第14話 延焼する瞳
幸運にも、今日の講義に使えそうな本を手持ちの中から見繕うことができた。ちょうど四冊だけあったのも、非常に都合が良い。
とはいえこれは直接出題される古典ではなく、比較的新しい類のものだった。が、文法構造を教えるのに適した場面がいくつかある。
「あの……」
すると、おずおずと手を挙げた者がいた。
細身の少年、シャルロだ。彼は自分に配られた一冊をわずかに掲げ、指をさして質問してくる。
「これ、『燃える丘』系の……?」
「お、詳しいね、シャルロ君」
高度というか、極めて専門的な(が、あまり実用的でない)単語が出てきた。
背景として伝えようと思っていただけに、導入としてはちょうどいい。
「なんなん、『燃える丘』って。お話の名前?」
「特定のお話というより、種類のことですね」
いざ私が説明しようとすると、それを遮るかのように、シャルロが熱っぽい口調で語り始める。
「裏切られて殺された王族が、真っ赤に燃える丘の上から、周囲に向けて呪詛をまき散らす……。そこから凄惨な復讐劇が幕を開けて、最後には関わった者、全員が殺しつくされてしまう。そう、通りすがっただけの者も、耳にしただけの者も……復讐者本人さえも」
昨夜と違って、非常に流暢に内容を語ってくれている。
どうにも、好きなことは自然と出てくるらしい。目をらんらんと輝かせてそれらしく抑揚をつける様子は、私としてもいささか背筋が震えるのだが。
「そう。フリング系、およびモロニ語使用地域などで、古くから残っている言い伝えです。なんども形を変えて、縦にも横にも広がっています」
「あー。似たようなんは、お客さんから、ちらほら」
ネーナが耳にする程度には、こちらでも頻繁に話題に上るようだ。
なんにしても、前提知識があるのは大いに助けになる。まったく同じ話ではなく、他のものだとしても、大筋はそれほど変わらない。
「って、殺されてるん? お化け?」
「そこは話ごとに差がありますが、私の持ってきたものは実は死んでいなかった、というものですね」
「これはでも、かなり新しい……」
細身の少年は本の装丁、ならびに内容をものすごい速さで追いかけ、ぶつぶつと分析をしている。
「十年前の事件を元にしているからね。喜劇作家パネッテが出した作品なんだよ」
「パネッテの新作……!? あ、ご、ごご、ごめんなさい」
シャルロは背筋を伸ばして私を見ると、すぐに昨日と同じく落ち着かない様子に戻ってしまった。
「大丈夫ですよ。ただちょっと、本当に読書が好きなんだな、と感心してしまいまして」
少年は恥ずかしそうにうつむいたが、多少は顔がほぐれていたように見える。
パネッテの名がここまで広がっているのは、私としてもうれしい誤算だった。
といっても、実は初版から五年以上経っているので、あまり新作ではない。もともと、喜劇以外はあまり書かない人だから当たり前なのだが。
「十年前?」
「……うん。帝都での造反があった時、代わりに滅ぼした港町があって。どうやらそこに、エアルシーンの第三王子が住んでいたらしいんだよ」
ネーナの問いには、いくらか端折って回答する。
竜騎兵の背景から始めていては、今夜がすべて潰れてしまう。つまるところ、昼間にフランキに語った、竜騎兵の造反未遂。その報復の一環として、巻き添えとなって滅ぼされた町があったのだ。
もちろん、どう考えてもそれ以上の政治的理由があったのだろうが、私ごときでは憶測にしかならない。
「あー、帝都の向こうにある国さねー。けどぉ、王子様なのに、王宮にいなかったん?」
「お母さんの身分が低かったらしくてね。入ることが許されなかった、ということらしい」
東の王国、エアルシーン。
私も詳しい背景は知らないが、七代目の神帝の件と比べれば、ある意味では公正な部分があったのかもしれない。
卑しい者を受け入れないという、「だれかを救うためではない常識」に従う点では。
「で、その王子様が復讐をすると。……んー。なんで王様は助けんかったん? 身分低い言うても、自分の子供さね?」
ネーナの発想ほど穏やかでなくとも、口実に報復しなかったことは疑問になるだろう。どう考えても、帝国側からの侵略なのだから。
「実際、真偽については怪しい部分が多いですね。丘の上の小さな人影なんて一体だれが見たんだ、とか。どうやってその事実が広まったんだ、とか」
「え、作り話なん?」
「事実をもとにした創作、だそうですが」
同じ建前で、「海の怪物が陸を蹂躙する話」が、帝都ではなんども繰り返されている。パネッテも若いころに一作だけこの類の話を(やはり「事実をもとにした」と謳って)書いているが、よほど受けが悪かったのか、近年でははっきりと貶す側に回っていた。
そんな彼が典型的な悲劇を書いているのだから、「世間に受ける話」を前にしては、事実などは添え物にすぎないのかもしれない。
「けれど、王が第三王子に関してまるで触れなかったのには、もう一つ、それらしい答えがあります」
「ん? なになに?」
「では、それを知るためにも、まずは中身の朗読から入りましょうか」
「えー! 気になるぅ、なんで教えてくれんの?」
私は肝心の部分ははぐらかすことにしておく。
読み進めばおのずとわかることであるし、わからなくとも問題がない。あくまで、一つの教材として選んだだけなのだから。
ふと、奥の方からマーリャの視線が飛んできていることに気が付いた。こちらが目を向けると逸らされてしまったので、見つめ合ったのは一瞬にも満たなかっただろう。
だが、私はその刹那に見えていたものがあった。
「燃える丘」
ん、とネーナやシャルロが声を漏らしたが、つぶやいた私はしばらく呆然としてしまう。
たしかに見たのだ。
空洞のような、彼女の瞳の奥に。そして、私自身の眼球に刻まれた、あの景色を。思い出さないようにと願っていたはずの、炎上する小高い丘を。
焦げた空気に混じる、腐った卵めいた汚臭、無数の悲鳴をかき消す絶叫、火炎の中から這い出てくる黒い人影。
先祖伝来に受け継いできた、呪いのような光景を。
不自然な停止をしてしまったが、その後、講義そのものはつつがなく進行できた。
「ということで、モロニ語ではまず動詞の位置を確認することが重要なんだけれど。同じくらい時制と人称、それから受動態かどうかに気を付けてほしい。この解釈を間違えると、読んだ時にちぐはぐになってしまうからね」
用語としては知らなかったとしても、ネーナやシャルロについては逐一確認することで話が通じることが多かった。
彼らの場合、一から文法的な解説をしていくよりは、試験で出てくるであろうような構文を中心に、語彙などを合わせて覚えさせていく方が効率的なはずだ。
気になるのは、マーリャの習熟度だ。今まで一度も、彼女がモロニ語で話している様子が確認できていない。
見たところ、しっかりと目で追えている。配布した鉛筆(「学院」の試験では不正対策として配られるが、今のうちに慣れてほしかった)と、一枚の紙に、私が伝えた要点をさらさらと書きこんでいるようだ。
……ただし、彼女の得意なフリングで。
「では、マーリャちゃん。次のところを、読んでもらえるかな? そうだな、ほら吹き兵士の段が終わるまで」
強引だったが、時には生徒を引きずり込まなければならない。教師にはある種、先導者としての役割が期待されているのだ。
意外にも、マーリャは即座に本を読み始めた。
一度も不自然に区切ることなく、しかし、息を継ぐべきところ、抑揚をつけるべきところはしっかりと踏まえながら。
「≪見ろ、と。そのほら吹き兵士が、丘の上を指さした。散々、昔話、ほら話で騙されてきた仲間たちはその話を無視する≫」
……ただし、彼女が得意とするフリングで。
「≪だが、諸人よ、思い描くがいい。あの煌々と燃え盛る、彼らの下卑た精神が「焚き火」と呼んだ丘の上から、なにやら黒いシミのようなものが出てくるではないか≫」
「ええと」
なまじ理解できる自分を、今ばかりは恨むほかない。注意すべき瞬間を失い、逆に聞き入ってしまったほどだ。
「≪以上です≫」
感情こそ浮かばないものの、マーリャは「なにか文句でもあるのか」とでも言いたげに、わざわざ終了したと報告してくる。
「なるほど……」
これはずいぶんと手ごわそうだ。
明らかに読めていなければできない芸当だけに、一切読めないよりもかえってたちが悪い。
「え、今の、違うんよね? あて、全っ然っ、わからんかったんよ?」
「大丈夫です。わからないとわかっただけ、ネーナさん、あなたはしっかり聞き取れています。別言語です」
問題はこうした行動が続いた場合、他の生徒の学びを邪魔しかねないという点だ。教師と生徒で理解できない言語でのやり取りが混じると、不安や疎外感が増すことがある。
適切な処理、効果的な処理をしなければ、さらに彼女を増長させることになるだろう。
なおトメイニ塾、つまり帝都での職場では、この類の「お客様」は「一律無視」と決まっていたが。
(だが、私は……)
私はどうにも、そういうことができなくなってしまったらしい。というより、もしかすると今までもできていなかったのだろうか。
だからこそ、帝都を離れざるを得なかったのかもしれない。
「≪わかりました。マーリャちゃん……いえ、マーリャさん≫」
フリングで語り掛けながら、敬称を改める。
年下の生徒として扱うことは、もうやめるべきだろう。彼女の方針は、おおよそわかり始めた。
彼女が私を教師として扱わないのなら、逆もまたしかりだ。
「≪あなたが取れる選択肢は、二つに一つです≫」
「≪出ていくか、従うか、ですか≫」
せせら笑うような吐息が漏れた。彼女の狙いだったかもしれないが、正直なところ、私にとってはそこは選択肢となりえない。
「≪いいえ、不正解です≫」
「≪え?≫」
「≪ダメですよ、問題を勝手に作ってしまっては。どこの国でも点数がつけられません。試験では、まずは問題文をきちんと読みましょう≫」
「≪は、はあ?≫」
眉をひそめた彼女に、私はさらに続ける。
「≪まずは組をさらに分けます。あなたと私だけの組を作って、都合のいい日を見つけることにしましょう≫」
「≪要は、体のいい追放ですね?≫」
「≪否定はしませんが、実は追放とは逆です。これも点数はあげられません≫」
「≪ぎゃ、逆?≫」
私は大きくうなずく。
なにしろ彼女は、はっきりと告げているのだ。
自分にはモロニ語を学ぶ理由も必要もない、と。マラーマとフリングの二本柱だけで十分なのだと。
それは彼女が、内的要因で行動を決定しているということであり。ならば、フランキの場合とは真逆に、その根本を伸ばすことこそが私の役割になるだろう。
「≪はい、あなたには先生になってもらいます≫」
「≪は? せ、先生って、なんのですか?≫」
「≪先生の、です≫」
ついに首を傾げられてしまったが、私は構うことなく言い切ってみせた。
「≪選択肢の二つは、どちらの言語を私に教えてくれるか、です≫」
困惑しきった彼女とは、その夜、それ以上会話することはなかった。
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