Bone Machine

〈和の庭〉から遠く離れた避暑地。

 わたし、夢野壊色が旅先でたまに出くわす、同じように旅をしている人間がいた。

 その避暑地でも、たまたまそいつと出くわしてしまった。

 避暑地の、旅館の前で。

 そいつは、旅館から出てきたところだった。

 帰りなのだろう。

「やぁ、旅の方」

 さわやかな笑顔で、そいつは帽子をとってわたしにお辞儀をした。

 身体のラインがすらっとした美人である。

「旅の方って、あんたも旅をしてるじゃないの。会うのは、一か月ぶりくらいかしら」

「以前は、一か月も前のことなのですね、壊色さん」

「一か月しか経ってないって言うのよ、こういうのは。吉野ヶ里咲(よしのがりさき)さん」

「わたしの方はもう、〈和の庭〉に帰ろうと思っておりますの」

「へー。またなんで」

「答えを得たからです、この旅路の中で」

「答え?」

「立憲君主制と民主主義は両立し得る。それを踏まえた上での、人民多数のための政治……。その考えが浮かんだのです」

「御大層なこったね、咲さん」

「しかしこれは、意識の改革を迫ることになる。わたしはこれから、啓蒙のための団体をつくり、講演会などでわたしのこの考えを広め、国民意識の改革をして参りたいと考えております」

 変なやつだなぁ、とわたしは思った。

 いや、政治的な、こんなことを考えている奴は、みんなこの吉野ヶ里咲のように、変な奴なのかもしれない。

 わたしのよく知るあいつ、〈水兎学派〉鏑木盛夏だって、変な奴だ。


「では、わたしはこれで。あなたにも期待していますよ、夢野壊色さん」

 言いたいことだけ言って去るのは、吉野ヶ里咲のいつものスタイルだった。

 わたしもカーキ服姿で男装風にしているけれど、この吉野ヶ里咲という女性はそんな風体の問題じゃない。

 いま流行りの女性の社会進出、職業婦人なんて言葉じゃ伝わらないほどの男っぽさを持っている。

 こいつなら、もしかしたら社会を変えられるかも、という期待さえ抱かせる。


 わたしは吉野ヶ里咲が立ち去るその後ろ姿を見ている。

 見送るかたちになってしまったが、そのあとで、目的の旅館に足を踏み入れる。

 受付には、先に旅館に入っていた長良川鵜飼が、頬を膨らませて怒りながら待っていた。


「もぅ、遅いですよ、壊色先輩! 受付は済ませちゃいましたから、部屋に行きましょう」

「そうね、鵜飼」

「どうしたんです、先輩。思案気な顔しちゃってー」

「いや、ちょっとね」

「なんですかー? 可愛い後輩のボクになんでも打ち明けちゃってくださいよー。今日はボクと一緒にベッドインしちゃいます?」

「阿呆なこと言ってないの、鵜飼」

「せっかくの避暑地なんですからー、楽しみましょうよー」

「ええ。楽しもう」

「え? じゃあ、ボクを」

「抱きません!」

「えー?」


 余談だが。

 ここから〈和の庭〉に戻った吉野ヶ里咲がつくった団体こそが、この国のデモクラシーを活発にする一因となった『民本』主義の結社、〈黎明派〉なのであった。

 だが、その時のわたしは、その未来を予想することすらできなかった。

 吉野ヶ里咲は、本当に食えない奴だ。

 今もわたしは、そう思う。







 私塾・鏑木水館の講堂の壇上に立つ塾長・鏑木盛夏。

 塾生席には、朽葉コノコ、佐原メダカ、空美野涙子、金糸雀ラピス、金糸雀ラズリという面々が正座をして、鏑木盛夏塾長の話を聞いている。

 盛夏の発する言の葉は、静かでゆっくりと、聞き取りやすい声でなされる。

「女学校の寄宿舎の修復作業が終わるまで、あなたたちにはここで合宿してもらいます。その間、水兎学を含めた、集中講義を行いますので、よろしく」

 わたしも、ついでだから一番後ろの席で、講義を拝聴することにした。


「最初に蒸気機関の話をしたいところだけど、それより、あなたたちがやらかした〈事件〉の方が問題ね」


 盛夏が話している間、妹のラピスにコソコソ話をする姉のラズリ。

「あのね、ラピス。わたくしまでがなんで連帯責任を取るって名目で水館の塾生になってるのよ。しかも合宿ですわよ?」

「にゃに言ってんにゃ、バカ姉。絵葉書型ゲーム基盤の店をにゃたしに教えたのは、おまえだにゃ、バカ姉」

「風紀が乱れるから近づくな、って意味で教えたのですわ、ラピス。あなた、本当に阿呆ね。しかも涙子さんまで巻き込んで。許せませんわ」

「にゃはは。涙子だってノリノリだったぞ」

「はぁ……ラピスになにを言っても無駄だってこと、失念していましたわ。はぁ……」


「私語は慎め、そこの姉妹。金糸雀さんの家や学校では、授業中、コソコソ私語を話すのが失礼にあたるとは習わなかったのかしら」

「…………」

 黙るラピスとラズリ。

 そこにコノコが、

「どーせ寄宿舎の修復が終わるまで、みんなは里帰りしているのだ。わたしたちは〈黎明地区〉に残って、ここで世話してもらうのだ。特権的なのだ、水兎学なんて滅多に学べないのだー」

 と、ラズリに向かって言う。

「そうですわね。コノコの言う通りでも、ありますわね。里帰りなんてしたくないメンバーの集まりですし、わたくしたちは」

 納得する学校の風紀委員長、金糸雀ラズリ。


「もう、話を進めていいかしら? まずは、蒸気計算機の『計算機』の仕組み、つまりコンピュータの考え方を、頭に入れましょう。使う道具については、一通り使い方を覚えるものよ?」

 盛夏は、そう言うと、正面の黒板に、チョークで板書する。




 ……みなさんは『ティンカートイ』というおもちゃをご存知かしら。

 ……ティンカートイとは、木製の軸と糸巻きでできたおもちゃよ。

 ……これがどうしたか、というと、物理学には〈ティンカートイモデル〉というものが存在するの。

 ……ティンカートイモデルとは、物理学のモデリングで、メカニズムを簡潔に説明するため細部を取捨し、単純化させたものよ。


 ……その簡潔なモデルで話すわ。


 ……演算処理装置である、コンピュータの単純な原理。


 ……あらゆるデータは、1と0の二つの記号の列に変換できる。

 ……そのデータは、ゲートと呼ばれる単純なスイッチが行う、AND、OR、NOTという基本操作で制御できる。


 ……「ANDゲート」の二つの入力に1という信号が来ると、ゲートは1(YES)を出力する。

 ……そしてそれ以外の場合は0(NO)を出力する。

 ……つまり「A&B」ということ。


 ……「ORゲート」は、AとBのどちらかに1が入力されれば、1を出力する。


 ……「NOTゲート」は、1が入力されると0を出力し、0が入力されれば、1を出力する。


 ……この基本操作を何百万個とつなぎ合わせると、デジタルな連鎖反応を引き起こすことができる。


 ……これをティンカートイ製演算装置(コンピュータ)と仮に呼びましょう。


 ……ティンカートイ製演算装置の原理は。

 ……情報は二種類の状態を取り得るどんなものを使っても表現できる。

 ……オン、オフスイッチでも、位置が切り替わる、文字通りティンカートイでも、ね。




 盛夏が黒板に板書しながら、解説を加えていく。

 わたしは後ろの席で、あくびをかみ殺しながら、その話に聞き入っていた。

 なんで授業って、こんなに眠くなるものなのかしらね。







 ……例えば。

 ……ティンカートイでできたORゲートがあったとして。

 ……AとBという入力用の軸のどちらかが右側に押し込まれると、出力用の軸が動く。

 ……NOTゲートやANDゲートも同様にティンカートイで作れる。


 ……三目並べは、二進数という二者択一の言語にたやすく言語化できる。

 ……なのでティンカートイのゲートの組み合わせ、1と0の代わりに×と〇を操作すれば、この状況を処理できる。


 ……次に、ティンカートイ製のスペルチェッカーを考えてみましょう。


 ……これは、アルファベットの各文字を、1と0、つまり軸の上の糸巻きのパターンを使って表現すればいい。


 ……スペルチェックを行う装置は、ティンカートイとスペルを記号化した木製の記録軸からなるデータベースを使って作ることができる。


 ……ティンカートイが大量にあれば、この方法で文章全体を処理できる。




「単純なモデルで考えると、つまりはそういう仕組みで、演算処理装置は動いているの」


 一気にそこまでしゃべり切ると、盛夏は教卓の上に置かれた湯のみでお茶を飲んだ。

「お茶がぬるくなる前に話し終えられてよかったわ。で、みなさん、理解できたかしら」


 コノコが挙手をして、

「説明されてもわからないということが、わたしにはわかったのだー!」

 と、笑顔で言った。

 それを見てわたしは、

「天然なのかしら、この娘は……?」

 と、不思議に思った。



 講義はまだまだ続くようだ。

 塾生ってわけではないわたしは、こっそりと塾邸から、外に出ることにした。




「さて。どこに行こうかしら」

 カーキ服にカーキズボンの男装のわたしは、歩いていると奇異な目で見られてしまっているが、お構いなしに、黎明地区の石畳を歩く。


「そうだった、塾生になったあの娘たちのつくる同人雑誌の『同人』になったのを忘れてたわ。夜、また水館にはお邪魔しましょうか」


 同人雑誌。流行っているものねー、とわたしは、他人事のように感じながら、歩く。

 そうしていると、駅に着く。

 浅草にでも行くとしましょうか。







 駅までの通り道。

 ところどころの塀や商店の店先にポスターが貼ってある。

 そのポスターのほとんどが、〈黎明派〉のポスターだった。

 ポスターにはどれにも、絵師が描いた吉野ヶ里咲のバストアップの似顔絵。

「吉野ヶ里先生、〈民本主義〉講演会!」

 と、似顔絵の横には大きく書かれてある。

 そういやここは吉野ヶ里咲の地元である〈黎明地区〉。

 黎明派のポスターがそこら中に貼られていても、おかしくはない。


「吉野ヶ里咲……。あの流浪の旅人も、出世したもんねぇ」

 ポスターの一枚を見て、思わず噴き出してしまう。

 デモクラシー。

 その波は、今では全国に広がっている。


「人民多数のための、政治か」


 吉野ヶ里がやっている啓蒙活動は、確実に功を奏してきている。

 この国が、意識の上でも、変わろうとしている。

 元号が変わり、喧騒のなか、バカ騒ぎをする人々。

 その享楽を支えるのは、間違いなく民主主義だろう。

 そして、この国が天帝の統治下にあっても、天帝が統治するという立憲君主制と、議会制の民主主義、その二つは両立する、という考え方。

 それが、〈民本主義〉だと、わたしは理解している。


「ま、どうでもいいや。さぁ、わたしは今日という日を享受するぞ」

 ポスターから離れ、駅舎へと入る。

 向かう先は、浅草。人がごった返す、あの街だ。




 汽車に揺られ、浅草に着いたわたしは、デパァトである丸恋百貨店のなかへ入った。

 いろんなものを眺め、生気を養う。

 それから、〈娯楽の殿堂〉と名高い浅草六区を歩く。


「レビュゥ一辺倒ってのもなんだし、今日は浅草オペラでも観ようかしらね」

 ぶつくさとそんなことを口に出して歩いていたら、進行方向から来た少女とすれ違いざま、肩と肩がぶつかってしまい、少女がよろめいた。

 咄嗟に少女が倒れないように背中に手を回して、少女の身体を支える。


「あ、ありがとうございます……って、あっ! 用務員先生!」

「ん?」

 よく見ると、その娘は、十王堂高等女学校の生徒だった。

 わたしの手を振り払うと、少女はわたしから距離を取り、

「あたい、あんたのこと、嫌いです、用務員先生」

 と、言って、歯をむき出しにして、わたしを威嚇した。

「君の名は確か」

「あたいは近江キアラ。〈文芸江館〉の同人やってます」

 ……同人雑誌『文芸江館』の同人か。

 なるほど。

 敵対心があるわけだ。

「用務員先生は朽葉コノコの陣営にまわったんでしょ。コノコの仲間なら、あたいの敵よ!」

「近江さん、わたしは朽葉さんの雑誌の同人の前に、寄宿舎の用務員よ。敵じゃないわ」

「詭弁だわ」







「詭弁じゃないよ、近江さん。わたしは近江さんとも仲良くしたいな」

「な……ッ! 不潔だわ! あたいを誘惑しようって魂胆ね!」

「え? なに? そのロジックは?」

「不潔だわ、不潔だわ!」

 そこで、背中から肩をポン、と叩かれる。

「だ、そうですよ、壊色先輩」

 振り向くと、長良川鵜飼だった。

「鵜飼……なぜここに」

「そりゃ先輩をストーキング……じゃなかった、たまたま通りがかりまして。近江キアラさん、こんにちわ」

「こんにちわ、長良川先生」

「は? 長良川……先生?」

「先輩、忘れたんですか。ボクは長良川江館の講師ですよ? 長良川家は、ボクの家です」

「悪ぃ、忘れてた」

「先輩ってひとは、そういうひとですよ。抱いた女性の職業を忘れるんだから。ボクとあんなに愛し合ったのに」

「おい鵜飼、記憶をねつ造しないように!」

「近江さん、ここは任せて。お行きなさい。壊色先輩の相手はボクがするから」

 近江キアラが、鵜飼にぺこりと頭を下げる。

「ありがとうございます、長良川先生! では、のちほど、江館で」

 早足でその場を去る近江キアラ。

 ここにはひとに粘着する後輩、鵜飼が残された。

「油断も隙もないですね、壊色先輩」

「油断も隙もあるよ。鵜飼の侵入を許してしまった。不覚!」

「先輩、相変わらず酷いですね、ボクに対して」

「そーかなぁ?」

「そうですよ!」

「普通だと思うけど」

「ボク、傷つきまくってますからね」

「傷?」

「傷を舐めあいましょうよ!」

「すっごく嫌だ」

「うぅ……」

 鵜飼がうなだれているのを見ていると、今度はスロウな声が、わたしを呼ぶ。

「あらぁ、奇遇ねぇ、こんなところで会うなんて、壊色さん」

 その声は。

「ああ。管理人さん」

「やくしまるななおですよぉ、うふ。ななおって呼んで良いって言ってるじゃないですの、壊色さん」

 下宿・西山荘の管理人、やくしまるななおさんだった。

 そして、その横には管理人のななおさんの妹、やくしまるななみちゃんが、姉のななおさんと手をつないで、こっちを見ている。

「どーいうことです、先輩。またお邪魔虫が入りましたよぉ」

 顔を上げた鵜飼は、今度は泣きそうになっている。

 その鵜飼の泣き顔を見て、ななおさんは、

「あらあら」

 と、口に手をやり、一寸、笑っている。

 ななおさんから手を離したななみちゃんが、わたしの足を思い切り踏む。

「痛ッ!」

「壊色は、ほんと、だらしない!」

「だらしない? わたしが?」

「そうよ!」

 怒気を込めて、ななみちゃんが言う。

 性的にだらしがないのは、わたしじゃなくて鏑木盛夏だ。

 わたしは、だらしなくなんてない。

 でも、喉元までそのことを言いそうになるのをこらえて、わたしは息を整えた。


「同人雑誌の会合もあるし、暗くならないうちに、いったん、部屋に戻ろうかな」


「ふん! それがいいと思うわ!」

 ななみちゃんはご機嫌斜めに、わたしを突き放す発言をした。

 わたしは、浅草オペラも少女歌劇も観ずに、下宿・西山荘に戻ることにしたのだった。




 そう。

〈和の庭〉、そして帝都の時が進むのは速い。

 帝都だけでなく、デモクラシーは全国に波及していっている。

 だが、牧歌的な議論で済む世の中なんて、永遠には続かない。

 いつだって、狂騒のときはやがて大きな渦に飲み込まれ、ひとの笑顔を奪う。

 わたしたちは、個人的なことに一喜一憂するけれども、大きなうねりの中に、回収されるのが常だ。

 もしかしたら、鏑木盛夏は、それが痛いほどわかっているのではないのか。

 だから、〈退魔士〉として、〈そのとき〉を、遅らせようとしているのではないか。

 そういう気もする。

 どちらにしろ、大きなうねりは、少しづつ、少しづつ近づいてくる。

 抗えないほどの力を持って。

 でもそれは、まだ先の物語だ。


 わたしは、今というときを享受するのを、やめないでいる。

 それを、心が〈空っぽ〉と表現するのかもしれないけれども。




〈了〉

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