第3部 21歳の葛藤


 スーツに袖を通すのは人生で二度目だった。紺色の生地に白のストライプが入ったジャケットを着ると、確かに成人としての節目を迎えた気がした。鏡に映る自分の姿を眺める。大学に入学しておよそ二年が経った。高校生の頃よりはずっと大人びて見えるだろう。体型が大きく変わったわけではないが、少なくとも雰囲気は二十歳の大学生だ。


 母に呼ばれ、直斗はリビングへと階段を下りた。父と兄も含めて家族全員がすでにスーツで正装していた。


「遅いわよ。皆もう準備出来てるから」


 母が少し文句を言う。着慣れてないんだから仕方ないだろ、と直斗は心の中でそう思う。しかし、言い返すと面倒なので黙っていた。


「直斗、スーツ似合ってるじゃないか。これでお前も立派な成人だ」


 普段は寡黙な父がそう言ってくれた。今日は何だかそれが妙に気恥ずかしかった。


「半年も前からもう成人してるよ」

「そういう事じゃない。二十歳と成人は少し違うだろう」

「同じだろ?」

「成人式をクリアして、やっとスタートラインに立てるという事だ」

 直斗にはその意味が良く分からなかったが、父には父の考え方があるのだろう。適当に「そういうものか」と返しておいた。

「……ねぇ、早く写真撮らないの?」


 隣のソファーに寝転んで漫画を読んでいた兄が気怠そうに言った。早く息苦しいネクタイを外して、楽な服装に着替えたいらしい。


「そうね、じゃあ玄関で撮るわよ」


 母の声で家族全員が外に出た。


「じゃあ、まずは直斗とお父さんからね。そこに並んで」


 直斗と父が玄関前に並ぶ。左にいる父の顔の位置が自分よりも五センチ以上低かった。昔は自分の方がずっと小さかったのにと直斗は思う。久しぶりにこうやって並ぶと時間の流れを感じた。自分も、そして父もそういう歳になったという事かもしれない。


「じゃあ撮るわよ。はいチーズ」


 デジカメを手に母は何だかとても嬉しそうだった。同じポーズなのに何度もシャッターを切っている。いつもなら、もういいよと言ってるところだが、今日くらいは好きにさせてあげようという気になる。直斗自身も大学の入学式以来久しぶりにスーツを着て、少し浮かれているのかもしれない。そして、母と兄の順にツーショットを撮り、最後に三脚を立てて家族全員で写真を撮った。おそらくこれは、直斗が中学生の頃に行った東京旅行以来の家族写真だ。高校は部活で忙しく、家を出てからも中々家族全員でどこかに行く機会は少ない。大学を卒業するまでには、皆でどこかに旅行しようと直斗は思った。


 写真撮影を終えると、成人式会場の伊勢市観光文化会館へと向かった。途中のコンビニで、約束していた中学のサッカー友達の中城亮馬と合流する。亮馬に会うのは三ヶ月ぶりだった。


「おお! 直斗久しぶりだな。元気だったか?」


 亮馬は缶コーヒーを片手にタバコを吸っていた。寒空の下、白い息を吐きながら話しかける。亮馬の風貌は昔とあまり変わっていない。サイドはツーブロックに刈り上げ、前髪はビシッと上げている。高校でもサッカーで鍛え上げた身体に黒色のスーツが良く似合っていた。


「おう、久しぶり。まぁ向こうではボチボチやってるよ」

「お前、なかなか三重に帰って来ないからさ。連絡しても返事遅いし、どうしてるか分からねぇよ」

「ごめんごめん」


 直斗は笑いながら煙草に火をつけた。空になった箱をゴミ箱に捨てる。冷たい空気と一緒に煙を吸い込むと、ミントガムのような爽快感が肺に広がった。


「それにしても成人式か。あんまり実感が湧かないな」

 缶コーヒーを飲み終えた亮馬が言った。

「成人式が何なのか、ちゃんと理解していないってのもあるな」

「市長の話を聞いて、後は皆でワイワイするだけだろ? 夜には同窓会で酒を飲んでさらに羽目を外すと」

「サッカー部の奴らがやらかしそうだな。大河とか泰明達がはしゃぐだろうな」

「あー、それは間違いないな」

 ゴミ箱に空き缶を捨てて亮馬は言った。それと同時にコンビニ店員がやって来てゴミをまとめて裏口に持って行った。

「そろそろ行こうか」

「おう」

 そう言って二人は歩き出した。


 文化会館までの道のりは非常に単純で、コンビニからは徒歩二十分程だ。住宅街を抜けて商店街を進みながら、大通りに沿って歩いて行く。その途中、街の人々はいつもと変わらぬ日常を過ごしているように見えた。サラリーマンは疲れた顔で会社に向かい、学生は眠そうに、または友達とお喋りに夢中になりながら学校に向かう。商店街の店々にはおばちゃん達が、自転車を止めて井戸端会議に華を咲かせていた。去年までの自分がそうであったように、成人式で浮かれているのは今年成人の自分達だけなのだと感じた。親父が言う程に成人式という行事は特別なものなのだろうか。直斗には分からなかった。


 一月の冬空は痛いくらいの冷気を含みながら、はっきりと綺麗に澄んでいた。吐息は白く滑らかに空気に溶けていく。そんな風にして二人は歩いて行った。


 九時半頃に二人は文化会館に到着した。すでに会場前の広場には数多くの同級生が集まり活気付いていた。皆々男子はキリッとスーツ姿に身を包み、女子は艶やかにカラフルな振袖姿をしていた。同じ伊勢市の七つの中学が集まる為、知らない人が多かったが、ちらほらと懐かしい旧友の姿が見える。中学の頃からあまり変わっていない者、髪を染めて大学生っぽくなっている者、髪型や化粧のせいか全くの別人に見える者、当時から五年後の世界がそこにはあった。青春時代を共に過ごした面々がこうして一つの場所で再会している事に、直斗は感銘を覚えた。特に自分は地元を離れて遠い和歌山で生活しているからかもしれない。かつての懐かしさが胸いっぱいに広がっていく。


「直斗、大河と泰明を探そうぜ。多分あいつらもそこら辺にいるだろ」

「そうだな、まずはサッカー部メンバーと合流しよう」


 カラフルな人混みをかき分けながら、二人はかつてのサッカー部のメンバーを探す。しばらくすると四人で話をしている大河の姿が見えた。長身で中学時代と変わらない笑い方ですぐに本人だと直斗は気付く。少し驚かせてやろうと後ろから声をかけた。


「よっ! 大河久しぶりだな!」


 直斗が肩を叩いてそう言うと、大河は予想通りの反応をしてくれた。


「おお! びっくりした。直斗と亮馬か!」

「久しぶりだな。元気にしてたのか?」

「当たり前に元気だったぞ。亮馬は焼肉以来だな!」

「そうだな。あれも十一月だから結構久しぶりだ」

「直斗は全然連絡寄こさないから、生きてるか分からねえよ」

「さっき亮馬に同じ事言われたよ。連絡はマメじゃないんだ」

「確かにそれは昔からだったな」


 大河は笑いながらそう言った。すると元々会話していた内の一人が声をかけた。


「それじゃあ大河、俺らは二中の奴を探してくるわ。三中メンバーも久しぶりだろ?」

「おお、すまん。それじゃあまたな」

「おう、またな」


 そう言って二人はまた別のグループの輪に入って行った。


「あいつらと話してたのに何か悪いな」

 亮馬が少し申し訳なさそうに言った。

「ああ、いいよいいよ。昔塾が一緒だった奴らなんだ。成人式は色んな奴と盛り上がる場所だろ?」

「それもそうだな。ところで泰明は来てないのか?」

「それがさ、昨日あいつから連絡があって風邪引いたみたいなんだよ。そんなに高い熱でもないから、落ち着いたら今夜の同窓会には参加するってさ。あいつも成人式に風邪なんてツイてないよな」


 大河は少し肩をすくめて残念そうにそう言った。無理もない、こうして中学の同級生が集まる機会もそうそうないのだ。直斗は、せめて同窓会には来れるといいな、と答えた。


 そして三十分後、文化会館内で成人式が始まった。新成人達がホール席に着席する。直斗達はちょうど三つ空いていた真ん中あたりの席に着いた。司会の女性が進行し、吹奏楽団の演奏で幕が開けた。盛大に演奏された後、市長の挨拶が始まった。

 市長の話は、今までどこかで聞いた事のあるような内容がほとんどだった。「これからは大人の一員として恥じる事のない行動を」とか「立派な社会人になるように」だ。最初は真剣に聞いていた直斗だったが徐々に退屈になってきた。どうしてこう、小学校の頃から校長や市長の話はグダグダと長いのだろう。自分達がいくら大人になっても、こういう人達の性質は変わらないんだろうなと直斗は思った。両隣を見ると、亮馬も大河もスマホをいじっていた。他の同級生もおしゃべりをし始めている。こういう時に別の事をするのは好きではないが、直斗も退屈しのぎにスマホを触ろうと、スーツの胸ポケットから取り出そうとした。その時だった。

「まあ、こんな話を長々と続けていても皆さん退屈だろうと思います。なので最後に一つだけ、これだけは忘れずにいて欲しい事があります。少しの間、顔を上げてもらえますか?」


 市長のその言葉に、それまで騒ついていたホールが一気に静寂に包まれた。亮馬や大河もスマホをポケットにしまう。直斗も市長の言葉に耳を傾けた。会場全体が妙な緊張感に満ちていた。そして少し間を空けて市長は話出した。


「これから先、今まで経験した事のないような様々な困難があなた達を待ち受けます。それまで大切だった人や物、場所や思い、それらを失う痛みです。どんなに強がってもそれは本当に堪え難い痛みなのです。皆さんの中には既に大学進学の際に一人暮らしをされている方もいるでしょう。どうですか? ずっと一緒だった家族や友達と離れて暮らすのは。勿論楽しい事もありますが、辛く寂しいと感じた事はありませんか? しかし、それが一人で生きていくという事です。また高校を出て既に就職されている方、仕事は辛く怖くはありませんか? アルバイトとは違い、あなたの一つ一つの行動に多大なる責任やプレッシャーがあるでしょう。これは次の春から社会人となる方もすぐに経験する事です。しかし、それが自分で生きていくという事です。あなた達はこれから先、これらの痛みと戦いながらそれでも生きていかなければなりません。勿論、私もその経験者の一人です。なので、そんな人生の先輩から一つアドバイスを送ります。辛い時は是非思い出してください」


 市長は一つ息を着いて、そしてゆっくりと最後の言葉を紡いだ。


「ここにいる皆さんの故郷は、この三重県伊勢市にあります。かつて友と過ごした青春の場所がここにあります。なので、少し疲れた時はここに帰って来て下さい。そしてまた、明日から一緒に頑張りましょう」 


 そして市長は最後に少し微笑みながら、


「以上で私の挨拶を締め括らせて頂きます。ご静聴ありがとうございました」


 そう言って深々と礼をした。


 次の瞬間、会場が新成人一同の溢れんばかりの拍手に包まれた。市長はそれを背に祝辞を持って舞台袖に去って行く。市長の姿が見えなくなっても尚、しばらくの間拍手は鳴り止まなかった。 




 成人式が終わり、数時間を空けて同窓会が始まった。伊勢市にある観光ホテル一階のレストランで、十八時から開催された。直斗達はカラオケで時間を潰した後に会場入りした。受付で名前を伝え、ホールの扉を開ける。すでに大勢の同級生達が集まり談笑していた。ホールは200人は軽く入れるほどに広く、丸テーブルが十数個並んでいた。端の一列には色とりどりの料理が用意されている。見渡すと、昼間に集まるのとはまた一味違う高揚感に皆が満ちている。直斗達は三年四組と書かれた札のあるテーブルに着席した。しばらく懐かしいクラスメートと昔話で盛り上がっていると、幹事が壇上に立ち始まりの挨拶を行った。幹事はかつて生徒会長していた男子生徒だった。


「皆さん、この度はご成人おめでとうございます。こうしてまた伊勢三中メンバーで集まれる事を嬉しく思います。先生方もお忙しい中ご出席頂きありがとうございます。今夜の同窓会は立食パーティーとなっており、食事はバイキング方式、ドリンクはあちらのスタッフ様にご注文をお願いします。時間は二十時半までとなっております。それでは説明はここまでにして、今夜は盛大に楽しみましょう! 乾杯!」


「乾杯!」

「かんぱい!」

「カンパイ!」


 総勢150人が一斉にグラスを掲げ交わす。皆の歓声がホールに響き渡った。直斗は用意されていたビールを一気に飲み干した。盛り上がる雰囲気を相まって余計に美味く感じる。すぐに隣の男子が瓶ビールを直斗の飲み終えたグラスに注いだ。ありがとう、と言って二杯目にもすぐに口をつける。亮馬や大河達も一気飲みをしていた。今夜は無事には帰れないな、と直斗は思った。



 同窓会が始まっておよそ一時間が経過した頃だった。直斗は調子に乗って前半に飛ばしすぎたせいで、少し酔いが回っていた。周りでは同級生達が盛り上がりを見せていたが、直斗は一度休憩しようと席を外した。ホールを出て近くにあった自販機でミネラルウォーターを購入する。そして一口飲んだ後に、エントランス横にある喫煙所へと向かった。酒の席ではやはり煙草が吸いたくなる。直斗は長椅子に腰掛けてセブンスターに火をつけた。肺に入れた煙を大きくゆっくりと吐き出す。振袖の着付けがある女子ほどではないが、何だかんだで直斗も今日は早起きをしていた。久しぶりの早起きと今日一日ずっと騒いでいた事もあって、これがやっと落ち着ける瞬間だった。背もたれに身体を預けて楽な姿勢になった。


 昔の友達と会うのはやっぱり楽しいな、と直斗は思う。それと同時に同窓会がこんなにも盛り上がるものだとは思ってもみなかった。当時から仲の良いメンバーばかりで固まるイメージだったが、こうして再会すると色んな同級生と会話をして昔話に華を咲かせている。仲の良かった者、そうではなかった者、一度も話す事のなかった者。どんな奴らでも五年の時を経て大人になり、そして今この場に集まっている。懐かしさを含めた様々な感情が直斗の胸の中に溢れていた。


 しばらくして、煙草が半分ほどになった時だった。革靴の足音で誰かがこちらに向かってくるのが分かった。反射的に直斗は喫煙所の入り口に目を向ける。最初それが一体誰なのか直斗には分からなかった。しかし、相手が自分の名前を呼んだ事ですぐに認識する。


「三井、久しぶりだな」

「……明石」


 喫煙所に現れた男は高校でクラスメートだった明石拓海だった。明石とは卒業式以来一度も会っていなかった。黒色のスーツに身を包み、髪を茶色に染めている事を除けば、当時からあまり見た目は変わっていなかった。明石も煙草に火をつけ、大きく煙を吐き出した。瞬発的に直斗は心の奥底に閉じ込めていたまりえとの一件を思い出した。かつての苦い記憶が脳裏をよぎる。


「何でお前がここにいるんだ?」


 直斗は自分でも気付かないうちに低い声で問うていた。あれから二年が経ちお互いに忘れるべき事であると自覚していたが、それでもこの黒い感情を自制する事が出来なかった。


「四中の同窓会もこのホテルでやってるんだよ」

「そうか。そういやお前も伊勢市出身だったな」


 短い会話の後、沈黙が二人を包んだ。お互いにそれ以上何も話す事なく、淡々と煙草を消化していく。こんなに味のしない煙草は初めてだった。ただただ気まずい空間だった。この雰囲気に耐えられなくなって、直斗は煙草を吸い終わるとすぐに火を消して立ち去ろうとした。


「三井、ちょっと待ってくれ」

「……何だよ」


 明石が直斗を呼び止める。明石は吸いかけの煙草の火を消して直斗と向かい合った。


「伝えたい事が一つあるんだ。聞いてくれ」

「だから何だよ」


 直斗はぶっきらぼうにそう答えた。しかし、明石の表情は真剣そのものだった。当時の冷やかしかと思っていた直斗は心の中で少し面食らう。そして明石は一つ深呼吸をして言った。


「あの時の佐々木との事でずっと謝りたかったんだ。本当はあの日、俺は佐々木に告白して振られたんだよ。あの時間にあいつの家の前にいたのはそういう事なんだ。だから、お前の思ってるような事は何もなかったんだよ」


「え?」


 明石からの唐突な告白に直斗の頭はついていく事が出来なかった。明石がまりえに振られた? 何を言ってるんだ? まりえは一度もそんな事言わなかっただろ? そんなの後から作り上げた嘘に決まっている。


「いきなりそんな事言われて信じられるわけないだろ。それに二年も前の事を今更言われても、こっちはどうしたらいいんだよ」

「……そうだよな。本当に今更だと俺も分かってる。だけどずっと伝えたかった事なんだ。お前達二人が付き合ってた事を知らなかったとはいえ、仲を裂いてしまったのは事実だろ? だから悪い事をしたと本気で思ってる。今更だけど本当にごめん」


 そう言って明石は深々と頭を下げた。明石のそんな姿に直斗はどう反応して良いのか分からなかった。何も言う事が出来ず、ただただ時間が流れていく。まさか二年ぶりに再開したクラスメートにこんな事実を告げられるとは思ってもみなかった。明石は頭を下げたまま少しも動かない。


「あの日、俺にはお前達二人が楽しそうに見えた。振られたようには見えなかったけどな」

「あれは佐々木の優しさだったんだ。同じクラスだからこれから気まずくならないように、気を使って無理にでも違う話で笑ってくれた。俺も簡単に成功するなんて思ってなかったから、本当はそれで良かったんだ」


 明石は頭を少し上げて、時折言葉を詰まらせながら続けた。


「私を選んでくれた人がいるからごめんね、って佐々木は言ってたよ。最初それが誰なのか俺には分からなかった。でもお前があの場に現れて、次の日から険悪になっていく二人を見てやっと理解した。初めから成功するはずがなかったって。でもそうしたら次第にお前に対して嫉妬してた。酷いよな、それからは本当の事は何も言わずにただ傍観してたんだ」


 そして最後にもう一度頭を下げて言った。


「あの時は本当にごめん」


 明石のその姿に直斗はそれ以上何もいう事が出来なかった。本気の謝罪だった。次第に直斗の心の中に申し訳なさのような感情が芽生え出した。まだ明石の言った事実を全て信じる事は出来ない。しかし、もはや時効同然のあの話を今になって自分から掘り返す意味を、単なる嘘として判断する事も出来なかった。本当にやましい事があったのなら、今まで通り黙っていれば良いだけの話だ。それに気まずくなるのを分かっていて俺と再会する必要もない。本当に明石はずっと直斗に謝りたかったのかもしれない。


 直斗は深呼吸して明石に言った。


「……分かった。もういいよ、頭を上げてくれ」

「……何で俺を怒らないんだよ。ずっと本当の事を黙って、険悪になっていくお前らを知らん振りしていたのに」


 明石はようやくちゃんと頭を上げてそう言った。しかし、決して直斗と目を合わせる事なく、きつく唇を噛んでいる。


「そりゃあ、何で今まで黙ってたんだと言いたい所だけど、でもそんな事言ったって仕方ないだろ? もう二年も前の話なんだ。それに話を聞こうともせずに、まりえと明石を一方的に突き放したのは俺だ。今の話を聞いて冷静に考えてみれば、俺にも非はあるんだよ。だからもういいよ」


 強がりではなく直斗はそう言う事が出来た。考えてみれば本当の事を聞くのを直斗は自分から拒絶していたのだ。あの日、まりえからいくつものメッセージが届いていたのにも関わらず、一度も見ようとせずに削除していた。明石から話しかけて来た時も突き返していた。全ては自分に原因があったのだ。二年前のあまりにも幼稚な自分の行動に直斗は恥ずかしくなる。


「だめだな、本当に俺は……」


 独り言のように直斗はそう呟いた。そして唐突に気付く。


 かつて強くなりたいと何度も願いながら、それでも結局は自分の心の弱さ故に何度も誰かを傷付けていた。二年前の直斗は最後に優花が残してくれた言葉の本当の意味を何も理解していなかった。誰かを大切に思うとは、単に好きでい続ける事ではない。その人を信じ、最後まで真剣に向き合うという事だったのだ。優花はどんな時もそうやって自分に対して行動してくれた。それなのに。


「三井、どうしたんだ?」

「いや、いいんだ。気にしないでくれ。ちょっと色々思い出してな。それより伝えてくれてありがとう。じゃあな」


 そう言って直斗は明石の肩を叩き喫煙所を後にした。後ろから「ありがとう」と言う明石の声が聞こえた。




 夜明け前だった。


 同窓会が終わり、二次会として駅前の居酒屋で朝までサッカー部で飲んでいた。飲み過ぎたせいで頭痛が酷いが、妙に身体は重くなかった。直斗は一人、夜更けに家路を歩いている。


 明石の言葉が今も尚、直斗の心の中で何度も再生されていた。あの時は本当にごめん、と確かに明石は頭を下げて謝罪した。色々な可能性を考えたが、それでも今になって何故、直接謝りに来たのか直斗に分からなかった。逆の立場だったなら、自分は二年越しにあのように謝る事が出来ただろうか。


 ふと、空を見上げる。


 濃紺の空に徐々に朝陽が混ざり始めていた。そして月が短いその役目を終えて、静かに柔らかに溶けていく。その光景はどこか直斗の心を寂しくさせる。冷たく澄んだ空気にそれはやけにはっきりと見え過ぎていて、何故だか漠然とした不安や物悲しさに駆られる。これは楽しかった同窓会が終わってしまった事がだろうか。それとも明石との一件か。


 直斗は煙草を取り出し火をつける。二年の歳月をかけてゆっくりと均していた感情に起伏が生じていた。ずっと昔、心の奥底に閉じ込めたはずの思いが蘇ってくる。大切だった。誰よりもずっと一番にそう思っていた。高校生ながらに永遠を信じていた。そして、自分の気持ちを決して疑わなかった。だけど、それでも叶わない事があると初めて知った。自分を大切に想ってくれる人を、どうして同じだけの想いで大切に出来なかったのだろう。此の期に及んでようやく優花の本当の優しさを知り、明石との事実に向き合った自分がひどく恥ずかしかった。


 地平線に浮かぶ雲の切れ間から、朝陽の光がはっきりとその姿を現した。それは冬の空にはとても温かく、全てを包み込んでいくようだった。優しい朝の迎えに直斗は足を止め、しばらくの間それを眺めていた。


 そしてはっきりと直斗は気付く。ーーああ、そうだった。様々な感情が入り乱れたその激動の思い出に、多くの人の思いに自分は随分と救われていた。忘れる事の出来ないその一つ一つが自分を強くしてくれた。地元から遠く離れた和歌山の地で、十八歳の時からそうして何とか生きて来れたのだ。自分だけの力でここまで来れるはずもなかった。


 次の瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げて来た。その熱さに無性に泣きそうになってしまう。もう一度会えるのなら、その願いが叶うのなら、まりえに伝えたい事がある。やり直したいのではない。今更許して貰いたいとも思っていない。だからこれはただの自己満足だ。だけど、それでも、と直斗は思う。この気持ちに気付いてしまった以上、伝えなければきっと後悔する。もう会う事はないと分かっている。それはかつて自分が決めた事なのだ。心の痛みの中で何度も強く自分に言い聞かせてた。だからこそーー。 


 夜が明け、眩しいくらいの光の中で新たな一日が始まった。優しい思い出や激しい後悔、かつての喜びや悲しみ、様々な感情を含んだ朝だった。そんな冬の朝の美しさに直斗はたった一人、気付けば静かに涙していた。





 冬を越えて、春が訪れ、夏が終わり、そして季節は秋を迎えていた。大学生になって三度目の秋だった。二ヶ月に渡る長い夏休みは、そのほとんどをゼミ、部活、インターンに費やし目紛しい毎日を過ごしていた。九月二十日、それらのタスクを何とかこなして、直斗は残り少ない夏休みを地元で過ごしていた。


 実家に帰省するのはとても久しぶりだった。半年ぶりだろうか。気付けば春休み以降ずっと和歌山にいた。多分この短い帰省が終われば、次にここに戻って来るのはまた数ヶ月後になるだろう。年末はともかく次の春休みはきっと就活で忙しくなる為、今のうちに地元の友達と会っておきたい。直斗はベットから身体を起こし、階段を降りた。リビングでテレビを見ている母に「少し外に出て来る」と告げ、家を出た。


 九月の空は夏の面影を残しながら、それでも確実に秋へと向かっていた。街の人々は少しずつ服の袖を長くし、以前より過ごしやすい毎日を送っているように見える。本格的な秋はもうすぐそこまで近付いていた。そんな人々の中を目的もなく直斗は歩いていた。誰かに会いたいと思いながらも、特に誰かと連絡を取り合う事はない。自分でもよく分からない矛盾した感情が胸の中にあった。この感情を収めたくてあてもなく歩いているのかも知れない。


 午後五時半、夕暮れ時だった。日は傾き世界が濃い橙色に包まれていた。自分の少し前を歩く黒い影を見つめながら、直斗は高校時代によく足を運んだ河川敷に向かっていた。特別な理由は何もなかった。ただここに来れば何か分かるのではないかと、ふとそう思っただけだった。


 五分後、東屋に到着した。堤防から見たその光景は五年前と何一つ変わっていなかった。久しぶりに訪れたこの場所にかつての思い出がまだあるようで、直斗は少し躊躇ってしまう。ここにいる姿を誰かに見られたくないという気持ちがあった。しかし東屋を含め周りには誰もいない。平日のこの時間にわざわざここに来る人もいないだろう。直斗は一つ深呼吸をして、堤防を下り東屋のベンチに座った。夕陽に照らされた川はあの頃と変わらずキラキラと輝き、秋風が優しく草花を揺らしていた。その一つ一つが当時と少しも変わらない事に、座っているだけで胸がいっぱいになる。


 黄昏時にベンチに腰掛けていると、かつての様々な思い出が蘇った。サッカーに夢中だった事、勉強に必死だった事、体育祭や文化祭、笑いながら友達と歩いた帰り道。成人式での市長の言葉通り、直斗の青春や故郷は確かにここにあった。今はもう過ぎ去ってしまったそれらが、まるで昨日の事のように有り有りと思い出す事が出来た。そしてそこにはもう戻れない事も、成長した自覚として理解出来た。


 二十一歳の自分は、あの頃よりも大人になれただろうか。


 ーー分からない。でも一つだけ確信している事がある。あの頃、目指し憧れていた場所に自分は確かに到達したのだ。国立大学に進学し、地元を離れ、新たな友人達と出会い、それまで知らなかった様々な事を経験した。それだけは確かで、自分にとって必要な事だった。当時欲しくて堪らなかった力を手に入れたのだ。きっとこれからも自分は目指すべき場所に向かって歩いて行けるだろう。


 だから、あと少しだけーー。


 直斗は目を閉じ、ベンチに背を預けた。心地良い夕方の風が優しく直斗の髪を少しだけ揺らした。




 帰省の最終日、直斗が荷物をまとめている時、母は忙しなくあれもこれもとお菓子やカップラーメンを袋に詰めていた。「荷物が増えるからそんなにいいよ」と直斗は言ったが、それでも母は「またしばらく会えないから」と言った。その優しさに初めて家を出た日の事を思い出してしまう。


 大きなリュックを背負い、キャリーケースを持って直斗は玄関の扉を開けた。いざこの瞬間になると、一週間の帰省は短かったと直斗は思う。この家に帰って来るのは三ヶ月後だ。それまで、またここから一人で生きていかなければならない。

「色々とありがとう。また年末に帰って来るよ。それじゃあ行って来ます」


 長居すると何だか帰りたくなくなる気がして、直斗は短くそう言って歩き出した。母は少し寂しそうに、「行ってらっしゃい」と言ってくれた。


 直斗は最寄りの駅に向かって歩いていた。かつては遊びに行く為に使ったこの道も、今では別の目的になっている。住宅街を抜け、小学校を横切り、大通りを道沿いに進んで行く。平日の昼下がりは通り過ぎる誰もが穏やかに過ごしていた。遠くに浮かぶ雲のように、時間がゆっくりと流れている。


 二十分程歩いて、直斗は駅に到着した。切符を購入し、改札を抜けて一週間前とは別の方向のホームに向かう。キャリーバックがある為、エレベーターを使った。後ろに設置された鏡を見ると、明らかに荷物が多すぎる自分の姿に直斗は少し笑ってしまう。エレベーターを降りると、ホームには数人しかいなかった。高校生までは土日の利用しかなかった為、この駅でのその光景は少し不思議な感じがした。


 直斗は階段横のベンチに腰掛け、重いリュックを下ろした。そしてスマホのアプリで電車の時刻を確認する。十四時三十八分ーーあと五分だ。確認後、特に何をするでもなく直斗はホームからの景色を眺めた。この風景も今年はこれで見納めだ。そしてふと思い立って直斗はスマホで写真を一枚撮った。普段は滅多に自分で写真を撮らないが、こんな日だからと、直斗は自分を納得させる。ホームから見える空はとても綺麗な青空だった。ライトブルーの絵の具をたっぷりと含んだような、きっと何でも出来そうな予感に満ちていた。


 その時、向かいのホームの階段を一人の女性が下りて来る。遠くからでも分かるくらいに綺麗な人だった。茶色の髪が風に揺れている。彼女もベンチに座り、周りの景色を見ていた。


 少しして線路を挟んで直斗は彼女と目が合った。その瞬間、彼女が自分の名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。心に閃光が走り、あの人だと一瞬で直斗は理解する。


 三年前、心のずっと奥底に押し込めたはずの感情が一瞬にして呼び起こされた。もう二度と会えないと思っていたあの人が今、自分の目の前にいる。その刹那、考えるよりも先に身体が動いていた。直斗は荷物を放ったらかして階段を駆け上がる。


 伝えたい事が一つだけあった。それはとてもシンプルで偽りのない言葉だ。たった一言なのに、それなのに言えなかった言葉。


 だけど、今ならきっと言えるはずだ。明石は言ってくれたのだ。あの時、直斗とまりえの関係を知らず何も悪くはないのに、それでも一言伝えてくれた。今度は自分の番だ。仲直りの為のたった一言にずいぶん時間がかかってしまったと直斗は思う。此の期に及んで許してもらえるかは分からない。いきなり何だと冷たい事を言われるかもしれない。それならもうこのままでいいじゃないかという葛藤もある。でも、それでもーーと直斗は願う。今言わなければきっと後悔する。強がりではなく、本心でそう思った。最後に直斗はもう一度だけ、心の中で練習する。



「まりえ、あの時はごめんなさい」と。





    『21歳の葛藤』・完

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