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「あの……今日は、本当に、ありがとうございました」


 松島さんのマンションの玄関前。営業車バンの助手席で、彼女が顔を赤らめる。


「ああいう客は一定数いるからね。今後はちゃんと自分で対処していかないとな」


 俺は努めてそっけなく応える。


「そうですね……あの、神谷内さん」


「ん?」


「あ、あの……」


「なに?」


「あ、すみません……やっぱり、何でもないです」


「そっか。じゃ、今日はゆっくり休めよ。明日からまた仕事だからな」


「はい。お休みなさい」そう言って彼女はドアを開ける。


「ああ、お休み」


 ドアを閉めた彼女がぺこりと頭を下げたのを見て、俺は営業車を発進させる。


 さっき、彼女は何を言いかけたんだろうか。


 不意に、俺は思い当たる。まさか……


 彼女のフラグを折らずにいたことを、俺は少しだけ後悔した。


 ---


 一か月後。


 今や松島さんはほとんどベテランと変わらないほどの成績を上げていた。彼女の教育係としては嬉しい限りだった。


 そしてその日、俺と彼女は、某県で行われるIT見本市フェアへの出展のために出張していた。フェアは店頭販売と違い、関係者が主体なので困った客はほぼ皆無だ。新製品の力もあり、俺たちのブースは来場者アンケートで最高の票数を得て、表彰されることになった。


 フェアが終わり撤収した後も、俺たちは大成功に浮かれていた。高いテンションのまま、俺たちは打ち上げと称して居酒屋でその土地の地酒を飲みまくった。楽しかった。そして……


 気づいたときには、見事に帰りの飛行機に乗り遅れていた……


 ま、明日は土曜日だ。帰らなくても特に問題はない。しかし……


 どこかに泊まらなくては。幸いにして、飛び込みで入ったビジネスホテルでシングルの部屋を二つ確保できた。


 だが。


 この時点で、俺は嫌な予感がしていた。そして、それは見事に的中した。


 部屋に向かうエレベータの中。無言。いつの間にか、彼女が俺にピッタリとくっついて、潤んだ目で俺を見上げていた。


 まずい。非常にまずい雰囲気だ。俺は心の中で祈る。頼むから何も仕掛けてこないでくれ、と。だが、その願いは空しかった。


「神谷内さん……私の部屋で……少し、飲みなおしませんか……?」


 とうとう彼女は言っちまった。あの日言えなかった、俺たちの関係を完全にぶっ壊す一言を。


 正直、俺の心はかなり揺れ動いていた。だが……心の赤信号は、まだ明るく灯ったままだった。


「いや、もう……遅いから……」


 俺の声が掠れる。


「神谷内さん……」


 言うが早いか、彼女が俺の左の二の腕を掴み、自分の方に引き寄せる。必然的に、俺の左ヒジが彼女の深い胸の谷間に導かれる。彼女はそのまま、熱のこもった目で俺を見つめていた。

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