第19話 逆巻く心火
「≪では、始めてくださいますか、マーリャ
私が対面の少女に向き直ると、彼女は疑わしげに眉根を寄せる。
「≪本気なんですか? 私にできるはずがないでしょう? やったこともないです≫」
「≪フリングなら私は中級以上と自負していますが、マラーマであれば間違いなく初級者ですよ。なんどもやっているので、おそらく入門よりはマシですが≫」
と、信じたいが。
帝都ではあまり使う機会がなかったため、自分の実力を正しく評価できている保証もない。
私は少女が話し始めるまで、辛抱強く待つ。
酒場の喧騒が一度盛り上がり、また落ち着いたところで、ようやく彼女は続けてくれた。
「≪……どうやっていいのか、わかりません≫」
「≪いいですね、とても素直な感想です≫」
本来なら生徒の立場を貫くべきだが、ここではあえて先人の一人として語っても構わないはずだ。
「≪私も、初めての時は頭が真っ白になりました。モロニ語は得意にしていたはずなんですが、教えるというのがまったく違う経験なんだと、その時やっと知りました≫」
「学院」時代に外での仕事を認められ、トメイニ塾で働き始めた時を思い出す。
その時の上司はというと、こういった未熟な教師への配慮が根っから欠落していたのだから、始末に負えない。
もっとも、身をもって体験せよという方針だったのかもしれないが……。
私はマーリャに、自分の時に成功した手法を伝えることにする。
「≪赤ん坊を想像してみてください≫」
うつろな目をしばたたかせていたマーリャが、首を傾げだした。
「≪……いません≫」
「≪……いや、それはね? もしいたら、私もちょっとどころじゃなく驚きますし≫」
文化差次第で変わるものの、おそらくまだマーリャは子供を持つには若すぎるだろう。(ネーナ程度となると、時には否定しきれない)
「≪親戚でもかまいません、年上の知り合いの子でも構いません。赤ん坊でなくとも、そうですね、たとえばサラやフロルを想像してください。最悪、ご両親や年上の人間でもいい≫」
マーリャは黙って、私のことを見つめていた。
また、「あの光景」を目にするのではないか。そう思うと、こちらにも恐怖がないではなかったが、今は逸らすわけにはいかない。
「≪彼女たちにどう学んでほしいか、というのが第一歩となるでしょう。まずは、想像をしてみてください≫」
今度の沈黙はさきほどよりも長かった。
喧騒の波が、なんども浮き沈みを繰り返し、特に静かになったわけでもない時に、マーリャはふいに答えを吐き出す。
「≪できません≫」
「≪良ければ、理由を尋ねても?≫」
「≪できないからです≫」
「≪……そうですか≫」
残念ながら、私と同じ手法は通じなかった。
別人なのだから当然だが、そうなると、導入するためになにを用いればいいのか、新たに考え直さなければならない。
(さて、マーリャが話のとっかかりをつかむには……)
その時だった。
突如として正面の少女が、テーブルを激しく叩いた。
だん、と振り下ろされた拳が生み出した音に、周囲の喧騒は掻き消えてしまう。
直後に少女は立ち上がり、私に向かって吠え猛る。
「≪……できないんですよ、私には! 他人の幸せを、未来を! そんなものを願うことなんか、できやしない!!≫」
フリングで出される悲痛な叫び声は、おそらく私と、いたとしても少数の客、そして離れた席で黙している塾長にしか伝わりえない。
マーリャの瞳孔で、炎が踊り狂う。それは店内の灯りではなく、彼女自身の内部から滲み出すものだ。なぜか、私はそう確信する。
「≪私には、私にはっ!!≫」
喉が枯れそうなほどの声量で、彼女は文章にならない単語を吐き続ける。
振り落とされたマーリャの手をよく見ると、木のささくれでも刺さったのか、わずかに出血している。さらに顔の半分にもう一方の手を当て、今にも自分で握りつぶしそうなほどに力を入れていた。
(これは)
彼女がようやく見せた、明快極まりない衝動。
暗く澱み、どこまでも報われることのない、感情の発露。
(……憎悪だ)
うつろな彼女が隠している、あるいは外に出すことができずにいた情動に、たしかに私は打ちのめされていた。
昔、感情の言葉を規定した哲学者が、興味深い分析を残している。
ただの「怒り」と「憎悪」は違う、と。
彼曰く、怒りは癒える。
その原因はあくまでも、不利益や不快感の表明でしかないのだから。欠けているものを埋めればいい。
それこそ、怒りの原因がなくならずとも、腹が膨れるか、よく眠ることができれば、日ごとにそれは薄れていく。
憎悪は違う。
憎悪は、ひたすらに相手の破滅を目指す。そこに妥協はなく、不利益や不快ではなく、ただただ相手が憎くてたまらない、徹底的に消えてなくなるまで……最悪の場合、消えてからも永遠にその心の中で燃え続ける。
こんなものを、受け止められる人間などいない。できるのは飛び火することを恐れて、逃げ出すことだけだ。もしくは、消される前に消してしまうか。
まして、教えて諭すことなど、だれにも。
ならば、だからこそ。
「≪わかりました。……では、そうしてください≫」
「≪……え?≫」
「≪だれが憎いのか、どう憎いのかを、形にしてください≫」
私は机に置かれた彼女の手に、自分の手をそっと重ねる。
マーリャはたじろいだ風だったが、硬直していただけで拒絶はされなかった。
「≪愛せないのなら、無理に愛を想像する必要はありません。あなたがかえって苦しむだけですから。だったらいっそ、他の生徒には聞かせられない、罵詈雑言と呪詛。それをマラーマでどう表現できるのか、やってみせてください≫」
「≪な、なに言って≫」
「≪できるはずです。あなたの思いに、偽りがないのなら。それは私にはできないことなのですから≫」
そうだ。私には、そんなことはできない。できるべきだった時にさえ、成しえなかった男だ。
だからこそ、できる者には可能性を開かなくてはならない。その根幹が憎悪であろうとも、構いはしなかった。
「≪まずは、『殺してやる』……いえ、『殺す』から始めてくれますか≫」
そしてなによりも、彼女がこれほどの「動機づけ」を秘めているのであれば、これに勝る導入はありはしない。
マーリャの双眸に満たされる炎を見つめながら、私はなすべきだと感じたとおりに指示を行う。
「≪憎悪に関する表現を教えてください。つぶさに、丁寧に、一つ一つです≫」
*
「あまり、彼女の事情に踏み込まない方がいいですよ」
酒場からの帰り道、宿に入る直前に、塾長はそう忠告してきた。
昼間は比較的暖かいアザ村も、夜になると少し肌寒く感じることがある。酒場での出来事の後だからか、余計にそう思うのかもしれない。
「それとも本気で、彼女の性根を受け止める気でいるのですか?」
「無理ですよ。それができたら、どんなに良かったか」
私が返すと、ゼリア塾長は白い溜息を漏らした。
「良くはありませんし、必要もありません。あなたにはそこまで期待しているわけではないのです。ただ、生徒たちが円満に……」
「円満なだけの結果、弾かれてしまう人もいます」
声にしてから、過度に批判的だったかもしれない、と反省する。
「いえ、申し訳ありませんでした」
「……謝る必要はありませんがね」
機嫌を損ねはしなかったようだが、ゼリア塾長はそのまま宿へと先に入ろうとした。
しかし、開けたドアの前で振り返り、私へと言い放つ。
「私にはできなかったのです。だから、受け流せそうな人間、受けても耐えられそうな人間に、導いてあげてほしい。それが、私の正直な感想ですよ」
言い返すことができずに、私は彼女の後を追って宿へと入っていく。
講義終了後にネーナに言われたことを、ひそかに思い出しながら。
(さっき言いそびれたけどぉ、マーリャ、前はもっと塾長と仲が良かったんよ)
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