鉄と氷の融解点
季節は巡る。太陽からはやわらかい光が降り注ぎ、木々には色が見え始めた。
母国よりも随分と早い春の訪れは嬉しくもあったが、それだけでは済まなかった。
「お世話になりました、ご主人さま、ゾフィーさん。ジゼル、元気でね」
そう言って屋敷の前で涙を浮かべる少女。トランクを抱えたその姿は、すっかり大人びている。
春は、少女達を大人にする。
馬車に乗り込み、屋敷を後にする少女達。その背中を見つめるルドルフ様の横顔には、あの日見た……エマが出て行った冬の日と同じ感情が滲んでいる。
今ならはっきりと分かる。
その感情の名前は、孤独という。
「駄目だな、私は……何も変わらない」
「……人はそうそう、変われません」
「自分に背を向ける人間を見ると、足が動かなくなる。情けないな。……二十年前のあの日、母の背に縋り付いて泣いていたら、何か変わっていただろうか」
その声は答えなど求めていなかった。どこか危うささえ感じるおぼろげな声に、私は主人の袖を引く。
それに応えるように、ルドルフ様は私の手を握り締めた。
その大きな手に、どうしようもなく胸が苦しくなる。
春は、少女達を大人にする。それは、私も同じであった。
異変を感じたのは、数週間前。野原が春めき、頬を撫でる風の冷たさが柔らかくなり始めた頃のことだった。
「ジゼル、背、伸びた?」
ずっと生活を共にしてきたメイド達にそう言われ、測ってみれば、確かに私の背丈は高くなっていた。
それだけじゃない。わずかに膨らみ出した胸も、肉付きのよくなったお尻も、私が『女』になり始めていることを嫌でもわからせた。
孤児院に居たときより栄養状態が良くなったからか、気候か、それともアーニャの死を認めたからか……。理由は分からないが、私の中の時間が動き出したことは疑いようのない事実だった。
私の胸の内側が重く渦巻く。それは、職を失うことへの不安や、アーニャへの後ろめたさではなく……ルドルフ様に忌み嫌われる存在へと自らが変わっていく恐怖だった。そのことにまた、胸が苦しくなる。
私だけが生き延びるなんて間違っていると、そう、主人に啖呵を切ったのは誰だ。アーニャを見殺しにした私が、彼女を氷の中に置き去りにした私が、彼と共に生きることを望むなんて、絶対に許されないのに。
そう思えば思うほど胸は苦しくなり、近頃は吐き気や倦怠感まで感じ始めていた。微熱が続くこともそう珍しくなく、毎日、酷く重く感じる体を引きずるようにして仕事をしていた。
それは、つまり、そういう事だったのだ。
「ジゼル!お前っ……、どこで、怪我を!?」
「……え?」
玄関の花瓶に花を活けていた私の元へ、ルドルフ様が血相を変えて駆け寄ってきた。
メイド用の簡素なスカートと、エプロン。真っ白であるはずのそれが真っ赤な鮮血に染まっていて、目を見開く。
怪我なんてしていない。どこも痛くなんてない。……重く感じる、下腹部以外。
そう、辿り着いた答えに感じたのは羞恥ではなく、目の前が真っ暗になるほどの絶望だった。
私は、ついに、この人が嫌いな『女』という生き物へと変わってしまったのだ。
「ジゼル、すぐに手当てを、」
ルドルフ様が私を椅子へと座らせ、近くに居たメイドに自分の医者を呼び戻すようにと告げる。そうして、真っ赤に染まったスカートをたくし上げた。
大人の女には絶対にしないであろう行為。私が子供の姿だからこそ許されるその行為の途中で、主人が息を呑む。
慌てたように整えられたスカートと、顔を上げた主人の、揺らぐ榛色の瞳に、もう終わりなのだと、短くも幸せだった生活の終焉を感じた。
「……ジゼル、おまえ、」
「……ごめんなさい」
子供のままで居られなくてごめんなさい。ここに留まるあなたを置いて行ってごめんなさい。
あなたを、女として愛してしまって、ごめんなさい。
もう、ここには居られない。
勝手に頬を伝った涙。榛色の瞳が見開かれる。それを遮るように、私は駆け出した。ルドルフ様が私の名を呼ぶ声も無視して、煌びやかな玄関を飛び出し、エマや、大人になったメイド達が後にした庭を無我夢中で走る。
こんな風に逃げたって、時間は私を逃がしてなんてくれないのに。
走って、走って、真っ白なシーツの干された庭先で、何かに腕を掴まれ、足が絡まる。
思わず掴んだシーツの端。布の海に飲まれたまま無様に草の上に転がる私を、覚えのある体温が包み込んだ。
「少しくらい、話を、聞け!」
「……ルドルフ様?」
抜け出したシーツの海。僅かに肩で息をする主人は、もう、鉄の男などではない。
「私に背中を追わせた女はお前が初めてだよ、ジゼル」
「……ごめんなさい、ごめんなさい、私っ……ごめんなさい……!」
「ジゼル、泣かないでくれ」
「私、子供のままいられなくて……!」
「人生で初めて、心の底から、このまま逃がしたくないと思ったんだ」
そう言って、春の陽だまりのように微笑んで。主人は、シーツをかぶったままの私へと跪いた。それは、まるで絵本のように。
「きみにずっと言いたかった」
「……は、い」
「きみが好きだ」
「……はい」
ここは庭先で。纏っているのはヴェールなんかじゃなくて、汚れた服とシーツで。私の顔は涙でぐしゃぐしゃだけど。
私の夢見た、物語だ。
「どうか私と、結婚してくれ」
そう言って、鉄の男が微笑んで、私の手の甲へと唇を落とす。私の中の最後の氷が解けて、新たな涙が頬を伝った。
それはひどくあたたかくて、幸せな涙だった。
いつかきっと、王子様が。
アーニャの夢はもう、私を追いかけたりなんてしない。
end.
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