第28話 日野大地は助けたい
——時は一年前まで遡る。
入学式から一週間後のとある春の日の放課後。
雨宮雫は学校近くの公園で窮地に立たされていた。
「……どうしよう」
いや、正確には、窮地に立たされているのは彼女ではない。
彼女の視線の先――噴水のすぐ近くにある一本の木の上でみゃーみゃー鳴いている子猫こそが、現在進行形で窮地に立たされている張本人なのだから。
「何か台になるようなものは……そんなの、公園にある訳ない……登るにしても、木は高いし……本当にどうしよう……」
「みゃぁ……」
「大丈夫。絶対に助けるから。だからもう少し頑張って」
木の上でか細く鳴く子猫を安心させるように雫は微笑み返す。
——と。
「なあ」
「……?」
いきなり声をかけられた雫は思わず後ろを振り返る。
視線の先にいたのは、目の下のクマが特徴的な少年だった。
雫よりも十センチ以上身長が高いその少年は彼女を上から見下ろしながら、
「さっきから見てたんだけど、あの猫、もしかして降りれなくなっちまったのか?」
「(こくり)」
「あー、やっぱりそうなのか。こういうシーンって漫画とかでよく見るけど、本当に木から降りられなくなる猫なんてこの世に存在するもんなんだなあ」
初対面なのに勝手にぐいぐい話を進めてくる少年を雫は軽く警戒する。
そんな雫の態度に気付いたのか、少年は気まずそうに頭を掻くと、
「あ、すまん。そういえば初対面だったよな。雨宮さんのことを俺は知ってるけど、君は俺のことを知ってるはずがねえんだよな……勇気を出して声かけたけどメンタルブレイクしそうだ……」
「どうしたの?」
「え、えっと、その……あ、雨宮さんって有名人だからさ? ちょっと緊張してるっつーか、俺みてえなモブが話しかけちまって本当に良かったのかって今更ながらに後悔してるっつーか……」
「有名人……? 私が……?」
「学校始まって以来の超絶美少女。しかも成績優秀でスポーツ万能。少し愛想がないが、そこがまた逆に良い……って感じで有名なんだよ、君って」
「…………」
校内でやけに人から避けられていると思っていたが、まさかそんな理由があったとは。あれは嫌われているという訳ではなく、単純に近づくことすら恐れ多いと思われていたのか――初対面の少年から明かされた衝撃の事実に、雫は思わず眉を顰める。
「す、すまん。もしかして気を悪くさせちまったか? やっぱりいくら美少女だからって腫物扱いされると不愉快だよな? じゃあ、今の話はナシってことでお願いします」
「……?」
落ち着きのない少年だな、と雫は思った。
というか、そもそもあなたは誰なんだ。同じ学校であることはさっきの話と彼が着ている制服から察することができるが、流石に名前は言われないと分からない。同じクラスという訳でもなさそうだし……。
さっさと名乗れよ、と雫は少年に念を送る――が、それを遮るように木の上の子猫がみゃおんと助けを求めるように鳴いた。
「っと、今は世間話に華を咲かせてる場合じゃねえな。まずはあの猫をどうにかしねえと」
「でも、足場になるようなものはどこにも……」
「あの高さだと俺が手を伸ばしても届かなそうだしなぁ……あ、そうだ。雨宮さんを俺が肩車するって作戦はどうだろう?」
「それで届くなら」
「うんうん。じゃあ、その作戦で――」
少年の言葉が止まる。
雫は不思議そうに彼を見る。目の下にクマがある少年は、何故か雫の下半身をじっと見つめていた。
「……どうしたの?」
「い、いや、やっぱり肩車はやめておこう。君はスカートだし、俺の理性が耐えられるか分かんねえし……」
「スカートと理性が何か関係あるの?」
「あ、ありあり、大ありだから! だから今の作戦はナシ! つーか見栄えも悪いし、他の人に見られたら何て言い訳したらいいかも思いつかねえしな!」
「はぁ」
早口でまくし立てる少年に雫は間抜けな声を返す。
「それで、どうするの?」
「うーん、そうだなぁ。このまま放っておく訳にもいかねえし……やっぱり正攻法で行くしかねえかー」
そう言うと。
少年はその場で裸足になり、靴や鞄などを地面に放り投げ、そして木をよじ登り始めた。
「危ないから少し離れといてくれよーっと」
「あ、危ないのはあなたの方。私がやるから、あなたは降りて――」
「大丈夫大丈夫。こう見えてもちっさい頃はよく木登りとかしてたんだよ」
「でも、かなり高いし……それに、あなたがそこまでする理由はないはず……」
「気にすんなって。君とあの猫が困ってた。それだけで無茶する理由にはなるよ。……それに、良い所見せたいし……」
「??? 何か言った?」
「な、なななな何も言ってねえよ!? そ、それよりも、早く猫を助けないとなーあ!」
「……?」
雫の言葉に何故か慌てふためきつつも、少年は軽快な動きで木を登っていく。足を滑らせる気配もなく、木登り経験者という言葉はあながち嘘ではないらしい。
そうこうしている内に少年は子猫が震える枝まで到着。小枝や葉で切れた頬を軽く掻きつつ、ゆっくりと子猫の方に近づいていく。
「よしよし、今助けてやるからじっとしてろよー……」
枝に抱き着き、身体を滑らせながら、徐々に手を伸ばしていく。
十センチ、二十センチ、三十センチ……——少年の手が子猫の背に触れた、まさにその時。
枝が根元からバッキリ折れた。
「わわっ!?」
少年は子猫を抱き寄せ、木の幹に手を伸ばす――が、その手は虚しく空を切る。
「うわわわわわわわわわ――へぶっ!?」
宙に放たれた少年は空中で必死に受け身の構えを取るが、その数秒後、彼と子猫は重力に振り回されるがままにすぐ傍にあった噴水の中へと勢い良くダイブした。
「だ、大丈夫!?」
落下の衝撃で舞い上がった水飛沫を浴びながらも、雫は噴水へと駆け寄る。かなりの高さから落ちたのだ。いくら着水したとはいえ、もしかしたら大怪我を負っているかもしれない。自分がもっと早く猫を助けていれば、彼がこんな酷い目に遭うことも――
「げほっ! ごほごほっうえええ……盛大に水飲んじまった……うえっぷ」
「あれ……? 無事……?」
「な、何だよそのリアクション! もしかして大怪我でもしてた方が良かったか!?」
「そ、そんなことはない。ただ、かなりの高さから落ちたから、怪我をしているかと思って……」
「親父に昔から厳しく育てられてきたからな。身体の頑丈さには自信があるんだ」
あはは、と笑いながら照れ臭そうに頭を掻く少年。下手をすれば命を落としていたかもしれないというのにあっけらかんとした彼の態度に、雫は罪悪感を覚えてしまう。
「ごめんなさい……私のせいで……』
「あはは、大丈夫大丈夫。びしょ濡れだけど、ちょっと寒いぐらい―—っくしっ!」
「風邪を引いてしまう。すぐに拭かないと……何か拭くものは……」
「だから大丈夫だって。そんなことより……ほら、子猫」
「あ……」
少年の腕の中には、さっきまで木の上で助けを求めていた子猫の姿があった。彼と同じくずぶ濡れにはなっているものの、怯えた様子は見られない。
「少し濡れちまったけど、乾かせば問題ないはずだ。怪我もねえみたいだしな」
「……ありがとう。本当にありがとう」
「お礼を言わなくちゃいけないのは君じゃなくて、コイツの方だと思うけどな。うりうり」
「ふにゃう」
俯きがちに感謝の言葉を述べる雫を軽くいなしつつ、少年は子猫の額を優しく撫でる。
雫と子猫が困っていたから。たったそれだけの理由で身体を張って、しかもその結果ずぶ濡れになってしまったというのに気にした素振りすら見せない。恩を売ることもお礼を求めることもなく、子猫を助けられたことに喜ぶだけ。
多分、この人はバカなのだ。
それも、手の付けられないほどのバカ。
自分のことよりも他人のことばかり気にしてしまう類の、大馬鹿野郎。
「っと、いっけねえ。今日は近くのスーパーでセールをやってるんだった! え、ええっと、雨宮さん、この猫のこと、後はよろしく!」
「え、ちょっ……」
「うへええぐじゅぐじゅで気持ち悪りぃぃぃ」
噴水から飛び出し、猫を雫に押し付けると、少年は荷物を抱えて公園から走り去っていった。
登場から退場まで騒がしい少年だった。
でも、そんな少年のことが、雫は気になってしょうがなかった。
「同じ学校の制服だったよね……明日、探してみようかな」
「うにゃう」
本当に些細なきっかけだった。
本当に嵐のような出来事だった。
だけれど、雫にとってはとても衝撃的な
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