Let Love Rule

 もしも、清く正しく美しく踏み外すのが恋なのならば、それはコノコにとって、間違いなく「恋」だった。


 愛にはなれない、そばにいるのに窓越しのような、そんな「恋」。


 朽葉コノコの初恋の相手は女性で。


 アナーキストで。


 どうしようもなく魅力を備えて他人を離さない、そんなひとだった。


 名前は大杉幸。


 コノコは幸と出会い、踏み外してしまった。


 郷里を駆け落ちるが如くに離れ、大杉幸と暮らしだす。


 それはまだ、朽葉コノコが十王堂高等女学校に入学する前の話だ。


「わたしはバカなのだ」

 駆け落ちして〈和の庭〉の、帝都近郊の新興住宅地に住み始めて、コノコはある日、呟いた。

 自分にとっては、なんの得にもならない、ただ、苦しいだけの、「思想家」との生活。

 でも、愛想をつかすことがない。

 大杉幸は恋愛も巧みだった。

 大きな毒蛇に巻きつかれているかのように、身体も心も締め付けられる。


 離れられない!

 テンプテーション能力を持った、無政府主義者の首領にして、政府からの視点だと、土蜘蛛。

 それが、大杉幸という女性である。

 

 朽葉コノコは、幸の〈若い燕〉と呼ばれる存在になってしまった。

 コノコとしては、それで良かったのだ。

 平穏が訪れれば。

 結果、訪れることはなかったけれども。

 平穏なカップルを夢見ることを、その時のコノコは、願い続けた。


「幸お姉さま……」

 月明かりのもと、朽葉コノコは、ぼんやりとした大杉幸の残像を見る。

 昨日も、今日も、たぶん明日も……。



 今も、コノコは、大杉幸をどこか隠しながらも想い続けている。

 口には出すことじゃないから、しゃべらないけど。

 それに、幸のことを思い出すと、決まって泣きたくなるから。







〈和の庭〉、斜陽地区。

 その一角に、幼年学校を卒業後、アナーキズムの書物の刊行を行う出版社を立ち上げた女性がいた。

 彼女の名前は、大杉幸(おおすぎさち)。

 女中として奉公に出されている近江キアラ(おうみきあら)と、二人暮らしをしている。

 その出版社〈売文堂〉の門を、西の大きな港町からノックするため、朽葉コノコは、手提げかばんひとつだけ持ってやってきた。

 手提げの中には、大杉幸が執筆した『アナァキズム』と題された書物を、入れている。


「大杉先生! お会いしたいのだ!」


 玄関を開けて、近江キアラが、その姿を現す。

「なんだい、騒々しい。あたいも忙しいし、先生はもっと忙しいわ」

 尋常小学校に通っていてもおかしくないような背の高さとあどけなさの残る顔をした、不愛想な表情の女の子、近江キアラは、朽葉コノコの姿を認めた直後、持ってきた塩を玄関先に蒔いた。

「ひどい扱いなのだ!」

「仕方ないでしょ、先生のファンでも、家に押しかけるのは許さない。あたいと先生の、愛の巣に踏み入れたら、その足をもぎ取るわよ?」

「お、お、お、おどしなどにはかからないのだ! 大杉幸先生を出すのだ!」

「なんで先生をお呼びしなきゃならないの、この田舎娘!」


 コノコは手提げから書物を取り出し、口に出して読む。


「近代機械術の合言葉、それは〈思い切ってやってみろ〉だ。近代機械術の歴史は『大胆、そしてまた大胆に』の言葉の変遷に過ぎない。その大胆さは、文学、美術、戯曲や音楽にも及ぶ」


「ひとのうちの玄関で朗読しないで! バカ娘!」


「心が諸君の言うままに、大胆に話せ、大胆に書け、大胆に描け、大胆に作曲しろ!」


「あー、だからなんなのよ、このとんちき!」


 コノコは胸を張る。

「大胆に、思い切って、行動に移してみたのだ! だから、こーこーにー、来たのだぁぁー!」




 すると、呵々大笑しながら、和服姿のひとが、家の奥から現れた。

「君。名前は?」


 慌てる近江キアラ。

「先生! 関わっちゃダメな人間ですってば!」


「いいから、いいから。近江くん。君。名前は?」



 コノコは、流行の大きなリボンをぷるん、と頭の上で震わせ、答える。

「わたしはコノコ。朽葉コノコ。空っぽな自分に、思想を注ぎ込むために、やってきたのだ、大杉幸先生!」



「なるほど、そうか。あたしが、大杉幸。見た通りのアナーキストの女性さ。まずは靴を脱いで上がり給え」


「先生……。あたいと先生の愛の巣に若い燕がやってきた……ッ!」


「遠慮なくお邪魔するのだ!」



 歯車は、こうして回っていく。

 まるで必然であったかのように。


 朽葉コノコは、大杉幸と、こうして出逢う。







 とある大きな港町。

 港に着く船舶の乗組員のための物資や娯楽を提供することで、町は栄えていた。


 朽葉コノコは、帝都から港町に戻ってきてから、身を粉にして働いていた。

 継母の家庭内暴力に耐えながら。

「きっと、生きていれば良いことがあるのだ。大杉幸先生が、そう言っていたのだ。だから、間違いないのだ」

 毎日泣きじゃくりながら、働く。

 日に日に仕事は増して、学校の勉強は、時間がなくてみんなに追い付かなくなってきていた。

 コノコがどんな商売を継母にさせられていたか。

 それはもう、過酷な肉体労働、とここには書くことしかできない。

 そんな種類の仕事をさせられ、必死に耐えていた。


 いつか、爆発しそうだった。

 ほら、今日も呼び出しがかかる。

 コノコは知らない人にその身を委ねる仕事に、向かう。


 仕事場。

 その個室に入ったとき、毎日の日常とは違う光景が目に入った。


 個室の中がびっしりと血液で溢れかえっていた。

 低い天井からは血が滴っている。

 真ん中に、斧のようなものを右手に持った、大杉幸が、立っていた。

 左手には、コノコの継母の生首の髪を握っている。

 切断された胴体からは、まだ鮮血が迸っている。

「今日のお客さんは、あたし。……来たよ、コノコ」

「幸先生」

 大杉幸は生首をコノコの方に放り投げる。

「これからは〈お姉さま〉って呼んでね、コノコ」

「なんでここが……わかったのですか」

「思想家のネットワークを舐めちゃいけない。迎えに来た。駆け落ちしよう」

「お義母さんは、今、死んだのがわかったのだ。生首になってしまったのだ」

「じゃあ、生首に別れを告げよう。憲兵隊……行政警察にも友だちはいるんでね。この骸の処理を任せてある。さぁ、おいで」


 手を差し出す幸。その手は、今まで生首を掴んでいた手だ。


 だが、コノコはその返り血に染まった大杉幸の手を握り返す。





 幸は、コノコに向けて、言う。


「敵に打ち勝つためには、断頭台よりももっと以上のもの、恐怖政治よりももっと以上のものがいる。革命的思想がいる。本当に革命的な、広大な、敵が今までそれによって支配して来たあらゆる道具を麻痺させて無能のものにしてしまうほどの、思想がいる。

 もし、敵に打ち勝つためには恐怖政治しかないということであったら、革命の将来はどんなに悲しいことであろう。が、幸いに、革命には、それと違った有力な他の方法があるのだ。そしてこの方法はすでに、どんな方法が彼等に勝利を確かめるかということを求めている革命家等の新しい世代の中に芽ざしているのだ。彼等は、それがために、何よりもまず、旧制度の代表者からその圧制の武器を奪い取らねばならないことを知っている。あらゆる都市、あらゆる農村において、あらゆる圧制の主要機関をたちどころに廃止しなければならぬことを知っている。ことにはまた、かくして解放された都会や農村に、住宅や生産機関や運輸の方法や、また食料その他生活に必要ないっさいのものの交換を社会化して、社会生活の新しい型を始めなければならないことを知っている」




 コノコはその場で泣き崩れた。

「もう十分です、幸お姉さま」


 紅く染まった部屋で、顔と瞳を真っ赤にして、コノコはへたり込みながら、奇跡は起こるんだ、ということを知った。








 鏑木水館の近くにある汁粉屋〈キャラメル善哉〉。

 ここで、同人雑誌『新白日』のメンバーは集まって、あれでもない、これでもない、と唸っていた。

 そこには用務員先生こと夢野壊色と、編集者・獅子戸雨樋も着席している。


 コノコは、テーブルの上に、自分の原稿を広げた。

「蒸気タイプライターで打った文章なのだ」


 その場のみんなが、原稿を覗き込む。

 原稿には、こう、書かれていた。




「みな、独裁を夢見ている」


「みな、その敵の合法的虐殺を夢見ている」


「みな、この独裁者のあとに革命から生まれ出る『建物の冠』として、代議政治を夢見ている」


「みな、独裁者のつくった法律に対する絶対的服従を教えている」


「みな、個人や民衆の発意心を殺すことを夢見ている。革命家という名を僭称している百人中九十九人の夢なのだ」


「昨日は機関銃の餌食となり、明日は機関銃の主人となる。民衆は、それ以上、前に出てはいけない」



「『革命家』にとっては」




 一同、しばし沈黙。

 空美野涙子が言う。

「コノコ。政治色が強すぎるんじゃねーの」


 一方で笑って褒めるのは獅子戸雨樋だ。

「いいでし、いいでし。『文芸江館』はゲーム性を重んじるでし。それとはっきり区別出来て、いいでし」



 コノコは思い出す。

 ある日、大杉幸は、流浪の政客だった頃の吉野ヶ里咲と、地方で討論会を行ったことがある。

 そこには大衆が押し寄せた。

 ひとで討論会場は埋め尽くされ、コノコは目を丸くする。

 そのとき、幸はこう言ったのだ。


「真の〈魔性〉は、書物そのものなのだよ。ただし、例えば水兎学とわたしのような無政府主義のスタンスの書物が向いてるベクトルは、まるで反対方向さ」

 と。


 そう。

 書物は〈人を喰らう鬼〉だ。

 それを飼い慣らせないと、幻魔作用によって、ひとは心に巣食う〈土蜘蛛〉に支配される。


 だが同時に、書物でないと出来ないことも、ある。


「革命の時に、どんな奴がどんなことをするかは、よく知っていなければならないことなのだ」

 コノコは言う。

 まるで、〈先の革命がまだ完成していない〉と言わんばかりに。


 佐原メダカは、

「コノコ姉さん、どうしちゃったんですかぁ。どこか頭でも打ったのですかぁ」

 と心配するが、他の面々は、腕を組んで、この言説を吟味していた。

 雨樋は一人、店自慢のキャラメル善哉をスプーンで食べながら、

「いいねぇ」

 とだけ、言った。








 吉野ヶ里咲との討論会では敗北を喫した大杉幸は、その後のことを考えた。

 答えを自分の中でだけ出した幸は、ある日、突如、同居状態の近江キアラと朽葉コノコの二人に、

「モガにしてやるよ」

 と、言って、帝都へと連れて行った。


 日比谷に一軒だけある西洋人の経営する「美容院」へと、二人を連れていった。

 キアラとコノコを椅子に座らすと、幸は、

「短髪にしてやってくれ」

 と、その店のひとに言う。

 言われた彼女は青い目を丸くしたが、頷く。

 躊躇いを捨てた美容師は、二人の長い髪をザックザックと切り落とす。

 髪を結っているのが普通の頃だった。

 ショートカットになった二人は驚き、幸は満足げに微笑んだ。

 美容師も、愛想笑いをして、

「お代は結構です」

 と言って、客であるコノコたちを追い出した。


 次に、麹町に待合バスで移動した。

 ここにある婦人服を売る店に、幸が馴染みの〈洋服屋〉があり、頼めばカスタムした注文も承る、と幸に返したらしい。

 注文すればつくってくれる、というのを良いことに、幸は、ワンピースを洋服屋につくってもらった。

 白いワンピースは近江キアラに、ピンクのワンピースは朽葉コノコに。


 モガ。

「モダンガール」の略称である。

 コノコとキアラは、あっという間に、モダンガールになった。


「いいだろう、モガも。これからは婦人の時代にしようじゃないか」


 モダンガールになったコノコとキアラを連れて、銀座の街を歩く幸。


「お姉さま、わたしは嬉しいのだ!」

 コノコは興奮した面持ちで言う。

 一方のキアラは、おどおどしている。

「一体、どうなされたのです、先生?」



 キアラのおどおどした顔を覗き込んでから、幸はキアラの頭を撫でた。

「あたしは二人を高等女学校に入れることにした。寄宿舎の全寮制だ。ちなみに、学費も全て支払い済みだ」


「先生、あたいは先生が好きです、そばに居させてください、それがあたいのしあわせなのですからッ!」


「決定事項だ。全額支払ったって言っただろう。あたしの顔に泥を塗る気かい?」




 ……………………。

 …………。

 ……。


 入学する少し前、あの〈震災〉に巻き込まれ、大杉幸はどさくさに紛れるようにして憲兵隊に殺された、という。


 寄宿舎へ入寮してしまっていたコノコたちには、本当のことはわからない。


 近江キアラは、思想を磨くために、寄宿舎へ入ったと同時に、〈夜間地区〉の長良川江館へも、入塾した。


 土蜘蛛の立場にあった大杉幸の女中であった近江キアラがなぜ、土蜘蛛を目の敵にする水兎学派の中へと入っていったのかは、コノコにもわからない。


 でも、今、鏑木水館に入塾している立場になると、コノコにも少しずつ見えてくるものもある。


 コノコとキアラ。


 二人はそれぞれ、この潮流に、なにを見出すのだろうか。


 それを見極めるには、まだ早い。


 だって二人は、今を謳歌する女学生なのだから。




〈了〉

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