第9話 雨宮雫はお風呂に入りたい


 舞い上がる湯気に波打つ水面。天井には無数の水滴が付着し、僅かに開いた窓から少しの夜風が流れ込む。疑似的な露天風呂とでも言えばいいのか、形容し難い心地良さが俺の身体を包み込む。

 だが、心地良いのは身体だけ。

 何故かというと、今、俺のメンタルは絶賛大混乱中だからである。


(あ、雨宮さんとお風呂とか……ッ!?)


 頬を伝う汗は風呂の熱さによるものか、それとも緊張によるものか。……きっと、その両方だろう。

 瞼に張り付いた前髪を手で掻き上げながら、俺は無言で扉の方を向く。

 擦りガラスの向こうには、薄らとした人影が一つ。それが誰なのかなんてわざわざ考えるまでもない。


(あの雨宮さんが俺の家の脱衣所で裸になってる……)


 しゅるしゅる、という衣擦れの音が扉越しに聞こえる度に、心臓がどうしようもなく跳ねてしまう。これは夢だな、と何度も現実逃避を試みるが、扉の向こうの圧倒的な現実がそれを許してくれなかった。


(お、落ち着け……ここで変に興奮しちまったら、もうリカバリー不能レベルで嫌われちまうぞ……羊を順番に一匹ずつ丁寧に数えるんだ……っ!)


 心を落ち着かせる方法としてはちょっと違う気がするが、要は雨宮さんから意識を逸らせばいいのだ。何も問題はない。素数? 何それ食えるの?


「羊が一匹……羊が二匹……羊が三匹……裸が四匹……裸が……羊が……あれ、今何匹まで数えたっけ?」


 ああああああダメだあああああ全然落ち着けねええええええ!! しかもなんか途中でバグってたし! そもそも裸が四匹って何!? 文字数しか合ってないじゃん!


「くそっ、やはりここは初心に帰って素数を数えるしか――」

「……さっきから何をぶつぶつ言ってるの?」

「はあああああああん!!!???」


 驚きのあまりとっても情けない悲鳴を上げてしまった。穴があったら潜り抜けたい。


「……どうしたの?」

「な、何でもな――ぶふうっ!?」


 言葉半ばに噴き出してしまったが、どうかお許し願いたい。

 何故なら、今、雨宮さんがタオルすら巻いていない全裸スタイルで俺の前に立っているのだから。


「な、ななななな何でぜ、ぜんっ、ぶぐっ、全裸……ッ!?」

「お風呂に入るから」

「いやそうなんですけども! ド正論なんですけども! で、でも、せめて水着かタオルを身に着けてもらえると俺の童貞メンタルが大爆発せずに済むと言いますかね!?」

「……童貞なの?」

「言葉を間違えました。わたくしは童貞ではありませんよマドモアゼル」


 かっこよく決めたが、ぶっちゃけ心の中は「死にたい」一色であります。


「変な日野くん……」


 呆れたような声色で俺をディスりながら、雨宮さんはバスチェアに腰を下ろし、シャワーで髪を濡らし始めた。そんな彼女の動作に連動するように胸がたぷたぷ揺れる光景は、俺の理性にとてもとても悪かった。というか見えちゃってますよ雨宮さん……胸の先の、その、隠さないといけない何かが完全に見えちゃってますよ。

 これ以上おっぱいを見ていたら興奮のあまりのぼせてしまいそうなので、とりあえず視線を彼女の顔へ。

 浴室の熱気で身体が上気しているのか、彼女の頬を一筋の汗が伝っていた。それだけでなく、湿った髪が顔に張り付き、いつも隠れている片目が今だけは濡れた髪の隙間から垣間見えてしまっている。


(……濡れた雨宮さん、超エロいな……)


 同級生相手に割と最低な感想を抱いてしまっているが、どうか許してほしい。隠された瞳が濡れ髪の隙間から僅かに覗くこの絶景は、俺の理性をどうしようもなく狂わせてしまう。

 唾を呑み込み、舌で唇を湿らせる。視線は当然、彼女の目元に向けたまま。濡れた横髪を耳の上に掻き上げる雨宮さん超艶やかですわ(謎お嬢様)。

 ああ、願わくば、このまま永遠に彼女の顔を見ていたい――


「……そんなに見られると、流石に恥ずかしい」

「は、はああああいごめんなさあああああい!」


 ジト目をこちらに向けられたので、爆速で後ろを向きました。

 危なかった、本当に危なかった。雨宮さんに指摘されなかったら俺の理性は爆発四散していたに違いない。……ごちそうさまでした。


「身体洗うまで、壁を向いてて」

「イ、イエスマム!」


 背後からの指示に後ろ向きのまま従う。壁だ、ただ一心に壁だけを見つめ続けろ日野大地。これ以上雨宮さんを失望させないためにも、絶対に余計なことはするんじゃない……っ!


「…………ふぅ」


 浴室に雨宮さんが零した吐息の音が木霊した後、カシュ、カシュ、という音が俺の鼓膜を刺激した。この音はおそらくシャンプーボトルのポンプの音だ。耳慣れているからよく分かる。

 手に出したであろうシャンプーをぐしゅぐしゅと掻き混ぜ、そして髪を洗い始める雨宮さん。耳に全ての意識が集中してしまっているからか、背中越しなのに音と気配だけで彼女の動作がすべて把握できた。


(つ、つーか、なんか裸見るよりもドキドキしてきたんですけど……ッ!?)


 見えないからこそ逞しい想像が止まらなくなる。男として長年培ってきた妄想力がよりにもよって今、確実に俺の理性を苦しめていた。


「んっ……」


 ザァーッ、とシャワーで髪を洗い流す音が聞こえる。その音が数十秒ほど続いたかと思ったら、再びポンプの音が。おそらくトリートメントかコンディショナーでも使っているんだろう。後ろを振り返りさえすればすぐにでも答えを得ることができるが、実質不可能なのであまり深く考えないことにした。

 髪を洗い、シャワーで流し……そして三度目のポンプの音。次は洗顔かな? ということは、そろそろ身体を洗うのか……。


「——ふんっ!」


 ゴスッ!!


「な、何の音?」

「あ、あはは、ごめんごめん。最近風呂の壁に頭突きするのがマイブームなんだ」

「……痛そう」


 雨宮さんが身体を洗う光景を危うく想像しちまうところだった。ダメだぞ大地、その先は流石にダメだ。やるにしてもせめて一人の時にしよう。落ち着け、落ち着け日野大地……ッ!

 洗顔、シャワー、ポンプ音——そしてタオルで肌を擦る音。壁に頭を押し付けて両目をぎゅっと瞑る俺の耳に、とても魅力的な音ばかりが聞こえてくる。

 そう、例えば――


「んっ……ふ、ぅ……」


 ——艶やかな吐息が零れる音とか。


(大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ大丈夫これは身体を洗ってるだけ――――ッ!)


 吹き飛べ本能、踏み止まれ我が理性!

 鋼とダイヤとオリハルコンでできている俺のスーパーメンタルならたとえどんなことが起きようとも揺らぐことなど――。


「ひゃっ!」


 理性を保つ呪文を心の中で唱えていると、雨宮さんが突然そんな悲鳴を上げた。


「雨宮さん、何かあった――」


 反射的に俺は後ろを振り返り――そして一瞬で凍り付いた。


「ま、間違えて、お湯を冷水にしてしまった……」


 雨宮さんの身体は大量の泡に包まれていた――が、シャワーの水が直撃している胸だけは完全に露わとなってしまっていた。

 弾力のある双丘が俺の目を掴んで離さなかった。

 指がどこまでも沈んでいきそうな柔らかな胸部が俺の心を束縛していた。

 桜の花のように色鮮やかな頂上が俺の理性を貫いた。


「……………………はう」

「ひ、日野くん!?」


 ズガシャアアアアッ! という轟音が俺の頭の中で木霊する。

 それが頭を浴槽の縁に強打した音だと気づいた時には、俺の意識が完全に刈り取られてしまっていた。

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