アーニャの夢





「ジゼル」


 廊下を歩く私を引き留めた声。すっかり聞き慣れた抑揚のないそれに振り返れば、この屋敷の主人が相変わらず色の無い表情で私を見下ろしていた。


「書けた」

「新作ですか?」

「書斎に来てくれ」

「え……と、先にゾフィーさんにひと言、」

「後で私から伝える」


 だから早く、と。まるでサーカスへと急ぐ子供のように、ルドルフ様は私の手を引く。子と親ほど歩幅の違う主人に引っ張られ、私は小走りで書斎へと足を踏み入れた。


「……正直、自信はないんだ」

「人を引きずってまで連れてきた人間の言葉とは思えませんね」

「ジゼル、茶化すな」

「ええ、もちろん。拝読致します」


 近くにあった簡素な椅子に腰かけ、私は渡された本の一ページ目をめくる。

 そこには一面の銀世界が広がっていた。耳鳴りがするほど静かな、私の知っている世界。


 小さく深呼吸をして、私はページをめくる。


 絵本の主人公は心を凍らされた少女。そんな少女の元へとやって来た、氷の精。その姿に、私は今度こそ息を呑む。少しくすんだ銀色の髪と、水色の目。

 少女と氷の精は数々の苦難を乗り越え、少女は王子からのキスで心を取り戻す。


 ありきたりで、甘ったるい、反吐が出そうなほどの夢物語。


 それでも、きっと。アーニャが夢見ていたのは、こんな物語だった。


「ジゼル、泣かないでくれ」

「……っ、う、……っ」

「お前を泣かしたくて書いたわけじゃない」


 そう、困ったようにルドルフ様に頭を撫でられても、私の涙は止まらなくて。最後のページ……ドレスに身をつつみ、幸せそうに笑う少女の絵を見たら、もう、だめだった。


「……ありがとう、ございます」

「……ジゼル」

「ありがとう……っ、ございます……!」

「ジゼル、お前は、」


 アーニャのことを、愛していたんだな。


 そんなルドルフ様の言葉に、何かが堰を切ったように溢れ出して。私は、書斎に響き渡るほどの声を上げて泣いた。

 アーニャが死んだあの日から、八年間。一度だって、泣いたことなんてなかったのに。


 アーニャ。私のアーニャ。美しくて、聡明で、誰よりも愛に溢れていた少女。

 大好きだった。愛していた。ずっと一緒に居たかったのに。


 死んでしまった。私のアーニャ。


 初めて少女の死を認めた心は痛くて、苦しくて。嗚咽を上げる私の背中を、ルドルフ様は何も言わずに撫でてくれる。

 少しだけぎこちない、あたたかな大きな手で。


「……本を一冊、売ってくださいませんか」


 私がまともに話せるようになった頃には、窓の外はすっかり闇に包まれていた。

 嗄れた声で話す私に、主人は「好きなだけ持って行って構わない」と穏やかな声で言う。


「いいえ……買わせてください」

「だが、」

「里帰りをしたときに……アーニャのお墓に、持って行きます。友人への贈り物ですから……働き始めた報告も、兼ねて」

「……そうだな」


 見上げた榛色の瞳がわずかに緩む。柔らかく微笑むようになった主人に、私は絵本の最後のページをめくって見せた。


「よく、アーニャと結婚式ごっこをしました。こんな素敵なドレスはなかったから、交代でシーツをかぶって」

「……美しかったろうな」

「ええ。アーニャは美人でしたから」


 そう笑った私に、ルドルフ様は少しだけ困ったように小さく笑う。


 鉄の仮面は、もう見当たらなかった。





 

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