Right Where It Belongs

池田標準

第1話 プロローグ

 新快速に乗り遅れた。

次の新快速が到着するのは一時間後だ。

粗鉱緋未(あらがね・ひすえ)は来奈薫(こな・かおる)にスマートフォンのインスタントメッセージで遅刻する旨を伝える。

ややあって薫から返信がある。ちょうどすぐ傍まで車で来ている。合流して大学に行こう。

森閑としている駅前ロータリーのバスターミナルの椅子に座って待つ薫を待つ。

先客がいた。右足に包帯を巻いているひどく姿勢がいい老女だった。

「右足が硝子になってしまったんです」

 隣に座った緋未に老女は上品に微笑む。緋未は戸惑った。なんと応えればいいのか分からなかったからだ。

「そうなんですか」

 曖昧に応じ、どうしても老女の右足に注いでしまいそうになる視線を逸らす。

「あら、綺麗な花」

 老女は道路の対面にある花壇に咲いている花に目を留める。立ちあがった。右足を庇いながら、夢を見るような足取りでゆっくりと道路を渡る。

 刹那、世界が輝いた。グラスフラッシュだ。身体に視線を落とす。身体を服越しにまさぐって身体の一部が硝子になっていないか探る。幸いどこも硝子になっていない。

 ほっとして顔をあげた。

息を呑む。

 道路を横断中の老女が、衣服ごと全身硝子と化していた。道路に無造作に置かれた硝子の彫像のようにその場で硬直している。

 慌てて硝子に近寄ろうとした瞬間、老女だった硝子の塊に白のレクサスが衝突した。

 乾いた音を立てて老女の硝子は粉々に砕け散る。

硝子の破片がレクサスのフロントガラスとボンネットに飛散した。残りは道路にぶちまけられた水のように広がる。粉々になった硝子は日の光に乱反射していた。

急停止したレクサスから身なりのいい白人女性が降車する。白人女性からは何かの花の香りが漂っていた。

来奈薫だった。薫の鳶色の瞳が道路で輝いている硝子の破片を捉えて細く歪む。薫はひどくうろたえた。

「薫ちゃん」

 緋未は薫まで駆け寄る。

「緋未、いま、グラスフラッシュが。あんた、なんともない?」

 緋未は無言で何度も頷く。薫は安堵の息を吐いた。苦々しげに砕けた老女に視線を戻す。

「……やっちゃったか……『国境なき医師団』に連絡しないと。この近くだと……」

 薫は携帯端末を操作して耳に当てた。ややあって繋がる。薫は状況を手短に説明した。

 緋未はかつて老女だった硝子の破片を眺める。

 冬の太陽に輝く硝子の破片は、おおよそ信じられないくらいに美しかった。。


十分後『国境なき医師団』から派遣された救急車と赤のインプレッサが到着した。

現在、移動手段は不足している。車もその例に漏れない。『国境なき医師団』は医師団にあてがわれた専用の車ではなく。救急病院から借り受けた救急車を使っていた。

白衣を着た『世界の医師団』の職員は現場を写真に撮影する。硝子になった老女の破片を箒で掃き集めた。

破片はプラスティック製のおろそしく簡素な棺桶に回収される。

『国境なき医師団』は緋未と薫から住所と連絡先、老女との間柄を二人が話したとおりに専用用紙に書きこんだ。最終事項に薫の言葉通り、二人の関係を保護者と被保護者、と記す。

『国境なき医師団』が通り一遍の聴取を終え、ありがとうございます、と言って二人の前から去ると、他の職員とはあきらかに雰囲気が違う長身痩躯の年配の女性が薫に手を振って近づいてきた。

 高杉涼子(たかすぎ・りょうこ)だった。姉の翡蓮の大学時代、薫と一緒によく自宅に遊びに来ていた。

「薫、緋未さん、久しぶり。ガラスシンドロームのメタモルフォーゼの現場に直面とはね。災難でした。どう? 薫。事件現場の当事者になった気分は。『国境なき医師団』に戻る気になった? あなたはまだ在籍登録されてるのよ」

 薫は肩をすくめる。

「あんたと一緒に仕事するなんて死んでも願い下げたいわね」

「何度も言っているけど、わたしと一緒だと翡錬(ひれん)の捜索情報も手に入り易くなるのよ」

「何度も言ってるけど、あんたが持ってりゃの話よね」

 辟易とした態度で応える薫に、涼子は意味ありげな笑みを浮かべる。

「このあいだ、丁度、手に入れたのよね」

 薫は軽口を叩くのをやめた。涼子を凝視する。不安になった緋末が薫の傍に立つと黙って腰を引き寄せた。

 緋未と薫の注視を受けて涼子は軽く声を立てて笑った。手でインプレッサを指し示す。

「乗りなさい。教えてあげる」


インプレッサの後部座席で高杉が広げたB五判の用紙には、旧東京市街地を衛星からとらえた俯瞰写真が写っていた。

 高杉は東京湾を示し、中央区へ指を動かす。

「翡錬の声が確認されたの。中央区とそれから足立、武蔵野、八王子、世田谷それと新宿、奥多摩、文京。計八ヶ所」

「姉の声を確認したんですか」

 緋未は動転した。落ち着こうと努めたが声は震えた。すべてを見透かしたように高杉は鷹揚に頷く。

「歌声を聴いたひとが居たのよ。東京湾から隅田川経由で。東京を船で登っていく途中でね、聴いたひとが居たの。曲を、メロディーを」

「モーッアルト、ピアノコンチェルト、ナンバー二十七」

写真を睨みながら薫が呟く。

「翡錬がいつも口ずさんでいた曲。有名なメロディーラインだから間違いようがない。推測の域をでないけれど、翡蓮はここに居る可能性が高い」

緋未は不安な目つきで高杉の横顔をうかがう。

「でも姉は、まだ歌えるんでしょうか。別のひとってことはないんでしょうか。姉は、硝子症候群に犯されてます。わたしが最期に会った時は身体の一部分が既に硝子化していました。あれから五年も経っているんです」

 高杉は煙草を咥える。ライターで丁寧に火を点けた。一口吸うと対面にいる緋未と薫に煙がかからないよう手で口の前をおおって紫煙を横に吹きだす。高杉が運転席に座っていた若い女性にこずえ、と命じる。こずえと呼ばれた女性は携帯用シガレットケースを差し出した。高杉はこずえが差し出したシガレットケースに灰を落とす。

 薫が居心地が悪そうに腰の位置をずらした。

「啼耶(なくや)じゃないでしょうね。彼女もナンバー二十七が好きだったわ」

 啼耶というのは翡錬と薫の友人だった。緋未は啼耶と何度か会った覚えがある。姉の翡蓮に啼耶を紹介されたことがある。美しいでは済まないものが漂っている女性だった。高杉が煙草を口にぶらさげたままこずえに命じる。

「こずえ。「あれ」」

 こずえは頷くと持っていたスマ―トフォンを二人の目の前に差し出す。音声再生アプリをタップした。

 スマーフォンに内蔵されているスピーカーから、ノイズ混じりにかすかな声が聴こえる。

「ピアノコンチェルト・ナンバー二十七……!」

緋未は思わず呟く。

「ちょっと、こずえ、貸しなさい」

 薫は高杉を押しのけた。体を前部シートに乗り出す。こずえからスマートフォンを奪った。

「あ、先輩、ちょっと、なにを……」

 このこずえってひとは薫ちゃんの後輩だったのか、緋未がそう思っている間に、こずえは薫に指示されて、カーナビの接続端子を引き出す。スマートフォンに接続した。

 こずえは車のイグニッションを押すとカーナビを起動させた。カーナビの操作画面を外部端子メインに切り替える。

 薫はもう一度スマートフォンの再生アプリをタップした。

車に埋め込まれているスピーカーからノイズが漏れ始め、次第にメロディーが浮かび上がりはじめた。やがて大音響でピアノコンチェルト、ナンバー二十七を歌う、透明な歌声がノイズと共に流れはじめる。少し怖いくらいに澄み切った歌声だった。

緋未は懐かしさのあまり涙が出そうになった。かろうじて堪える。これだけ大音量で確認したのだ。間違いようがない。翡錬の歌声だ。

 不意に歌声は消えた。

 車内は静寂に包まれる。太陽の白光が窓越しに車内を真っ白に照らす。部屋の中はモノクロ映画のような黒と白の二色だけになった。

 薫は腕を汲んだまましばらく動かなかったが、ややあって瞳を高杉に遣った。

「高杉先生、東京に入れる?」

「入れるわよ。薫、あなた東京にいきたい?」

「是非」

「あの、わたしも行きたいです」

 緋未は会話に割って入る。薫はなにか言いたそうな顔で緋未を眺めてから、その視線を高杉に移す。

 視線を受けた高杉は煙草をシガレットケースに突っ込んだ。

「翡錬を連れ戻してくれるんなら誰でもいいわ。政府にコネクションを使ってかけあいましょう。硝子化現象解読の手掛かりが東京にある。その調査に行きたいってかけあえば、すぐ通る」


ところどころがガラスと化した建物が太陽の乱反射を受けて、夜景のように燦然と輝く姿は綺麗だなと思いながら緋未は旧東京都の遠景をぼうっと眺めた。

 旧東京都市街の硝子化は建物にまで及んでいる。

 緋未と薫を乗せた自衛隊の七三式は川崎の検問所から東京のお台場に移動した。

 緋未は近くの遊園地に目を転じる。遊園地も硝子化が進んでいる。ガラス製の巨大な観覧車が輝いている。

「よくあんな姿でもっているわね」

薫は乱反射から目を保護する為のサングラスを鼻先までずらす。

「ふつうはあそこまで硝子化が進むと、自重に外的要素が加わって砕けてばらばらになるのに」

「見物でしょう。ここ数年ばかりは運良く大きな台風や地震が東京を避けてくれるんです」

七三式を運転している自衛隊員が薫に説明した。

「旧市街地内は硝子化の浸食具合が大きいうえにほぼ崩壊を起してませんからね。ここの比じゃありませんよ。とんでもない眺めです」

「実際に見られたんですか」

 緋未の質問に自衛隊員は決まりが悪そうな苦笑を浮かべた。

「一度だけ見ました。でもね、なんだかあの景色を見ているうちに怖くなって逃げたんです。現場から。後で処罰を受けましたけど。だから私が見たといっても一度だけなんですが」

「怖くなった……」

「はい。あんな景色をずっと見ているとね、そのうちね、自分の住んでる街も自分も、自分の家族も、こうやって輝きながらずっとその場所にオブジェみたいに立ちっぱなしになるんだって想像すると怖くなりました」

自衛隊員はジープを停止させた。二名の自衛隊員に護衛されたパジェロベースの七三式トラックが停車していた。

自衛隊員が敬礼する。懐から簡易医療キットを取り出す。

「薫準教授、硝子化を防ぐ為の予防薬の投与をお願いします。硝子症候群の発症原因は特殊なウィルスによる感染症状との報告が出ています。予防薬を投与してください」

 薫はぞんざいに首を横に振った。

「いらない。予防薬ってオピエート物質でしょ。役に立ちゃしないわよ。それにもう今では、世界中の人間すべてが硝子ウィルスのキャリアよね。無意味。上の方には、あなた達の勧めにもかかわらず、薫と緋未はその場で予防薬を拒否した、とでも報告しておときゃいいのよ。責任は後でわたしがとります」

「来奈さん、困ります」

薫は自衛隊員を無視して、停車しているパジェロにあごをしゃくった。

「緋未、あっち」

緋未は翠の指示に従い七三式を降りる。停車してあるパジェロに移動する。

 自衛隊員はどうすればいいのか分からず簡易医療キットを持ったままうろたえている。

緋未が首に巻いている赤いマフラーが潮風でたなびく。コートのすそがたなびいた。このマフラーとコートは姉の翡蓮が残していった数少ない品のひとつだ。だから緋未は薫と一緒に姉を探しに行くと決めた時、このマフラーとコートを着ていくことに決めた。こうすれば少しでも姉に近づける気がしたのだ。くだらない願掛けだとは百も承知だが、姉に会いたい一心が理性に勝った。

「緋未、ウィルス説ってね、一番最初に翡錬が提唱したの。知ってた?」

 薫はパジェロのドアを乱暴に開けた。

「でも翡錬はウィルスは単なるきっかけにすぎないんだと言ってた。もっと根本的なものが硝子化の本質であり、正体であり、目標だと当時の硝子症候群研究チーム内で主張したの。啼耶がその後を継いだ説をだしたけれど、どうも話が飛躍しすぎてて」

「目標? ウィルスに目標?」

 旧東京都のお台場付近は廃墟同然だった。だが崩れて見える建物は劣化でコンクリートや鉄筋が欠けているのではない。硝子となって透けている為にところどころが欠損しているように目に映るのだ。

「ウィルスは無機質に付着することはあってもその中に侵入し、症状を引き起こすことは出来ない。にもかかわらず無機質な物体にも硝子化は及んでいる。だから予防薬なんてものもほんとうは無意味なのよ」

「本質的? 目標?」

 困惑して眉を寄せ、同じ単語を繰り返す緋末に薫は軽く笑った。

「よく分からないわよね? ちゃんと知りたい?」

 緋未は下唇を噛んだ。頷く。

「じゃあ翡錬を探し出すのよ。探し出してわたしたちの前に連れだして、あの子が出した結論を、おそらく硝子化現象の真実である、すべての真相を訊きだすの」

「薫ちゃんはどうして姉さんが全てを知っていると思うの」

「知ろうとしたから翡錬はいなくなったのよ。知りかけたから、そのままわたしたちの前から消えたのよ。翡錬は医学部時代から寵児として扱われていたし論文も書いた。著名なものになったわ。硝子ウィルスに対する抗体の働きについての論文。抗体はウィルスに対し、基本であり、重要なポイントでもある。それで高杉は翡錬に目をつけてるんでしょうね」

 緋未は姉がそこまでの人物と目されていたことをはじめて知った。緋未が大学のはなしを翡錬にねだっても、姉が口にするのはいつも薫と友人の話ばかりだったからだ。

「薫ちゃんの確信はどこから来るの」

薫はパジェロの後部座席にひろがっている青いビニールを剥ぎ取る。

「わたしが何年翡錬と付き合ってるか知らない訳じゃないでしょ」

 薫は当然だと言わんばかりの口調で言った。反論の入る隙が無い抑制された落ち着いた声だった。

 後部座席には飲料水のペットボトル、段ボール箱に詰めてある携帯簡易食料、毛布、テント用具一式、タンクにはいったガソリン、医療キット、タオルと押し込まれている替えの服が詰め込んであった。薫が服を押しのけると、段ボールの底にはSIG・ザウエルP二二八、二挺と予備のマガジン、弾丸が十箱が入っていた。段ボールの隣には薫が頼んでおいた高性能光学式天体望遠鏡が並んでいる。

 自衛隊員四名は緋未達が乗っていたジープに逃げるように搭乗する。

残った二人は自衛隊員の運転するジープが小さな点になるまで見送った。

「緋未、車の運転お願い」

ボートの姿が消えると薫はSIGにマガジンを装填した。

「……え? わたし、したことない」

 薫はAT車の操作方法を簡潔に説明した。薫の説明は明快だった。緋未が車の運転はそんな簡単に済むのかと疑ったほどだった。

「そうよ。これだけ。セカンドはこんなところでは必要ないから覚えなくてもいいわ。必要ならわたしがする。ここは避難指定区域なの。政府の公式発表では誰も住んでいないことになっている。だからここでは車は遊園地のゴーカートと一緒」

 頷いて恐る恐る運転席に座る緋未の姿に助手席に座り込んだ薫が可笑しそうに笑う。

「大丈夫、事故なんて起きないわよ。ここにはもうひとはいない。いないことになってるんだから。よっぽどおかしなことでもしない限り、大丈夫」

 緋未はイグニッションキーをまわした。途端に鳴るエンジン音に吃驚して身を後ろにのけぞらせる。

 薫は腹を抱えて笑った。

「その仕草、翡錬が免許をとった翌日に、はじめて路上で車のキーをまわしたときとそっくり。ほんと、似たもの姉妹ね。あんたたち」

ギアを握る緋未の手に薫の手が重なる。その手が微かに震えている。

「でも、あんたまで東京で居なくなっちゃ駄目よ。ずっとわたしと一緒。いい、約束よ?」

 緋未は薫を見詰めた。

「あのね、わたし、ちいさい頃、薫ちゃんと姉さんはケッコンするんだってずっと思ってたの」

 薫は苦々しげに笑った。諭すような口調で言った。

「翡錬は居ないわ。そんなの出来ない」

「うん、だから、今度はわたしが薫ちゃんのお嫁さんになってあげる。いますぐここで。これでずっと一緒でしょ。私はどこにもいかない」

 無邪気に笑う緋未を薫は少し驚いた顔で見つめた。顔を背ける。震える声で「ばかね」と言って数度喉を鳴らす。正面に座り直した。薫の履いている黒のレザーパンツが座席をこする音が鳴った。

「緋未、早く車出して。ここ、ほこりっぽい。いらいらしてくる」

 薫の声はいつもの強気な調子に戻っていた。

 パジェロは静かな世界に吸い込まれるようにすすみはじめる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る