第10話 俺(私)達はここから始めたい
『——めんなさい……私のせいで……』
ぼんやりとした情景が浮かぶ。
場所も時間も人も認識できないが、声のような何かだけは、ぼんやりと聞こえてくる。
『あはは、大丈——丈夫。びしょ濡———ど―――――寒——――—っくしっ!』
『風邪を――――まう。すぐに拭か――と……何か――ものは……』
誰かが会話している? 男と、女……? ダメだ。意識がはっきりしない。
『だか―――夫だ―――そんな――より……ほら、——』
『あ――』
『少し濡れち―――けど、乾———問題ない―――。怪我も―――――だしな』
『……あり――う。本当———りが――』
★★★
「ん、ぅ……? ——ッ」
目覚めた俺をまず出迎えたのは、額に走った鈍痛だった。
恐る恐る触ってみると、そこには小さなでっぱりが。たんこぶか――そう判断したところで、俺は意識を失うまでの全ての記憶を取り戻した。
「あ、ああ、そうか。俺は確か、浴槽の縁で頭を打って……」
「……やっと起きた」
「雨宮、さん……?」
雨宮さんが俺を見降ろしていた。若干湿っている髪、そして首にはバスタオル。理解するのに数秒のロスが発生したが、その恰好が示すのは彼女が風呂上がりだということ。うんうん、なるほど。風呂上がり……。
「……もしかして、介抱してくれたのか?」
「うん」
申し訳なさそうに頷く雨宮さん。そしてここで、俺は彼女に膝枕されていることに気付いた。うわ、マジか。人生初の膝枕ですよ奥さん。はー、女の子の太ももって思っていたよりも張りがあるんだな……風呂上がりだからか良い匂いもしてきたし……やべ、なんか照れ臭くなってきた。
勝手に照れる俺に気付いているのかいないのか、雨宮さんは頬を軽く掻きながら、とても言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「でも、その……服は、着せられなかった」
「服?」
目を逸らす雨宮さんに首を傾げつつ、俺は自分の身体を見てみる。股間にバスタオルが敷かれているだけの変態スタイルだった。
「っ、あー……なんかいろいろと迷惑を掛けちまったみたいで……」
「謝る必要はない。私ももう少し気遣うべきだった」
顔を伏せ、唇を結ぶ雨宮さん。どうやら少しばかり責任を感じているようだ。
……ふむ。
「ところで、このタオルの下を見ちゃったりしたか?」
「っ!?」
しゅぼっ! と雨宮さんの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
「……見てない」
「えー? 本当にござるかぁ?」
「見てない。……少しだけしか、見てない」
「やっぱり見てんじゃねえかよ」
「……しつこい」
「あ、はい、すいませんやめときまーす」
圧が凄かった。多分覇王色の覇気か何かだと思う。
目を細めて威圧してくる雨宮さんに俺は微笑みを向けると、
「うん、申し訳なさそうな空気は消えたみたいだな」
「え……?」
「俺が気絶しちまったのはどっちが悪いって訳でもないんだし、雨宮さんが落ち込む必要なんてねえよ。だから、うん、どっちも気にしないってことでここはひとつ。な?」
「日野くん……」
今のは結構クールに決められたんじゃないだろうか。まあ、普段の伊織をちょっと参考にさせてもらっただけだけど。つーかアイツ、いつも平然な顔してこんなことを口にしてるって普通に考えて異常だよな。羞恥心とかないんだろうか。
「(……日野くんは、やっぱり優しい)」
「ん? 何か言った?」
「日野くんがそう言うなら気にしないことにする、と言った」
「うんうん。そうしようぜ」
話がまとまったところで身体を起こし、周囲を軽く見回す。襖に畳にテレビにテーブル……ふむ、ここは居間か。まあ、意識を失った男を抱えて階段を上ったりは流石に無理だっただろうからなあ。風呂から居間まで俺を女手一つで運んだだけでもかなり凄いっちゃあ凄いけど。
状況の確認が済んだので、次は雨宮さんの方を向いてみる。風呂上がりで全身が湿っているからか、普段の彼女と比べるとかなり艶っぽく見えてしまう。パジャマの襟元から覗く谷間なんか良い感じに俺の理性を刺激して……。
「……何も見てないよ!?」
「何も言ってないけど……」
いかん、自分で墓穴を掘るところだった。ここは気持ちを切り替えるためにも話題転換を図るべきだろう。
俺は咳払いを一回挟むと、
「そ、そういえば気になってたんだけど、雨宮さんはいつ聞かされたんだ?」
「何を?」
「俺との婚約関係のこと。ほら、昨日の時点で全然驚いた素振りすら見せてなかったから元々知ってたのかな、って」
「私が聞かされたのは昨日の夕方頃。この家に行く直前ぐらいに、お父さんから報告された」
「え、それって……」
俺とあんまり変わらない、ってことになるのでは? たった小一時間程度しか変わらないのにあんなに落ち着いてたとか……まさか俺のことを異性として認識してなかったからでは……?
嫌われてるどころか異性として見られてすらいなかった可能性が浮上し、心が虚無に支配されそうになる。
「…………俺なんかと婚約だなんて迷惑だよな……」
「……どうしてそうなるの?」
「だって、雨宮さんって俺のこと嫌ってるだろ……?」
「……どうしてそう思うの?」
「え? どうしてって……」
正直に言っていいものだろうか。ただの悪口にならないだろうか。変なことを言ってもっと嫌われたりしないだろうか。
色んな不安が心の中で駆け巡る――が、雨宮さんが真剣なまなざしを向けているのに気付いた瞬間、俺の中の誤魔化さなければという気持ちは消え去った。
胸を押さえ、深呼吸をし、頬を引き攣らせながら俺は答える。
「え、えっと、あ、雨宮さんって、その……俺に対してだけ冷たい、じゃん? い、いや、今の言い方はまずかったな! 冷たいじゃなくて、素っ気ない……? 目もあんまり合わせてくれないし、話しかけてもスルーされること多かったから、嫌われてるんだろうなーって思ったり思わなかったり……」
「…………」
あ、これ怒ったな。だって顔めっちゃ険しくなってるもん。眉間に皺寄ってるし。うう、どうしてこう俺は悪い方向へ物事を進めることに関してはとびっきりの才能を発揮してしまうんだろうか……。
悲しみのあまり空を仰ぐ。
その直後、雨宮さんがぽつりと呟いた。
「……勘違い」
「え?」
「それは勘違い。私は、日野くんを嫌ったりなんか、していない」
「……え、そうなの!?」
今世紀最大のビッグニュースだった。
「え、あ、えと、そ、それじゃあ、俺に対してやけに素っ気なかったのは!?」
「日野くんは話しかけてくる時、いつも鼻息が荒いから……私が人見知りなのも相まって、上手く話せなかった」
「話しかけてもスルーされまくってたのは!?」
「会話を広げようと色々考えていたら、日野くんが逃げちゃうから……」
「時々目が怖かったり態度が冷たかったりしたのは!?」
「私はあまり目つきが良くない。態度については、緊張してしまっていただけ」
「えぇ……」
つーことは何か? 俺が嫌われてるって思ってたのは全部ただの勘違いで、本当は普通に会話することだってあり得てたかもしれないってことなのか!?
「っ、はぁー……何だよそれ……俺の今までの不安と心配と悲哀は何だったんだよ……」
「……ごめんなさい」
「い、いや、雨宮さんが謝ることじゃねえよ。元はと言えば俺が早とちりしちまってたのが悪いんだし」
「本当にごめんなさい……」
申し訳なさそうに顔を伏せる雨宮さん。……罪深い告白をしてしまうんだが、落ち込む雨宮さんはちょっと可愛いと思います。
しっかし、まさか雨宮さんから嫌われていなかったとは。俺の青春もまだまだ捨てたもんじゃないってことだなうん。
心の中で納得してしんみり頷いていると、俺の脚に柔らかな感触が走った。思わずそちらを見てみると、雨宮さんが俺の太ももの上に手を置き、こちらに詰め寄ってきていた。
「あ、雨宮さんっ?」
「話を戻すけど、私だって本当は驚いていた」
「驚いてたって……もしかして許嫁の話か?」
こくり、と雨宮さんは小さく頷く。
「日野くんはさっき私が驚いた素振りを見せていないと言っていたけど、そんなことない。私だって驚いていた。……今日一日空回ってしまっていたのは、それのせい」
ふと、今日の雨宮さんの行動を振り返ってみる。登校中に手をつないできたり弁当を用意してきたりあーんしようとしてきたり一緒に風呂に入ることを承諾してきたり。空回っていると言われれば、なるほど、確かにそう思えてしまう。
「あー、なるほど……雨宮さんがやけに積極的だったのは、変に意識しちまってたからなのか……」
「(……本当はそれだけじゃないけど)」
「雨宮さん?」
「何でもない」
即答しつつ、雨宮さんは続ける。
「驚いたけど、迷惑とは全く思ってない。……むしろその逆」
「逆?」
「日野くんが許してくれるなら、私はあなたともっと距離を縮めたい」
「それは俺の許嫁だから?」
「……許嫁は関係ない」
雨宮さんは潤んだ瞳で俺を見上げる。
「私は雨宮雫個人として、日野くんともっと仲良くなりたい」
「————ッ」
その言葉が雨宮さんの本音であると理解できない程、俺はバカでも鈍感でもない。
そしてここで変に誤魔化すほど、根性のない人間でもない。
「……できれば俺も、君ともっと仲良くなりたいかな」
学園一の美少女だから? ——違う。
平均よりも胸がデカいから? ——違う。
許嫁としての責任を感じているから? ——断じて違う。
ずっとずっと目で追っていたから。
ずっとずっと知りたいと思っていたから。
ずっとずっと――俺を見てほしいと考えていたから。
「雨宮さん」
「……うん」
互いに言葉足らずだったから勘違いが起きていた。
互いの本音を言葉にしなかったから、ずっとすれ違いが続いていた。
ならば、今から全てを一からやり直そう。
許嫁である彼女——いや、雨宮雫という少女のことを、もっともっと知るために。
「許嫁だとかそういう堅苦しい話は一旦置いておくとして……良ければ俺と友達から始めてもらえないかな?」
「うん。私もちょうどあなたと友達から始めたいと思っていた」
こうして、許嫁以上友達未満だった俺達の互いを知るための友達生活が幕を開けたのだった――――。
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