Ⅴ 絶体絶命の窮地にはご都合主義を
「――ふう……ようやく着いた。山の手なんざ来たことねえから迷っちまったぜ……」
一方、イサベリーナに遅れること5分ほど後。不慣れな屋敷町に手間をとった探偵青年もやっとのことでホテルに到着した。
「…ゴクン……じゃ、とりあえずお邪魔するとしますか……」
自分には場違いの大豪邸に少々ビビりながらも、青年は唾を飲み込み、イサベリーナ同様、真新しい建物内へと用心深く足を踏み入れる。
「キャアァァァァーっ!」
と、その時、ガランとした玄関ホールに衣を劈くうような女性の悲鳴が木霊したのだった。
「なんだ!? ……この奥か!」
野性的な感でその声のした位置を見極めると、青年は一気にホールを駆け抜け、階段の下を潜って大広間へと突入する。
「…っ! な、なんじゃこりゃああっ!?」
すると、そこに彼が見たものは、正面奥の壁に浮かび上がった巨大な赤い唇と、その唇から伸びる長大な舌に今にも絡め取られそうな、その前で腰を抜かして座り込む一人の少女の姿だった。
「あ! てめえ…いや、あんたはさっきの……」
また、その喰われそうになっている少女の顔にも青年は見憶えがあった……そう。先刻、本屋の前でぶつかったあの少女――即ちイサベリーナである。
「……? ああ! あなたは!? どうしてこんなところに……」
その声に振り向き、彼の存在に気づいたイザベリーナも、そんな暢気なこと言ってる状況ではないのであるが、やはり不思議そうな顔をしてそう尋ねる。
「それはこっちの台詞だぜ……って、それどころじゃなかったな。よーく憶えときな、マドモワゼル。俺の名はカナール……この世界唯一の怪奇探偵さ」
思わずこちらも訊き返しそうになる青年だったが、巨大な唇のバケモノの方へ視線を戻すと、片手で三角帽を目深にかぶり直しながら、以前から考えていた決め台詞を口にハードボイルドを気取ってみせる。
しかし、人智を超えた怪奇現象に少々驚きはしているものの、彼は別段、怖がる様子も、怯えているような素振りも見せることはない。
ハードボイルドか否かは別にしても、治安の悪い貧民街で生まれ育ち、ヤクザまがいの生活をしてきた怪我の功名とでもいおうか、こうした修羅場慣れだけは妙にしているのだ。
「待ってな、今助けてやるぜ」
続けてそう言った青年カナールは、ポケットから白墨を一本取り出すと少女のもとへ駆け寄り、真新しい石の床の上へ何やら大きな図形を描き始めた。
自分と少女を取り囲むように大きな円を一つ描き、その中にこれまた巨大な五芒星を素早く描く……先程歩き読みした『シグザンド写本』に載っていた魔法円である。
「どうだバケモノ! これで手も足もでねえだろう? こいつが嫌だったら、とっとと尻尾巻いてどっかいっちまいな!」
魔法円が完成すると、カナールは人差し指を巨大な唇に突きつけ、挑発するかのようにそう言い放つ。魔導書の通りならば、これで魔物は逃げて行くはずである。
「グウゥウゥゥ…」
……だが、彼のその読みは甘かった。唇は奇妙な呻き声を立てながらさらに盛り上がり、もがくようにして壁から抜け出ると、ジャガーの身体に大きな唇だけの頭がついた、なんとも不気味な魔獣に変化したのである。
「ガゥワゥワゥゥゥっ…!」
そして、巨大な赤い唇から涎塗れの鋭い牙を覗かせながら、二人の方目がけて突進して来る。
「キャアっ…!」
「うわっ! なんでだ? 話が違うじゃねえかよ!?」
悲鳴を上げるイサベリーナの傍ら、さすがに今度はカナールも動揺を露わにする。
今のところ、魔法円の中までは侵入できないようであるが、噛みつかれた透明な防御壁のようなものが次第に破られていくのが感覚でわかる。
「そうだ! 巻末のサアアなんとかいうのを合わせれば……」
そんな危機的状況の中、老店主の言葉を思い出したカナールは、急いで脇に抱えた茶表紙の本を開く。
「……あん? んなバカな!? こりゃ、本当にドン・ファンの本じゃねえかよ!? 女ったらしの話でどう魔物とやりあえってんだよ!」
だが、素早くページを捲っていた彼は、突然、目を真ん丸くして頓狂な声を上げる。
なんと、いつの間にやらその中身は、偽装表紙の題名通り小説『ドン・ファン』に変化してしまっていたのである。
「……どうかなさいましたの? なぜ、こんな時にドン・ファンをお読みになられるんですの?」
先程の自信満々さから一転、明らかに狼狽えている彼の態度にイサベリーナが尋ねる。
「いったいどんなマジックだ!? い、いや、これはドン・ファンじゃねえ! 表紙はそうだが中身は魔導書だったんだよ! それなのになんで本物のドン・ファンに……」
その問いに、慌てふためくカナールは魔導書が禁書であることも忘れて思わず本当のことを答えてしまう。
「……あ! もしかしたら……ほら! やっぱりですわ!」
ところが、それを聞いたイサベリーナもなぜか自身の持っていた〝ドン・ファン〟の本をパラパラ捲くりはじめ、その謎が解けたとでもいうように突然、声を上げた。
「はい。こちらがあなたの魔導書ですわ。さっきぶつかった時に入れ替わってしまったんですのね」
そして、納得という様子でまったく見た目が同じ『ドン・ファン』の本をカナールの方へと差し出す。
「入れ替わった? ……おお! 確かにこれは『シグザンド写本』……ああ! そうか! 確かにあの時……」
その言葉に中身を確認したカナールも、そういえばあの時、彼女も同じような本を持っていたことを思い出し、魔導書がドン・ファンに変わってしまっていたトリックを理解した。
「なんて偶然だ……だが、また偶然にもここで会えてよかったぜ……てか、なんで御禁制の魔導書見ても驚かねえんだ? ……いや、それどころじゃなかったな。ともかくもこれで形勢逆転だ」
納得するもまた新たな疑問が生まれ、もう何がなんだかわからなくなるカナールだったが、まずは目の前の危機をなんとかすべく、早々に受け取った
襲い来る魔獣に焦る気持ちを抑えつつ、白墨の円内に水でもう一つ円を描き、その二重の円の間に小さな三日月をいっぱいに描き込む……その三日月のくぼみに火のついた蝋燭を立て、五芒星の五つの先端に麻布で包んだパン切れ、五芒星の谷部分に水の入った五つの壺を置く……。
「ラアアエエの魔術によりて汝に命ずる! 邪悪なる魔物よ、とっととここから立ち去りやがれ!」
そして、強化された魔法円が改めて完成すると、載っていた呪文をカナールは声高々に叫んだ。
「ワゥワォオオン! …キャン、キャィィィィーン…!」
と、それまで激しく突進して来ていた魔獣が、まるで負け犬のような弱々しい鳴き声を上げて、どこへともなく逃げ去って行ってしまう。
「ハァ……久々にあんな恐ろしい魔物を見ましたわ……」
「フゥ……危なかったぜ……てか、久々? おい、いったいあんた何者だ? なんでこんなとこいたんだよ?」
危機が去って人心地ついた後、聞捨てならぬその台詞にいろいろな疑問を思い出すと、改めてカナールは早口にイサベリーナを問い質した。
「――総督の娘~っ! ハァ……最悪だ。よりにもよって総督令嬢なんかに魔導書を見られるなんて……ほんと、どんな偶然の悪戯だよ……」
だが、僅かの後、彼女の話を聞いて、その正体を知ったカナールは、頭を抱えて唸ることとなる。
「ああ、安心してくださっていいですわ。このことは誰にも申しませんから。じつはわたくし、やはり魔導書を不法所持している…というか集めてるお友達がおりますの。あれ以来お会いしてませんけれど、こちらへ来る航海の折に知り合ったお友達で、その時、初めて悪魔もこの目で見たんですわ」
ところが、カナールの悪い予想に反してイサベリーナはケロっとした顔でそう言い放つ。
「お友達?」
「ええ。同い年くらいなんですが海賊の船長さんしてて、世間では
「
ますます驚かされるそのプロフィールに、カナールは唖然とした顔で、灰色の三角帽を文字通りに脱帽してみせた。
(Le Détective de Grimoire 了)
Le Detective de Grimoire ~魔導書の探偵~ 平中なごん @HiranakaNagon
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