5話目 残音
音寺にとって、友人と呼べる人物は少ない。いや、友人であると思っているだけで、向こうはそう思っていない可能性がある。昔から変な言動に加え、根暗で、何かに脅えていた少女だった。小学生の頃の友人も、気づけば煙たがるように離れていく。仲の良かった女の子も、男の子も、変人に近づこうとはしない。
時折、多少の言動には目を瞑って、容姿目当てに近づく男もいたにはいた。まったく興味がなかった……わけではない。かわいいと言われ、素直に嬉しかったのを覚えている。ただ問題は、いつか離れていくだろうという確信めいたものがあったという点。
私は変人であり、異物であり、異端である。例え私が世界を救っても、人を救っても、その場限りの感謝とともに離れていくはずだ。気味が悪いと、そう言うんだろう。
気味が悪い。君が悪い。異端だ。傷んだ。幻覚だ。妄想だ。
『百人いたら、百人が妄想だと言うかもしれない』
記憶の中の姉は、そう言っていた。夕方の歩道橋の上から、どこか遠くを見つめながら。もうすぐ消えていく光を惜しむように、僅かに手を伸ばしていた。
『けれど』
姉はそう続ける。
『千人いたら、一人はこの手を掴んでくれるのかもしれない』
街を歩けば一人くらいはいるだろう、と。いや、姉が言いたいのはそうではなかった。
彼女は音寺に向き直ると、両手で優しく音寺の手を包み込んだ。そして微笑むように笑う。
『私はそのひとりだよ……なんてね』
はにかむように笑う。通り過ぎる人々はその光景を見て、なんと思っただろうか。いや、それはどうでもいいことだ。
通り過ぎるサラリーマン、子供、主婦。歩道橋の端の方で直角に首を曲げていた男が、羨ましげに光のない目を向けてくる。ニヤリと笑った気がした。
『今日はちょっと別の道から帰ろっか。そうだなー、駅前にあるクレープ屋さん、寄ってみる?』
いつもの帰り道とは反対側。男から遠ざかる方向に、姉は手を引くように歩き始める。姉はいつだって……そうやって人を救い続けていた。
誰も知らない物語。私だけが知る物語。知ろうともしない物語。
その三日後くらいに、歩道橋の真下で交通事故が起きた。歩道橋から飛び降りた家出少女が、トラックに運悪くはねられたらしい。首があらぬ方向に、曲がっていたとか。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
懐かしい夢とともに、音寺は目を覚ました。久しく見た姉の姿を思い描きながら、いつものようにひとりで朝食を食べて、支度をしていく。夢でとはいえ姉に会うことができて、朝から少しだけ上機嫌だった。学校に着くまでこの気持ちが消えないように、と思いつつ、玄関の扉を開けて外へ出る。
履きなれないローファーで駅に向かって歩いていく。一定のリズムを刻むように、コトン、コトン、と音が鳴る。
歩きながら、音寺は昨日の出来事を思い出していた。風見と一緒にいた、死人のような男。覇気はない、やる気もない、生気もないでスリーアウト。チェンジ。そんな男だった。目元の隈はかなりのもので、けれども口調は強め。そこは普通の男の子らしかった。
そんな彼が、生きる活力に満ちた瞬間。自分の見えている幽霊は本物で、それを信じるのだと言いきった。姉と似ているようで、少し違う。でも真っ直ぐな心は、同じだ。あの時の目を見ればわかる。本当に心の底から信じているのだと。
(あおき、きょうへい……本当に、生きている人間の幽霊が見えているの?)
全く信じ難い。昨日も抱いた同じ感想に、音寺はため息をつく。生きている幽霊。なんて矛盾な存在だろう。それでも、彼は信じていると言い切った。その力強い言葉が偽りでないのなら、彼の目には何が見えているのか。それは本当に、彼の言う昔の幼馴染なのか。
疑問は尽きない。首を突っ込む気はさらさら無かったけれど……夢で見た、姉の言葉が頭をよぎる。
『千人いたら、一人はこの手を掴んでくれるのかもしれない』
それが私だ、と言っていた。誰からも信じて貰えない辛さを、私も姉も知っている。だから当時の私は、その言葉に救われた。
別に、自分がそうでありたいと思うわけではない。たったひとりの人間の力なんてものは高が知れている。けれども、そのたったひとりという人間が、どれほど心の救いになるのかもわかっている。アレが幻覚や妄想に悩まされる類の人なのか、それとも本当に、彼だけに見えている幽霊なのか。
悩み続けながら歩いていると、コトン、コトン、という音と共に昨日の公園までやってきた。そういえば……と音寺は足を止めて思い出す。あの男は通学路が同じだったこと。自分より少し後に、同じ道を歩いてきたこと。
(……風見さんに頼まれたから、っていうわけじゃない。ただ、あそこまで思い悩む人を見ていると……放っておいていいのか、悩む)
気にしなければいいものを、これは一種の気まぐれだと自分を納得させて、しばらく公園で待ち続ける。携帯を開きながら、数分ほど待っただろうか。ようやく、その男が見えるところにまでやってきた。
相変わらず覇気のなさそうな顔をしている。面倒くさく感じ始めてもいたが……音寺は、ゆっくりと彼の元へと歩みを進めた。向こう側も気づいたらしく、目の前までやってくると足を止める。コトン、という音も止まった。
「どうも、あおきさん」
「あぁ……っと、アレだ。寺生まれの孫娘だっけ」
「音寺です。もう忘れたんですか」
「会うこともないだろうって思ってたしな」
どこか申し訳なさそうに、彼はそっぽを向く。本当にそう思っていたんだろう。思考の隅で悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてきて、音寺は小さく息を吐いた。
「それで、あなたのいう幽霊さんは近くにいるんですか?」
「いや、今は自分のことを監視しに行ってる。てか、昨日幽霊なんていねぇって否定したじゃねぇか」
「えぇ、そうですね。幽霊はいないと思いますよ」
「……俺を馬鹿にしてるのか?」
「そういうわけじゃないです。ただ、ちょっといろいろと気になったことがあったので。とりあえず、学校に行きながらでも話しましょうか」
「……これは浮気じゃない、よな」
「そう悩んだ時点で、浮気だと思っているものだと思いますよ」
そう言って音寺は彼が歩いてきた方向に向かって進もうとする。駅とは反対方向だ。学校に向かいながらと言ったのに、なぜ反対の方向に向かおうとするのか、蒼桔はその後ろ姿を追いかけながら問いかける。
その問いに対して彼女は、何も思っていないように、努めて無表情を保つようにしながら、言葉を返した。
「電車はもう一本ありますから。少し、遠回りしませんか? その方が、いろいろと話せていいかもしれませんよ」
「なら別に、駅で話せばいいじゃねぇか」
「今日の私は、後ろを振り向かないって気分なので。向いた方向にだけ歩きたいんです」
「意味わからねぇ……」
ぶつくさと文句を言いながら、蒼桔は彼女の隣を歩く。コトン、という音と共に来た道を少し戻って、途中で曲がって、更に曲がる。駅へと進路を変えながら、ゆっくりと遠回りに歩き続けた。
道すがら話す内容は、そんなに込み入ったものではなく……普通の世間話のようなものばかりだった。
「そういえば、名前はどう漢字で書くんですか」
名前を聞いただけで、漢字は知らない。聞かれた蒼桔は携帯で自分の名前を打って、彼女に見せた。蒼桔 梗平、という読み方が少し面白い漢字だ。梗というのは、『きょう』ではなく『こう』と読む場合がほとんどで、検索しても『こう』で登録されている。
「こうではなく、きょうって読むんですね」
「あぁ、らしいな。母親は花の名前をつけたらしいけど」
「花、ですか」
「
「ふーん……」
興味なさげに鼻を鳴らす。「聞いといて興味ねぇのかよ」と、蒼桔は文句を言ってくるが、音寺は知らん顔で携帯をいじる。桔梗、花言葉、で検索してみた。その結果で出てきたものが、どうにも面白おかしいもので、音寺は小さく笑いを零す。
「何笑ってんだよ」
「いえ、花言葉を見たら面白かったので」
「桔梗のか?」
「永遠の愛、みたいですよ。重たいですね」
ついでに、今のあなたにぴったりですねと付け加える。彼は「うるせぇ」と言って歩みを速めていった。女の子が隣にいるのに、彼は歩幅を合わせることもしないらしい。
「だったら、お前の名前はどうなんだよ」
「楓ですか。調和とか、楽しい思い出、とか、節制や自制ですね」
「全然合ってねぇな。調和とか節制自制って感じじゃねぇ」
「……かも、しれませんね」
この名前が似合うのは、きっと姉の方だっただろう。一瞬苦々しく顔を歪めて、元に戻す。運良く彼には悟られることはなかった。
そのまま二人で小さな口論を繰り返しながら、コトンという硬い音と共に駅へと辿り着く。改札を抜けて、下りのホームへ。階段をおりてすぐの場所で立っていると、黄色い線の内側に、という聞きなれた音が耳を通り抜けていった。
ホームは生徒や会社に向かう人が多い。それでも、更に上の駅に上っていけば、これとは比べ物にならないほど多いんだろう。学校の駅より下は、ここよりも更に田舎だ。下の方から来る生徒の、電車の時間が不都合だという話は何度も聞いたことがある。
「……なんか、改札辺りが騒がしいな」
彼が言うように、先程から改札辺りが騒がしくなってきていた。おおかた、電車に乗り遅れそうになった学生が急いでいるのだろう。あと少しで電車は来るけれど、そんなに急ぐこともないだろうに。
「ここはいろんな学校の生徒が使いますからね。ほら、総合とか」
「まぁ確かになぁ。朝っぱらだってのに、やかましい連中だ」
ポケットに突っ込んでいた手を出して、頭を搔く。音寺もその言葉に同意し、深くため息をついた。
そうこうしていると、その騒いでいた生徒であろう男子が数人急いで駅のホームに降りてくる。コトン、コトン、という硬い音が強くなり始めた。どこかで聞いたことがあるような音だけれども、なんだろうか。
「あっぶねー、ちょーギリギリじゃん」
「お前が寝坊すんのが悪いんだろうがよ」
「バッ、階段で押すんじゃねぇよ危ねぇだろ!」
どこの高校の制服かはわからない。彼らは軽い口喧嘩をしながら降りてきている。体を軽く押し、軽く叩き。そんなふうに小競り合えるような友人関係が、羨ましいと少しだけ思う。そんな普通の世界が、本当に羨ましい。
「だから危ねぇっての!」
押されていた生徒の体が揺らめく。ちょうど階段を降りきった瞬間で、踏みとどまることができなかったんだろう。彼の体が、音寺にぶつかってしまう。背中側から、リュックごと押される形で。
コトン、コトン、と音が聞こえる。遠くから。背後から。
それは高校に入学して、よく聞くようになった音。電車が走る時に出る、レールとの接触音。レールの隙間を通る時に、コトンという音が鳴る。それだった。
不意なことで体は前につんのめる。そのまま線路にまで落ちてしまうのではないか。あと少しで電車が到着する。轢かれて、死んでしまう。
「ッ……」
体がぐんと後ろに引かれる。リュックを掴んで無理やり引いてくれたのは、蒼桔だった。そのまま力なく蒼桔の体にもたれ掛かるように、後ろ向きに倒れていく。彼はその体をしっかりと支えてくれていた。
「あっぶねぇな! テメェら駅で暴れてんじゃねぇぞ!」
尻もちをついていた男子生徒に向かって、彼は怒鳴る。駅にいた人たちが見守る中、騒いでいた彼らは揃って頭を下げてその場から離れていく。少なくとも、もう騒ぐ様子はなかった。
「平気か?」
「……すいません、助かりました」
「あぁ。ったく、アイツら次騒いでたら通報してやろうか」
彼は音寺の代わりに怒るように、文句を垂れ流していく。彼が引っ張ってくれなかったら、ホームの下に落ちていたかもしれない。
音を立てるばかりで無害だと思っていた自分が恨めしい。どこからか舌打ちが聞こえた気がして、もう背後からは音が聞こえなくなる。聞こえてくる音は全部、ようやく駅に着いた電車の音で聞こえなくなってしまった。
「……先輩、舌打ちが聞こえませんでしたか」
「あ? まさかアイツら舌打ちしやがったのか?」
「……いいえ、たぶん気のせいです」
彼は何も見えていない。聞こえていない。でも、昔の幼馴染の姿だけは見えるらしい。それが真実だとするのなら……羨ましくて、仕方がなかった。
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