Without A Doubt
望まれないで生まれてきた子供だった。
父と母は、わたしを〈失敗作〉と決めて捨て去った。
次に生まれてきた弟を〈成功作〉とするために、父と母は、弟を、それは大事に大事にと育てた。
わたしの居場所なんて、最初からなかった。
もし〈先生〉に拾われて『水兎学』を学ぶことがなかったとしたら。
わたしは間違いなく〈自壊〉してしまっただろう。
いや、壊れているからこそ、わたしは〈夢野壊色〉なのだけれども。
☆
わたしは部屋の中で気を失っていたらしい。
起き上がり、左手首を見る。
何度もためらいながら切った傷跡が、生々しく残っていて、もちろん痛い。
畳には、今回も大量の血液を吸ってもらってしまった。
これ、畳、腐ってしまうのじゃないかしら。
手首を切ったあとにカルモチンを服用したけど、オーヴァードゥーズには達しなかったらしい。
気を失っている間に、吐き出したようで、口から出した水とカルモチンの粉も、血液と一緒に、畳の上にべっとり水たまりをつくっている。
「わたし、バカなのかしら」
窓の外でスズメがちゅんちゅん鳴いている。
日が昇ってきている。
そして、逆行を浴びて、仁王立ちしている、あいつがいる。
カーテンを開けたのは、こいつね。
わたしを見下ろしているこいつは、静かに言う。
「あなたは、バカよ。間違いなく、ね」
「いつ、部屋に入ってきたの、盛夏?」
「昨日は水館に顔を出さなかったから、気になって数時間前からここにいさせてもらっているわ」
「へぇ……」
「過剰摂取は、あちしの可愛い風花が、あなたのみぞおちに何度も拳を入れまくったから、吐き出せたの。感謝しなさい。胃洗浄は嫌でしょう?」
「雛見風花……あの娘が、わたしを助けるなんてね。笑える」
「風花は、医学を学んだわ。途中で辞めたけれどね。医学の徒は、患者を死なせようとはしないはずよ、少なくとも、風花の流儀では、〈生き永らえさせる〉のが、医学ね」
「そう……」
「今でも、死にたい?」
「助かりたいわ。この世界で、わたしだけが助かりたい。あとの人間は、苦痛で眼を腫らしながら死んでいってほしいって、願ってるわ」
「飛んだ平和呆けね」
「平和、ねぇ。退魔士としてはどーなのさ。今が平和って、言える?」
「生きなさい、壊色。水兎学が、また役に立つことがあるわ、間違いなく」
「間違いなく、か」
「もう朝よ。水館では合宿中の〈あの娘たち〉が、心身統一のために、掃除をしていることでしょう」
「寺子屋ね」
「私塾と言ってほしいわ、壊色」
手を差し出す盛夏。
「そうね、盛夏」
その手を握って、起き上がるわたし。
わたしはまだ、やるべきことがあるらしい。
今回もわたしは、生き延びたのだった。
☆
「清掃ははかどっているかしら」
「廊下の雑巾がけ大変なのだー。なんなのだ、この長い廊下は!」
にやりと笑って、障子の格子の隙に指をすっと擦り付ける鏑木盛夏。
「おやおや、障子の掃除すらできないのかしら、女学生さんというのは?」
「むぅ。塾長に言われると悔しいのだ!」
「じゃ、とっとと雑巾がけ終わらせて、障子の掃除、丁寧にやり直してね」
どたどたどたと、コノコとメダカが雑巾をかけながら廊下を往復している。
わたしは、
「若さが溢れているわね」
と、女学生のお嬢さんたちの行う清掃とやらがどのくらいの精度で行われるのか、じーっと見ていた。
「盛夏。刑事さんがお見えよ」
雛見風花が廊下まで来て、盛夏にそう告げた。
「ここに通してちょうだい、風花」
「わかったわ。……ところでそこの死にぞこない。この風花にお礼はないのかしら。胃洗浄より幾分マシだったでしょ、みぞおちへの攻撃」
「死にぞこないとはわたしのことかしら。雛見風花?」
「あなた以外、ここで自傷行為を行う人間はいません。断言はできないけれど、一番心が荒んでるのはここでは夢野壊色。あなたよ」
「……ありがとね、心配かけたかしら」
「医学に脚を突っ込んだことのある者なら、みんな同じように患者を助けるわ。風花はそれをしただけだもん。勘違いはしないでね」
「ふーん」
「あちしの可愛い風花を怒らせないで、壊色。あちしの可愛い風花はあなたの命を助けたのよ」
盛夏がわたしにそう言っていると、雛見風花は刑事を連れてきた。
おもちゃの行商、または興行師が売っていそうなヨーヨーをしゅるしゅるる、と伸ばしたり引っ込めたりしながら、真面目な顔つきの女性の刑事がやってきた。
変な女、とわたしは思う。
「鏑木盛夏。武久現が逃走したわ」
「それを伝えに来たの、園田乙女刑事」
「政治が絡んでいるから、仕方なく」
「あなたが好んでここに来るとは考えづらいわ。誰の差し金かしら」
「わたしは政治家の駒じゃないわ」
「わかってるわよ、園田。……吉野ヶ里咲の差し金、ね」
「ご名答。吉野ヶ里咲は今、ご満悦よ、ここ〈鏑木水館〉でも同人雑誌を創刊したから」
「吉野ヶ里が文芸に興味があるなんてね」
「いろいろあるのよ。中でも夢野壊色と、朽葉コノコが執筆陣に入っているのが、特に吉野ヶ里の興味をそそったようなのよ」
「ふぅん」
「教育機関を狙って攻撃したやり口を見ると、土蜘蛛の一人である武久現は、大杉幸とつるんでいる可能性が出てきたわ」
「大杉幸……」
「アナーキズム……無政府主義者。婦人雑誌の編集長が本業だけど、大杉幸はロビーイングをする活動家。憲兵隊が狙っている要注意人物の中でも、大物の一人よ」
「憲兵隊ねぇ。そういえば大杉幸は先の〈震災〉で憲兵隊に殺されたって聞いたけど」
「眉唾な情報ね。そう易々と、どさくさに紛れて殺さるたまじゃないわ」
「ふぅん」
「浮かない顔ね」
「なんでもないわ」
「土蜘蛛の〈調伏〉、期待してるわ。わたしも、警察も」
「それはありがとう」
「では、わたしはこれで」
「風花。お見送りしなさい」
「わかったわ、盛夏」
帽子を脱いでお辞儀をしてから、帽子をかぶりなおし、園田乙女は帰っていく。
わたしはその様子を見ながら、ミルクキャラメルを口に含んで舐めていた。
武久現に、吉野ヶ里咲、か。
☆
下宿・西山荘に帰る途中で、降りしきる雨。
「チッ。洋傘持ってくるの、忘れたわ」
小雨から、本降りへ。
暗い空。夜の肌寒さと、わたしを打つ雨。
瓦斯ランプの街灯のもと。
わたしは紙巻煙草に〈苺屋キッチン〉のマッチを擦って、火をつける。
一服吸って、紫煙を吐き出す。
空は暗い。
夜だから?
雨だから?
それとも、見上げるのがわたしだから?
「全部がくだらないわ。くだらない」
「くだらない? ええ。あなたはくだらない人間だわ。あちしだってくだらない人間よ。ひとはみんな、等しくくだらない。くだらないゆえに、愛しい」
雨が遮られる。
スッと洋傘を差し出してわたしを雨粒から守ったそいつの方を振り返る。
声の主は、鏑木盛夏。
「傘、忘れたようだから持ってきたわ。どうぞ、くだらない人間さん」
そう言って、クスリと笑いをかみ殺す盛夏は、いじわるだ。
「いじわるね、盛夏」
ストレイトに口をついてしまう。
「どういたしまして。若い苦悩を抱えてるあなたをあちしは放っておけないわ」
「……嘘つき」
「そうね。嘘かもね。すべては、嘘かもしれないわ」
「茶化さないでくれないかしら」
「今朝、あんなことがあったばかりですもの。でも、安心したわ。雨に打たれながら煙草を吸ってるようなら、大丈夫ね」
「風花ちゃんに怒られるんじゃないの? わたしとこんなところでこんな会話をしていたら」
「それはどうかしらね」
「どういう意味?」
「あちしと風花の絆は、あなたとのそれとは違うわ、壊色」
「それで片付く問題?」
「片付くんじゃないわ。片付けるのよ」
「はぁ。訊くんじゃなかったわ、こんなこと。あなたはいつだってそう。自己完結していて、わたしには盛夏がなにを考えているのか、ちっともわからない」
「わかってほしいとも、思ってないわ。誰にも」
「誰にも? 愛しの風花ちゃんにも?」
「ええ。そうよ。それに、壊色が風花を〈ちゃん付け〉するのも、なんだかおかしいわ」
「どういう意味よ、それ」
「こういう意味よ」
軽くわたしの頬に、くちづけをする盛夏。
「バカ……」
わたしがそう言って視線を逸らすと、盛夏は、
「世界に終わりが来ないようにするのがあちしの使命。でも、世界の終わりはすぐそこで待っている。珈琲でも飲みながら、〈終わり〉は、あちしたちを静かに待っている」
虚無感を抱いているのは、盛夏も同じなのかもしれないな、とわたしは思った。
だからわたしも、わたしの方から、盛夏の唇に自分の唇を重ねる。
洋傘で街灯を遮り、わたしたちは、長い長い、くちづけをする。
わたしと盛夏は、いつまで経っても、この虚無感から抜け出すことはできないのかもしれない。
だからこその、長い長い、くちづけだった。
〈了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます