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それから宣言通り、毎週同じくらいの時間に緑は来るようになった。
珍しい苗字だし、小学校時代の同級生はほとんど覚えている。きっともう一つの小学校出身なのだろう。母親から聞いた話によれば、かなり背が高い部類らしい。黒髪にかなり強いくせっ毛と、度の強そうなメガネ。垂れ気味の優しい目は温厚そうで、道着を下げてくる時もあるので柔道部じゃないかということだった。…やっぱり、記憶の中に類似した人間はいない。不登校となった宇治野に、毎週プリントを届けるような物好きも。
緑が来る日、時間が迫ると母親が二階に行くよう促してくる。けれど、ここで二階に上がるのも、なんとなく癪だった。ちっぽけなプライドとも言おうか。初めて緑が来た日、リビングの扉は開けっ放しだった。角度的にゲーム画面は見えていたはず。つまり、宇治野がそこにいたことは、すでにバレているのだ。だのに次来た時からいないとなれば、逃げたと思われるかもしれない。そんな思いが、むしろリビングに居させた。
俺は逃げてなんかいない。
これはただの、休憩だから。
今日もコントローラーを握る。パッドをカチャカチャと動かしていると、チャイムの音が響いた。
「こんにちはー、緑です」
「はーい」
さすがに三ヵ月ともなれば慣れてくる。勝手知ったる風に聞こえてくる声に、刺繍枠を置いて母親が立ち上がった。声が聞こえるようにと開けてもらっているドアから、夏に入りかけの湿った風が流れ込んでくる。
「今週分のプリントです。歴史が地理に入ったので、ちょっと多いですけど」
「あらそうなの? 伝えておくわ」
「お願いします。じゃあ、僕はこれで」
「………あ、あの。ちょっと待って」
いつも通りすぐにドアの開く音が聞こえかけて、母親の声で止まった。…? 呼び止め、た? 思わずポーズ画面を開き、耳を傾ける。戸惑ったような衣擦れの音は、二人分。
「変なこと聞いてもいいかしら」
「…? 大丈夫ですよ、僕に答えられるかはわかりませんけど……」
「……去年の今頃も、担任の先生がプリントを届けてくれてたりしたの。その時は、文化祭のお便りとか、クラスメイトからのお手紙とか、入ってたわ。お手紙はまだわかるけど……その、お便りとか、なんで無いの?」
…………それ、は。対して気にも留めなかったが、ずっと心の底で引っかかっていたことだった。授業に使うプリントは確かに増えたが、学校関連のプリントが極端に少なくなっている。PTAや防災メールアドレスなどのかなり重要なものはあるが、それ以外をほとんど見かけない。この時期だと、文化祭のための準備日程だとか、色々配られていたはずなのに…。
一番に頭に浮かんだのが、すでに自分はクラスにいないものとして扱われていることだった。むしろ、それが一番有力だろう。ムードメーカーでも無くなり、クラスに空席を作る、厄介者。与えられた役割をこなせなくなった俺に、何の価値があるというのか。
みんなを拒絶してしまった俺は、みんなに拒絶されても仕方ない。否、拒絶されなければいけない。それが目に見えて形になった、それだけだ。…ただ、いやぁ、なんて気の抜けた返事がやけに響いた。
「いつか言おうと思ってたんですけどー……本当はその手のプリントも、預かってるんですよねぇ」
「…え?」
呆けた母親と自分の声が重なる。思わず振り返ってみても、扉の向こうの死角は見えない。気の抜けた声で、言葉で、彼は何を言っているのだろう。その表情も、仕草も、彼の姿さえ見えないのに。名前さえ知らず、壁を隔て対面したことも無くて。
行ったこともないクラスの学級委員は、もはや日常となったのんびりした口調で、言葉を紡いだ。
「ただ、宇治野に渡す前に、全部抜いてます。一応家に全部保管してあるんですけど、必要になりました?」
「必要に…?」
「だって必要無いでしょう? 今の宇治野には。せっかく休んで学校から遠ざかってるんだから、余計な情報いれないでしっかり休まないと」
何言ってんだこいつ、というのが本音だった。何言ってんだこいつ、わざとプリントを抜いてる? しかもその理由が、必要無いから? 理屈はわかる。理屈はわかるし、それなら今の宇治野にとってもありがたい。でも、何言ってんだこいつ。何やってんだ。
こんなにも理解しがたくて、わからないのに―――納得はできるなんて。
「あ、そっか、でも聞いてきたってことは、宇治野大丈夫そうなんですか?」
「あ……えっと………その、聞いてみただけなの。大丈夫かどうかは、まだわからないわ」
「わかりました、必要になったら電話でもいいので言ってくださいね。あと、これ僕の独断なんで、先生には言わないどいてください。じゃあまた!」
ドアの閉まる音。ポーズ画面にしたままのテレビから愉快な音楽が流れ、再開するかタイトルに戻るのかを聞いてくる。……独断で、そこまで。そこまで考えて、実行するか普通? せいぜい思いついて悩んで、担任に相談するまでが関の山だろ? それを、やった? あんな、学級委員になるような人間が?
なんなんだ、あいつ。
季節は夏。宇治野のいない一学期が終わり、夏休みが始まろうとしていた。
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