第2部 邪な心
1
ーーまもなく和歌山大学前、和歌山大学前です。お降りのお客様はお忘れ物がないようご注意下さい。
車内に響くそのアナウンスで直斗は目を覚ました。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。着崩れていたスーツを正し、再度疲れた身体をゆっくりとシートに委ねる。左の窓の外に目を見遣ると、真っ暗な田舎の風景が流れていた。家々の明かりは都会とは違い、大きく間隔を空けて散らばっていた。ほんの一時間前まで大阪の市内にいたせいか、その光景は何だかとても心細く感じる。腕時計の針は二十三時二十五分を示していた。今日も門限ギリギリだなと直斗は思った。
長期インターンに参加してそろそろ三ヶ月が過ぎようとしていた。業務内容は営業に特化しており、主に近畿圏内の大手携帯ショップに派遣され、そこでタブレット端末やインターネット回線の訴求を行うというものだ。実績を挙げる事が出来れば学生でありながら法人の営業に参加する事も可能となっている。将来は営業職として働きたいと考えている直斗にとって、実践的な経験を積めるこのインターンはとても有意義なものだった。
しかし、それと同時に身体に疲れが溜まり始めているのもまた事実だった。和歌山は田舎故に勤務地が少なく、どうしても大阪や京都、兵庫に勤務地が偏っている。毎週全体会議が行われる事務所も大阪の梅田にあるので、和歌山からの移動距離や時間はかなりの負担となっていた。これが社会人なんだという思いで自分を納得させるのが帰りの電車でのルーティンとなっていた。
電車を降りて改札に向かって歩くと、冷んやりとした秋の夜風がホームを吹き抜けた。直斗は思わずポケットに左手を突っ込んだ。今は十月の半ばだ。決して冬のように寒い訳ではない。しかしスーツの上着を着ていても、ワイシャツの下に半袖の肌着しか着ていないこの格好では心許なかった。秋は好きだが寒いのは困る。夜も涼しいくらいでいいのにと直斗は思った。
改札を抜けて構内を出た。駅から学生寮までは自転車で十分程かかる。小さな山や丘を切り崩して作られた新興住宅街を通る為、アップダウンの激しい道だ。学生寮の門限が二十四時ちょうどなのであまり時間がない。駅に隣接された駐輪場で残りの時間が三十分なのを確認し、直斗は帰路に着いた。
エントランスに到着すると、長かった一日がやっと終わったという安心感に包まれた。勤務が終わった後の帰りの電車では、家までは遠いという億劫さがある。幸い明日は土曜日で大学も勤務もない。明後日の勤務に向けて今夜から明日にかけてはゆっくり過ごそうと直斗は思った。四階にある自室に帰宅し、スーツを脱いで折り目に合わせて丁寧にハンガーに掛けた後、直斗はすぐにシャワーを浴びた。営業に合わせてセットした髪をシャンプーで三回洗い流す。二年前の入居当初は、湯船に浸かる事が出来なくて煩わしく感じていたユニットバスでのシャワーも、今となっては慣れてしまった。むしろ風呂洗いが楽で良いと思う程だ。身体を洗い、ついでに浴槽で少し伸びてきたヒゲを剃ってから直斗はシャワーを終えた。
バスタオルで身体を拭きながらスマホを手に取ると、二分前に一件のメッセージ届いていた。それは同じ学生寮に住んでいる友人の坂下雅からだった。
『大輝が来たから部屋に来いよー』
大輝も同じ寮の友人だ。いつもこの三人で雅の部屋に集まり酒を飲んでいる。最近は雅が福岡でのインターンシップで二週間程寮にいなかった事と、直斗自身も色々と忙しかった事が相俟って、三人で集まるのは久しぶりだ。雅が向こうでどんな経験をしたのか、何を得たのかが非常に気になる。大輝も最近は京都の実家に帰省していて、ここ一週間以上は会っていない。常に気を張った状態の勤務の終わりにはこういう気分転換が必要だ。今夜は友人達と語り明かそう。直斗は返事をするよりも早く、雅の部屋がある七階へと向かった。
「お疲れさんです。はい、乾杯!」
雅の掛け声でいつものメンバーでの夜会が始まった。直斗はビール、雅は赤ワイン、大輝は梅酒ロックを片手にそれぞれがカチンとグラスを交わした。ゴクゴクとビールを一気に飲み干す。よく冷えた苦味のある液体が身体に染み渡る。一日頑張った時のビールは格別に美味かった。グラスをテーブルに置いて、直斗はタバコに火を付けた。ここ最近では一番の一杯と一服だった。
雅の部屋はかなりインテリアに凝っていて、全ての家具は黒色で統一されたシックな雰囲気に仕上がっている。雅は高校時代から趣味で小説を書いており、作業がしやすいように部屋の右手奥にあるL字デスクにはノートパソコン、デュアルモニター、テレビが置いてある。椅子も長時間の作業の為に背の高いレザーチェアだ。その前にあるベッドの反対側には、ガラステーブルを挟んで二つのシングルソファーがあり、今は直斗と雅が座っている。三人で集まる時は奥からレザーチェアを持って来て大輝がそこに座る。ソファーの後ろには大きなS字の棚があり、数多くのリキュールや果実酒、ワインに日本酒が並んでいる。雅は元々居酒屋でアルバイトをしていて、お酒を作る事も趣味の一つだ。パソコン部屋とバーの共存がこの部屋のコンセプトだと以前に雅は言っていた。
雅と大輝もそれぞれ煙草に火をつけたところで直斗が話を切り出した。
「まずは皆の近況報告からしますか。毎日のように集まっていたから、結構久しぶりな感じもするしな」
この夜会は直斗にとって単に友人とのお喋り以上の意味を持っていた。三人ともそれぞれにタイプが全然違う。直斗はどちらかというと聞き手に回る事が多い。勿論、コミュニティによってある程度自分のキャラを変えてはいるが、ここでの自分が一番素に近い。インターン先でも社員から「無害な人間」と評価されている通り、周りの人間と必要以上に馴れ合う事を避けている。他人の成績等にあまり左右されないのが自分の持ち味だとも思っている。そんな直斗がコイツは能力がある、と考えている人間の内の二人が雅と大輝だった。雅は小説を書いている事から文章に関する事を得意としている。以前に直斗は雅が昔に書いた作品を読んだのだが、一つ一つの言葉に引き込まれる魅力のある文章だった。物語を創造し0から1を生み出すその能力から、雅はどちらかというとクリエイター気質と言えるのかもしれない。
一方の大輝は、実力云々よりも人間として完成されていた。とにかく大輝は情に厚い。他人の為に自分を犠牲に出来る男だ。昔、直斗が金に困っていた時すぐに数万円を貸してくれた事があった。今は余裕があるから大丈夫と言っていたが、自分の生活を切り詰めて用意してくれたのだと後から聞いた。大輝はその事を「だって友達だろ?」の一言で済ます。他にも困った事があればいつも助けてくれた。そんな大輝に対して直斗と雅は友人として絶対の信頼を置いており、他の周りの人間が大輝を悪く言う事はない。大輝の人間としての器の大きさがそのままの評価だった。
そんな二人と集まるこの場では、基本的に議論や知識の共有を行う。各々の将来の話や最近の事について話し合うのだ。
「それじゃあ俺から先に言ってもいいか?」
大輝が煙を吐いてそう言った。
「いきなりだけど、俺来月から半年間オーストラリアに留学に行く」
「え?」
意表を突いたいきなりすぎる大輝からの報告に、直斗と雅の声が被さった。
「元々留学には興味があって行こうと考えてたんだけど、実際に行けるかがはっきりしなかったから、二人には言わなかったんだ」
「えらく唐突だな。まぁ大輝は英語得意だし行く事に不思議はないけど、何で夏休みじゃないの?」
直斗も疑問に思った事を雅が訊いた。大輝はその質問に淡々と答える。
「留学に行きたいって明確に考え出したのが夏休みが始まるくらいだったから、単純にお金がなくてさ。夏休みの間はバイト入れまくって資金調達に当てた。今回の長めの帰省も親と話し合ったりビザの取得に時間がかかったんだよ」
「なるほどな。それで大学の方は大丈夫なのか?」
今度は直斗が質問する。
「それがちょっとややこしくて、留学って言ってもワーキングホリデーだから、向こうで大学に通うわけじゃないんだ。語学学校には行かずに現地で働いて、自分の力で生計を立てるみたいな。だから単位互換もないし一旦大学は休学する」
「何で語学学校じゃないんだ?」直斗はさらに質問する。
「俺の中では英語力を身に付ける事は二の次なんだよ。だって今時留学なんて珍しくないし、英語を話せるだけじゃ外資系とかだともはや前提だろ? 俺はもっと別のものが欲しいんだよ。それは例えば、異国の地でたった一人で生き抜く力であったり、どんな問題も切り抜ける力かな。誰にも頼る事が出来ない状況に自分を追い込んで、人間的にさらに成長したい。就活でも話のネタになりそうだしな」
大輝の口振りは、すでに決意を固めた者のそれだった。迷いはなく、次のステージに向かう自分をはっきりと見定めている。直斗は留学を経験した半年後の大輝を想像してみた。ペラペラとはいかないまでも、日常会話レベルなら難なく話せるだろう。現地での衣食住の確保、職場探し、外国人とのコミュニケーション、日本の知らない場所で生活するのとはワケが違う。しかし、それらの様々な困難を自分の力で乗り越えて行く。今でさえ人間力があるのに、これ以上成長したらどうなるんだろう。そんな大輝の姿を直斗は想像出来ずに、微笑を浮かべた。きっと大丈夫だと、ほとんど直感的に直斗はそう思う。
「大輝が決めた事に対して頑張って来い、以外に言う事はないよ。半年間会えないのは寂しいけど、それでも今は半年後の大輝を見てみたい。俺も営業頑張るからお互いにだな」
直斗は煙草の火を消しながら言った。灰皿に横たわる煙草から、消しきれなかった煙が少しだけ立っていた。小さくゆらゆらと揺れている。雅はそんな煙を消すように、上から吸い終わった煙草を押し当てた。
「WiーFiがあれば世界中どこだって繋がれる。暇な時は電話してきなよ。生きて帰って来れば俺は何でもいいからさ」
雅はそう言った。そんな二人の言葉に大輝は少し照れくさそうな表情を浮かべた。半年間という期限付きの別れだとしても、やはり皆一抹の寂しさはある。いつも集まっていたメンバーだけに余計にそう感じるのだろう。しかし、お互いに切磋琢磨して高めていける友人がいる事は嬉しいことだ。
「ありがとう、頑張って来るよ」
「という事で、何か予想以上に良い話になったな。まぁみんな二杯目飲もう。雅、カクテル作ってくれよ」
「了解。ショート? ロング?」
「一発ショートで一気に行くか。大輝はどうする?」
「俺もショートでいいよ。ジンベースで飲みたいな」
「はいよ、直斗オレンジジュースと氷をいくつか持って来て」
「了解」
直斗は入り口近くにある冷蔵庫から言われたものを取って来る。雅はS字棚に並べていたジンとグレナデンシロップを手に取った。シェイカーに氷を入れてから、それぞれをメジャーカップで軽量し順に入れていく。ストレーナーとトップを被せて、雅は一定のリズムで器用にシェイクした。氷が転がり、液体がカクテルとして混ざり合う心地良い音が響く。十数回シェイクした後、雅はショートカクテルグラスに三人分注いだ。出来上がったカクテルは美しい緋色をしていた。暖色の間接照明に照らされてキラキラと輝いている。再び三人はグラスを交わした。ショートカクテルはアルコール度数が高く量も少ない。また温度の関係から短時間で飲むことを前提に作られているので、直斗は一気にそのカクテルを飲み干した。オレンジとグレナデンの甘酸っぱさの後に、ジン特有の強いアルコール感が口に広がる。適当な店で飲むよりも美味いと直斗は素直にそう思った。
「それで雅は福岡でのインターンはどうだった?」
集まる前から気になっていた事を直斗は訊いた。雅はすでに煙草に火をつけていた。一つ大きく煙を吐いてから話し始める。
「まぁ経験としては良かったよ。中々二週間もどこかに泊まって何かをするって機会はないしな。インフラ業界がどんなものかもよく分かった。……だけど、九州は違うかなって気もした。確かに都会なんだけど、結局それは福岡のほんの一部なんだよ。関西、関東とはやっぱり規模が違う。若いうちは物足りない感じがするな」
雅は少し残念そうな表情を浮かべながらそう話した。雅は生まれが神奈川で、中学からは大阪で育っている。そんな雅はとある作品がきっかけで九州に興味を持ったらしい。一回生と二回生の夏休みには、地元の友人と鹿児島の種子島へと旅行に行っている。生涯を通して書きたい事が九州にあると考えており、就職は向こうでするつもりだと言っていた。そんな雅があっさりと考えを変えるのに直斗は正直驚いた。
「九州には九州の人間しかいなかった。だからこう、ある意味閉鎖的と言うのかな。インターンシップ生は十三人いたけど、俺だけ明らかに浮いてたよ。もっと色んな種類の人間がいた方が面白いよね」
「雅の場合は九州に行く理由が独特過ぎて浮いてたんだろ?」
大輝が笑いながらそう言った。確かに雅のようなタイプはそうそういないだろう。良い意味で浮いていたのだと直斗は思う。
「でも確かにわざわざ関西から九州で就職しようと思う人はいないだろう。行くとしたら東京だな」
直斗の発言に大輝はそうそうと頷いた。雅も同じような表情をしている。
「それで雅はどこで就職するんだ?」と直斗は訊いた。
「あんまり地元志向はないから、東京に行ってみようと思ったかな。日本のターミナルなら色んな人がいて、若いうちから大きな経験が積めると思う。親の事を考えるのはもっと後でいいし、小説に関してもあっちでも十分書けるしね」
雅はそう言い切った。大輝と同様に、もう決めたのだという顔をしていた。求めていたものがそこにはなかったと言う事をすでに割り切っていた。雅や大輝のこういった即決力や柔軟性は素直に学びたいと直斗は思う。そしてそれと同時に羨ましいとさえ感じる。二人とも欲しいものや目指すべき場所が今いる所よりもずっと遠くにあるのだ。誰しもがそこに行けるわけではない。しかし二人ならきっとその場所でそれぞれの目標を成し遂げるだろう。そういった確信めいたものが直斗にはあった。
「でも、これはインターンとは直接関係はないけど、知らない場所でずっと一人でいるのはちょっとしんどかったなあ。インターン中は楽しいけど、ホテルに帰ったら一人で寂しい、みたいな。だから、遠くに行く時は仕事だけじゃなくて生活レベルの事も考えるべきかな。当たり前だけど、知り合いもいないわけだし」
「それは確かにな。俺の留学は期限付きだからまだしも、一生そこで暮らすかもしれないからな。仕事なんて週に五日で、それも一日の半分くらいだ。圧倒的に私生活の方が長い。下宿生活で慣れているとはいえ、俺も最初は相当キツかったからな」
「大輝は今でも京都に帰りすぎだろ?」
「まぁそれは間違いない」
雅からの茶化しに大輝は笑いながら答えた。そんな二人のやり取りを見るのが久しぶりで、直斗もつられて笑った。良い感じにお酒も入り、ラフなムードが流れ始める。皆のグラスが手持ち無沙汰なのを見て、雅は新しくカクテルを作り始めた。今度はグレナデンではなく、ライムシロップを使うらしい。リキュールと割材はそのままに、シェイカーにライムシロップを入れていく。同じように十数回シェイクした後、グラスに注ぐと少しオレンジがかった淡いグリーンのカクテルが完成した。一口飲むと、さっきのカクテルよりも甘さが控えめでキリッとした味がした。やっぱりこの部屋で、このメンバーで飲む酒は美味いと直斗は思う。このカクテルも皆すぐに飲み干した。
「彼女がいれば、何か変わるのかねぇ」
酔い始めた雅が唐突にそんな事を言い出した。雅は酒を作るのは好きなくせに酒にはめっぽう弱い。集まってから一時間ほど経った頃だった。時計の針は午前一時を少し回っている。大輝はもう一度梅酒を、直斗は照葉樹林を飲んでいた。かく言う二人も煙草を吸いながら飲んでいるせいか、顔が赤い。お堅い話をする空気はもはやなくなっていた。
「彼女欲しいなあ。東京に連れて行きたいと思うくらいの人。大輝はオーストラリアで金髪のお姉ちゃん捕まえるもんねぇ」
「どうせ半年で帰るのに彼女なんて作らねぇよ。せいぜい遊びの関係だな」
「さすがっす先輩」
「それより直斗はどうなんだよ。彼女作る気はないのか? 前の人と別れて随分経つんだろ?」
酔った雅の相手をするのが面倒になったのか、大輝は直斗に話を振った。
「欲しいと思うよ。勤務の帰りとか連絡取りたくなる」
「良い人はいないのか?」
「うーん、インターン先は仕事の場で恋愛要素はないな。大学も三回になると新しい出会いもないし」
「そうか。じゃあ就職してからかもな」
「そうだな。しばらくいない所為か、ふとした時に電話とかしたくなるな」
「あー分かるわー。学校帰りに自転車の二人乗りとかしたかったぁ」
大輝に話を逸らされて一人で煙草を吸っていた雅が、急に少しずれた事を言った。しかし、あえて直斗はその事については突っ込まなかった。絡まれると面倒だからだ。酔っている雅からすれば、電話と自転車の話は繋がっているのかもしれない。
「高校時代は電車通学だったから、自転車乗らなかったんだよ。私立だったから皆家が遠くて帰りもバラバラだったし。そこんとこ三重はどうですよ」
何となく三重が田舎だとバカにされたように感じたが、事実と言えば事実なので直斗は反論しなかった。それよりも、そう言えば自分の高校時代はどうだったかと記憶を辿った。そして、すぐに思い出の端っこに引っかかる。それは淡い思い出だった。幸せだったあの瞬間。忘れもしないあの日の事。まさかこんなところで思い出すとは、思いも寄らなかった。まりえとの思い出があの日のように鮮明にフラッシュバックする。
ーーああ、そうだった。自分はあの日、まりえの柔らかな優しい声と背中から伝わる温もりを知った時、彼女を守れるだけの力が欲しいと願ったのだ。このような存在を決して失ってはならないと強く思った。三年の時が流れ、忙しい日々に身を置いているうちに、いつの間にか忘れていた。その思い出は、熱い涙のように、じんわりと直斗の心の奥を温める。
すると次の瞬間、
「昔、とても大切な人がいたんだ」
自分でも気付かないうちに、直斗はその言葉を口にしていた。雅と大輝は直斗の唐突な話に驚いた表情を見せている。どうしてだろう、話さずにはいられなかった。高校を出てから誰にも話した事はなかった。誰にも語るつもりはなかった。でも……何だっていい。あの夢を見て少し前に追憶していたばかりだ。もう少しだけ思い出に浸らせてもらおう。そう思い、直斗は二人にまりえの事をゆっくりと話し始めた。
2
高校二年の夏、直斗に高校で初めて彼女が出来た。同じクラスの正木優花という大人しめの女の子だった。それまで話した事は一度もなかったが、夏以降、席が近かった事から自然と話す機会が増えた。見た目や性格からは想像も出来ないくらいの優花からのアプローチで交際に発展した。優花の控えめな性格が直斗とマッチしたのか、交際そのものは一年後、高校三年の七月まで続いた。波のない穏やかな海のような付き合いだったと直斗は思う。一度も喧嘩などしなかったし、意見の食い違いも起こらなかった。どこにでもいるような高校生が、どこにでもあるような付き合い方をした。ただそれだけの事だった。直斗にとってこんなにも女の子が好意を抱いてくれたのは優花が初めてで、情熱的とまではいかないにしても、それに応えるように直斗も優花の事を優しく愛していた。この子を傷付けてはいけないと本気で思っていた。
一方、まりえとは二年の時にクラスが別になった。相変わらず仲は良かったが、クラスが離れてしまうと自然に話す機会も少なくなっていった。時折、学校ですれ違った時に少し立ち話したり、一ヶ月に数回連絡のやり取りをする関係に落ち着いた。お互いの恋愛の調子はどうだとか、他愛のない話だったと思う。恋人がいる手前、二人で遊ぶような事もなかった。
そして月日は驚くべきスピードで、着実に高校三年へと向かっていた。これから来年に起こる出来事が自分にとって大き過ぎて、今となっては、直斗はこの年の事を上手く思い出す事が出来ない。波のない穏やかな海は、嵐の前の静けさだったのかもしれないと直斗は思う。そんな中、唯一はっきりと覚えている出来事は十二月のクリスマスの日、直斗は優花と市内へデートに行き、そして帰りに公園でキスをした。お互いに初めてのキスだった。
「恥ずかしいけど、でも嬉しいね」
ほんのりと頬を赤く染めながら優花はそう言った。しんしんと粉雪が舞い落ちる中、はにかんだ優花の表情はとても儚げで美しく見えた。気恥ずかしさを紛らわせる為か、優花は直斗に抱きついた。直斗もそっと背中に手を回した。その後、優花の母に呼ばれて家に行った。向こうの両親は直斗にとても親切にしてくれて、四人でクリスマスケーキを食べた。「うちの娘をよろしくね」と、少し冗談めかして優花の母は言っていた。
そして長い冬を越え、季節は春を迎えた。四月五日、満開の桜が学校中に咲き誇り、薄いピンクの花びらが風に舞って空中に絵を描く。三年生には皆、最高学年になり新学期が始まったという高揚感と、これから始まる受験への程良い緊張感で満ちていた。直斗は校舎の入り口に張り出されたクラス表の三年一組に書かれた自分の名前だけ確認すると、すぐに教室へと向かった。ドアを開け、教室を見渡すと、そこにまりえがいた。まりえもすぐに直斗に気が付く。
「おはよう、今年は同じクラスだね」
「びっくりした。一緒のクラスだったのか。まりえが同じ教室にいるのは、すごく久しぶりな感じだな」
「これからは受験のライバルだから、一年の時みたいに優しくはしてあげないよ」
「俺の方が偏差値高いだろ。せいぜい頑張ってくれ」
直斗がそう言うとまりえは笑った。一年の頃と変わらないやり取りで、三年の二人はふざけ合った。とても懐かしい気分だった。一年間クラスが離れても、やっぱりまりえは一番の親友だと直斗は思った。これから最後の一年は楽しくなると確信していた。この時、全てが順調だと直斗は思っていた。
しかし、その二ヶ月後の六月、直斗はまりえから吉村と別れた事を聞いた。誰もいない放課後の教室でまりえはポツリポツリと話し始めた。哀しそうに話すまりえの事を直斗は隣の席に座って黙って聞いた。窓の外ではじっとりとした梅雨の暗い雨が降っていた。遠くでは時折雷が鳴っている。光を遮る厚く切れ目の見えない巨大な黒い雲は、余計に気分を沈ませた。
「先輩が受験に失敗して浪人してるのは知ってるよね。それで家の都合で東京の予備校に通ってるんだって。だから、先輩は今東京にいる。遠距離してても意味ないとか、今は勉強に集中したいとか言われてさ。実は四月にもう振られてるんだ。……黙っててごめんね」
「まりえが謝る事ないだろ。黙ってても怒ったりなんかしない」
「そっか、ありがとう」
「それで相談は先輩とヨリを戻したいって事?」
「先輩の事は……今でも好きなんだと思う。ちゃんとした元の関係に戻りたいとも思う。正直最初はそんなに好きじゃなかった。違う理由で付き合ってた。でも一年半も付き合っていくうちに、私の気持ちも色々と変わっていったんだよ」
まりえは俯きながらそう言った。直斗は何も言わずにただ黙って聞いた。
「でも冬のちょっとした倦怠期の時くらいから先輩は変わっていった。学校でも二人きりになる事を避けられた。会ってくれるのは、その……私とやれる時だけになっちゃった。今もたまに三重に帰って来るんだけど、その度に求められるの。私も先輩に未練があるから断れなくて。……ごめん、こんなのおかしいよね」
そう話すまりえの顔は今にも泣き出しそうだった。
直斗は正直驚きを隠す事が出来なかった。直斗の知る限り、吉村はそんなタイプの人間ではない。確かに見た目は少しチャラいが、それでもサッカーを通して直斗は吉村が実直で裏表のない性格だと思っていた。その吉村が裏ではまりえの気持ちにつけ込んで好き勝手にしている。直接的に関係はなくとも、信じていた先輩に裏切られた気持ちだった。次第に沸々と怒りが込み上げてきた。直斗はギュッと拳を握りしめた。それは自分にとって本当に大切な親友を傷付けられた怒りだった。身体の芯から熱くなっていく。まりえがこの場にいなければ、自分は机や椅子を蹴り飛ばしていただろう。それ程の怒りだった。しかし、その行き場のない感情をどこにぶつければ良いのか分からず、直斗は気持ちを落ち着かせる為に一度席を立って窓の外を眺めた。相変わらず外は冷たい雨に覆われていた。いつもは遠くにはっきりと見える街の風景も、今は雨に遮られてぼんやりとした建物の光が見えるだけだった。また一つ、西の空で雷が鳴った。
後ろからまりえの泣き声が聞こえた。その声に直斗は振り向く。それは見た事がない程に、哀しい泣き顔だった。涙はとめどなく溢れ、こみ上げる感情を抑える事が出来ない。まりえは嗚咽を漏らした。大声で泣き叫ぶのではなく、聞いている者の胸を切なく締め付ける、哀しみを抑えて抑えて限りなく濃縮したような泣き声だった。きっとこの数ヶ月間、誰にも言えず一人で悩み抱え込んでいたのだ。まりえの胸の痛みが、まるで自分の事のように直斗には理解出来た。まりえをこんな姿にさせた吉村も、そしてこんな状態になるまで気が付かなかった自分自身も許せなかった。怒りと自責の念が同時に押し寄せる。直斗は自分のスクールバックからタオルを取り出してまりえに渡した。今の自分に出来る事はそれくらいしかなかった。まりえはそれを受け取り、口元に押し付けて泣き続けた。一時間後にまりえが落ち着くまで、直斗は決してそばを離れなかった。
冷たく陰鬱な梅雨が明け、高校最後の夏が始まった。照りつける日差しは湿気を忘れ、カラッとした夏の晴天が続いた。雲は陰りをなくし、白く大きな入道雲が空に浮かんでいる。七月九日、一・二年生は明後日に迫った文化祭の準備に追われていた。三年生は自由参加の為、特に準備等はない。伊勢高校では例年、秋ではなく夏に文化祭が行われる。夏休み以降、三年生は受験勉強に集中する為だと先生は言っていた。
まりえの告白を聞いたあの日以来、二人の関係は少しだけ変化した。あれから、直斗はまりえに吉村の事を忘れさせる為に、部活の合間を縫ってなるべく遊びに誘うようにした。一人の時間ではどうしても思い悩んでしまうだろう。学校ではいつも通りふざけたやり取りをして、たまに二人で帰ったりもした。優花には申し訳なかったが、ある程度の事情を説明した。それについて優花は何も言及せずに了承してくれた。
「まりえちゃんは直斗にとって大切な親友なんでしょ? だったら怒る事は出来ないよ。その代わり、文化祭の日は私と一緒に回ってね」
いつもと変わらない笑顔で優花は優しくそう言った。分かった、いつもありがとうと直斗は答えた。だけどはっきりと強く胸の奥が痛んだ。あとほんの少し先の未来で、直斗は自分が優花の事を決定的に傷付けてしまう予感がした。十八歳の自分ではそれを避ける事が出来ないと思ってしまった。どうしようもなく身勝手な葛藤が押し寄せて来る。そしてついにその日を迎えた。
文化祭の当日、直斗は優花との約束を破った。学校にも行かず、まりえの家で一日中二人で過ごした。自分でも驚く程、あっさりと裏切ってしまった。しかし、引き戻す事は出来なかった。こうする必要があると深く信じていたのだ。あの日、まりえの涙を見たあの時から、この人を守らなければいけないと強く思った。それは恋愛感情が友情を超えた瞬間でもあった。自分の腕の中でくるまっているまりえの体温を感じながら、直斗はそう思う。
優花からは何度か電話が来ていたが全て無視した。いくつかのメッセージも届いていたが、家にいる間は見なかった。
「直斗……本当にこれで良かったの?」
心配そうに複雑な感情を含んだ表情でまりえは問いかけた。勿論、直斗自身も優花に対して何も思わなかったわけではなかった。一年もの間、本当に自分を大切に思い続けてくれた人を裏切ったのだ。どんな時も優しく、どんなに小さな事でも喜んでくれたその優花を。高校生にとってその時間はあまりにも長く、かけがえのないものだった。
でも、それでも、と直斗は思う。今この時、まりえを選ばなければきっと後悔する。説明に足る根拠などない。身勝手な浮気である事は自分が一番良く理解している。それでも、まりえが一番大切だと強く思うのだ。
「後悔はしてない。優花には今日の夜きちんと話をするよ」
「うん、分かった」
「まりえも先輩じゃなくていいのか? 俺で後悔してないか?」
「あの人の事はもういいよ。私もバカだったなぁって反省してる。可哀想な自分に酔ってたところもあると思う。自分の事をもっと大事にすれば良かった」
まりえは静かにそう言った。枕を胸に抱えながら直斗に身を委ねる。
「ねぇ直斗。最初にあの人と知り合った時、本当は私、直斗の事が気になってたんだよ。絶対気付いてなかっただろうけど」
「え、そうなのか?」
「そうだよ。先輩と連絡先を交換したのも、よくサッカーの練習を見に行ってたのも、直斗と接点を持ちたかったから。その時は好きとまではいかなかったけど、いつも直斗の事は見てた」
唐突なまりえの告白に直斗は上手く返事が出来なかった。二年前にまりえは自分を見てくれていたという事を聞いて、急に気恥ずかしくなる。
「私こう見えても小・中学校ではモテてたんだよ。何回も告白されて、いつも年上の人と付き合ってた。だから少し調子に乗ってた。自分はイケてるって自惚れてたんだよね。そんな時、初めて直斗に出会った。直斗は最初から私の事を友達以外の感情では見なかった。勉強も出来て、サッカーも上手くて、私よりもずっと遠くにある大きな何かに向かって走ってた。今までの人とは明らかに違うから、そりゃあ気にもなるよ」
まりえは一度息をつき、言葉を続けた。直斗は黙って話を聞いた。
「そこからは特に進展もなくて、親友って感じで落ち着いたでしょ。ちょっと悔しかったけど、でも嬉しかったよ。男女の友情はあるんだって思った。ふざけた事するのも楽しかった。けど、近づけば近づく程に直斗の事が気になっていった。その時にはもう、きっと好きだったんだと思う。だから二学期が始まったくらいのあの日に、あの人の相談だっていう体で河川敷に呼び出したの。あの人から告白された事を言えば、何かしらの反応を貰えるんじゃないかって。……でも本当は気付いてた。直斗は私をそんな目で見てないって。私は絶対に直斗の親友にしかなれないって。だからはっきりとそれが分かった後には、当てつけのようにあの人と付き合ってた。今思い出しても最低な始まり方で、最低な終わり方だったね」
まりえは自嘲気味に笑いながらそう言った。裏でまりえにそんな思いがあった事を直斗は本当に知らなかった。直斗にとってその時のまりえはそれこそ異性の親友という認識でしかなかった。直斗は自分の鈍感さに少し呆れてしまう。
「でも、そんな始まり方だったけど、付き合いながらあの人の事は段々好きになった。真剣にサッカーに取り組む姿がカッコ良くて、不器用だけど素直で優しい気持ちが嬉しかった。だから一年半も続いたんだと思う。最後にあんな風になっちゃったのは、結局お互いが子供だったって事。始まりも終わりもお互い様だったのかもしれないね」
「もういいんだよ。それ以上はもう何も言わなくていい」
直斗はそれ以上の言葉を遮った。もう過去の事はいい。自分を責めた話にしなくとも、まりえは十分に痛みを経験したのだからと直斗は思う。直斗はまりえを抱きしめる。大切な人が確かにここにいるという温もりがあった。
「直斗」
「ん?」
「……ありがとう」
小さな声でまりえはそう言った。直斗も小さく返事をした。二人は目を閉じ、意識はゆっくりと微睡みの中に消えていった。
結局、まりえの家を出たのは十九時過ぎだった。そろそろ帰るからとの親からの電話で目が覚めた。文化祭はとっくに終わり、完全下校の時間もとうに過ぎている。長い昼寝から直斗は意識を覚醒させて荷物をまとめた。一言お礼を言ってドアを開ける。玄関先でまりえは名残惜しそうに手を振っていた。
辺りはすっかり暗くなっていた。雲は途切れ途切れで断続的に月を隠していた。街灯の明かりが黒々と歩道を照らしている。帰り道、直斗は無視していた優花からのメッセージを開いた。今日彼女には別れを告げなくてはいけない。このまま内容を見ずに削除は出来なかった。まずは何の連絡もなしに約束を破ってしまった事を謝らなくてはならない。優花からのメッセージは全部で六通だった。三十分毎に送信されている。そしてその間に何度も電話が入っていた。
初めの二通は、学校に着いたけれど直斗はどこにいるのかという趣旨だった。三通目には、ちゃんと起きてるの、と少し叱られていた。四通目では、今から家に迎えにいくからと書いてあった。五通目には、家に誰もいないし、自転車もない。本当に今どこにいるの、という内容だった。そして最後のメッセージには、『直斗に会いたいです。連絡を待ってます』と書かれていた。
直斗は全てのメッセージを読むと、スマートフォンをポケットにしまった。どうしていつも、優花はこんなにも自分に対して優しいのだろう。まりえとの距離や関係を認めてくれて、その代わりのささやかなお願いすらも守れないこんな俺に。
急に胸の奥から熱いものが込み上げてきて、直斗は空を見上げた。
星は見えない。相変わらず月は雲に半分以上隠れている。それが今はとても心細く感じた。胸の左側が切なく締め付けられる。いつかきっと、自分はこの報いを受けるだろう。傷付けてはいけないと思いながらも、結局は自分の身勝手な感情のせいで優花を傷付けてしまった。そして、これから自分は誰に対しても誠実ではない言葉を彼女に言ってしまう。この痛みを胸に刻み、決して忘れてはならない。
ともに過ごした長い時間を、一瞬にして超える強烈な感情がある事を直斗は知った。それは時にとても身勝手で、誰かを深く傷付けてしまう。「そばにいてほしい」とまりえに言われたその瞬間から、二つを得る事は出来ないと悟った。まりえが望むこれからの関係が、友情だけでは成し得ないのだと理解した。何度も深呼吸を繰り返し、直斗は決意する。ポケットからスマートフォンを取り出した。
『約束を破って本当にごめんなさい。今から会えませんか』
一つ一つの言葉を噛みしめるように文章を作り、直斗は送信した。すぐに優花から返事が来た。
『分かりました。いつもの公園で待ってます』
メッセージを確認し、直斗は公園へと向かった。そして彼女に別れを告げた。
高校三年のそれからは、これまで以上に時間がある種の意思を持ったかのように加速していった。夏休みはほとんど部活や学校の夏期講習、予備校の集中講義で埋まり、一・二年の頃のように遊ぶ時間はなくなった。そして気付けば夏休みは終わり、二学期が始まっている。しかし、これでいいと直斗は思っていた。それまで自分にとって大切だったもの、例えば人や物、場所や思い、そういったものを失いながらも前に進むと決めたのだ。立ち止まる事は出来ない。これから自分は現実的な力を身に付ける。大学進学はその第一歩だ。関西の国立大学に行けば何かが変わる。下宿をして一人で暮らしていく力、より専門的でハイレベルな講義、様々な場所から集まる新しい友人。それらを手に入れて自分は大人に近付いていくのだ。今のこの努力が、全ての経験が自分をその場所へと導いてくれる。その思いを支えに直斗は日々の課題をこなしていった。
そして、まりえとの関係は概ね順調だった。しかし、親友からスタートしたせいか、いざ恋人になると若干の気恥ずかしさは隠しきれなかった。学校では共通で仲の良い一人の女友達にだけ話していた。優花の事は少し説教されたが、それでも自分で選んだ事には責任を持ちなさいと背中を押された。周りの人に恵まれていると直斗は思う。
その日、直斗はまりえと二人で帰った。綺麗な夕暮れ時だった。夏は段々と秋へ向かい、身の回りの自然が静かに情緒を帯び始めている。夕陽の色も少し前より濃いような気がした。直斗の好きな季節がすぐそばまで近付いている。
帰り道、直斗の自転車で二人乗りをしていた。直斗がこぎ、まりえは後ろに横向きで座っている。二人は学校近くの川沿いを走っていた。
「……直斗、怒っているよね」
ゆっくりとまりえが声をかける。
「別に怒ってないよ」
直斗は出来るだけ平静を装って答えた。なるべく冷たく聞こえないように、あくまで本当に何でもないのだという感じを出して。しかし、まりえの言う通り、今日は少し直斗の心は乱れていた。些細な事だった。今日、クラスの男友達の明石拓海がまりえといつもより親しくしているように見えたのだ。席が近くて話す機会も多いので、それは当然と言えば当然だった。加えて、その友達は直斗とまりえの関係を知らないので、直斗を意識する素振りもない。直斗は何だかそれが無性に腹立たしかった。まりえを取られたような気がした。それが随分と幼稚で身勝手な嫉妬である事を直斗自身も理解していた。だからこそ、こんな自分をまりえには見られたくないと直斗は思う。
けれど、まりえはそんな直斗の心を見透かしていた。直人の身体に手を回して少しもたれかかる。
「私が好きなのは直斗だよ。心配しないで」
とても優しい声でまりえはそう言った。背中からシャツ越しに彼女の温もりが伝わって来る。
「辛かった時、直斗はずっとそばにいてくれた。私を助けてくれた。だからあの時からずっと一番だよ。今日は心配かけてごめんね」
「……ありがとう」
直斗は前を向いたままそう答えた。恥ずかしくもあり、同時に嬉しくもあった瞬間だった。今日一日モヤモヤしていた感情が、静かに柔らかに溶けていく。その返事を聞いて、まりえは直斗を抱きしめる力を強めた。夕陽が照らす橙色の道を二人は自転車で帰って行く。
その時間は、まるで絵に描いたような青春の一ページだった。
せめてーーと直斗は思う。せめて一人だけでも幸せに近付けたい。この人を失ってはいけない。その為に一年後、いや明日の自分ですら成長していなければならない。心の弱さ故に誰かを傷付けるのはもうだめだ。そういう事を繰り返したくはない。幼稚な嫉妬をしている場合ではない。今度は自分が強くなる番なのだ。あの夜、最後に優花が残してくれたように。
別れ際、途切れがちな会話の中、優花はずっと泣いていた。けれど、それでも最後にはいつもの笑顔で言ってくれたのだ。その時すでに、優花は自分よりもずっと大人で強かったのだと直斗は思う。
「一年間ありがとう。今度は直斗が大切に思ってあげてね」と。
十一月十三日、季節は本格的に秋を迎えていた。風は冷たさを纏いながらも、木々はそれに反比例するように情熱的に紅く染まった。紅葉シーズンの日曜日とあって伊勢神宮には多くの観光客が訪れていた。そんな人々の賑わいを横切って、直斗は自転車で予備校へと向かっていた。昨日、九月に受けた全国模試の結果が返ってきた。前回ではC評価だった大学が、今回はB評価に上がっていた。自分の努力が結果として出始めているのは素直に嬉しかった。来年の春、自分が大学にいる姿が明確なビジョンとして見えてくる。以前よりもずっと勉強が楽しいと思えるようになった。それはきっとはっきりとした目標を持てたからだ。自分の為の目標、そして誰かの為の目標。この二つは、自分に力を与えてくれる。今日はペダルが軽く感じる。颯爽と自転車のスピードは上がっていく。髪をなびかせる秋風がとても気持ち良かった。身体中に自信が満ち溢れてくる。直斗は他の生徒の誰よりも早く予備校へと向かった。
九時から十六時まで学校、それから二時間部活の練習。そして予備校での三時間の授業を終え、二十三時頃に家に帰って遅い晩御飯を一人で食べる。大学に進学した兄はいつも自分の部屋に篭って何かをしていて、両親はリビングでテレビを見ている。風呂に入って、寝る前に少しだけその日の復習をすると、すぐに一日の疲れから眠りについてしまう。そんな毎日が続いた。
国立大学進学の為に、日々センター試験対策をこなしていく。伊勢高校だけではなく、世間全体が受験のムードを本格的に漂わし始めていた。実際にセンター試験まであと二ヶ月程しかない。成績を伸ばす者、焦りを見せる者、様々な感情がそこかしこに存在した。
以前はよくまりえと一緒に下校していたが、最近は直斗の部活と予備校が忙しく、その機会は減っていた。気付けば一ヶ月もしていなかった。連絡のやり取りもかなり疎らになっている。知らず知らずのうちに学校でしか話さなくなっていた。少しすれ違いが起きていると直斗は感じていた。
まりえは京都の有名私立大学を目指していると、少し前に言っていた。外国語学部で本格的に英語を学びたいらしい。その大学は留学制度が充実しており、一年以上の留学がカリキュラムに組み込まれている。『これから世界で活躍するグローバルな人材の育成』をキャッチフレーズに掲げていた。
直斗自身も三重を出て関西に行き、そしていずれは日本のターミナルで仕事がしたいと考えているので、より遠くに目標を持っているまりえの事は尊敬できた。分野の違いはあれど、お互いに切磋琢磨出来る人が近くにいる事は励みになる。今は勉強が忙しくてすれ違いを見せているが、これを乗り越えて二人ともに関西で大学生となる。そうすれば、きっとまた上手くやれるはずだ。京都や大阪で観光をして、二十歳になればお酒も飲めるようになる。お互いに下宿だから料理をしたり、お泊まりだって出来るだろう。今よりもずっと出来る事の幅が広がる。だから今は勉強を頑張って、もう少しだけの辛抱だ。直斗はそう一人強く信じていた。
3
誰かに会いたいと、ふとそう思う瞬間がある。
例えば、暇なときや寂しいとき、誰かと話したいとき、人によってそう思う瞬間は様々だろう。だけど、直斗にとって特にそう思うのは、沈んでいく夕陽を見たときだった。世界を包む暖かい橙色はとても儚げで美しく、一日の終わりはこの短い時間に集約されていると直斗は思う。何かの終わりに誰かと一緒にいられる事はとても幸せなのかもしれない。
秋雲にかかった夕陽は、地球の裏側へと向かって徐々にその姿を隠していく。弱まっていく温かな光がそれでも尚、目に映るものを照らしている。上の方の空は群青色で夕陽はそれと自然に溶け合い、地平線になめらかな紫色のグラデーションを描いている。昔にどこかで見た写真のように完璧な時間だった。
まりえに会いたいと直斗は思った。他の誰でもないまりえに。そして直斗はふと気付く。ーーそうだった、いつだって会いに行けば良かったのだ。すれ違っているだとか、来年はどうだとか、現状を変える努力をせずに言い訳じみた言葉に自分を納得させていた。当たり前に自分達はまだ高校生だ。自分自身がそうであったように、ある日突然まりえが強烈な感情で心変わりしてしまうかもしれない。大切に思う気持ちは、行動に移すべきだ。
ーー会いに行こう、直斗はそう思う。いつか、ではなく今だ。
直斗は自宅への帰り道を変更する。まりえはおそらく家にいるはずだ。時間も遅くはないし、少しくらい立ち話は出来るだろう。一ヶ月前、まりえと二人で帰った川沿いを自転車で進む。事前に連絡はしなかった。ちょっとしたサプライズのつもりで会いに行こう。ただ会いに行くそれだけの事なのに、直斗の心は少しドキドキしていた。
まりえの家の近くに到着したのは十八時頃だった。日は沈み、辺りは夜の始まりを迎えている。住宅街の家々の明かりが路地に溢れていた。随分と日が短くなったなと直斗は思う。十一月後半はもうそういう季節だ。あと一つ角を曲がればまりえの家がある通りに出る。このままそこに出るのはなんだか早急な気がして、直斗は一度自転車から降りてからゆっくりと押しながら進んだ。そして角を曲がる。二十メートル程先にあるまりえの家が見えた。玄関先に人影が見える。誰かが二人で話していた。街灯に照らされてはいるが、光が弱くここからでは顔が見えない。直斗はそのまま通りを進む。二人は直斗の気配に気付いていない。徐々に顔が見える所まで来た。一人はまりえだった。楽しそうに談笑している。誰かと話している最中に声をかけるのは少し気が引けたが、直斗は「まりえーー、」と言いかけた瞬間だった。
その声に二人が振り向く。まりえは驚いた表情をしていた。
「直斗! どうしてここに」
そう言った内容にではなく、まりえの声色に直斗は嫌な予感がした。決して見られたくないものを偶然見られてしまった時のような声。だめだ、ここにいてはいけない。見たくないものを見てしまう。理性を超えて感情がそう直感する。しかし、直斗が自転車に乗るよりも前にもう一人の顔を見てしまった。それはあの日、直斗が嫉妬した明石だった。
心臓が音を立てて激しく高鳴った。行きのものとは違い、確かな痛みを伴っていた。時間が停止する。どうして、と何度もその思考がループする。そして一つの考えが頭をよぎる。考えたくはなかった。しかし、こんなタイミングのこんな時間にまりえの家の前にいるという事は、きっとそういう事だ。明石の家はこっちの方面ではなく、用事がなければこんな所まで来ない。今までまりえの家で、二人で何かをしていたに違いない。
時間が流れを取り戻したその瞬間、直斗は自転車に飛び乗って駆け出していた。後ろからまりえが自分を呼ぶ声が聞こえる。けれど、直斗は振り返らなかった。すぐにまりえの声は聞こえなくなる。住宅街を抜け、大通りを走り、ただひたすらに自転車をこぐ。息が切れ、足が攣りそうになっても止まらなかった。行き先など分からない。でも今は止まりたくない。直斗はそんな思いだけで走り続けた。
疲れ果てて自転車を止めたのは、それから三十分近く経った頃だった。普段は滅多に来ない遠く高架下で、直斗は一人アスファルトに寝転んだ。息はまだ上がっていたが、冷んやりとした地面に背中を預けていると徐々に心臓の高鳴りが収まっていく。一定の間隔で電車が通る音がした。静かな夜にそれはとても大きく響いたが、不思議と雑音には聞こえなかった。深呼吸を繰り返し、直斗は気持ちを落ち着かせていく。
これは罰だと、直斗は思う。自分はあの時の報いを受けたのだ。因果応報、結局悪い事は自分に戻って来る。今ならちゃんと優花の気持ちが理解出来る。大切な人に裏切られるこの気持ちは、想像していたよりもずっと痛かった。まりえとは、もうきっとだめだろう。元の関係に戻れる気がしない。
直斗は目を閉じた。これは、親友と恋人を同時に失う痛みだ。それまで我慢していた涙が静かに頬を伝う。そしてその時、自分は泣かないように走り続けたのだと知った。声に出して直斗は泣いた。心の奥底から湧き上がる慟哭を抑える事が出来ない。ただただ混乱と痛みだけが残り続けた。
その夜、日付が変わるまで直斗は家に帰らなかった。まりえから何度もメッセージが届いたが全て見ずに削除した。
それからの日々を、直斗はひどく憂鬱な気分で過ごした。あれ以来、まりえとは一度も言葉を交わしていない。明石を含めた三人でいなければならないこの教室がただただ息苦しかった。そんなぎこちない空気は黙っていてもクラスの皆に伝わってしまう。いつもは仲良く話しているまりえとの険悪な雰囲気から、男友達が「どうしたんだ?」と訊いて来る。その度に直斗は「いや、大した事じゃない」と答えた。まりえの方も同じような対応をしていた。明石はあの後、一度だけ直斗に話しかけて来た事があった。しかし、直斗は一方的にそれを拒否した。お前と話す事は何もない、と。それ以降、明石は我関せずという態度だった。直斗は何があったのかなど知りたくはなかった。決定的な事実を聞きたくなかった。
三度目の冬がやって来た。誰にとっても寒く冷たい冬だった。
センター試験まで残り一ヶ月を切り、受験勉強は佳境を迎えていた。無駄にしていい時間など一秒たりとも存在しない。直斗はまりえと明石の事を頭から除外して勉強に集中した。少しばかり成績が落ち込んだせいで、ここから挽回しなければならない。国語・英語・数学・生物・世界史・倫理政経、これら全てをオールマイティにそつなくこなすのには、相当な集中力とエネルギーが必要だ。直斗は学校の休み時間にも単語帳を開き、毎日予備校へと通って家でも数時間勉強した。すでに部活も引退している為、以前よりもずっと時間は確保しやすかった。モチベーションが下がった時はいつも音楽を聴いたり、親との会話で気分転換をした。特に下宿の話は自分が大学生になっているイメージが出来て楽しかった。後ほんの少しで大学生になれるのだ。
そして一ヶ月後、二日間に渡るセンター試験が終了した。試験官の終了の合図を聞いた瞬間、それまで張り詰めいていた緊張の糸が一気に解けた気がした。出せる力は全て出し尽くした。現代文と数学Ⅱが例年以上に難しかった事を除けば、他は概ね大丈夫だろう。その二つは、今年は間違いなく難化すると事前に言われていたせいか、焦らずに解ける問題を処理出来た。後は学校で自己採点をして二次試験の対策をするだけだ。直斗は荷物をまとめて同じ講義室で受験していた友人と学校に向かった。
採点の結果、総合点は七割に少し満たない成績だった。決して十分に満足のいく結果ではなかったが、国立大学を目指せるラインには到達している。勉強を頑張った分、悔しい気持ちもあったが、三年間必死に部活をしながらこの数字を出せたのは、素直に自分を褒めるべきだと担任に言われた。数日後、母を交えた三者面談の結果、安全策を取って和歌山大学を受験する事が決まった。私立大学は複数回の受験が可能だが、国立大学は前期と後期があると言えど、実質的には前期試験の一発勝負だ。関西の中心地に行きたいという気持ちも、確実に国立大学進学するという気持ちに譲った。遊びや観光には四年間あればいつでも行ける。それよりも今は確実に進学する選択と、もしもの為の滑り止め対策、そして最後の二次試験の勉強を詰めるべきだ。ここまで来て失敗するわけにはいかない。直斗はその日、土曜日にも関わらず学校に残って夜遅くまで勉強した。
そして見事、三月十日、和歌山大学経済学部合格の通知を受けた。
4
卒業式の朝、直斗はいつもよりもずっと早く目が覚めた。時計は五時十分を指している。部屋は冷え切っていて布団から出たくなかったが、こんな日に二度寝するのは何だか勿体無いような気がして、ゆっくりと身体を起き上がらせる。フローリングは冷たく、部屋の中でも息が白い。早くストーブで暖まろう、そう思い直斗はリビングへと階段を下りた。
一階ではすでに母がキッチンで朝食を作っていた。コンソメスープとベーコンが焼ける良い匂いが立ち込めている。ストーブはすでに効いており、リビングはとても暖かかった。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
母はスープを混ぜながらそう言った。
「うん、早く起き過ぎた。母さんも早過ぎるだろ」
「私も本当はいつもみたいに六時に起きるつもりだったんだけど、急に目が覚めちゃって。今日は直斗の卒業式だから、二度寝するのも勿体無い気がしてね」
母は少し笑いながら言った。自分と全く同じで直斗も笑ってしまう。こんな日だから、つい柄にもない事を言いたくなる。
「母さん」
「どうしたの?」
「今日までありがとう」
「何よいきなり。どうせこれから学費やら下宿代やらで、今まで以上にお金かかるんだから変わりないわよ」
「そっか、それじゃあこれからもよろしく」
「はいはい。ちょっと早いけどご飯食べる?」
「食べる」
「すぐにスープが出来るから、自分でパン焼いておいて」
「はいよ」
その日の朝食はいつもよりもずっと美味しく感じた。母と高校生活とこれからの大学生活について話しながらゆっくりと食べた。何故だか大学の合格通知を貰った時よりもずっと、この瞬間が今まで頑張ってきて良かったと思える時だった。
身支度を終えて、直斗は玄関を出る。「父さんと後から行くからね」という母
の言葉を背に、「行ってきます」と元気良く言った。
三月十五日の空は晴れやかだった。空気は澄み切って、鮮やかな空の色が青く、どこまでも広がっている。これこそライトブルーだと直斗は思う。今まで見た青色の中できっと一番美しい。白い吐息を浮かばせながら直斗は自転車をこいで行く。冷た過ぎる風も今日はあまり気にならなかった。
おそらく誰よりも早く、直斗は学校に到着した。『第五十三回 三重県立伊勢高等学校 卒業式』と書かれた板が置いてある正門の付近には誰もいない。朝練以外でこの光景を見る事はなく、それがとても久しぶりで何だか懐かしい気分になる。落ち着かない気持ちのまま直斗は教室に向かった。今日でこの三年一組の教室に入るのも最後だ。寂しさと卒業の高揚感で満ちていた。そしてドアを開ける。いつもより四十分も早い登校だった。声の聞こえない教室には誰もいないはずだった。ーーそこには、まりえがいた。
一瞬、思考が停止する。直斗はドアを開けたまま立ち尽くした。まりえは同じクラスなのだ。勿論ここにいたって何の不思議もない。だけど、それにしては早過ぎた。よりにもよって二人きりだ。気まずさが二人の間に立ち込める。
先に口を開いたのはまりえの方だった。
「……おはよう。そんな所で突っ立ってないで教室に入れば?」
「お、おう」
直斗は言われるがままに教室に入り、自分の席に座った。まりえの席は窓際の真ん中で、直斗の席はちょうどそこから四つ右隣にある。しかし、そうしたところで気まずさは解消されるはずもなかった。まともな会話をしたのはあの日以来、これが始めてだった。お互いに話す事なく、五分が経過した。誰か早く来てこの状況を打破してくれと直斗は切実に願った。けれど、誰も登校して来ない。そんな時、まりえが話し出した。
「……直斗、今日でお別れだね」
静かな声だった。決して直斗の方を向く事なく、まりえは言った。直斗もまりえの方を見ずに前を向いたまま答えた。
「そうだな。これからは別々の大学だ」
「ずっと聞けなかったんだけど、私たちもう付き合ってるとは言えないよね」
「……ああ。ちゃんと話したのも久しぶりだ。もう終わっているだろ」
「そっか、そうだよね」
再び二人の間に静寂が訪れる。とても長い時間だった。一分か、それとも十分か、時間の感覚が分からなくなる。ただただ哀しいくらいに静かな時間だった。何もこんな門出の日に、お互いにこんな思いをする事はなかった。嘘でもいいから最後は笑って卒業式を迎えるべきだった。そしていつか傷が癒えた時、お互いを思い出にして、それぞれの道を歩んでいくべきなのだ。それなのに、それなのにどうして。
直斗は次に話すべき内容が思いつかず黙り続けた。そして何度目かの息を吐いた時だった。
「私たちは親友のままでいるべきだった」
今にも泣き出してしまいそうな、切実で哀しい声だった。直斗がその言葉の意味を理解するよりも前に、まりえは足早に教室を出て行った。それが高校で交わした二人の最後の言葉だった。
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