第5話 おしっこをしてもおしっこは出ない

 十八時四十五分。

 フェリーは定刻どおりに港を発った。

 およそ二十時間の船旅になるが、もちろんバスを出ることは許されない。

 客室やラウンジなどには、たくさんの人がいるので当然である。

 生徒のみなも制服に着替え直しており、あとは茨城の大洗に着くのを待つだけだ。

 律子先生はなにやら調べると言ってバスを出ていった。

 危機対策として、船員の行動、乗客の数、それらの調査に向かったのかもわからない。

 とはいえ彼女は変装をしているので、正体が発覚する恐れはないはずだ。

 太一がそう安心し、ひと眠りしようとしたところ――。


「ねえ、太一……ちょっと、いい……?」


 通路を挟んだ隣側、そこに座る佳織がモジモジと話しかけてきた。


「どうした佳織?」

「あたし……トイレに行きたいんだけど……」

「なんだ? おまえも屁がしたいのか?」

「そうじゃなくて……」

「屁じゃないならなんだよ。はっきり言えよ」

「しょ、小のほう……」


 制服のスカートの股間部を両手で押さえ、佳織は小刻みに骨格を揺らしている。

 どうやらおしっこを我慢していたらしい。

 が、もちろん太一には解せない。


「バカかよおまえ。スケルトンに屁は出てもな、おしっこなんて出るかよ。俺のヘソで茶が沸くぐらい、ちゃんちゃらおかしいぜ」

「だって、したいものはしょうがないでしょ……。あたしこのままじゃ漏れちゃう……」


 と訴える佳織だが、どうやら本当におしっこを我慢している様子だ。

 だがそこに、その道のツウが喜びそうなおしっこ萌えはない。

 顔を真っ赤にし、瞳を潤ませ、おしっこがしたいの、と恥じらう女子高生の姿はない。

 頭蓋骨が耳なし芳一状態の、気味の悪い骸骨が尿意を訴えているだけである。

 なんともふざけた話だ。

 そんなとき――。


「あ、兄貴……あたいも……ト、トイレに行きたい……」


 あろうことか、里奈までもがトイレに行きたいと言い出した。

 熱い吐息を「はぁ、はぁ」と漏らし、身を縮めるように両手で股間を押さえている。

 だがそこに、妹属性オタクが望むようなおしっこ我慢顔はない。

 ジャージを着たグロテスクな骸骨が、トイレに行きたいとほざいているだけだ。

 それはさておき、よもやの緊急事態が発生した。

 佳織や里奈だけではなく、何人かの生徒もトイレに行きたいと言いはじめたのだ。

 でもスケルトンなのになんでおしっこが? と思い、太一は真後ろの座席を覗き込む。

 その座席の上に金魚鉢が置いてある。


「おい、ピーちゃん。起きてるか」

「起きてるよ」


 優雅な船旅を楽しむかのように、ピーちゃんは水中を漂っていた。

 水の中で話しているので、声が歪んで聞こえるのがまたムカツクところだ。


「俺たちはスケルトンなのに、おしっこが出るのか?」

「くしゃみやオナラの気体は出るけど、液体は排出されないよ。もちろん固体もね」

「じゃあ、なんで佳織や里奈たちはおしっこを我慢してるんだよ?」

「それは尿意という、感覚でしかないよ。仮におしっこをしたとしても、なにも排出されない。尿意はなくなるけどね」

「おしっこは出ないけど、おしっこをすればおしっこをした気分になるんだな?」

「まあ、そういうことになるね」

「よし、わかった。佳織、里奈、二人ともちょっとこっちにこい」


 戸惑う二人を連れて太一はバスを出た。

 周囲に人がいないことを確認し、バスの陰にそっと身を潜める。


「よし、おまえら、ここでおしっこしろ」

「バカなこと言わないでよね! トイレでもないのにできるわけないでしょ!」

「そうだよ兄貴! こんなところでおしっこなんかできるかよ!」 


 佳織と里奈は声を抑えて太一の提案に抗った。

 だからといって二人の意思はまかり通らない。


「いいか、おまえら。スケルトンがほいほいトイレに行けるわけがないだろ。つーか、トイレに行くまでに誰かに見つかっちまうぞ。だから俺はここでおしっこをしろって言ってんだよ。それにピーちゃんの話じゃ、おしっこをしても、おしっこは出ない。でもおしっこをすれば、おしっこをした気分になるんだ。だから心配しないでおしっこしろ」

「でも太一、本当にここでしなきゃいけないわけ……?」

「兄貴、あたいも気が進まねーよ……」


 キョロキョロと周囲をうかがう二人だが、近くに人の姿は見られない。

 何台もの大型車がトラックデッキに積載されているだけだ。

 それに運転手は客室などを利用するので、運転席は無人となっている。


「トイレに行くことは絶対にダメだ。だからここでしろ。ほら、早くしろ」

「なんであんたが見てるわけ!? まったく意味わかんないんだけど!」

「バカ兄貴! どこまで変態なんだよ! 見損なったぜ!」


 気味の悪い歯をグワっと全開にして、佳織と里奈が抗議するのも無理はない。

 だが太一には考えがあってのことだ。

 それを今から彼女たちに諭し伝える。


「いいか、よく聞け。本来はバスを出ることすら禁止なんだ。おしっこをしても、おしっこが出ないんであれば、車内でそれをするべきなんだ。だけどその前に、本当におしっこが出ないか、確かめる必要がある。じゃないと車内が肥溜めになっちまうからな。その悪夢のような惨劇を想像してみろ。俺たちは人間に戻るどころか、マジで人間を辞めることになるんだぞ。そうならないためにも、まず俺がおまえらを確認するって言ってんだよ。わかったら早くしろ」


 太一は催促するように股間をクイクイ突き上げた。


「言いたいことはわかるけど……太一が見てる必要はないでしょ……?」

「そうだよ兄貴……。出るか出ないかは、あたいら自身がわかることじゃねーか……」


 くねくねしながら内股で股間を押さえ、二人は正当性を訴えた。

 だがその正当性には大きなほころびがある。


「おしっこが出るか出ないかだけなら、俺がいる必要はない。それぐらい、俺にだってわかってる。でもな、リアルにおしっこが出た場合が一番危険なんだ。もしそこに船員がやってきてみろ。おまえらシャーシャーおしっこ垂れ流したまま逃げるのか?」


 すると佳織と里奈は無言で頭蓋骨を左右に振った。

 あたりまえだ。

 放尿したままスタコラサッサなど、とうに人間を辞め家畜の所業。

 ましてや我慢に我慢を重ねたおしっこだ。

 それを止めようとしたところで、蛇口のようにキュっとは止められない。


「つまり、おまえらは逃げることができないんだ。ただしゃがみ込んで、泣きながらおしっこが終わるのを待つしかできないんだ。そんな無防備のおまえらを、誰が守ってやるんだよ? 俺しかいねーだろ。体を張って、俺がおまえらを守るしかねーだろ。だから俺はここにいるって言ってるんだ」


 大切な幼馴染みと妹だからこそ、この場をはなれるわけにはいかない。

 決して、骸骨の放尿シーンなんかが見たいわけじゃない。

 すると――。


「太一、あんたそこまで考えてたんだ。なら、あたしここでする」

「あたいもここでする。だから兄貴、ちゃんと、ここにいてくれよな」


 佳織はパンツをずり下げてしゃがみ込んだ。

 里奈も骨盤を丸出しにして和式便所スタイルとなる。

 前者のパンツは白と黒の市松模様。

 後者のパンツはイチゴ柄。

 太一は腕を組んでそんな二人を見下ろした。

 おしっこが終わるまで、全力で彼女たちの盾となる。

 ややあって――。

 佳織が小さく震えはじめた。

 里奈もまた同じように震えはじめた。

 表情が見えないだけに、おしっこをしたのか、していないのか、それはまだわからない。

 二人はともに解放感に満ちた吐息を漏らしているが、おしっこをしているとは限らない。

 ゆえに太一は問う。


「おまえら、今おしっこしてるのか?」

「うん……してる……。でも……すっごく恥ずかしい……」

「してるぜ、兄貴……。あたい、今してるぜ……」


 消え入りそうな声を出し、佳織は膝の中に頭蓋骨をうずめた。

 恥ずかし気に答えるも、里奈は太一の顔をすっと見上げた。

 兄に向けられた、妹の闇を湛えたその双眸。

 それはまるで、里奈が小学生時に戻ったかのような、切なる哀願にも見受けられた。


『ちゃんとここにいてね、お兄ちゃん』

『どこにも行っちゃいやだよ、お兄ちゃん』

『おしっこしてるとこ、ちゃんと見ててね、お兄ちゃん』


 か弱き妹のそんな訴えが、太一の耳孔にも届いたような気がした。

 それはそれとして、二人がシャーっと、放尿している様子はない。

 ピーちゃんの言うとおり、おしっこをしても、おしっこは出なかった。

 これでもう心配はない。

 座席で用を足しても、車内の清潔は保たれるのだ。

 太一がそう安堵していたところ、佳織と里奈がようやくおしっこを終えた。

 衣服を正して立ち上がった二人は、モジモジしたようにうつむいている。


「おまえら、気持ちよくできたか? 俺の前で気持ちよくおしっこできたか?」

「た、太一のバカ……」

「バ、バカ兄貴……」


 などと恥じらいの罵倒をつぶやくも、彼女たちに否定は見られない。

 太一はそれを肯定と捉え、二人を連れて車内に戻ることにした。

 すると――。

 車内では、何人もの生徒が限界に達し悲鳴を上げている。

 太一はそこで用を足しても問題はないと伝えたが、実行に及ぶ猛者はいなかった。

 みんなはトイレに行かせてくれと必死に訴えている。

 そんなとき――。


「いやーーー! 見ないでーーー! こっち見ないでーーー! うあーーーん!」


 座席の中ほどで、とある女子生徒がワンワンと泣きだしてしまった。

 どうやら我慢ができず、お漏らしをしてしまったらしい。

 むろん、彼女がしたのはエアお漏らしだ。

 そうやって泣き叫ぶから、粗相をしたことがバレるのだ。


「いいかみんな! おしっこをしてもおしっこは出ない! それはただの感覚でしかないんだ! 鼻歌でも歌うようにシレっとそこでしろ! そうすればすべてが丸く収まる! おしっこ、おしっこ、俺に何度も言わせないでくれ! 俺はおしっこ大好きな変態じゃねーんだぞ!」


 そう太一が激を飛ばしたところ――。


「♪ ♪ ♪」

「♪ ♪ ♪」

「♪ ♪ ♪」


 何人かの生徒が鼻歌を歌いはじめた。

 しだいにその輪はどんどん広がり、生徒のみんなで鼻歌による大合唱が奏でられた。

 なにかしらの解放感で、車内の空気は高原のような清々しさに包まれていく。

 これが桃色吐息学園、二年A組の団結力である。

 そんなとき――。


「青島、待たせたな」


 律子先生が戻ってきた。

 たしか彼女はなにかを調べると言ってバスを出た。

 それなのに、その報告もせずに運転席でスッキリしたようにくつろいでいる。

 そこで太一に疑念がふと芽生えた。


「先生、もしかして、トイレに行ってたんじゃねーのかよ」

「そ、そんなことはない……ちょっと見回りをだな……」


 右の窓ガラスを向いたまま、律子先生は言葉を濁らせた。

 それはいかにもトイレに行ってきたかのような、挙動不審のあらわれ。

 よく見てみると、彼女の手にはめられた軍手が少し濡れていた。

 手を洗ったための痕跡かと思われる。

 なにかを調べると嘘をつき、律子先生はトイレに行っていたのだ。

 自分だけが変装しているのをいいことに、ひょうひょうと用を済ませてきたのだ。

 教え子のトイレ事情をほったらかしにするという、教職者としてあるまじき行為。

 太一はそんな外道を断じて許さない。


「先生、出なかったよな?」

「青島、なんのことを言っている……?」

「トイレのことだよ。でもじっさい、ウンコは出なかったよな?」

「私は大便ではなく小便を――い、いや、私はトイレになど行ってはいない……。そこらに爆発物がないかを調べていただけだ……」


 この期に及んでなおもシラを切り、こちらを向こうとしないメスゴリラ骸骨。

 太一はその頭部を強引に反転させ、彼女のサングラスをマジマジと覗き込んだ。


「先生、みんなはバスの中でトイレを済ませたんだぞ。バスを出たら誰かに見つかる恐れがあるから、そうするしかなかったんだ。でもな先生、出るものが出ないからできたと思わないでくれよな。みんなはクラス一致団結の元、葛藤を乗り越えてエア排泄物をぶちまけたんだ。だからこれからは先生も運転席でぶちまけてくれ。なーに、歌でも歌えば誰も気づかないって」


 太一の言葉に律子先生はなにも言い返せない。

 ガックリとこうべを垂れて、白骨死体のように枯れ固まっている。

 スケルトンでなければ十歳は老け込んだ顔になっているにちがいない。

 こうしてひとまず、トイレ事情についてはカタがついたのだった。

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