第3話 『D:プロローグ 3』
白い床を染め上げるのは赤黒い血液。それを生み出しているのは、ひとりの男と、ナニカ。ここが現実なのかと疑いたくなるような、よくわからない生物であった。
男は陽の光を反射し銀色に煌めく鎧を身に纏い、露出した頭部は日本人離れした綺麗な金髪。俺に視線を向けるその瞳は青く、奥底には殺意と戦意が揺らいでいるのがわかる。
そして、もう一体。いや、もうひとり、と表現するべきなのだろうか。
そのよくわからない生物をひと言で形容するのなら、
細められた黒い瞳孔と、前方に伸びた鼻と口。唇の間からは細長い舌が飛び出し、皮膚にはびっしりと鱗が並んでいて────ソレが、二本の足でしっかりと立っている。俺の存在に気がついたのか、その蜥蜴は長い尻尾を揺らめかせながら、ゆっくりと俺に鎧の男と同じく視線を向けた。
なんなんだよ、これは。
「ふざ、けんなよ」
そこまで状況を把握して、やっと口から出た言葉はそんな情けない言葉。情けない声音。
結愛の胸を穿っているのは、鎧の男が握った一本の槍だ。俺の言葉を聞きながら、槍の男は結愛の胸から槍を引き抜き、刃先に付着した血液を床に振り払って見せると、
「おまえ……
「縺薙>縺、縺ッ谿コ縺励※濶ッ縺??縺具シ」
「いや、その必要はない。対象外だ」
勝手によくわからないまま会話が進んでいく。
片や、言葉と認識できない蜥蜴の奇声。ソレと普通に会話する鎧の男の姿が、気味が悪くて仕方がない。
二人の視線が俺の身体に突き刺さる。ここに来てようやく疲労を覚えた両足が震え出し、逃走なんて二文字は即座に消え去った。今この状態で走ったところで学校から出ることすら叶わないだろう。
そんな俺の思考を、読み取ったように。
「濶ッ 縺 縺倥c縺ュ縺医°縲∝挨縺ォ谿コ縺励◆縺」縺ヲ────縺ェ縺!!」
蜥蜴の姿が、消えた。
咄嗟の反応なんてできるわけがない。常人の目には、消えたとしか表現のしようがないからだ。
だから、気がつけば蜥蜴は俺の目の前に居て、爪が伸びた右手を俺を目掛けて振り下ろして居た────そんな事後的なことしかわからない。
死ぬ。このままじゃ死ぬ。
思考がやけに冷静に回り出し、無駄だとわかっているのに両手で頭を庇うように、そのまま膝を折ってしゃがみこむ。瞬間、
「ッ、────!?」
辺りにオレンジの光が迸った。その光源は、俺の首からぶら下げられたペンダントだ。
その光は障壁となり、蜥蜴の爪を阻み、衝撃だけを伝えると俺の身体を吹き飛ばす。それでようやく正気に戻り、息を荒げながら立ち上がると、無駄だとわかっているのに蜥蜴に背を向け駆け出した。
どうする、どうする? どうすればこの現状を打破できる────!
このお守りの効果は本物だった。しかし、相手の攻撃を弾く程度に収まっていて、この現状を突破できるほどの打開策にはなり得ない。致命傷を、与えられるわけではない。
「ほう? 加護の魔法……ソレを込めたマジックアイテムか。魔力高炉の気配は感じなかったが、存外こちらでも魔法の繁栄が進んでいるのかもしれん」
背後から聞こえてくる鎧の男の声に応える余裕もない。この場から逃げ出すので必死だった。生き延びることに必死で、他に何も考えられない。
だけど、
────逃げ出してどこに帰る? 生き延びてどうする? 唯一の家族であった
そんなことを、冷たい声音で問いかける自分もいた。
生き延びて、そこに意味はあるのか。
俺もここで死んでしまえば楽になるんじゃないか。
一生妹と母親の死の悲しみを抱えて、辛い思いをしながら独りで生き続けるくらいなら。
一瞬の苦痛の後、全てを手放してしまった方が────。
「……………………」
足が止まる。必死に、生き延びるために進んでいた足が。
首からぶら下げていたペンダントを引きちぎり、手のひらに握りしめて。そのまま、背後から迫る死の恐怖に────蜥蜴野郎に、向き合った。
「繧ゅ≧霑ス縺?°縺代▲縺薙?邨ゅo繧翫°?溘??隲ヲ繧√?譌ゥ縺?d縺、縺?」
何を言ってるかわからない。それでも何となく、俺を小馬鹿にしていることだけはわかる。
それが癪で仕方がなかったけれど。もう、何もかもどうでもいい。
「殺せよ、もう。生きてたって意味はない」
何もない。本当に空っぽだ。比喩でもなく、本当に……俺の中にはもう、何もない。
握りしめたペンダント。それを遠くへ投げ捨てようと、右腕を振りかぶる。それを、
「生きるのを諦めるのは、早いんじゃないの?」
邪魔をする声があった。
吹き荒ぶ凄まじい風。同時にこの場に現れたのは、全体的に『赤い』イメージを受ける少女だった。
白い長髪を風に靡かせ、赤い外套を翻し、俺の目の前に現れた少女。そいつは即座に────いや、姿を現したのと同時に、目にも留まらぬ速さで、その両手に握った何かを振るった。
「ふ────!」
残像を残し振るわれたのは剣。赤黒い、鱗のような刀身の直剣だ。
こんな細腕の何処にそれ程の力があるのだろう。そんなことをぼんやりと考えてしまうほどの、洗礼された動作で。
鮮血が舞い散り、蜥蜴の右腕が宙に舞う。聞くに耐えない蜥蜴の悲鳴を聞くと、赤い少女は俺に肩越しに視線を向けて、
「……ほら、逃げるよ。死にたくないでしょ」
そのまま俺の手を握ると、有無も言わさぬまま駆け出す。
まあ別に……その言葉に対する返答があったわけではないし。返事をするつもりなんて欠片もなかったから、別にいいんだけど。
◇◆◇
引っ張られるように走らされ、数分前に駆け抜けた大通りにやってきた。
先程と変わらずそこには地獄と困惑が広がっており、ぼんやりと『今起きていることは現実だ』なんて今更自覚する。
夢ならどれ程良かっただろうか。俺から全てが奪われ、生きる意味を無くしてしまったなんて。
「じゃあ、安全なところまで……自分でいけるよね」
少女は俺の手を離し振り返ると、真っ直ぐな視線を俺に向けてくる。
その視線に向き合うほどの元気はない。ちらりと視線を合わせたあと、なんとなく俺の視線はヒビ割れたコンクリートに突き刺さった。
「大丈夫…………なワケないか」
その様子を見てか、少女の声はわかりやすく沈んでいる。かと言って同情するわけではなく、数歩俺に歩み寄ると俺の顔を覗き込むだけ。
その優しい視線が、苦しくて苦しくて仕方なくて。
「……んだってんだよ。本当に」
押しとどめていたものが、溢れ出した。
「急に地震が起きたと思ったらよくわからねえものに襲われて。妹まで殺されて……契約だなんだって、今日は厄日か? 意味わからねえよ。わかんねえよ……!」
拳を握る。声の震えを押しとどめるように。溢れ出しそうな涙を、どうにか堪えるように。
「何が起きてるんだ、なあ!! いったいどうしちまったんだよ……この世界は!!」
少女は目を見開き、その金色の瞳には困惑の色が揺らぐ。
辺りを満たすのは沈黙だ。遠くから聞こえてくる悲鳴や爆発音だけが聞こえてくるだけの時間が続き────少女はようやく、迷ったように口を開く。
「……言えない。これは、わたしたちの問題だから。貴方を巻き込むわけには、いかないから」
ゆっくりと、言葉を纏めながら。少女は紡ぎ、俺に背を向け歩き出す。
「それから契約……って言ったっけ。それには応じない方がいい。悪いことは言わないから」
「はあ……!? 理由は話せない、だけど自分の言ってることには従えってか。都合が良すぎるんじゃねえか!!」
ようやく視線が前を向く。俺の目の前から去ろうとしている背中に。
溢れ出る言葉が止まらない。勝手に口だけが動いているようで気持ちが悪い。
少女はそんな俺の言葉と視線を受けるとそのまま振り返り、
「……ごめんね。わたしが、全部どうにかするから」
弱々しい声で。泣きそうな声で、そんなことを言った。
瞬きの間に少女は消える。どういう原理かはわからないけれど。
それでも、俺の眼裏には少女のその表情が焼き付いて離れなくて。鼓膜には泣きそうな声が離れなくて。
「………………最低だ、俺」
ようやく、自分のやらかしたことに気がついた。
自分の妹とそう歳は変わらない女の子に当たり散らして、あんな顔をさせて……気を遣わせて。
「本当に、最低だよ。俺は」
握りしめた拳。その中に在るペンダントの感覚が、痛くて痛くて仕方がなかった。
◇◆◇
行くアテもなく、ただただ歩いていく。その足取りはまるで、俺が普段見ているような幽霊もどきと同じで。我ながら、生きている人間らしさは微塵も感じない。
気がつけば俺の足先は茅咲駅に向かっていて、そこのショッピング施設の屋上にいた。
柵を乗り越え、普段は賑やかなバスロータリーを見下ろす。目下に見えるのはそんな平和な光景ではなく、血液と謎の怪物が織りなす地獄。目も当てられない光景から目を逸らすように、なんともなしに空を仰いだ。
それでも現実は、逃避を許さないようで。怪鳥が翼を広げ、俺に視線を向けるとけたたましく鳴き叫ぶのが見えた。
同時に滑空する。翼を畳み、落下の勢いを乗せて、その鋭利な
「…………」
それでも、手のひらに握った石が邪魔をする。障壁を生み、嘴を受け止めるとその衝撃だけ伝えて背後の柵に背中をぶつけた。
がしゃん、なんて無機質な音を立てたのと同時、怪鳥は俺のことを諦めてしまったようで。そのまま翻し、再び獲物を探すべく空に戻る。
「……誰も、俺を殺してくれやしない」
生きてたって意味がない。
死にたいのなら、この掌に握ったペンダントを投げ捨てればいい。けど、そんな勇気はなくて。
屋上からロータリーを見下ろす。それでもあと一歩。最後の一歩を踏み出す勇気もない。ここから身を投げてしまえば、楽になるというのに。
……めんどくさい男だ。本当に。
生きる意味をなくして、守る者をなくして。死に場所を探しているというのに、自らその行為に及ぶことはない。
俺は一体、どうしたいんだろう。
大きなため息が漏れる。すると、見下ろしたバスロータリーにひとつの変化が起きた。
またもや瞬きの間。ほんの一瞬目を離しただけで、そこに先程の少女が剣を携えて現れた。
そのまま人々を襲う異形に剣を振るい、大声をあげて避難を促す。
「……アイツ」
辺りを見回しても、少女と同じように異形に立ち向かう影はない。
「独りで……」
たった独り。孤独なままに、少女は戦っている。
その姿から目が離せなくて。何故か胸によくわからない感情が湧き上がって、締め付ける。
その姿が、何故か妹と────結愛と、ダブったからだろうか。
「何やってんだよ、ホントに……!!」
気がつけば柵を乗り越え、モール内に引き返していた。
万一、自分があんな状況に陥ったのなら。その孤独に、俺は耐えられるだろうか。
結愛があんな状況に陥っていたら。俺は、放っておけるだろうか。
あんなことを言った罪悪感もあったかもしれない。
胸に湧き上がる感情はよくわからない。でも、それでも。ひたすらに、夢中に足を回す。
階段を駆け下り、ガラスの扉を勢いよく押し開き、ロータリーに出る。ちょうど目の前では、異形の怪物────対の翼を生やした虎のような何かが、少女の身体に噛み付こうと大きく口を開いたところだった。
その全長、大凡三メートルと少し……俺の身長の二倍以上はあるだろうか。
そんな怪物にも臆せず、屈せず、剣を構え直し向き合っている。
けれど、攻撃は到底間に合いそうな距離ではなく。まるで、その姿が『全てを諦めたように』見えた。
「っ、ざ、け、ん、な!!」
ペンダントを握りしめた拳で少女を突き飛ばす。荒げた息をそのままに、叫びまであげて。
突き飛ばされた少女は目を見開き、何かを呟こうとした途端。その呟きは、ペンダントが生み出す障壁により、怪物の顎が堰きとめられた音にかき消された。
……よかった。間に合った。助けられた。
「待って、まだ────!!」
そんな安堵に浸るのはまだ早かった。
握りしめたペンダント。そこから放たれる光が薄れ、徐々に力を失っていく。それに呼応するように障壁の力は弱まり、ガラスが割れるソレによく似た音を立てて、あたりに舞い散った。
そうなれば、後に続くことなんて想像に容易い。壁を突き抜けた異形の顎は、何の不自由も、何の抵抗もなく俺の腕を噛みちぎるだけ。
空中に残された俺の掌が舞う。肩から手首まで綺麗さっぱり無くなった俺の体は、体当たりの勢いに負けて無様に地面に打ち付けられ、ボールのように転がっていった。
……あちこちが痛い。先生は三回までだって、注意してくれてたってのに。バカな話だ。
視界が、音が、遠のいていく。その中で少女が「どうして」なんて繰り返し問いかけて、泣き叫ぶ声を聞いた。
背中に暖かい血液の感覚。視界がくらみ、意識が揺らぐ。
……仕方ないじゃないか。勝手に身体が動き出してたんだから。
そんなことを答える余力もなくて。吐き出す声は、喉元にせり上がった吐瀉物に塞がれた。
世界が酷く遠い。
死者が、俺を呼ぶ声がする。
そんな中で、俺は。
最後に────夢を、見た。
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