雪解けの季節
「孤児院に居たわりには学がある」
そう、絵本を読み上げる私の言葉をルドルフ様が遮ったのは、この読み聞かせも両手で数えられなくなった頃のことだった。
言葉の真意がわからず首を傾げる私に、主人はベッドの上で姿勢を正し、「生まれを馬鹿にするわけではないが」と話し出す。
「情けない話だが、その絵本もとてもじゃないが子供向けではないだろう?」
「そうですね」
「その……孤児院から迎えたメイドは、数字すら書けない者が多いからな。お前は、随分と読み書きが達者だ」
「…………」
「……ジゼル?」
「……アーニャという子が居たんです」
ぽとりと零れ落ちた言葉。
自然に流れ落ちてしまったそれに驚く私をよそに、主人は黙って私の言葉に耳を傾けている。
「とても……学の、ある子で……読み書きは、ほとんどその子から学びました」
「頭のいい子だったんだな」
「いいえ!」
がたん、と私が座っていた椅子が倒れる。立ち上がった拍子に、膝に乗せていた本がバサリと床に落ちた。
しかし、それを気にしている余裕など、私にはなかった。
「アーニャは馬鹿な子でした! 愚かで、どうしようもなくて……っだから、あんな、」
「……あんな?」
ルドルフ様の榛色の瞳が揺れている。
……いや、違う。彼の瞳に映った、私の瞳が揺れているのか。
無意識に震えだしていた腕。時間を無視した私の子供のような腕を、ルドルフ様の手があやすようにさする。
「アーニャは、馬鹿です……大馬鹿です」
「友達だった?」
「……わかりません。でも、いつも一緒でした……孤児院での冬は、とても……とても、寒かったから……」
孤児院での冬は寒くて、与えられていた薄いシーツではとても眠れなかった。
だから、私たちはいつも同じベッドで身を寄せ合って眠っていたんだ。
「アーニャは、衰退した地主の末の子でした……知識も、礼儀作法も、心得てた。だから、あんな……あんな所に居なくても、きっと、自分で稼いで、生きていけたのに」
ジゼルを残して行けないわ。大丈夫、いつかきっと、王子様が迎えに来てくれるから。
そんな夢を抱いているふりをして。私のせいで彼女は孤児院から出られなかったのに。それをわかっていたのに、私は。
「私は、アーニャを離してあげられなかった……あの子が、私と違って体が弱いのも、わかっていたのに……最後まで、私は……っ」
「……その子がお前の時間を止めたのか」
「私だけが生き延びるなんて間違ってる!」
アーニャを殺した私が生き延びるなんて、そんなのおかしい。だけど、彼女の命を奪ってまで生きる私が死ぬなんて。それこそ、絶対に許されない。
「私は、生きなければいけません」
「…………」
「だから……夢を見ることを、やめました」
いつか王子様が。そんなアーニャの言葉が、夢が、今も眠れば私を追いかけてくる。
黒くて、どろどろした、アーニャの夢物語。
「でも、こんな体になったからこそ、この屋敷での仕事にありつけた……ルドルフ様には、とても……感謝しています」
取り乱して申し訳ありません。そう俯いたまま口にして、倒れた椅子を起こす私に掛けられた声。
「時間を止めているのはお前だけじゃない」
低く、抑揚のないそれに私は顔を上げた。
「昔話ついでに、話を聞いてくれないか」
「……はい」
「昔、名門貴族と言われた家の娘が下男との間に子を儲けた。でもそんな子供、家にとっては邪魔者でしかない。ありがちな話だ、子供は山奥の屋敷に軟禁された」
「…………」
「初めこそ母親は子供に会いに来たが、下男が
そう言って男は、く、と喉の奥で笑う。鉄のような表情や榛色の瞳は揺るがない。それほど、この男はここで耐えてきたのだろう。
「それ以来、どうにも女が駄目でね。母親の背中を見送った日から、もう、誰かの背中を追うこともできない……私も、二十年近くここに留まってるんだよ、ジゼル」
「……励ましてくださってるおつもりで?」
「どうだろうな」
自分でもよくわからない。
そう言って、ルドルフ様は床に落ちたままだった絵本を拾う。そうして、その上質な紙をぱらぱらとめくり、溜め息をつくように小さく笑った。
「絵本を読んでもらうのも初めてだった」
「……光栄です」
「体験してみると、学ぶことが多い。驚くことばかりだ。助かってるよ」
今、新作を書いてるんだ。そう言って、榛色の瞳がゆっくりと私を見つめる。
「書き上がったら、一番にジゼルに見せたい」
「……読み聞かせ係の特権ですね」
そう笑った私に、主人はどこか驚いたように「春めいてきたな」と呟いた。
雪溶けの季節が、近付いている。
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