『いいね』社会

秋原タク

『いいね』社会の片隅でハートを叫ぶ

「『いいね』が100未満のひとは、ちょっと」

 

 そう言って、面接官たちは心ない笑顔で退出を促した。

 うな垂れたまま僕は立ち上がり、幽霊のように一礼。バタン、と扉を閉めて部屋を後にした。

 ビルを出て、人ごみの多いオフィス街をトボトボと進む。

 今日もまた面接に落ちた。これで二十社目だった。

 理由はわかりきっている。

 先ほど言われた通り、僕の『いいね』が少ないからだ。

 就職活動をはじめて半年。いまだに一社からも内定はもらえない。大学卒業まで残り数ヶ月。このままでは就職できぬままフリーターになってしまう。

 なにか、『いいね』をもらえるようなことをしないと。

 意気消沈しながらも、歩道の左側を歩くことは忘れない。こうした小さなマナーを守ることで、僕を見ていた見知らぬ誰かが『いいね』を与えてくれるかもしれないからだ。

 とは言っても、会社の面接に落ちたばかりなので、その歩行速度はすこし速めだったけれど。


「……ん?」

 

 そうして焦燥感に駆られながら歩いていると、目の前の曲がり角から突如、女性が飛び出してきた。

 飛び出したというより、吹き飛ばされてきた。

 キャバクラの仕事帰りなのであろう、ド派手な恰好をしたその女性は、受身も取れずに地面に転がった。持っていたバッグは飛び散り、ウェーブかかった艶やかな茶髪はぐしゃぐしゃ。ハイヒールはポッキリと折れ、化粧で厚塗りしたその顔面は鼻血塗れになっていた。


「だ、だれか、だれか助け――」


「テメエ、ふざけんじゃねえぞッ!!」

 

 と。同じ方向から、今度はホストであろう真っ黒なスーツを着た金髪の男性が現れた。

 怒号を喚き散らしながら、アスファルトに転がる女性を蹴り上げる。

 何事か、と周囲の人たちが歩みを止めはじめた。


「ダチとパチ行くっつーから、今日までに金作ってこいっつってあったろうが! 脳みそ腐ってんのかこのアマッ! いまから援交でもなんでもして稼いでこいや!!」


「ご、ゴメンなさい……あ、明日までには、絶対……」


「明日じゃ遅えんだよボケッ!!」

 

 男性は右手を拳に変え、思い切り振りかぶる。

 女性には申し訳ないけれど、これはチャンスだと思った。

 僕は手にしていた鞄を投げ捨て、全速力で駆けだした。ここで女性を助けることができれば、確実に『いいね』がもらえる! それも大量にだ!


「おい、アンタそこまでに――」


「そこまでにしとけッ!」

 

 僕が駆け寄り、声をかけた同タイミングで、ニット帽の若者が金髪男性の右手首を掴んだ。別の方角からこの騒動を見ていて、僕と同じく駆けつけたようだった。

 ニット帽の若者はそのガタイの良さを活かし、力ずくで金髪を地面に押さえつけると、片手でスマホを取り出して素早く『110』をプッシュした。

 手馴れた通報。この若者はおそらく、街角のどこかでタムロし、なにかしら『いいね』稼ぎができる騒動を待っていたのだ。


「警察ですか? 女性に暴力を振るっている男が……はい、俺が押さえつけてます。俺の名前は田中一郎って言います。はい、田中一郎。田中一郎19歳です!」

 

 まるで周囲の観衆にアピールするようにそう告げると、ニット帽の田中一郎はスマホをしまい、うれしくてたまらないといった表情で金髪の拘束に入った。

 それと同時、周囲にいたひとたちが若者にスマホを向けはじめた。撮影しているのではない。『いいねアナライザー』で田中の功績を評価しているのだ。

 僕は唖然としながらもスマホを取り出し、田中一郎の『いいね』を確認する。

 

 ○○さんが田中一郎をいいねしました、○○○さんが田中一郎をいいねしました、○○さんが田中一郎をいいねしました、○○○さんが田中一郎をいいねしました……。

 

 みるみるうちに田中一郎の『いいね』は溜まり、200未満だった『いいね』が1500を越えた。

 1500。

 僕の約15倍である。

 金髪男性の拘束を終えたあと、田中一郎は怪我をした女性の介抱に移った。嫉妬で狂いそうになった僕は、早足でその場を後にする。

 放り投げた鞄の存在を思い出したのは、その三分後のことだった。

 


     □

 


 この政府公認の『いいね制度』が実施されたのは、僕が中学生の頃。ひとりの人間の人生を『いいね』で評価し、選別することで、入学や就職に関するあらゆる過程が簡略化された。

 人間のシステム化、と言い換えてもいい。

『いいね』が多ければ優秀、少なければゴミ。

 そんなわかりやすい社会になった。

 

 評価する際に使う『いいねアナライザー』は、スマホのアプリとしてダウンロードできる。アプリを起動させたまま対象の人物をカメラに収めることで、いつでもどこでも『いいね』を与えることができる。

 本当、悪魔のようなシステムだ。

 けれど。いまさらそこに文句をつけても始まらない。

 僕たちは、そんな『いいね』社会で生きていかなければならないのだ。


「ただいま」

 

 帰宅してすぐ、僕はノートPCを起動して『いいね日間ランキング』のチェックに入った。

 中学生の頃から続けている、毎日の日課だった。

 先ほどの功績で急上昇してきたのだろう、田中一郎の名前が載っていた。クソ。僕がもうすこし早く動いていれば。

 舌打ちをして、次に『いいね総合ランキング』を確認する。

 第一位に輝いているのは、『HouTuber』の『ギギキン』だった。その『いいね』の数、なんと70億。知名度が高ければ、こうして『いいね』の数も爆発的に増えることになる。

 そんなトップランナーが、新作動画でこんなことを言っていた。


「人間、『いいね』の数じゃないんですよ。『いいね』が多かろうと少なかろうと、ぼくたちはみんな平等なんです――」

 

 言い終わるよりも早く、バン、と荒々しくノートPCを閉じた。

 面接に落ちたいまの僕には、苛立ちしか感じない理想論だったからだ。

 スーツを脱ぎ捨てて、Yシャツのままベッドに飛び込む。

 ふと、スマホに登録されている、僕こと相沢あいざわケンゴの『いいね』数を確認してみた。

 78。

 制度が始まった13歳のころから、たったこれだけしか稼げていない。


「……クソったれ」

 

 僕はスマホを放り、不貞寝した。

 


     □

 


 結局、僕は内定をもらうことはできなかった。

 両親にそのことを報告すると、実家に帰って農場を手伝えと言われた。そこでは『いいね』など関係ない。そんな無駄なストレスを背負うな、とたしなめられた。

 僕はこのT都で暮らしたかった。都会の人間として格好良く、豪華な腕時計とスーツを身につけてオフィス街を歩きたかった。

 けれど、それもすべて叶わなくなった。

 ほんのすこし前の時代なら、二十代であれば就職先などあまるほどあった。しかし、『いいね』制度が蔓延るこの社会では、何歳であろうと『いいね』が物を云う。意地になってT都に残っても、明るい未来はない。

 僕は、地元に逃げ帰ることにした。

 

 



「はじめまして。この第一牧場の管理を任されている、遠条えんじょうカナエだ」

 

 そう言い、健康的な日焼け跡を残す茶髪の女性――遠条さんは、使い古された帽子のツバをくいっ、と正すと、こちらに手を伸ばしてきた。

 顔立ちの整った綺麗なひとだ。スタイルもいいし。モデルかなにかやっていたのだろうか?

 さておき。作業着に違和感を覚えながらも、僕はその手を握り返す。


「はじめまして。相沢ケンゴです。今日からよろしくお願いいたします」


「ああ、よろしく! きみのお父さま、この相沢牧場のオーナーから話は伺っているよ。なんでも、T都で就職に失敗したんだって?」


「……ええ、まあ」


「あははは! そんな露骨にショゲた顔するなよ! ここでの牧場暮らしもいいものだよ? 緑に囲まれた中で動物たちと触れ合っていると、くだらない世事など忘れられる。これはこれで得がたい経験さ」

 

 子どもの頃から牧場暮らしをしてきたから、その経験はもう充分なのだけれど。


「そんなものですかね」


「そんなものさ――さておき。第一牧場の従業員は、リーダーの私と相沢くんだけ。これから仲良くやっていくためにも、私のことは気軽に『遠条さま』って呼んでくれよな!」


「……わかりました、遠条さま」


「あははは! 本当に呼びやがった! 嘘だよ、嘘! ウィットに富んだジョークってやつだろうが! 堅物くんだなー、相沢くんはー。ぷっぷー」


「…………」


「私のことは呼び捨てでいいよ。年齢も私がひとつ上ってだけだしな。リーダーとか関係なく、友達みたいな関係でいこうぜ! な?」


「わかりました。じゃあ、カナエ」


「ふひゅっ!?」

 

 呼んだ瞬間、ボッ、と頬を赤らめる遠条さん。

 これは、照れてるってことか?


「ば、ばば、バカ野郎! な、なんでいきなり、そんな……結婚してもいないのに、下の名前で呼ぶ奴があるかー!」


「貞操観念キツすぎません? 遠条さん」


「う、うるせえ! 男のひとに下の名前で呼ばれたことなんてなかったから、つい……って、え? いま普通に『遠条さん』って」


「まあ、僕もいきなり名前呼びってのはハードル高いので。普通に苗字呼びでいきますよ」


「~~ッ、最初からそうしやがれッ!! バカ!」

 

 叫び、ズカズカと牧場内を進み始める遠条さん。

 耳まで真っ赤になっている。ここまでウブなひとも珍しい。

 けれど、きっと。

 こうしてイジワルをしている僕に、『いいね』を与えてくれるひとはいないんだろうな。

 


     □

 


 実家の牧場で働きはじめて、一ヶ月が経った。

 子どもの頃から手伝いをやってきたおかげで、仕事内容を覚えるのは早かった。遠条さんも、そこは素直に褒めてくれた。

 褒められるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 けれど。僕はそれよりも『いいね』が欲しかった。

 この相沢牧場に、『いいね』制度は導入されていない。雇う従業員も、前時代的な書類面接から始めている。『いいね』の数で雇用を決めたりはしない。

 だから、『いいね』のことなど忘れてしまえばいいのだけれど……どうしても、僕の脳裏には、スマホ越しの評価画面が焼きついて離れないのだった。


「どしたよ? 相沢」

 

 そんなことを考えながら仕事をしていたせいだろう。

 ある日の仕事終わり。牧場内にある閑散とした相沢食堂で夕飯を摂っていると、不意に遠条さんに話しかけられた。

 僕の対面に牛カルビ定食を置きながら、遠条さんは続ける。


「最近、なんかボーっとしてないか?」


「そうですかね……うん、そうかもしれません」


「悩みがあったら訊くぜ? いや、訊かせろ! リーダー命令だ!」


「強引すぎません? それ」


「強引でもいいんだよ! だって私は、お前のことが――、ッ」

 

 そこで言葉を区切り、苦しそうな表情でなにかを飲み込むと、遠条さんは両手でパン、と自身の両頬を叩き、話を再開させた。


「お前のことが、心配なんだよ! その……唯一の同僚として!」


「はは、ありがとうございます……そうですね、それじゃあ」

 

 そう言って、僕は滔々と悩みを打ち明け始めた。

 両親にはこんな悩みは話せない。知り合って間もない遠条さんにだからこそ、僕の醜い思いをすべて吐き出せた。

 承認欲求、自己顕示欲。そんな、ドロドロで真っ黒な願望を、膿を出すように吐露する。


「僕はきっと、目立ちたかっただけなんです。就職できなくてもいい、最悪『いいね』をもらえなくてもいい――ただ、ひとよりすこしだけ、自分を誇示したかっただけなんです。そうしないと、自分の生きてる意味がなくなっちゃいそうだったから」


「…………」


「認められたかった、価値がほしかった。ベッドで眠るたびに思うんです。僕がここにいる意味はあるのかって……その問いに応えてくれてたのが、『いいね』だったんです。『いいね』があるから、僕は僕の価値を見出せた。だから、僕はもっと『いいね』がほしかった」

 

 でも。


「それも、やっぱり叶わなかった。僕の価値は、たったの78でしかなかった。だから、僕はここに逃げ帰ってきた……それでも、時々思い描いちゃうんです。『いいね』をたくさんもらえている夢のような生活を。存在価値にあふれた、人生を」


「――相沢」

 

 定食に手もつけず、ここで、遠条さんは立ち上がった。

 その表情は、帽子のツバに隠れて見て取れない。


「ちょっと私に連いて来い」



 

 

 連れて来られたのは、馬の厩舎きゅうしゃだった。

 乗馬体験に使用される馬たちが、各小屋の中でひづめを鳴らして待機している。

 そのうちの一頭。葦毛の馬に近づき、やさしく顔横をなでながら、遠条さんは口火を切った。


「こいつらは、元はサラブレットとしてターフの上を駆け抜けてた。走ることが、こいつらの存在価値だった」


「…………」


「でも、引退してココに連れて来られた。それからは、サラブレットのように走ることはなく、客を乗せる乗用馬として生きてる――相沢、いまのこいつらにも価値はないと思うか?」


「それは……」


「自分の価値なんて自分で決めろよ」

 

 語気強く言って、遠条さんは厩舎の棚からブラシを持ち出し、馬のブラッシングを始める。


「お前は他人に認められたいんじゃない。自分の価値を『教えて』ほしいんだ。自分ってどうなの? どれだけの価値があるの? そんな風にして、他人にしがみついて、『いいね』に頼って、自分の価値をねだってんのさ。知るかバカ。そんなもん、誰だってわかりゃしねえよ」


「……だから、僕はその価値を『いいね』に見出して」


「その『いいね』の中に、相沢のなにが映し出されてんだよッ!!」

 

 カンッ、とブラシを投げ捨てて、遠条さんは僕の胸倉を掴みあげた。

 その表情は憤怒にまみれながら、泣いていた。


「あんな小せえハートの中に、お前のことがどれだけ映ってんだよ! 根が真面目で、仕事も真面目で、だけど息抜きの仕方が下手くそで、失敗すればアホほどへこんで、うまいもん食べりゃあ子どもみたいに頬緩ませて、次の日にはがんばって仕事に出てきて……そんながんばり屋のお前の人生が、そこにどれだけ映し出されてんだよ!」


「……、……」


「なにもないだろ? そんなハートの中に、相沢の人生は入っちゃいねえんだ! なら、お前はお前だけの価値を見つけなきゃならねえんだよ! 自分で自分を褒めてやんなきゃいけねえんだ! そ、それでも……それでも、自分の価値がわかんねえっていうんなら……」


「……? え、遠条さ――、んんッ!?」

 

 突如。

 うつむきながらこちらに距離を詰めてきたかと思うと、遠条さんが踵をあげ、僕の唇に唇を重ねてきた。

 混乱する僕。一秒にも満たない軽いキスを終え、遠条さんは上目遣いに僕を睨む。


「わ、私が、お前に価値を与えてやる。私は、相沢のことが、す……好きなんだからなッ!」


「……へ?」


「『へ』じゃねえ! わ、私に好かれてんだから、少なくとも私にとって相沢は価値のある人間ってことだろうが!」


「あ、ああ、そういう意味でしたか……ああ、なるほど……」


「なるほどじゃねえ! な、なんだよなんだよ! 私がこんなに勇気だして告って、おまけに、はじめてまであげたってのに、なんでそんなドライな反応なんだよッ! もっと照れてくれてもいいだろー!」

 

 うううぅ、と唸りながら、その場で地団駄を踏む遠条さん。

 その、まるっきり子どものような反応に、僕は思わず吹き出してしまった。

 もう何年振りからもわからない、自分の笑い声だった。


「な、なに笑ってんだ! このバカ野郎はー!」


「す、すみません。遠条さんがあまりにも可愛すぎて、つい」


「はにゃっ!?」

 

 ボン、と茹タコよろしく真っ赤になる遠条さんを前に、僕は静かに深呼吸をする。

 探し求めた存在価値。

 それは、スマホの中じゃなく、こんな目の前にあったんだ。


「僕も好きですよ、遠条さん。よければ、僕とお付き合いしてくれませんか?」


「ふぎゅっ」

 

 謎の怪音を鳴らして、遠条さんは一歩後退ると、真っ赤な顔のままぎこちなく応えた。


「……よ、喜んで?」


「……なんで疑問系なんですか」


「だ、だって、付き合うのもはじめてだから――って、だから笑うなー!」

 

 涙目でポカポカと胸を叩いてくる遠条さん。

 僕はそれでも笑い、笑って、笑い続けた。

 認められたくて、報われたくて――そうやって悩み続けていた過去の自分に、どうかこの幸せが届きますように、と。

 


     □

 


 牧場で働きはじめて一年が経った頃。僕と遠条さん……じゃなくて、カナエさんは、牧場の拡大における諸々の手続きをかねて、T都を訪れることになった。

 カナエさんは一度もT都に来たことがないらしく、街中に建ち並ぶビル群を見渡しては、唖然とした表情をしていた。これが世に言う御上おのぼりさんである。

 冗談はさておき――僕たちは手続きを終え、近くのホテルにチェックインを済ませると、T都観光に躍り出た。


「すごい、すごいよケンゴ! ガラスの建物がいっぱい!」


「そうですね。ああ、カナエさん。そっちは道路だから危ないですって」

 

 テレビの中でしか知らなかった光景を前に、カナエさんは終始はしゃいでいた。自分にとっては見慣れた光景だけれど、ここまで喜んでくれると案内のし甲斐があるというものだ。

 

 と。その中途。

 なんの変哲もない路地で、横断歩道を渡ろうとしている老人に手を貸している、ニット帽の若者を見かけた。

 間違いない、以前見かけた田中一郎だ。

 青信号に変わった瞬間。若者は「この老人を手助けしているのは田中一郎、田中一郎20歳です!」と大声で宣伝しながら、老人と共に横断歩道を渡っていく。

 

 これが『いいね』を稼ぐための活動だと気付いていないのだろう。カナエさんは、「?」と首をかしげてその光景を見つめていた。

 周囲の歩行者も、うんざりといった表情で田中一郎を睥睨へいげいしている。スマホを向けられることもない。この辺りでは、田中一郎のこうした偽善行為は、常習的に行われているのかもしれなかった。

 

 僕はなんとはなしに、田中一郎にスマホを向けて『いいねアナライザー』を起動してみた。

 田中一郎の『いいね』の数、1512。

 以前、金髪の男性を押さえつけたときが1500だから、一年で12しか伸びていないのか。

 あれだけ『いいね』を稼ごうとしているのは、彼もまた未来に不安を覚えているからか。

 はたまた、自分の存在価値がわからないからか。


「田中一郎が助けています……田中一郎、田中一郎が老人を助けているんですッ!!」

 

 半ば悲鳴のような声をあげ、田中一郎は横断歩道を渡る。

 僕とカナエさんは、彼から遠ざかるようにして、反対方向に足を向けた。

 



 

 気持ちを切り替えて。

 大体の観光を済ませた僕たちは、駅前ですこしお高めの服屋さんに入った。

 いつも芋くさい作業着だから、私服ぐらいお洒落なものを買おう、ということになったのだ。

 僕はお洒落には無頓着なので、服選びはすべてカナエさんに任せることに。


「んー、ケンゴはひょろいからなあ。細身の服がいいと思うんだけど……」


「カナエさんが選んでくれたのなら、なんでもいいですよ」


「ありがと。でも、そういうわけにもいかねえだろ。彼氏にはやっぱ、カッコよくいてほしいからな――、っと」

 

 言いながら、カナエさんは一枚のジャケットを手に取り、こちらにかざしてきた。僕に合うかどうかをたしかめているようだ。

 数秒ほど、僕とジャケットを見比べたのち、カナエさんは満面の笑顔で。



「いいね!」


 

 と、言った。

 言ってくれた。


「ちょっとヤンキーっぽさがあるかもだけど、ケンゴぐらいの細身ならこんぐらいスタイリッシュなやつのほうが……って、どした?」


「いえ、なんでも」

 

 僕は思わず、口元を抑えた。

 気分が悪くなったのではない。むしろ逆。

 うれしくてうれしくて、たまらなくなったからだ。

 

 無機質な『いいね』のハートひとつより、好きなひとからもらった『いいね』の一言。

 そんなささいなものが、これほどまでに僕を満たしてくれるとは思わなかった。


「カナエさん、すこし失礼」


「ん、あいよー」

 

 断りを入れて、僕はスマホを取り出すと、『いいねアナライザー』のアプリ詳細欄を開いた。

 つらづらと並ぶ項目の一番下――『アプリの削除』ボタンを、躊躇いなく押す。

 一秒と経たずに、スマホの画面に『いいねアナライザーを削除しました』と表示された。

 

 僕の人生から、『いいね』が消えた瞬間だった。


「うん、いいね」

 

 ひとり皮肉りながら、僕はスマホをしまい、好きなひとに向き直る。

 さあ。ここからだ。

 血の通った、価値ある本物のハートはぐくもう。

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