第二回講義
第9話 私的な副業
翌朝、寝床から出た私は、朝食をとるために一階へと降りた。
寝床はいささか硬かったが、掃除は行き届いているようだ。外から見た宿自体は古めかしかっただけに、内装の手入れ具合には素直に感心してしまう。
「おはようございます、アレクサ先生」
一階に降りると、燃えるような赤い髪の女性が、居間のテーブルに料理を並べている最中だった。
「もう呼ぼうかと思ってたんで、ちょうど良かったですね。規則正しい生活習慣、大変に感心なことですとも、ええ」
「それにしても、まさか塾長が宿まで経営しているとは……」
昨夜、彼女が一緒に宿屋に入ってきた時の自らの勘違いぶりを思い出し、やや顔面が熱くなる。そっと訂正された時の、憐れむような薄ら笑いも、新たな心の傷になりかねない。
ゼリア塾長は私の反応で気が付いたらしく、にやにやと笑っていた。
「『一緒に宿屋に入る』という、それ以上の意味はないであろう行為の裏に、別の意味を見出す。健全でなによりです」
「か、からかわないでくださいっ……。しかもあれは、塾長が『こんなことぐらいしかできませんから』などと意味深長なことを言ったせいでは!?」
「ええ、ええ。それはもちろん、『教材も建物もないので、宿を提供するぐらいのことしかできない』という意味だったのですがねえ?」
まぎらわしいにもほどがある。
私が抗弁もできずにいると、急に表情を引き締めて、ゼリア塾長はこちらに鋭い言葉を投げかけてきた。
「老婆心ながら、一応忠告しておきますと。あーた、塾の子たちに手を出してはダメですからね? 彼らの目的達成までに、余計な雑念は不要ですので。わかりますね?」
これにはさすがに、逆に私が呆れるばかりだ。
「お言葉ですが、あの中で一番近い子でも、十以上離れてるんですよ? 年の離れた妹か、下手をすれば娘でも……」
口にしてから、嫌な事実だと理解してしまう。
「む、娘。……娘かあ」
マーリャやネーナはともかく、サラやフロルはたしかに娘でもおかしくない。塾長の的外れな忠告はさておき、現実を直視したくない自分も少なからず存在している。
落ち込んだ私が愉快だったのか、塾長は若い娘のように屈託なく笑う。
「ふふふ。自分で言って自分で傷ついていれば世話ありませんね。ところで、神帝の前でも同じことが?」
「し、神帝陛下はその……いえ」
当然のことではあるが、神帝とはモロン帝国の中核とさえ言える存在である。代々一家系でつながっており、現在の神帝ルダーフで七代目となる。
現神帝は良くも悪くも悪評の少ない人物ではあるのだが、一点だけ、二十も歳の離れた妻をめとったことだけが喜劇などでまれに揶揄される。
神帝は多くの妻と身体を重ねることになるため、実情としてはあまり珍しくないのだが、経緯がいささか問題なのだ。なんと神帝本人からの熱烈な求愛で、フリング系話者の娼婦が選び抜かれたという。あくまでもうわさの域を出ないが、神帝本人が直々にそう告げたのだとか。
真偽はさておき、引き合いに出されるとなんとも返事に困る。
身分の圧倒的な差と立場を除けば、「一人の男性が娘ほど歳の離れた女性を愛することはある」という可能性を示しているのだから。
「そ、それはさておき。なぜ塾長はこちらの宿を? 見たところ、他に働き手はいないようですが?」
「元々は私塾を開設するためではなく、跡継ぎのいない宿屋の老夫婦に仕事をいただいて、というのが私がここへ来た理由でしてね。お二人は隣の家で、私が私塾の仕事をしている時には交代してくださっているんですよ。他にもたまに、ネーナちゃんにも手伝ってもらっていますんで。お小遣い付きで」
「では、住民から請われる形で、後から私塾の誘致を?」
「ええ、概ねそのような経緯ですね」
細かい部分で謎も残るが、大筋では納得のいく説明だった。
私塾の立ち位置は各々異なるものだが、概して言えば「半官半民」だ。認可された私塾は帝国から一定の援助を受けているが、運営方針その他はそれぞれの塾長にほぼ一任されている。
なかには認可を得ていない私塾もある(本来はこちらこそが正しく私塾)。しかし昨今のモロニ語流行を「領土内の教育的機会」と捉えた帝国の「ありがたい申し出」を無碍にできる者はやはり少数だ。
「なるほど」
テーブルに着いた私は、ゼリア塾長と対面しながら食事を開始する。
料理の中に、鶏肉(と思われるもの)を豆と炒めたものがあった。
味付けには独特な香辛料が用いられており、いささか辛いことを除けば、とても丁寧に調理されている。塾長の腕はたしかなものだった。
「とはいえ、こんな場所で受けられる援助なんて、微々も微々たるものでしてね」
塾長は皮肉たっぷりの様子でそう告げてから、野菜のスープに口を付ける。
援助の具体的な中身というのは「学院」図書館との優先連絡権、「学院」やその他私塾との連絡、および資金援助という三つを主軸としている。
が、今ではその数が激増したことで、その待遇のほとんどが形骸化、無意味化していた。
「ですので、こちらで得た資金を元手に、自腹でどうにかやり繰りしているというのが現実ですね」
帝都で私の上司だったトメイニ氏も、元々は他所の私塾で働きながら、秘密裏に貯蓄し、自身の私塾を大きくしていったという。
結局のところ、塾長が「小さな国王」とでも言うべき立ち位置に立たされ、すべての責任を負わされているような状況だ。
「しかし、だとすると建物と書物を燃やされたのは、相当な痛手なのでは」
「まったくですよ。どこのだれか、とんと知りませんがね。おかげで完全に修復するためには、単純計算で最低でも百年は働かないといけない計算になるんですよ、これが。見ての通り、お客もほとんど利用してくれませんからね」
このアザ村周辺は、「地図上の最短距離で西部地域との連絡が行える」という利点はあるものの、他にある交通の要所ほどは重視されていない。途中に山岳地帯などがあり、竜車などで行き来がしづらいためだ。
なので、他の道が使えない事情でもなければ、まず宿屋にはやっては来ないのだろう。精々、旅の商人や周辺住人が道具屋や酒場を利用する程度か。彼らはおそらく、知人の家か酒場で夜を明かすのだろう。
(それにしても、最低百年とは……)
当然ながらそんな長期計画では、ろくに採算は取れない。帝都の平均寿命は最高でも70程度とされるため、どうあがいても次世代で帳尻を合わせないといけなかった。
さすがに誇張があるのだとしても、火災の被害すら塾長がどうにかしなければならないとは、もはや刑罰じみている。
そこまでして彼女がこの私塾維持をしたいと思うのは、生徒のためなのだろうか。もしくは彼女もまた、私を私塾の引き継ぎ役に仕立てる算段でもあるのか。ついでに借金も押し付けて。
いまさら骨を埋める場所にこだわりはないが、後から突然明かされるのだけは勘弁してほしい。
「さて、そろそろですかね」
「え?」
唐突に、塾長はそんなことを口にした。
どちらもまだ食事は終わっておらず、朝の空気は静けさに包まれている。
直後、玄関口辺りで騒々しく駆けこんでくるような音がして、やがて叫び声とともにその人物が私たちの前に姿を現す。
「やあ、サラちゃん。どうしたね、今日は」
塾長は涼し気に、自然な声音で相手の要件を聞き出そうとした。
サラは早口のマラーマで、なにやら慌て切った様子で塾長へと話し続けている。なにか重大なことが起きているらしいが、まったく伝わってこない。
「アレクサ先生、ちょっとよろしいですか?」
サラの話を受けても、塾長は余裕綽綽だった。生徒の質問を受けてやってくれ、ぐらいの口調だ。
少女が慌てているだけで、それほど深刻な内容ではないのだろうか。
「なにかあったんですか?」
「はい、実は……」
すると塾長が説明するよりも先に、サラが今度はモロニ語で、私へと直接説明してくれる。
「あのね、フランキが! 村を出るって!! お願い先生、止めてあげて!」
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