第三回講義
第13話 是非と真偽
「先生ぇ。転んだん、本当なんさねー?」
うわさで聞いたのだろうか、私の額にあるふくらみを見て、右側に座るネーナがくすくすと笑った。昨日と同じく、仕事用らしいエプロンドレスのまま、ほのかな疲れを顔に浮かべている。
「ええ、まあ……」
夜、村長の家を借りて、「入学組」を対象とした初講義が行われていた。すなわち
シャルロ、ネーナ、そしてマーリャの三人向けとなる。
村長宅で連夜の講義となってしまったわけだが、自分の息子が含まれているだけに、村長は快く許可してくれているようだ。
ちなみに塾長はおらず、すでに私に一任されている状態だった。信頼されている、と受け止めるにはさすがに日数も浅かった。
「おドジさねー。それで、その腫れ、大丈夫なん? 頭ぁとか、骨とか」
「その心配はないそうです。傷口も、塾長のおかげで」
彼女本人は、「傷口は清潔にしていれば問題ないが、万が一にでも悪化したら、北東の町で医者に見せた方がいい」と言っていた。
私の勝手な推測だが、おそらくそんなことはないのだろう。手際の良さと迷いのなさは、信頼に値すると思えた。
「んー。あの人ぉ、なんでもできるんよー。掃除洗濯、料理に、勘定、医術、勉強はむしろなにができんか知りたいぐらいさねー。すごなぁい?」
「ええ、私も驚きましたよ」
ネーナの賞賛とも羨望ともつかない溜息に、こちらも同調するしかない。いまのところ私も、自分の存在意義を問うばかりだ。
だからなおのこと、塾長の素性に対する疑問がふつふつと湧いてきてしまう。
「塾長はいつからここに? 宿屋の夫婦に、って話だけど」
「そうさねー。ネーナたちが生まれた頃ぐらいからぁ、らしいんよ?」
「え!? それじゃあ、そろそろ二十年に?」
「こらぁ、いけず。あてはまだ、そこまで年食ってないんよ?」
「ええと……私はそれに十足したぐらいなんだけどね」
私の悩みはさておき、一体、ゼリア塾長はいくつなのだろうか。
上司としては歳が同じくらい、としか考えていなかったが。さすがに十八年ほど前から働いているとなると、どうやらずいぶんと若作りのようだ。
ぜひとも、コツを尋ねてみたい。
「それまで、旅人だったらしいんよ。この塾ぅ、始めたんはこの5年ぐらいさね。あてやシャルがやりたいってい言うたら、ちょっと迷ってからやってくれたんよ」
「へえ……」
旅人となると、ますます訳ありの香りがする。私が想定している彼女の出身地域から考えると、まあ、わからなくはない。
しかし。
「ところで先生ぇ、なんで敬語とそうでないんが変わるん?」
考えを巡らせていた私に、ふとネーナが問いかけてくる。
私と交差した彼女の興味ありげな視線に、思わずどきりとしてしまった。
「あれ、バレましたか……」
恥というほどではないものの、悪い癖を指摘されたようで、なんともこそばゆい。
「基本的にはできるだけ敬語を使いたいんだけどね。生徒に語り掛ける時には、どうしても戻ってしまうみたいで」
言っている傍から、と自分に苦笑せざるを得ない。
あまり生徒に指摘されたことがないのは、モロニ語の敬語表現はマラーマと違ってはっきりと分かれているわけではなく、使用する言語の違いでしかないことが原因だ。
結局、それが敬語表現とわかるためには、一定以上の領域に達しなければならないということでもある。
「あー、わかるぅ。あてのこれも、なんか違うんさね。なんとなくはわかるんよ? でもぉ、なかなか治せん」
ネーナは気落ちしたように、わずかに肩を落とす。
これ、とは西方方言のことだろう。どうやら、彼女の意識にある言語観、その一端がうかがえたようだ。
「治す、か。難しいね。別に、病気や間違いではないので」
「……え、そうなん?」
驚いたように目をしばたたかせる様からすると、どこかでよほど厳しい批判でも受けたのか。
「うん。帝都で用いられている言葉とは異なる部分もあるけれど、君のモロニ語表現力はたしかなものだよ。先生とこれほど会話で来ているのだから、自信を持ってほしい」
言葉は通じればいい、という態度でいるならば、西方方言に悪しき部分などない。たしかに耳慣れない語彙、独特の言い回しは存在するが、教育を受けた母語話者ならば理解は十分にできる。
「うーん。でもこれぇ、ダメなんよね、試験で?」
「試験問題における、『書き言葉』はそもそも別物と思った方がいいね。帝都での話し言葉とも異なっています。だから、一から学ばないと。これは帝都で生まれても同じことだから」
「うん、それは分かってるんよ。……けど」
歯痒そうに、ネーナは続きを口にする。
「たしかこう、短く話すんよね? そこだと、あての言葉ダメって、塾長も言ってたんよ」
そこか、と私も腕を組んだ。
思っていたよりも早く、その部分に触れてしまうことになった。
「口頭試験については、残念ながらそうだね……。さすがに数か所は大丈夫だけれど、極端な訛りがある、というのはほとんどの場合蹴られます。西方方言は認められていない、そうなので」
「ならやっぱり、間違いなん? 間違いなら……なんでそんなん、身に着けたんかな、あて」
彼女の自虐気味のセリフは、表面の軽さに反して、私の奥底に深く突き刺さってくる。
制度の問題が、ここには存在していた。フランキの時とは方向性が異なるが、根本的には同じものと言って差し支えない。
指標が、判断基準が、試験という形式の時にはどうしても必要となってくる。そぐわないものを切り落とすために。生きる上では、そぐわぬままでいることも多いというのに。
こういう場合、気にせずに学習に没頭するのが、最も効率がいい。
そういうものだ、と受け入れるよりほかにないし、教師は最終的にそうやって生徒たちを説得する。私が昼間、フランキにそうしたように。
(でも、「引き留めるため」だとしても。できれば、やりたいことではないんだよな)
教師である以上、「本当のこと」を教えるように求められるのは当然だ。
しかしそもそも、知識や真実というものはたやすく揺らぐ。五年前とは常識が異なるように、数十年かけた積み重ねが、根元からひっくり返ることもざらなのだ。
そして本来、言語はそうして日々、形を変えていくはずのものであるのに。
「ネーナさん。本人を含めて二人以上、つまり他の誰かに通じる限り、『間違った言葉』などは存在しません」
私はネーナに、そして残る二人を前にして、そうやって断言する。二人以上いるのなら、という点に特に重きを置いて。
「しかし、試験というのはその使用範囲を狭めるものです。移り変わるものを、多様なものを、切り取ったほんの一瞬です。なので、あなたがその前後左右を生きていることと、試験で否定されることは一緒くたに考えてはいけません。それは単にあなたを、君を傷つけるだけのことなのだから」
「つまり……?」
「つまり」
一呼吸おいて、私は浮かんできたままの言葉を彼女に伝える。
「試験の時だけは外面を厚くして、終わったらいつもの言葉で散々悪態をついてほしい。試験官の耳に入らないところで、ね」
「……ふふ、なーる」
ネーナの表情がそこはかとなく和らいだ。
当然、なにも解決できたわけではない。むしろ、これからのすべてが彼女にとっての解決手段となるだろう。
心の負債は、それを超えるものでしか返済できないのだから。
「よっしゃ、なら頑張らんと」
「では、今日扱う内容に入りましょうか」
互いに気持ちを切り替えて、対象となる本へと視線を移す。
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