第2話 雨宮雫は受け入れたい
「この雨宮雫ちゃんはな、大地。お前の――許嫁なんだ」
この着物マッチョはいったい何を言っているんだろうか。
学園一の美少女で男女問わず多くの生徒たちから羨望の眼差しを向けられている雨宮雫さんが、クラスで特に目立っている訳でもない至って平凡な男子高校生であるこの俺の許嫁?
いやいや、いくら現実は小説より奇なりとは言っても、流石にそれはない。俺が今この瞬間に超能力に目覚めることの方がまだ現実的だ。
「…………」
雨宮さんはさっきからずっと黙っている。彼女はこの状況についてどう思っているんだろうか。表情から気持ちを探りたいのはやまやまだが、相変わらずの無表情なのできっとやったところで無駄になる。
「どうした大地。その『もう少し現実見ろよクソ親父』とでも言いたげな顔は」
「いや誰もそこまで思ってないけど……ちょっと突然のこと過ぎて頭が追い付いてないというかなんというか……」
「まあ、お前が驚くのも無理はない。このことについて、父さんは一度もお前に話したことがなかったからな」
「……待って? その言い方だと、雨宮さんが俺の許嫁だってのはずっと前から決まってたってことになると思うんだけど……?」
「ああ。お前が生まれてすぐぐらいから決まっていた」
眩暈がした。
「う、生まれてすぐぐらいからって……何で? どういう経緯でそうなったんだ?」
「それについては私から説明させてもらおう」
今までずっと沈黙を貫き通していたスーツの男性が突然口を挟んできた。
「まずは自己紹介をしなくてはならないな。私は
「あ、ご丁寧にどうも……」
「君のことは日野先生からよく聞いている。少し誇張が入っているようだが、なるほど確かに噂通り人が良さそうな子だね」
「日野先生って……湊。またいつもの悪い癖が出ちまってるぜ?」
「おっと、すまない壮也。こういう畏まった場ではどうしても仕事モードに入ってしまってね。妻にもよく指摘されるから気を付けようとはしているんだが……いやはや、職業病とは恐ろしいものだ」
あっはっは、と膝を打って笑い合うおっさん二人。
親父のことを『先生』と呼んでいる、仕事モードに入ってしまう、ということから察するに、もしやこの人は……。
「もしかして、雨宮さんは――」
「湊でいいよ。私も君のことを大地くんと呼ばせてもらうからね」
「あ、はい。では、湊さんは親父の担当編集か何かなんですか?」
「御名答。壮也が小説家になった時からの付き合いでね。幸か不幸か、かれこれ二十年ほど二人三脚で仕事をやらせて頂いているんだよ。まあ、二十年経っても一向に〆切を守ってくれないんだけどね、この大先生は」
「いやあ、オレも頑張ろうとはしているんだがなあ」
「そう言いつつ今回もまた〆切を破りそうな勢いだが、それについてはどう思っているのかな?」
「正直すまんかったと思ってる。――が、その分クオリティは保証するぜ」
「はぁ……これで面白くなかったら承知しないからな」
不満そうな言葉とは裏腹に嬉しそうに表情を緩める湊さん。二十年来の付き合いと言っていたが、自由人である親父の扱いに慣れているあたり、どうやら嘘ではないらしい。
って、そんなおっさん二人の仲の良さについて感心している場合ではない。どうして俺と雨宮さんが婚約関係にあるのか。それを早く聞き出さなくては。
「あの、湊さん。それで、さっきの話なんですが……」
「む、ダメだな。壮也といるとつい話が脱線してしまう」
湊さんはテーブルを指で数回叩くと、
「それで、君と雫が婚約関係を結ぶことになった経緯についてだが……」
「(ごくり)」
「それは、君の父が僕に大きな借りを作ったことに起因する」
「……大きな借り?」
親父の顔を横目で見てみる。
俺の視線に気づいたのか、親父は頭を掻きながら口を開いた。
「お前が生まれてすぐぐらいだったか、仕事でちっとばっかしデカい事故を起こしちまってな。こいつはその時、身を挺してオレを庇ってくれたんだ」
「あはは。あの時は失職すら決意したよ」
言葉を濁されてはいるが、要するに小説家である親父のミスを編集である湊さんがフォローしたということなのだろう。しかし、それが俺と彼女の婚約にどう関係してくるというのか……。
「オレはどうしてもコイツに借りを返さなきゃならないと思った。だからオレは金でも何でも払うから、狩りを返させてくれとこいつに頼んだ。……だが、コイツはあろうことかそれを断りやがったんだ」
「私は見返り欲しさにこの男を助けた訳じゃなかったからね。欲しくもないものを渡すと言われても首を縦に振る訳がない」
話が見えない。結局どうして俺と雨宮さんが婚約することになったんだ。
そんな疑問が顔に出ていたのか、湊さんはわずかに表情を緩めると――
「私は借りなんて返してほしくない、しかし壮也は借りを返したい。容赦譲らぬ均衡状態が長らく続いたが、そこでこの男は一風変わった提案をしてきたんだ」
「…………」
「私の娘と壮也の息子――つまりは雫と大地くんを結婚させる、という提案をね」
「流れおかしくないですか!?」
「私もその時は『執筆のし過ぎでついに頭おかしくなったのか』と思ったさ。だが、すぐに私は気づいたんだ。この男は本気なのだと」
「湊はオレが路頭に迷うのを防いでくれた。コイツに助けてもらわなかったら家の収入は消滅し、お前を養う事すらままならなくなっちまうところだった。……つまり、コイツはお前の命の恩人でもあるんだよ」
「そ、それはそうかもしれないけど、何でそこで婚約ってことになるんだよ!」
「湊への恩を返すためにはオレが一番大切にしてるモンを差し出さないと割に合わねえと思った。……ここまで言えばもう分かるな?」
「ま、まさか……」
「ああ、そのまさかだ」
親父は腕組みしたまま高らかに言い放つ。
「俺が一番大切にしてるモン――それが大地、お前だっただけのことだ!」
「嬉しいような悲しいような何なんだろうかこの複雑な感情は!」
親から大切だと言ってもらえている感動的場面のはずなのに、何故だろう、素直に喜べない。
「ま、待て! でも、湊さんは借りなんて返してほしくなかったんですよね!? だったら何でその申し出を受けちゃったんですか!?」
「……少し恥ずかしい理由になるんだが、聞いてくれるかな?」
「もうここまで来たら包み隠さず全部言ってもらわないと納得も我慢もできないのでお願いします」
「では……こほん。私が壮也からの提案を受けた理由。それは――」
「それは?」
湊さんは俺から目を逸らし、頬を仄かに朱に染める。
「壮也の親戚になるという申し出を魅力的に思ってしまったからだよ!」
あ、分かった。この人も親父と同じでダメな人なんだ。
「へへっ、よせやい」
「気持ち悪りぃ顔してんじゃねえよクソ親父! つーことはアレか? この婚約はアンタ達の歪んだ友情関係の末に結ばれたってことなのか!?」
「そういう言い方もあるな」
「息子の将来を身勝手な友情で歪めるのやめてくれませんかねえ!?」
まさかこんなバカみたいな理由だっただなんて! もっとこう、壮大なストーリーを期待していたのに!
「…………はぁ」
そして密かに雨宮さんが溜め息を零していた。表情は変わっていないが、これ絶対に湊さんに呆れてるよね。そこはかとなく目元に陰が落ちているように見えなくもないし。
「何だ大地。さっきから叫んでばっかりだが、もしかしてお前、雫ちゃんとの結婚が嫌なのか?」
「嫌とかじゃなくて、親が勝手に決めるのはおかしいっていうか、俺なんかと結婚するなんて雨宮さんが嫌がるだろうというか……」
雨宮雫は俺のことを嫌っている。
挨拶どころか顔すらまともに合わせてくれない彼女にとって、俺なんかと結婚することはそれこそ嫌悪の対象でしかないだろう。
だからきっと雨宮さんも反対してくれるはずだ。親の都合でこんな奴と結婚するだなんて我慢ならない、と――。
「……私は別に構わない」
――耳を疑った。
喉が干上がるのを感じた。
血の気が引くのが分かった。
凍り付いた身体に鞭を打ち、衝撃発言をぶっ込んできた雨宮さんへと視線を向ける。
「あ、雨宮さん? 今、何て……?」
「私は別に構わない」
顔色一つ変えずに雨宮さんは同じ言葉を繰り返した。
「いやいや……いやいやいや……待ってくれよこんなのおかしいだろ。俺と雨宮さんが結婚だなんて、絶対におかしいって……」
「……日野くんは私と結婚するのが嫌なの?」
俺じゃなくて君が嫌なんじゃないのかって心配してる訳なんですが、どうして伝わらないんですかね。
「あっはっは。雫ちゃんはどうやら満更でもないみたいだし、話はまとまったってことで問題ないな!」
「俺がまだ了承してないんだけど!?」
「こんな別嬪さんが結婚してくれるっつってんだ。男ならビシッと覚悟を決めろや」
「覚悟の時間すらくれなかったくせに何を――痛っ! わ、分かった! 分かったから背中を叩くな! 背骨が折れる!」
背中に走る衝撃に苦しみながら、再び雨宮さんの方を見る。
眉一つ動かさず、ただただ沈黙を貫く彼女が何を考えているのか……俺にはてんで分からない。
(雨宮さん。君、俺のこと嫌いなんじゃあなかったの!?)
そんなこんなで、俺のことを嫌いなはずの美少女との婚約関係が始まったのであった――。
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