第5話 現状の把握
東に興ったモロン帝国が、大陸の中央を支配してすでに久しい。都は勃興した東部地域から移され、それだけでも五十年以上が経過している。
支配下に置かれた周辺民族たちは、当初こそ反乱の火種をくすぶらせていたものの、今では主に職を求めて都に集まってくるようになっていた。二世が誕生して、成人に近づこうとしている家庭も珍しくない。
こうなると問題になったのは言語だ。モロンの公用語であるモロニ語を、新たにやってきた人々は獲得しなければならない。義務があったわけではないが、単純に日々の生活の助けになる。のみならず、帝都にある「学院」入学試験ではモロニ語での読み書きが必須となり、生活向上の可能性すら視野に入ってくる。
同じ言語を使用できるというだけで、社会的な地位にまで響きかねない……そんな状態にさえなっていたわけだ。
そうなると当然、これらを教えて儲けようとする動きが出始める。
上は帝国の「学院」出身者から、下はずぶの素人までもが「教育産業」に夢をかけて、各地に次々と語学用の私塾を作り始めたのだ。帝都では私塾同士の白熱した客の取り合いが行われる一方、辺境地域の私塾は情報不足などで厳しい状況に立たされていた。
あとはおおよそこれまでの通り、私は帝都で勤めていた私塾を辞め、手紙の返事がきたアザ村という西の果てにまでやってきていたのだが……。
あまりのことに、脳が現状確認をしてしまった。
「学院」時代も難解すぎる古文書の知識を習った時には、しばしばこんな感じになっていた。基礎から積み上げなおすことは大事だが、こういう時の反応は完全に現実逃避でしかない。
思考が飛んでしまっていた私に、上司となった女性が改めて告げなおした。
「ないのです」
「あの、なにがですか?」
「教材」
目をしばたたかせてから、私はしつこく食い下がる。
品質はさておき、さすがに「ない」では困る。前の職場に置いていかざるをえなかった本が大多数で、自分用のものは最低限度しか持ってきていない。
「あの、失礼ながら、古いものでもいいので……」
「うーん」
「帝都の『学院』試験対策や、他の国への遊学を目的にしているのですよね? 対策用の写本なり、方針なりはあるのではないかと……」
「うーん、うーん」
ゼリア塾長がわざとらしく視線を左右に泳がせ、明らかに困っていることを主張し始めたあたりで、私も追及の仕方を変えることにした。
「……なにかありましたか?」
「まあ、すごい。うわさに聞く『蛇の目』持ちのようですわ。どうしてお分かりに?」
私ではありませんが、などと切り出しそうになってすぐに飲み込む。余計な話をしている場合ではなかった。
「茶化さないでください。いくら素人まがいだらけであっても、なんの書物もなしに私塾などと名乗れない。手紙の文面でのあなたはそんな人物には思えなかったというだけの話です」
もっとも、手紙から受けた印象では彼女はもっと落ち着いた、老齢の女性のように感じていたのだが。
「ええとですねえ。話せば長くなるのですが」
「はい」
「燃やされたのです、なにものかに。うちの建物ごと」
「……なるほど」
私はなるべくにこやかそうな顔で、何度かうなずく。仮にもここは現地人の家の中。通じないモロニ語を使っているからと言って、表情にはなるべく出したくない。
事態は予想外に深刻なのだろうか。
「…………。あの、やはり帝国嫌いが」
知らず、声を潜めてしまう。
帝国が領土を広げていた時、交渉などの穏便な手段ばかりで解決できたわけではない。当たり前だが、大方の場合は力でもって支配してきた。
現在こそ小康状態であるものの、戦争の時には村々で徴兵が行われる。中央に近いところでは恩恵も大きいだろうが、この辺になるとむしろ恨みの方が勝っていてもおかしくない。
「うーん。基本的にそんなことはないんですよ」
意外なことに、ゼリア塾長はこれを否定して見せた。
「たしかにここ、外部の人には偏見マシマシ、都合のいい時だけ利用したがる人ばっかりなのですけれど。戦時で『痛い目』というほどには『痛い目』には合ってないんですよね。まあ、それが逆に『別にうち関係ないじゃん』という空気を醸成してもいるのですが……。おかげで、大人は割り切っている方が多いですね。『食わず嫌い』も多いですけれど」
淡々としているが、生々しい感想だと私個人は感じる。彼女もまた「外部の人」であろうに、いや、だからこそこんな感想になるのかもしれない。
「ただねえ、どうにも。相っっ当な『お勉強嫌い』がいるらしく」
「え……!?」
意味するところを吟味すると、驚かされずにはいられない。
「だれがやったか、わかっているんですか?」
「あら、どうしてそう思うのですか?」
笑ってはぐらかそうとしているが、明らかに嘘だ。犯人をかばおうとしているのか、単に面倒なのかはさておき、彼女は確実に相手がだれかを察している。
確信すると同時に、疑問も次々に沸いてきた。
「しかし、教材どころか場所すらない中でどうして私を……」
「あー……時期がですね……」
「ちょうど、私に来るようにおっしゃった直後だったと?」
「…………。この件に関しましては、アレクサ先生。まぎれもなく、こちらの落ち度です」
それまで軽い態度でごまかしていたゼリア塾長が、深々と頭を下げる。
「予測不能に近いことではありますが、それにしてももっと早くにお伝えできていれば、せめて図書館に発注した写しが来てからお招きできたのですが」
「いえ、起きてしまったことは仕方のないことなので」
「あら、そう言っていただければ助かります」
顔を上げると、塾長はケロッとしていた。前の上司とは別の意味で、あまり性格は合わなさそうだ。
「まあその、お仕事の方は良いのですが。ただその……私が本当に必要なのかどうかと」
「と、いいますと?」
「ゼリア塾長、モロニ語が相当に流暢ではありませんか。マラーマも話せることですし……」
田舎の私塾なら、多くとも生徒は十数名程度だろう。正規の手順を踏んでいるなら補助金もあるはずなので、一人で切り盛りするのはそれほど難しいことではない。
単純に人手不足なのかもしれないが、それにしても帝都から呼び寄せずとももっと安く周辺地域の者を呼び寄せた方が良かったのではないか。
まあ、私も半分程度は理解できている。
「そうですねー。もちろん、アレクサ先生が『学院』出身であることは超がいくつあっても足りないほどの大特典ではあるのですが」
肩書を掲げることは、こうした教育系統の職業では重要になる。
他方、高く掲げすぎれば恨みや嫉妬を買ってしまうため、こそこそと中腰辺りに掲げないといけないのが帝都での常識であった。
一方の辺境では、むしろ逆なのだろう。半ば知っていたからこそ、私も仕事に応募したわけなのだが。
「とはいえ、あなたに期待しているのはもう少し違うことです」
「もう少し? 違う?」
「ともかく、今日は生徒たちに顔見せだけでもしておきましょうか。なにか簡単な講義だけでもできるように、準備をしておいてくださいませんか?」
「え、ええ、わかりました」
要領を得ない示唆と、ふわっとした指示。
本当に大丈夫なのか、という不安はぬぐえなかったものの、引き受けた仕事である以上は真面目にやらなければならない。
とりあえず授業の組み方を考えるため、おおよその時間と内容について塾長と確認をし、夕刻まで時間を過ごすことになった。
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