第27話 雨宮雫は嫌いたい



 雨宮雫は河原で膝を抱えていた。


「……日野くんのバカ」


 怒りのままに家を飛び出してきてしまったので、彼女は靴すら履いていなかった。しかも着のみ着のままだったため、いくら昼と言っても少々肌寒い。せめて上着ぐらい着ておけば良かったと後悔しつつも、そんな彼女の中に家に戻るという選択肢は存在しなかった。


「意気地なし……鈍感……アホ……バカ……」


 身体を張ったアプローチを駆使しても全く好意に気付いてくれなかった大馬鹿野郎への罵倒を口にする。

 彼が自分に好意を抱いていることが確定してさえいなければ、ここまで怒りが爆発することはなかった。自分のことを好きなくせに「脈なんてある訳がない」と思い込んでいる彼の態度がどうしても許せなかった。


「……でも、少し言い過ぎた」


 気付かれないのはムカつくが、それで怒るのは自分の身勝手だ。それは重々承知している。正直、いきなり怒鳴られた大地も被害者ではあるだろう。

 だが、だからどうした。

 どう考えても女心を汲めない方が悪いに決まってる。

 ————でも。


「嫌われちゃったかな……」


 それだけは嫌だな、と雫は思った。

 一年前、とある出来事がきっかけで日野大地という少年に惚れてからというもの、ずっとずっと彼のことばかり考えてきた。友人達と楽しそうに話す彼のことをいつも眺めていたし、体育の授業で転んだりドジをやらかす彼のことをずっとずっと目で追っていた。

 そんな彼が自分の許嫁だと父から教えられた時は、生まれて初めて神様に感謝した。それと同時に、このチャンスを逃す手はないと覚悟を決めた。

 親がくれたチャンスを生かすため、一生懸命努力した。

 口下手だから、その分行動で好意を示した。

 大地の好みなどをお義父さんから密かに聞き出し、自分を好意的に見てもらえるようにありとあらゆる策を講じた。

 それでも、気付いてくれなかった。

 自分のことを好きだと宣うくせに、その好きな人からの好意を、彼は頑なに信じようとはしなかった。

 それが何よりも悲しくて、どんなことよりも辛かった。


「もう、どうしたら良いのか分かんないよ……」


 いつまで悲しめばいいんだろう。

 いつまで苦しめばいいんだろう。

 こんな想いが続くのならば、いっそのこと、彼のことを嫌いになれた方が――



「雨宮さん!」



 突然の、声。

 とても聞き覚えのある、愛しい声。

 夢の中ですら自分を放してくれない、彼の声。


「……日野くん?」


 振り返ると、彼がいた。

 世界一鈍感な大馬鹿野郎が、そこにいた。


「や、やっと見つけげっほおおおおぉぉ! うっぷ、走りすぎて息が……げほげほおええっ! ふ、ふぅーっ……ふぅーっ……はぁ、はぁ、ふぅぅぅ……っし、落ち着いた」


 相変わらず締まらない人だった。

 部屋着のままであることから察するに、自分と同じように着のみ着のまま家を出てきたんだろう。それぐらい必死になって自分を探しに来てくれたことに少し嬉しさを覚えるが、そもそも自分を怒らせたのはこの男の失態が原因だと気付き、雫はすぐに彼から目を逸らした。


「……何? 今はあなたの顔なんて見たくない」

「うぐっ」

「大体、どうして追いかけてきたの? 私のことなんてどうでも良いと思ってるくせに」

「……どうでも良くなんてねえよ」


 河原に腰かける雫の前まで大地は移動する。

 思わず、雫は彼の顔をちらと見上げた。——いつものへらへらした態度とは違い、とても真剣な表情をしていた。

 大地はその場に正座し、深々と頭を下げる。

 それは俗に言う、土下座だった。


「君の想いに、君のアプローチに気付けなくて……いや、気付こうとしなくて本当にごめん。君の優しさと勇気に甘えてばかりでいて、本当にごめん」

「……誰に入れ知恵されたの?」


 この男が自分でその答えに辿り着ける訳がない。

 さっきと今でここまで態度が違うのには、何かきっかけがあるはずだ。


「入れ知恵というか……君を探してる途中に森屋さんと出会って、かなり説教されてさ。その時にちょっとな」

「私が何をしても無駄だったのに、森屋さんに言われたら気付けるんだ」

「そこを突かれると耳が痛いが、俺の言い分を聞いてほしい」

「言い分も言い訳も聞きたくない。私のことなんてどうでも良いって思ってるなら、もう放っておいて」

「どうでも良くなんてない」


 顔を上げた大地を見て、雫はハッと息を呑んだ。

 彼の目からは、大粒の涙が零れていた。


「どうでも良かったら、君を追いかけたりなんかしない」


 縋るように雫の両手を握りながら、大地は言葉を絞り出す。


「君に嫌われるのが怖かった。君に好かれていると勘違いするのが怖かった。俺みたいなダメな男が君に好かれる訳がないと思い込む自分に酔っていた」


 大地の涙は止まらない。

 今まで秘めに秘めていた本当の気持ちと共に、ぼろぼろと零れ出ていく。


「君のことが好きだ。本当に好きなんだ。君を怒らせてしまったけれど、それでも、君には俺を嫌ってほしくない」

「…………」

「身勝手なお願いだってことは分かってる。都合の良い要求だってことも理解わかってる。でも、どうか、俺に君を好きでいさせてほしい」


 大地は雫の小さな身体を抱き締める。雨に濡れた子犬のように、彼の身体は震えていた。

 涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、嗚咽交じりの声色で、日野大地は最後に告げる。



「——そして、君に俺のことを好きでいてほしい」



「…………」


 今更何を言っているんだ、と雫は思った。

 どれだけ甘い言葉を並べても、あなたは私の好意に気付かなかったじゃないか。

 いくら過激なアプローチをしても、私の本当の気持ちに気付けなかったじゃないか。

 それなのに、私にあなたのことを好きでいてくれだなんて、本当にどうかしている。現実が見えていない。どこまで自分勝手な思考回路なんだろう。

 頷く訳がない。

 だって、もう遅い。

 私はあなたに怒りをぶつけてしまったんだから。

 あなたのことを見限ってしまったんだから。


「無理、だよ……だって私は、たった一度でも、あなたのことを否定してしまった。そんな私に、あなたを好きでいる資格なんて、ある訳がない……ッ!」

「失った信用は絶対に取り戻す。時間はかかるかもしれないけど、絶対に」


 やめて。

 お願いだから、もう私のことを揺さぶらないで。

 もうこれ以上、私は傷付きたくはない。


「……私はまた、今回みたいに理不尽に怒るかもしれない」

「君が理不尽に怒るような人じゃないことぐらい、俺は分かってる」


「私は口下手だから、あなたをまた振り回してしまうかもしれない」

「寡黙で不器用な君のことが大好きだから、大丈夫」


「あなたに構ってもらえなかったらすぐに拗ねるかもしれない」

「二十四時間三百六十五日、夢の中でも君のことを考える」


「自分のことばかりで、あなたのことを気遣ってあげられないかもしれない」

「君に気遣われずに済むぐらい、立派な男になってみせる」


「あなたのことをすぐに嫌いになってしまうかもしれない」

「最初は落ち込むかもしれないけど、すぐにまた惚れさせてみせる」


 悲しい、辛い、胸が苦しい。

 一度は嫌いになった男からすべてを肯定されて、心の底から喜んでしまっている自分が愚かしくて仕方がない。

 ダメな男だって分かっているのに。

 また今回と同じように傷付くことになると分かっているのに。

 どうしても、この男のことを嫌いになれない。


「……日野くん」

「何だ?」

「私のことをどう想っているのか、もう一度聞かせてくれる?」

「好きだ。大好きだ。世界一愛してる」

「っ……」


 ああ、もうダメだ。

 これ以上は、耐えられない――――ッ!


「わた、しも……あなたのことが、大好きです……」

「ありがとう。俺も大好きだ」

「大好きなのに怒ってしまって、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

「俺の方こそ、君の想いに気付いてやれなくて本当にごめん」

「好き……大好き……ずっとずっと伝えたかった……あなたに好きって、あなたのことを好きだって、ずっとずっと……気付いて、ほしくてッ……ぐすっ……うわああああああああん!!!!」


 雫は大地の胸元に顔を埋め、嗚咽を漏らす。

 一年分の大好きを、涙と共に吐き出した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る