第7話 質疑と応答
他の生徒たちも驚いたようにマーリャに目を向ける。
ネーナたちが
「≪先生≫」
マーリャは他の生徒に顔すら向けず、じっと私の方を見つめている。にらみつけている、のだろうか。眉が動いていないので、いささかわかりづらいのだが。
変わらずフリングで語り掛け、しかもこの内容だ、彼女がモロニ語で応じる意思は希薄だろう。
どうするべきか、迷うには迷った。別言語でしゃべる習慣は、できる限りモロニ語の授業内では持ち込みたくない。
「言語の転換」そのものが悪いのではなく(解説にはむしろ必要な時もある)、空気が極端にゆるむ可能性があるからだ。生徒に「自分の言語でしゃべればいい」と認識させると、学習意欲がなくなることも多々ある。
だが、無視するわけにはいかなかった。どれほどの「深み」から、彼女が語っているとしても。真摯さだけは、それとなく伝わってきたからだ。
「……≪それについては、むしろこちらから質問を返すことになります≫」
ほとんどの生徒が私の顔に視線を向ける中、驚きを全く見せていないのはマーリャだけだった。
昼間の会話で、私がフリングで話せると理解したのだろう。
「≪マーリャちゃんは、なぜモロニ語を学ぼうと?≫」
「≪両親にそう言われたからです≫」
「≪……なるほど≫」
昼間の両親を考えれば、おおよそ理解できる。
帝都でもこういう生徒は多かった。両親が貴族や地方の有力者、あるいは成り上がりの商人などであった場合には、その向上か現状維持のために機械的に通わされることがしばしばある。
別段、否定できることではない。根底にあるのは、正しかろうが正しくなかろうが、子供への愛情だ。
ただしこの結果、子供の側でズレが生じてくる。どんな学問も同じだが、言語は特にそれが強くなるものだ。
なにしろ……。
「≪この村はマラーマで。今、先生と私はフリングで話しています。ここでモロニが出てくる余地はありません≫」
「≪ええ。ですが、将来のことを考えると……≫」
「≪我々の将来がモロンに決められると?≫」
毅然とした態度で返され、私は息を詰まらせる。マーリャのぼやけた視線、その奥に隠れている理性が、私にだけ牙をむいてきたのだ。
「うーん、言うねえ」
マーリャの鋭い刃じみた批判に、ゼリア塾長がモロニ語でつぶやく。
「…………」
ネーナの冗談と同じように、受け流すことはできる。流すべきだと、多くの教師は言うことだろう。こういう生徒のための、一番簡単な返し方もある。
だから私は……。
「≪そうですね、理不尽というか。理屈の通らないことだと思います≫」
あっさりと、認めてしまうほかなかった。
私が自らの商売道具にケチを付けたことが、マーリャの精神を多少なりと揺らしたらしい。
「≪筋が通らないなら。じゃあ、どうして学ぶ必要が……?≫」
「≪どうしてでしょうか?≫」
「≪ま、真面目に答えてください≫」
「≪大真面目です≫」
私は一切馬鹿にしているつもりはない。
真面目に考えれば考えるほどに、この問題は底のない沼だと認識するしかなくなる。
なにしろ世界の他の地域には、モロニ語はおろか、フリングやマラーマとも異なる言語しか話せずとも、陽気に日々を過ごせている人々がいるのだから。
「≪先生も、知りたいんです。なにしろ、先生も一から勉強したのに、いまだにその理由がわかりかねるので≫」
「≪え、一から……?≫」
「≪ええ。先生の使う言葉で、一番目と二番目の
マーリャはそこで目をしばたたかせて黙り、やや間をおいてから席へと着いた。
彼女の背後に何があるのかを、私は知るはずもない。逆もまたしかり。この返答もまた、結局のところは肝心の部分をごまかしたにすぎない。
無数の噂よりも、事実の方があやふやになる瞬間というのが、「言葉の運用」をめぐると必ず出てくるものだ。
「≪また、機会があればお話しましょう≫」
最後に私がそうフリングで伝えても、マーリャはぼうっと宙を見つめたような顔でいるだけだった。
授業の方針については、おおよその組み分けをすることとなった。
まずはサラとフロルの最年少組。彼女たちは昼間にも来れることがあるそうなので、明るいうちに読み書きなどを中心に学ばせていきたい。
どちらもモロニ語使用の目的は商用だというが、フロルについては、どうやら父親から「できれば他の私塾に送りたい」という意思もあるらしい。
私塾の多くは「学院」を目指すための機関か、目指せなかったが故の妥協点という扱いだ。しかし中には、「『学院』の端に行くよりも」社会的に評価される、いわゆる独立私塾というものもある。フロルの父親がどこまで詳細を知っているかはさておき、おそらくそういう意図があるのだろう。
もう一組はここに来ている残る三人組となる。
全員、目標は「学院」あるいは他国への遊学だという。マーリャの実力は結局不明瞭なままだったが、推測するに「進学に値するだけの学力」はあると見ておこう。
当面は古典の授業を……したいのだが。
(暗唱できるのもあるにはあるが、実物があるに越したことはないんだよな……)
教師も人間なのだから間違えるのは当然であるが、だからといって大嘘を吹き込むほどの過ちを犯すつもりはない。
ない、のだが。「不確実な事実」だとか「曖昧な解釈」といったもの、「細かい文法解説」をするために、やはり教材は必須だった。
ともかく今日は、全体へ向けて簡単な導入を行い、終わることにする。
「じゃあ、最後はちょっとだけモロニ語について説明して、それから気を付けるべき発音だけやって終わりにしようか」
主に話したかったのは「文型」の部分だ。
この型については、「学院」は古文書から用語を拝借して説明していた。そもそもあの組織は、「夢見人」と呼ばれる異世界人たちが書き記した古文書の研究機関から開始したのだ。異世界人とはいえ、言語構造(ただし、言語そのものはまるで異なる)に似通う部分が多く、およそ問題なく適用できている。
主語、動詞、目的語という言葉だ。省略形の記号はその当時の頭文字らしく、それぞれ「S」「V」「O」と書く。(私は「蛇」、「谷」、「舵」と覚えていた)これらは「学院」の専門用語なので、子供向けにはいくらかかみ砕かなくてはいけない。
つまり、「だれが」「どうする」「なにを」と。
「マラーマは、『だれが』『なにを』『どうする』っていう順番になっているよね。『私が』『果物を』『食べる』。これに対して、モロニ語やフリングは最後が逆になっている。『私が』『食べる』『果物を』だ」
非常に基礎的な話ゆえか、ネーナはやや退屈そうだ。
シャルロはうんうんと相槌を打ち、マーリャはやはり視線がどこを捉えているのかわかりにくい。
一方、前列のサラはフロルと確認しあって、喜んでいる。
「どうだったかな? 逆になってた?」
「うん、すごい、本当だった。全然しらなかった!」
瞳を輝かせるサラと、感心したようなフロルだった。が、こちらからすると、逆に舌を巻きたくなる。
構造を気にしないで習得のとっかかりを作るには、かなりの頻度で元の言語に触れなければならないだろう。サラの家が道具屋だから、客に接するうちに自然に覚えたのだろうか。
言語習得において、幼さというのは最大の武器となりうる。「素直に聞いて覚える」ことがどれほど大変なのか、大人になって別言語を学ぼうとすればすぐに理解できるものだ。
「こういう順番を『語順』というのだけど。これを基礎から確認しておくことは、すばやく文章を読むときや、書く時にも重要になってくるんだ」
「それ、試験でもなん?」
ネーナが問うたので、私は断言する。
「うん、大事だね。むしろ試験でこそ必要かもしれない。内容にもよるけれど、速読する時に、最後の情報にまで目を通せるのかは怪しいところがあるから」
全文を即座に、内容を理解しながら読めるなら、それに越したことはない。
が、試験時間は有限で、触れておくべきとされる文章は膨大。こうなると、試験向けの「小手先の技術」を活用するためにも、対象の言語(もちろんモロニ語)の性質を確認しておくことは大切だ。
敵のことは尻まで調べろ、と……「学院」時代の担当講師の口癖を思い出す。敵味方関係なく調べようとしていた悪友のことは思い出したくない。
「ふーん、大変さねー……。がんばらんと」
ネーナも興味を持ってくれたらしい。どうやら、試験対策に集中したい、というのが彼女の暗黙の要望らしい。
その後は間違えやすい発音として、マラーマにある「歯間音」がモロニ語には存在していないことなどを話した。この点を理解していないマラーマ話者は、「タ」を「ツァ」や「サ」と発音しやすい。(逆に私はこの音を正確に発音できないが、帝都民には違和感のある発音として伝わる。喜劇では「舌打ち男」「舌打ち女」という登場人物がいる)
生徒たちに発音させてみると、大半は問題がなかった。シャルロはやはり言い間違えるのを恐れていたが、発音の違いについては早い段階で気が付いていたようだ。意外というべきか、あまり積極的でなさそうなマーリャもしっかりと発音をする。彼女の場合、フリングの発音が手伝っているのだろう。
サラとフロルも、多少時間はかかったが、最終的にはしっかりやってのける。
ここで一番苦戦していたのはネーナで、「わからん、何が違うん?」と繰り返すばかりだった。最後の最後でやっと違いを理解してくれたようだが、私も内心は苦々しく思っている。
なにしろ、彼女の望みである「試験対策」とは、彼女がせっかく高水準で身に着けた「モロニ語」を殺すことになりかねないからだ。
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