Trampled Under Foot

 女学生時代のわたし、夢野壊色は、校庭の中庭のベンチに一人で座りながら、島崎藤村の『破戒』を読んでいた。

『破戒』には〈学校の小使い〉が出てくる。

 けど、数年後のわたしがまさか、小説にも出てくるその学校の〈小使い〉である〈用務員〉になるとは、誰も予想していなかっただろう。

 正確には、寄宿舎の用務員になったわけだけれども。


 それはともかく、読むと意外にコミカルなのが、文学というものだ。

 いや、純文学のテーマは概して重く、そこに諧謔が混じる形式を取る。

 その〈妙〉こそが、文学のツボだろう。

 重く、しかしその重さは軽やかに。

 ユーモアをたっぷり入れた、真っ黒い珈琲を暗い照明の中で飲むような。



 白い木製のベンチに座りながら。

 視線を、わたしは読書中の『破戒』に落とす。

 そこには、こう書いてあった。




…………父はまたつけたして、世に出て身を立てる子の秘訣、唯一つののぞみ、唯一つのてだて、それは身の素性を隠すより外に無い、

…………『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐりあはうと決して其とはうちあけるな、一旦のいかりかなしみにこのいましめを忘れたら、その時こそよのなかから捨てられたものと思へ』

…………こう父は教へたのである。




「確かに、そうね」

 誰にともなくそう呟いてから、わたしは校庭の芝生で昼食を取っている、他の生徒たちの方を見る。

 独りでいるのは、わたしくらいだ。


 すこし、思うところもある。

 女生徒たちのなかには、くすくす笑いながら、わたしを見ている者もいる。


「この噂、ご存知かしら。夢野さんてね、同性愛者なんですって」

「まぁ! 夢野さんて、あのいつも俯いてご本を読んでらっしゃる方ですわよね」

「そうそう。どういうつもりで読んでいることやら」

「怖い怖い……」


 ギリギリ聞こえるようにする陰口。

 もう慣れた。

 わたしに癇癪を起させたいのだろう。

 わたしはこの学校には不似合いだ。


 くちびるを噛んでこみ上げる悔しさを我慢していると、「りん」と、鈴の音が鳴った。

 それは、男子学生風にたすきがけにした鞄につけた、お守りについた鈴の音。

 わたしは鈴の音の方を見る。

 それは、校庭の中庭を横切る、全身が刀でできているのではないか、と思える鋭さの塊。

 名前を、鏑木盛夏、と言う。

 なんであの娘は、あんなに凍るような視線でまわりを見ていられるのだろう。

〈先生のお気に入り〉、噂には〈先生の稚児〉と呼ばれている、あの鏑木盛夏は、なぜ、あんなに冷静に物事を見られるの?


 無意識に目で追ってしまっていた相手、鏑木盛夏が、ベンチを見る。

 わたしと目が合う。

 だが、それは一瞬だった。

 鏑木は、校庭の中庭を横切って、すぐ建物のなかに消えてしまう。


 悔しい。

 わたしは悔しかった。

 まわりからの好奇の視線も、鏑木盛夏の落ち着き払ったその態度も。


 先生……灰澤瑠歌(はいざわるか)先生は、なんであんな愛想なしで見下したような冷たい女、鏑木盛夏を稚児にしているのだろうか。

 わたしには、解せなかった。

 灰澤先生のことを好きなわたしは、またくちびるを噛んだ。

 強く噛みすぎて、血が出た。

 その血を、わたしは舐めとる。

 鉄のような味がした。







 元号が変わる、少し前に、わたしは生まれた。

 灰澤瑠歌先生は、さらにその前、あの〈革命〉の前後に生まれたのだという。

 灰澤先生は、『水兎学』の学び舎に在籍していたことから、〈革命後〉の〈残党の掃討戦〉に駆り出されていた。

 要するに、新政府に盾突く〈まつろわぬ者〉、すなわち〈土蜘蛛〉と呼称される人々を〈狩る〉ために、活動をしていた。

 師範学校の出の教員ではない。

 代用教員、と呼ばれてはいるが、それも違う。

 あの革命の原動力となった〈水兎学〉の徒、なのだ。

 闇夜に紛れて、人斬りをするのが、灰澤瑠歌先生だった。

 別枠の人間。

 いつも血の匂いがして、それでいて、昼は生徒たちに倫理を語る。


 そんな先生との出会いだから、わたしもまた、血なまぐさい事件で、灰澤先生と出会う。



 結論から言うと、わたしの両親は〈土蜘蛛〉で、灰澤先生は、その土蜘蛛を〈調伏〉しに、やってきたのだ。

 そこで、わたしは〈先生〉と、出会う。




 わたしの両親は、失敗作のわたしを毛嫌いし、成功作である弟に、英才教育を施していた。

 弟は、のちに自由主義を語りだす者たちと同様、〈洋行〉に出された。

 つまり、留学である。

 外国、西洋の気風を学ばせる。

 それは政府が主導していた大事業のひとつだったが、新政府を打倒したい機関の資金によって、わたしの弟を含む幾人かの〈天才〉たちもまた、洋行した。

 羨ましい話かもしれなかった。

 この国のリーダーを育てる機関と、政府打倒のために育てる機関は、ともに〈有能な人材となる候補〉を西洋に遊学させたのだから。



 弟が遊学して、家にいなくなった頃、わたしは、母親の玩具になっていた。

 父は、借金をつくって、わたしと母を残して、失踪した。

 死んだ、のかもしれない。

 それは、わからないが、借金だけは失踪せず、払うことになった。



 母はわたしを、「知人の女性の家」に連れていく。

 その「知人」には、わたしより歳が上の、娘がいた。

 わたしは、母とその知人の手によって、知人の娘さんと〈つがい〉にさせられた。

 もちろん、性的な意味である。

 わたしは「お姉さんに〈いたずら〉をされる」日々を送ることになった。

 わたしの貞操は、そこで突然、破られたのだった。


 性的ないたずらをされているのを見て笑って喜ぶ母と、その知人。

〈お姉さん〉も、その気になって、わたしを加虐的にいたぶり続ける。

 いたぶられている様子を、知らないひとたちが見学するようになった。

 性的虐待は、見世物になった。

 覗き部屋のような、窃視癖を満足させる、倒錯的な、性行為をされる日々だった。


 母は、

「これがお金になるのよ」

 とわたしの頭にげんこつを落として、涙を流させて、そのリアクションに笑った。

 加虐。

 母の笑いは止まらなかった。

「今度はその手の娼館へ売り飛ばそうかしら。いや、売り飛ばしたら買い切り商品か。わたしが直接、運営しましょうか」

 おほほほほ、と下卑た笑みを浮かべ、将来の展望を語る。



 だが。

 見世物にしたため、商売が明るみに出てきてしまった。

 同時に、素性も調べられたのだろう。


 土蜘蛛狩りである〈退魔士・灰澤瑠歌〉が、母とわたしの前に派遣されてきたのは、わたしの精神が崩壊直前になっていた頃だった。






 最新の洋装、そして高価な宝石の装飾品で着飾ったわたしの母。

 母はわたしを裸にしてひも付きの首輪をつけさせた。

 猫飯を、裸で四つん這いになったわたしが、手を使わず口で直接食べさせられる。

 四つん這いで食べるわたしに笑いが止まらない母。

 犬や猫と同じ扱いをするのが、〈ツボ〉だったらしい。

 それが、失敗作のわたしに課せられた罰のひとつだった。


 人間性を徐々に失っていくわたし。



 そこに、あのひとは現れた。

 水兎学を受け継ぐ退魔士、灰澤瑠歌が。

 あきらめるには、まだ早かったのだ、わたしは、人生を。



 長屋の玄関を壊して侵入してきた灰澤瑠歌。

 まずは、置き洋燈(らんぷ)を蹴飛ばす。

 間髪おかずに、〈蜘蛛切〉で、使用中の火鉢を斬る。

 洋燈と火鉢の中身が、畳敷きにブチまかれ、火の手が上がる。


 首輪で繋がれたわたしを流許(ながしもと)で見て茶碗酒を飲んでいた母は、今起きた事態についていけず、口をだらしなく開けて、灰澤を見た。

 しばし間があってから、

「蜘蛛切ッ! 退魔士! ヒィッ! お金はわたしが稼いだのよ! ひひぃ!」

 と、母は眼を回した。

 退魔士の出現に混乱して整合性のなさそうなうわごとを漏らす。



「水兎学ヶ退魔士、灰澤瑠歌。我が〈蜘蛛切〉の錆となれ」


「わ、わたしはこの出来損ないを稼げるように使ってやっただけですことよ」


「罪状告白? 知らないな。土蜘蛛を、わたしは斬るだけだ」


 部屋に火の手が上がり、それは家加速度的に広がっていく。

 炎のなかで、灰澤は、

「残念ながら、わたしは〈殺す〉のが生き甲斐でね。お前みたいな奴を殺すのが」

 と言ってから、〈蜘蛛切〉を空で振った。

 それから、

「言い残すことは?」

 と、母に訊く。

「お、お助け……」

 言い終える前に、灰澤は胴体と首を蜘蛛切で切り離した。

 斬首。

 燃え盛る部屋に転がる生首を、蹴球の球のように蹴り飛ばす灰澤。

 自らを支えきれなくなった母の胴体は、火の海に沈む。


「肥えた土蜘蛛の脂ぎった身体はよく燃える」


 わたしは裸で、四つん這いで、首輪がつけられてて。

 そうさせた本人の身体が炎に包まれるのを見て。

 それでも、血がつながっていたからかもしれない。

 頬を涙が伝った。



 蜘蛛切で首輪のひもを切断する灰澤瑠歌。

「精神をだいぶ失調させられてしまったようだね、娘さん」

「あ、あ、あ、わ、わ、わたしは、ど、どうした、ら?」

 呆然自失のわたしに、灰澤は優しく耳元でささやく。



「わたしのもとへおいで。その瞳は、まだ死んでいないようだからね」



 灰澤瑠歌は、わたしをこの地獄から連れ出してくれた。

〈灰澤先生〉は、わたしを抱きしめる。

 炎の中で。

 母の真っ二つになった死体が燃やされている、そのなかで。


 そのときから、先生は、〈わたしの先生〉になった。







 土蜘蛛が出自の、わたし。

 故郷は、〈和の庭〉斜陽地区からずっと北東にある、東の国。

 東の国に住まうは、皆、東国人(あずまうど)。

 この地は、古来より〈東下り(あずまくだり)〉する場所の、もっと先。


 京の〈みやび〉に対し、東の〈ひなび〉。


 そのひなびた東の国にある、〈多賀郡館〉が、灰澤先生の本拠地だった。

 先生の長刀・蜘蛛切の二代目にあたる短刀・蜘蛛切は、鏑木盛夏に託された。


 多賀郡の御屋敷通がある黎明地区。

 時代は変わろうとしているなぁ、と思いながら、わたし、夢野壊色は、幼き日の思い出を回想していた。


 ……カフェー〈苺屋キッチン〉で、紙巻煙草の紫煙を吐き出しながら。

「景気が良いのは、いつまでかな」

 わたしが言うと、隣で座っている苺屋かぷりこが背中を叩く。

「景気が悪い顔してるのはおまえだろ、夢野壊色!」

「痛っ。背中を思い切り叩かないでよ」

「わりぃ、わりぃ」

「しかし、最近、暗くしてたのは、確かだよ」


 長袖の下で巻いた、手首の傷のことを考え、左手首を、右手で掴む。

 よし!

 まだわたしは、生きている。


「文学同人活動、始めたんだってな、壊色」

「なんで知ってるのよ、かぷりこ」

「いや、有名だぜ、用務員先生さん」

「その名で呼ばないでよ」

「『二つ名』があるなんて、有名人過ぎるぜ、壊色。水館バーサス江館だ、って一部で騒がれてんぜ」

「江館と競合する気はないんだけど……」

「文芸雑誌『新白日』か。『文芸江館』派の対抗馬として見られて、気分はどうだい」

「うーん、実感わかないなぁ」


 そうだった。同人活動を始めたのだった。

 人間、いろいろあるなぁ、と思う。


「わたしは、誰かに足元を踏まれていたような人生だったよ」

「誰かって、誰だよ?」

「さぁね」

「キザだねぇ、壊色」

「かぷりこに言われたくない」

「寄宿舎は、まだ修築工事、終わらないのか」

「そうだね。奇しくも『新白日』の同人のメンバーが、私塾・鏑木水館に集っているよ」

「じゃあ、同人雑誌の会合、やり放題じゃん」

「そういう言い方も、出来るな。奴らは泊まり込みだし、水館に」

「楽しくなってきた」

「期待はしないで、さらりと読んでほしいな」

「さらりと、ねぇ」



「カフェーで油を売っている場合でもないな。帰らなきゃ、下宿に」

「原稿ですか、用務員先生?」

「だからやめろってば、その呼び方」

「あはっ。いいじゃん」

「じゃ。お勘定」

「はいはい」



 わたしはちょっと、暗くなりすぎているのかもしれない。

 頭を切り替えて、次の時代に備えよう。

 吉野ヶ里咲の思想、あれはそれ自体が爆弾なのではなく、吉野ヶ里咲を起点とした、いわばそれが起爆剤になる可能性を、わたしは感じる。

 吉野ヶ里が呼び寄せるであろう波紋は、この国のパラダイムをシフトさせてしまうだろう。

 そして、反動がやってくる。

 土蜘蛛は、「なにかを狙っている」。

 そのなにかが、爆発、暴発しないよう、わたしや盛夏は動くべきだろう。



「今ならまだ、間に合うかもしれない」



 手提げ洋燈を手に持ち、帰路の途中、わたしは考え続けた。

 答えは、でなかった。

 まだ、輪郭さえつかめないのだ、〈異形のなにか〉を。




〈了〉

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