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