少女と死神




 エマが屋敷を出てどれくらいの日が経っただろう。屋敷のなかは何ひとつ変わらない。幼い足音も、窓の外の景色も。


 そして、うるさい子供達も。


「ジゼルー、ジゼルー」

「ジゼルー、ご本読んでー」

「ご主人さまから頂いたの、読んでー」


 そう言ってわらわらと集まってくる幼いメイド達。

 身体のサイズはほとんど同じでも、メイド達は明らかに私を大人として扱っていた。


「本くらい自分で読みなさいよ」

「読めないの!」

「絵本でしょう?」

「絵本だけど……読めないの」


 そう言って肩を落とす少女が持っている本の装丁は、明らかに子供向けだ。

 この屋敷のメイド達は、ルドルフ様からある程度の読み書きを習っているはず。読めないなんてことは……とその本を開いた私は、思わず顔をしかめた。


『少女が闇を見つめるとき、闇もまた、少女の光を見つめている』

『少女が陽の下を歩む限り、闇はいつだって彼女の背中に寄り添う』

『彼女の光が増せば増すほどに、闇もまた、その深さを増してゆくのだ』


 ぞくりと、背筋が震える。

 美しい水彩画が、物語から匂いたつような闇と乖離して、物悲しさと恐ろしさを滲み出させているようだった。


 笑顔で陽の下を歩む少女に迫り来る影が、まるで死神のようで。脳裏に過った灰色の頬を、頭を振って追い出した。


「ジゼル…? 大丈夫?」

「……ええ。大丈夫」


 それにしてもなんだ、この、子供向けらしからぬ文法のややこしさと、物語の難解さは。


「……これは、ルドルフ様が悪いわね」

「どうして?」

「絵本ってもんを理解してない」


 一度くらいメイド達と一日遊んでみればいいのだ。そうすれば、子供の思考回路や知能レベルが分かるだろうに。


 また主人に会うことがあれば文句を言ってやろう、そう決心したのが午前中のこと。その機会は早くもその日の夜にやって来た。

 遅くまで書斎に籠っていたルドルフ様が夜中に紅茶を所望したのだ。


 私は意気揚々と件の絵本を小脇に、寝室のドアをノックした。


「失礼いたします、ジゼルです。紅茶をお持ち致しました」

「ああ、入ってくれ」


 あまり足を踏み入れたことのなかった主人の寝室。本以外めぼしいもののない簡素なその部屋のカウチに、主人は腰掛けていた。


「……少しよろしいですか」

「なんだ?」


 滅多にメイドから声を掛けることなどないのだろう。私も、私用で主人に話しかけるメイドなんて聞いたことがない。

 しかし、ここで言っておかなければ、私はまたあの姦しいメイド達から「ジゼル、ジゼル」攻撃をくらうのである。


「この本のことで」


 そう言って取り出した絵本。

 それをゆっくりと見下ろし、そうして顔を上げたご主人様は「その本がどうした」と相変わらず抑揚のない声と目で私を見つめた。


「僭越ながら、申し上げさせて頂きたく」

「……なんだ」

「ルドルフ様は子供のことを何ひとつ分かっていらっしゃらない」


 そう、クビも覚悟で言ったというのに。当の本人は珍しくその榛色をきょろりとさせて、瞬きを繰り返している。


「続けても?」

「……あ、ああ、頼む」

「いいですか、まず、ひとつひとつの文章が長すぎます。単語も難しい。簡単な単語を使ってこその絵本です。それから、主人公の子供。子供のわりに考えが哲学的過ぎるんですよ。これくらいの年の子供が考えてることなんて、せいぜいその日のおやつのことくらいで、」

「待ってくれ、メモを取る」


 勢いよく話し出した私をじっと見上げていたルドルフ様が、慌てたようにサイドテーブルのペンへと手を伸ばす。

 その手を遮り、私は主人を柔らかなベッドへと押し付けた。


「そういうやり方をしてらっしゃるうちは、理論から抜け出せやしませんよ」

「……じゃあ、どうしろと」


 そう、不満げに眉をしかめた仏頂面。

 無表情よりよっぽどいいじゃない、なんて心の中で思いながら、私はベッドに腰掛けた。


「読んで聞かせて差し上げます」

「なんだと?」

「子供の気分になって聞いてみてください。寝る前にこんな小難しい話を読まれては夢見が悪くなること、分かりますから」


 いいですか、あなたは今から五歳の少年ですよ。そう前置きし、私は本を開く。

 美しい水彩画と、繊細な文章。置物のようにシーツに埋もれている男が書いたとは到底思えない夢物語はそれでもやはりどこか理屈っぽく、読み上げるたびに喉の奥が気持ち悪くなる。


「……読み聞かせるのが上手いな」

「孤児院では最年長でしたから」


 半分ほど読み終えたところで、ルドルフ様が口を開く。

 続きを読もうと口を開いた私を制し、男は「確かにつまらないな」と口の端をわずかに持ち上げた。


「どうして絵本にこだわるのですか」


 あなたなら、いい本を書くでしょう。わざわざ子供向けの絵本にこだわる必要なんてないはずだ、と、そう尋ねた私に主人は少しだけ考える素振りを見せ、口を開く。


「子供は夢を見て成長するものだからな」

「夢なんて……見たところで、なんの意味もありませんよ」


 夢など見て、なんになると言うのだ。小さな棺に押し込まれていた少女の灰色の頬が再び脳裏をよぎって、吐き気がした。


「……すいません、出過ぎた真似を」

「ジゼル」


 絵本を抱え、ベッドから下りようとした私の腕を掴む大きな手。鉄の男の手のひらはあたたかく、私の記憶の中の氷を解かす。


「頼みがある」

「……なんでしょう」

「たまにでいい。本を読んでくれ」

「…………は?」


 思わずマヌケな声が出た。何を言っているのだ、この男は。自分に噛みついた召使いをクビにするどころか、頼みごとをするなんて。


 上手く言葉をつむぐことができない私に、ルドルフ様はもう一度「頼む」と呟く。


「お前の声は心地いい」

「……言うことは無礼ですが」

「子供はそれくらいが丁度良いさ」


 そう言って微笑んだ主人の笑顔はどこまでもぎこちなく、いびつで、気持ち悪くて。そんな笑顔に思わず吹き出してしまう。


 その日から、晴れて私は、ルドルフ様専属の絵本読み聞かせ係に任命されたのだ。




 


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