第五回講義
第20話 小さな成長
私が村に来てから、およそ一か月が経過した。
「まんまと騙された死神が叫びます。『おのれ、泥棒め、冥府の宝を盗むとは!』」
この日の昼組では、音読を行っていた。
渡した小さな冊子を掲げ、サラが声を張り上げている。
宿の食卓も、すっかり勉強机として馴染み始めた、そんな感覚がある。
「『やった、これで俺は億万長者だ!』 し……」
「ありがとう。そこまでで大丈夫ですよ、サラちゃん。次の人に移りましょう」
自分の分を読み切ったサラに私が指示すると、彼女は拍子抜けしたように目をしばたたかせ、すとんと腰を掛ける。持っていた本を、隣に座る親友、フロルへと渡しながら。
そこはかとなく、もっと続きを読みたそうにも見えた。純粋に話の続きが気になるらしい。
(こっちでも有名な話かと思ってたけど、違うみたいだな)
講義用に選んだ小さな冊子、俗に『盗人のあの世帰り』と呼ばれるこれは、帝都では中流の女性が子供の寝かしつけに用いるものだった。
元々小説本は男性よりも女性に人気があり、内々で回し読みなどして夜の楽しみにしていた。その習慣が近年、子供への読み聞かせへと変じつつあるのだとか。
話の内容そのものは伝承を下敷きにしているので、起源を辿れば数百年以上前になる。
「それでは、フロルちゃん、続きを」
名前を呼ばれたフロルが立ち上がり、ゆっくりと次の行を読み始める。
「しかし、泥棒は。あまりに慌てて、いて、口の……中に」
途切れ途切れになりつつも、目ではしっかりと文章を追えていた。
流暢に話すには一つの単語を追うばかりではいけないものの、その段階は普通、もっと先にある。単語の修飾関係がわかるだけでも、十二分に成長しているのだ。
フロルの目標を考えると、そろそろ次の段階への準備をするべきだろうか。
「隠していた、財宝を飲み込んでしまい、ました。泥棒はどう……? どう……」
「『どうにかしようと』ですね。ちょっと難しい表現ですが、よく出てきます」
「どうにかしようと、あがきましたが、どうしても取り出せません」
「ありがとうございます。それじゃあ、次の行を……」
フランキを見ると、彼はしばらく迷った挙句、顔の前で腕を交差させる。
「飛ばし、ですね。でも、それで三回目なので、次はありませんよ?」
苦々しそうな顔になった彼に、一応の忠告をしておく。
これはこの本を用いる際に、授業内で決めておいた規則だった。
順番に読む際、どうしても読めないと思った場合には、一回の講義につき三回まで飛ばす権利がある。
あまり使いたくない手法だったが、できる限りフランキに参加してもらうには、これしかなかった。
返す返すも、初級者向けの文字の教本などを持ってこれなかったことが悔やまれる。
(けど、聞き取り能力は少しついているみたいだし)
教材として易しすぎるとはいえ、一か月間でフランキはおおよその内容を聞き取れるようになってきた。要点をつかめる才能が、開花してきたのかもしれない。
どうしてもわからないところは、まだ妹が翻訳をしながら伝えているものの。
「と、もう最後ですね。仕方ありません、残りは私は」
フロルから本を受け取った私は、そう口にする。わかってはいたが、さも今知ったようにふるまっておく。
「『なんてこった! せっかくあんな苦労をして、恐ろしい死神から逃げ切ったってのに!』 ……間抜けな泥棒は、せっかく手に入れた宝を使えないまま、泣く泣く自分のねぐらへと帰っていきました。……おしまい」
できるだけゆっくり読んだのだが、意味内容を理解できているだろうか。堅強そうな青年は腕を組み、気難しそうな顔をしている。
しかし妹が内容を要約しようとすると、フランキは手でそれを止める。
やがて彼は
「……いや、待ってりゃケツから出ねえか?」
「……そこはその。お話、ということで」
まさか内容への鋭い指摘が飛んでくるとは。
サラとフランキに兄妹としての類似点があるならば、このえげつないほどの鋭さかもしれない。劇作家などからすれば、恐ろしい存在となるだろう。
妹の場合は配慮と優しさが浮きたつが、兄の場合は遠慮のなさとして表現される、といった大きな違いはあるが。
「フランキ汚い!」
サラが兄に向けて母語で抗議すると、後からフロルも小さく「汚い」とマラーマで追い打ちをかける。
兄は文句ありげながらも、妹の剣幕に押され気味だ。
「いえ、実にいい質問……かはさておき、興味深い疑問ではあるんですよ。けど、詳しく話すと長くなるので。別の時に」
と、これは大抵、困った教師の逃げ道なのだが。
しかしこの一見些細な点にも、理由らしきものはある。元々が口承ゆえ、多くの異伝を含むからだ。
資料によっては、身体に埋め込んだだとか、財宝は薬だったとか、そういうものもある。おそらく原典では論理的に描写されていたか、逆にまったくなかったはずだ。
などと、背景を知らなくはないものの。
(経験上、このぐらいの子たちはお話の「異伝」って発想が、苦手な子が多いんだよな)
さっきのサラがそうだったように、大人以上に感情移入をしながら読むからかもしれない。なので違う展開になった時、余計に違和感が生じるわけだ。
ということで、「解説できなくはないが、不用意に解説すれば混乱させる」場合には、逃げざるを得ない。彼らが理解できる段階になったら、話してみてもいいだろう。
すると、いまさらながらサラが驚いた様子で尋ねてきた。
「……あれ、先生。マラーマわかるの?」
極々短い会話ではあったが、たしかに今の私は彼女たちの現地語を聞き取り、モロニ語で参加していた。速度もなかなかだったので、一か月前ではまったく意味不明だったはずだ。(特にフランキの斜め上の質問は)
おお、と自分で感嘆しそうになるのを堪える。
「うーん、短ければね。でも必要な時以外、授業中はなるべく避けてくださいね?」
ここではこの程度の受け答えで済ませておくべきだ。
私がマーリャと「奇妙な講義」を行っているのは、いわば公然の秘密でありながら、こちらからはだれにも伝えていない。
……もちろん、内容が内容だからだ。
成果があったということ自体、我がことながら驚いているぐらいなのだから。
(しかしまさか、「尻に関する表現」が聞き取りに役立つ日が来ようとは……)
「尻」はマーリャから教わってきた中で、頻繁に出てきた単語だった。
おかげで、関連する言葉の組み合わせが予測できるようになり、結果的に聞き取り能力の一部が発達したらしい。もちろん、一か月の滞在で底上げされているという面もあるとしても。
こうした表現はマーリャ個人よりも、マラーマの語圏で「尻をどうこうする」のが暴力的な表現として成立するようだ。
……まず間違いなく口にできない表現ばかりなので、場合によっては「殺す」よりも使い道がなさそうなのが難点か。
(あそこまで多いと、たまに由来を聞いてみたくなるけど、村にある本にはないだろうな……。同期にマラーマ俗語表現の研究者とか、いなかったかな)
当たり前だが、尻の話がしたいわけではなく。
新しい表現を耳にすると、由来や語源を確認しておきたくなる性分なのだ。
教師になれなければ、語源学者の端くれになっていたかもしれない。悪友に誘われていたのを突っぱねたので、たいした未練があるわけでもないが。
(望みは薄いけど、塾長が持ってないかな。俗語に関する覚書とかでも。マーリャに教えていたなら)
それとなく、離れた場所に座っていたゼリア塾長に視線を向けてみた。学舎は燃やされてしまったが、数冊ぐらいは個人的なものが残っているのではないか、という期待を込めて。
しかし彼女はわずかに頬を膨らませ、不機嫌そうにそっぽを向いていた。
(ん、どうしたんだ?)
講義を始める前はいつも通りだったので、態度の変化に困惑する。私に気が付くと、彼女はその不快感をわずかに声に乗せてきた。
「ん……なにか?」
「あ、いえ」
すぐに顔をそらさなければ、泥沼になりそうな予感がしていた。
(下品な話題だったからか? ……変に広げなくて正解だったな)
しかし、普段はこうした話題で怒るような人物ではなかったので、いささか意外な面を見たようにも感じる。生徒を教える場面で乗っかったのがいけなかったか。
それとも他に、気に障ることがあったのだろうか。
(そろそろ講義を終わろうか)
そう考えた時、ふいにフロルが手を挙げる。手のひらを開いた、西方式だ。
「でも先生。このお話、本当に、泥棒がいるだった?」
まだ活用に難はあれど、フロルの語順はほぼ完全だった。一か月は無駄にならずにいたことが、素直にうれしい。
そしてわかりにくい質問ながらも、身に覚えがあったからか、私もすぐに察することができた。
「おや、よく覚えてましたね。そう、この『泥棒』には、元になった人物がいると言われています」
この本は一週間前から使い始めたが、初めて読み回しをした時、私がちらっと口にしていたのだ。
「ネシーンという名前で、大昔の『学院』長ですね」
三百年ほど前に「学院」を支配していた人物だが、あまり詳しいことは伝わっていない。さらに古い話にも同じ名前の男が出てくるので、ややこしいばかりだ。
どうも襲名制だったのか、五十年前の文脈にも同じくネシーンが登場する。名前だけ見ていると、長期間同じ人物が支配していたように錯覚してしまいかねない。
そのネシーンという名前が、古語で「奪う」という意味だったためか、ついに「泥棒」だったことにされていったらしい。
「『学院』かあ。先生もそこから来たんだよね?」
サラが興味ありげに目を光らせる。
もう卒業してずいぶん経つが、あながち間違った表現でもないので、あえて相槌を打っておいた。
それにこの村では「学院」からの先生、と伝わっているのだろうから。
「うん、そうだね」
「どんなところ?」
どんなところ。
改めて問われると、実にあやふやだ。
自力でまとめられそうになく、思い出しながら特徴を口にしていく。
「そうですね、生徒は子供からおじいさんまでいて」
「うんうん」
「中では農業もしていて……」
「のうぎょう? え、野菜育ててるの? この村みたいに?」
「そういう区画もありますね。あとはそう、本のある大きな図書館はもちろんですが、妙な機械もそこら中に」
機械という単語がわからなかったのか、サラたちは一斉に首を傾ける。
(弱ったな、あれはなんて説明するんだろう)
下手をすると、これまでの人生で最大級の難問だった。
ほぼ毎日目にしていたのに、離れてしばらく経つと、なんとも形容しがたいことに気が付く。そこらを動き回る、節足動物めいた鉄の塊。
あれは本当に現実だったのか。そう疑いたくなる場面が、「学院」生活では少なからずあるのだ。
あそこにいた間は、慣れきっていたが。外に出て仕事をするようになると、しばしばズレを自覚することがある。
「そうですね、一つの都市のような場所です。帝都の中に、さらに小さな……小さくもないけど、街があるような」
「街の中に、街!? なにそれ、すごい!」
想像できているかはさておき。
いや、逆か。想像もできない表現だからこそときめいたのか、幼いフランキの妹は大はしゃぎをする。
しいっ、と口の前に指を立て、私は少女をいさめておく。
宿屋の夫婦は、ここでの講義をだいぶ認めてはくれるようになっていた。しかし時折、あまりにうるさくすると、しつこく嫌味を言ってくる。
私はどう言われてもいいとして、ゼリア塾長に迷惑をかけるのは忍びない。
万が一にでも主人たちを怒らせてしまえば、フランキを教えられる場所もなくなってしまう。ネーナの酒場に関しては、サラたちを連れていくわけにも……。
と、その時だった。
「おーい」
呼びかけと共に戸が無遠慮に開かれ、まさに想像していた宿屋の老主人が入ってくる。頭髪がすべて白くなりながらも、今も小さな木箱を抱えながら歩けるぐらいには健康なようだ。
(これは、まずいか?)
私がそちらへ小走りに寄っていこうとすると、塾長がこちらを制して先に出た。
なんだかんだ、彼女にはこういう部分でも世話になっている。
「どうかしましたか?」
塾長がマラーマで尋ねると、主人は早口でなんらかの内容を告げ、手にしていた木箱を彼女の前に下ろした。私が胸元に抱えられそうな大きさだが、音から判断するに、それなりに中身は詰まっている。
どうやら文句ではなく、荷物を届けに来ただけのようだ。
「ほいじゃあな」
私は老人の最後の一言だけ聞き取れたが、やはり現地話者と対等に会話するには一か月では到底足りなかった。
気さくそうな彼の瞳に、去り際の一瞬、フランキを軽蔑するような色が浮かんだこと。それだけは、会話をせずとも理解できてしまったが。
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