第25話 雨宮雫は気づかれたい


「私のブラジャー、どう思う?」


 どうしよう。質問の意味が分からない。


「……えっと、すまん。聞き間違いかもしれねえからもう一度言ってくれるか?」

「私のブラジャー、どう思う?」

「…………」


 聞き間違いであって欲しかった。

 作業の手を止め、考える。雨宮さんが俺にこんな質問をしてきた意図を。


(……いやわっかんねえよ! こんなシチュエーション、どんなラブコメにもなかったし!)


 引っ越しの片づけの最中に下着の感想を求めてくるヒロインとか見たことも聞いたこともない。俺に下着を触られても問題ないとか言ってたし、本当に何なんだ今日の雨宮さんは。なんか悪い物でも食ったのか?

 どうする? 聞かなかったことにして他の話題を振るか? ……いや、ダメだ。質問を聞き返してしまった時点で逃げ道は失われている。雨宮さんはああ見えて頑固だから俺が答えを示すまで延々と質問し続けてくるだろうし……。


「日野くん?」

「ま、待って! き、君のブラジャーについてどう思うか、だよな!? う、うん、今ちょっと自分の中で答えをまとめてるところだから少し待ってくれ!」

「ん」


 頬を伝う冷や汗を拭いつつ、思考を張り巡らせる。今日は朝から冷汗を掻いてばっかりな気がする。

 ここで素直に「エロいと思います」とか言ったら絶対に軽蔑される。それだけは分かる。俺が彼女の立場だったとして、同居人、しかも許嫁である男が自分のブラジャー片手に「このブラ超エロい」とか言ったらその場で殴り倒す自信がある。

 ……いや、待てよ? わざわざブラジャーの質問をしてきたのだから、逆にこのブラを褒めてほしいのでは? エロい下着で最高ですね、ぐらい言っても怒られないのでは? むしろそれを求めているのでは?

 攻めるか、引くか。

 さあ、どっちにする――――――ッ!?


「……こ」

「こ?」

「個人的にはとても魅力的な一品だと思います……」


 心が弱くてごめんなさい。

 だ、だけど、攻めることはできずとも割とギリギリのラインを走り抜けることができたのではなかろうか!? これなら軽蔑されずに済むはず……!


「……そう」

「お、おう! じゃ、じゃあそろそろ作業に戻ろうぜ! まだ段ボールはいくつも残ってるんだからな!」


 雨宮さんに背を向け、下着収納の作業を再開する。

 あんな質問をぶつけてきた雨宮さんの意図はいまいち分からねえが、そんなことよりもまずはこの溢れる下着を何とかしなくては。いつまた話題にされるかも分かんねえし、何より目に毒が過ぎる。

 己の中の小宇宙を爆発させ、目にも留まらぬ速度で全てのブラジャーを箪笥に収納することに成功する。その時間、僅か三分。少々雑になってしまったかもしれねえが、これ以上時間をかけたら俺の理性が超新星爆発を起こしかねないのでどうかお見逃し願いたい。


「ふぅ……」


 一仕事終えた達成感に安堵しつつ、次の段ボール箱を開けるべく後ろを向く。



 雨宮さんが至近距離からこちらを見つめてきていた。



「どわああああああっ――あだっ!?」


 驚きのあまり後ろに飛び退き、そのまま箪笥で頭を強打してしまう。


「っつぅ~……そ、そんなところで何してるんだよっ……!?」


 打った頭を両手で押さえながら彼女に涙目を向ける。

 雨宮さんはいつも通りの眠たげな瞳で俺を凝視したまま、感情の薄い声色で言う。


「どうして気付いてくれないの?」

「…………?」


 先ほどの質問とは違うベクトルで理解のできない言葉だった。

 気付くってどういうこと? 今の流れでいったい何に気付けと?


「も、もしかして、ブラをもっと褒めてほしかったとか……?」

「違う。日野くんは何も分かってない。こんなに積極的になってるのに、あなたは何も理解わかってくれない……」

「ま、待ってくれ。話が見えねえから説明を……」

「説明したって、どうせ分かってくれないんでしょう!?」


 叫んだ。

 あの雨宮さんが。

 いつも静かで、声を張り上げることすらほとんどしないあの雨宮さんが。

 怒気を孕ませた声を、部屋中に響かせた。


「手を繋いで、一緒にお風呂に入って、着替えを見せて、下着を見せて……ここまでしてるのに、あなたは何も気付いてくれない!」

「あまみや、さん……?」

「あの時! あの場所で! あなたと出会ってから! ずっとずっと頑張ってるのに! あなたは全然っ……全然気付いてくれない……ッ!」


 分からない。

 彼女が怒っている理由が。

 どうして俺が怒られているのか。

 その全てが、分からない。


「どうして気付いてくれないの……私はこんなにあなたのことを……うぅ……気付いてよぉ……日野くんの、ばかぁ……ッッ!」

「あ、雨宮さん!?」


 雨宮さんは俺への罵倒を言い残し、部屋から飛び出していった。

 俺は慌てて彼女の後を追うが、廊下にはすでに彼女の姿はなかった。耳を澄ませば足音が続いている。もしかしたら、家の外まで行こうとしているのかもしれない。


「くそっ……気付いてくれないってどういうことだよ……意味分かんねえよ……」


 階段を降り、居間の前を走り抜け、そして玄関まで一気に走る。

 ちょうど玄関の扉が閉まろうとしているところだった。


「雨宮さん!」


 閉まる寸前の扉を蹴り飛ばし、道路に出るなり彼女を探す――が、雨宮さんらしき姿は視界のどこにも確認できなかった。


「と、とにかく、怒った理由を聞かないと……」


 そのためにはまず彼女を見つける必要がある。

 玄関に戻って靴を履き、扉をしっかり施錠した上で、俺は雨宮さんを探すべく全力で走り始めた。



     ★★★



 すぐに体力が尽きた。


「ぜ、ぜぇー……ぜぇー……くそっ、運動不足半端ねえ……横腹痛い……」


 よくよく考えたら、運動神経抜群の雨宮さんに平凡な身体能力しか持たない俺が追い付ける訳がない。しかもスタートからすでに圧倒的な差をつけられてるし。これもう定められし敗北じゃん……。


「……す、少し休もう。このままだと雨宮さんを見つける前に死んでしまう……」


 周囲に視線をやり、すぐ近くに公園があることを確認。足柄公園という名を持つこの公園には確かベンチがあったな……みたいなことを考えつつ、震える足に鞭を打ち、いざ公園の中へ。


「かひゅっ……うっぷ……おえぇぇ……」


 今にも死にそうな顔でブランコの傍にあるベンチへと歩み寄り、糸の切れた人形のようにその上に崩れ落ちる。喉が渇いて仕方がなかったが、自動販売機に行く気力など微塵も残っちゃいなかった。


「っはぁー……あーくそ、どこにいるんだよ雨宮さん……」


 仰向けのまま晴れ渡った青空を見上げる。ちょうど一羽の鳥が視界を右から左へ飛び去って行くところだった。


「……俺もあんな風に飛べたら雨宮さんをすぐに見つけられるんだろうけどな」


 まあ、すぐに見つけられたとして、また選択を誤って怒られそうな気はするけども。


「はぁ……女心って分かんねえ……」

「昼間っからなに哲学的なこと言ってるんですかあなたは」

「え?」


 突然の声に思わずベンチから身体を起こす。

 そこにいたのは、勝気な瞳とツインテールが特徴の貧乳少女だった。顔は雨宮さん程じゃないにしろ平均と比べるとかなり可愛い。スカートから覗くおみ足からは健康的な色気すら感じる――って、


「森屋さん……?」

「はい。『雨宮雫様を幸せにしたいの会』会長の森屋紅葉です」

「お前、こんなところで何してるんだ?」

「いやいや、それはこちらのセリフでしょう。こんな人気のない公園のベンチで一人寝転がってるあなたこそ何をしているんですか」

「い、いや、その、えっと……」


 さて、どうしたものか。

 ここで会ったのも何かの縁、ってことで事情を説明するべきだろうか。……いや、他の奴ならともかくとして、コイツにだけは知られちゃダメな気がする。だってコイツは雨宮さんの熱狂的なファンだし。実は雨宮さんを怒らせちゃってー、とか言ったら右腕をへし折られかねない。


「日野大地?」

「ちょ、ちょっとランニングをな! 最近運動不足だからさ、うん!」

「……何か隠してません?」

「べっ、別に何も隠してねえけど!?」

「へぇー? ほぉー? ふぅーん……?」



 じろじろじろ。

 警察犬のように俺の顔をしつこくねめつけてくる森屋さん。これは彼女が鋭いのか俺が嘘を吐くのが苦手過ぎるのか、果たしてどちらなのか。……両方な気がするなあ。

 大量の冷や汗を掻きながら森屋さんから目を逸らす。頼む、何も見なかったことにしてここから立ち去ってくれ――――ッ!


「……まあ、それが嘘だって分かってますけどね」

「…………へ?」

「忘れたんですか? あたし達は雫様をいつでも見守る守護者集団。家の中はともかくとして、外出中の彼女の行動を把握することぐらい造作もありません」


 森屋さんは俺の隣に腰を下ろすと、満面の笑みを浮かべながら言う。


「会員経由で雫様が泣きながらどこかへ走り去る姿の目撃情報が入っています。何があったのか洗いざらい吐きやがれください。——いいですね?」

「…………………………………………はい」


 逆らったら殺される。

 根拠はないが、俺の第六感がそう告げていた。


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