4話目 寺生まれのTさんの孫娘
明るい女の子を見ていると、羨ましく思えて仕方がなかった。自分もそういった生き方ができたのならと、何度も考えたけど……そんな事をしたらきっと、すぐにでも死んでしまう気がする。
明るいというのが基本ならば、明るくないというのは異変だろう。目に見えてわかる変化だ。それがバレてしまえば、ずっと付き纏われてしまうだろう。最悪殺されてしまう。そういうものだ。
その明るさで、人を救い続けた姉さんは……結局、自分のことだけは救えなかった。当時の私には何もできなかったし、その場に居合わせもしなかったけれど……。
……人間というのは、自分だけは救えはしないのだと思い知らされた。唯一救えたであろう姉さんは、もういない。時折『地味な服ばかりだね』と笑う声が聞こえる気がして、うるさいよと独り言を呟く。そんな日々だった。
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薄桃色の布団。その中で眠っていた彼女は、枕元に置かれた携帯のアラームで目を覚ました。布団から出るのに辛くない暖かさだ。薄寒いのは苦手だから、これくらいの季節がちょうどよく感じられる。
体をぐっと伸ばしてから眼鏡をかけて、ベッドから離れていく。部屋を出ると、誰もいないリビングにポツンと置かれた朝食と弁当箱が目に入ってきた。仕事に行く前、父が作ってくれたものだ。目玉焼きと、昨日の残りの塩漬けレタス。あとベーコン。味噌汁はインスタント。手軽な朝ごはんだった。
それらを食べ終わると、彼女は学校に行く支度を始める。黒色のパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替え、荷物を纏めて玄関へ。まだ履き慣れないローファーに違和感を覚えつつ、玄関の戸を開けた。
「行ってきます」
誰もいない家に向かって、そう告げる。しっかりと鍵をかけて、いざ学校へ向かおうとしたところで、軽く吹いた風に乗って誰かの声が届いた気がした。『行ってらっしゃい』と。
優しげな声は、多分母のものだろうか。そうだといいなと思いながら、朝特有の気怠さを吹き飛ばすように、深く息を吸って吐き出した。
駅へ向かうには、線路沿いを歩いていけばいい。わかりやすいし、方向音痴な自分でも迷うことがない。それに、入り組んだ住宅街を行くよりは、数が少ないのが有難かった。それでも、まったくいないかと言われればそうでもないけど。
学校へ向かう生徒。会社に行くサラリーマン。ビシッとしたスーツ姿の女性。朝の散歩をしているおばあちゃん。電柱に寄りかかっている男性。線路の中で腰を低くしている人もいる。作業中……だろうか。あまり見ない方がいい。彼女はそのどれにも目もくれず、まっすぐに駅へと歩いていく。
「お母さん、どこにいるのー?」
歩いている最中、不意にそんな声が聞こえてきた。こんな朝早くに迷子だろうか。そんなことはないだろうと思いつつ、彼女はその声の元へ向かっていった。
声を出していたのはまだ小さな男の子で、小学生くらいだろう。駅近くの公園で、母親を探しているようだった。見回しても、近くにそれらしい人影はない。
(……仕方ない。遅刻しないといいけど)
見つけてしまって、放っておくわけにもいかない。軽くため息をついたあと、彼女はゆっくりと少年に近づいていった。彼の方も気づいたようで、目を丸くして見てくる。
「君、こんなところでどうしたの。迷子?」
「あのね、お母さんがね、気づいたらいなくなってて……。探してるんだけど、見つからないの」
「いつ頃の話か、わかる?」
「わかんない。でも、お母さんと一緒にいたんだよ。昨日……一昨日……? よく、わかんないや」
「そう……困ったね」
彼の話はあやふやで、理解しようにも難しかった。彼自身よくわかっていないのかもしれない。まだ幼い子供のようだし、なのに母親はどうしてこんな所に置き去りにしたのか……。
時間はまだあるし、電車も次のに乗れば学校には間に合う。まだ近くにいるかもしれないし、手伝うだけ手伝ってあげた方が良さそうだ。
彼女は膝を軽く曲げて、少年と視線の高さを合わせた。まだあどけない顔つきの子供で、見ていると微笑ましさを感じる。そんな彼を安心させるように、薄らと微笑みながら約束した。
「大丈夫……私が探すから」
「本当に? お母さんのこと、探してくれるの?」
「時間はかかるかもしれないけど……頑張ってみる」
どれくらいの時間がかかるのかはわからないが、こんなところで一人にしておくわけにはいかない。被害が出てしまえば大変なことになる。部活をやっている訳でもないし、時間の空いた時に探せばいい。
とりあえず、また近くに戻ってきていないか。そう思って周りを見回してみる。いるのは、泥酔しているかのように壁によりかかっている男性、車椅子の女の子、電柱の下で俯く女性。それと……不躾な視線を送ってきている男学生。変なものを見るようだったけど、見た途端にそそくさとその場から離れていってしまった。
そんな対応をされるのは、もう慣れている。異質なのは自分なのか。それとも、いるのにいないものとして扱う彼らなのか。
……世間一般的な普通から外れた私こそが、きっと悪者なんだろう。間違いなんだろう。けれども……これが私の世界で、間違いこそが正しいもので。唯一似通ったものがあるとすれば、臭いものには蓋をして、醜いものをなるべく見ないようにするといった部分だけだろう。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
学校生活はまだ始まって間もないというのに、彼女の周りには人はいなかった。中学の同級生にあだ名を言いふらされ、一時期は物珍しさに近寄ってくる人もいたが……人の興味というのは存外長くは持たないらしい。むしろ今は腫れ物のような扱いに近いのだろう。
いつもは何もなく一人で家に帰るのだが、珍しいことに携帯にはメッセージが届いていた。それこそ初めの頃はひっきりなしだったが、今となっては落ち着いているのに。
送り主は、まだ名前が独り歩きしていた頃に知り合った先輩からだった。文化祭で出会って、他の人同様に寺生まれのTさんの孫娘というのは本当なのかと聞かれ……一気に興味を失ってしまったのを覚えている。眼鏡をかけていて、所謂オカルトマニアみたいな人なんだろう。また話を聞きたくなったのか。なんてはた迷惑な話だろう。
けれど、ここで断ってしまっては後々嫌な噂が広まったり、上級生に目をつけられるかもしれない。それは嫌だ。仕方なく、放課後に会ってもいいと返事をしたけど……まったく気乗りはしない。
一年の廊下まで来ると言っていたけれど、そもそも顔を覚えているだろうか。先輩の顔は確か……眼鏡をかけてて……頭良さそうな……眼鏡……眼鏡。ダメだ、眼鏡しか出てこない。頭の良さそうな眼鏡ってなんだ。語彙力無さすぎか。
朧気な姿形を思い出しながら、彼女はしばらく階段の近くで呼び出した本人を待ち続けた。放課後になってから、十分程は経っただろうか。下の階から二人組の男子生徒が上がってきた。佇む彼女に気づいたようで、そのまま近づいてくる。片方は、見てすぐに思い出すことができた。頭が良さそうに見える眼鏡の男だ。名前は、風見 綾だったはず。
それと一緒にいるもう片方は……どこかガラの悪そうに見える男。いや、ガラが悪く見えるというだけで、実際は目元の隈とか、気怠げな表情とか、およそ生気の宿っていなさそうな目とか……死人の類かと思ってしまう。いや事実死人かもしれない。呼び出したのは風見であり、その隣の男はまったく聞かされていなかったのだから。
「えっと、
「……そうです。それで、私になにか用ですか?」
「ちょっと連れの……コイツのことで話があったんですけどね」
風見が隣にいる男を指さした。驚いたことに、この男は生きた人間らしい。いないものとして扱おうとしていたけど……早計だった。
「蒼桔 梗平です」
「……どうも。音寺
蒼桔のやる気のなさそうな挨拶に、彼女──音寺も小さく頭を下げるようにして返した。風見が会おうとした目的がこの男の為だと言うのならば、随分と本人にやる気がない。かなり面倒くさがっている様子でもあるし、色恋沙汰ではないだろう。そんな状態になっても困るには困るのだが。
「どうも梗平の奴は昨日辺りから頭が変になったみたいで……幽霊が見える、だなんて言うんですよ」
「バッ、お前いきなり何言ってんだ。そんな話真に受けるやつがいると思ってんのか!?」
「うるさい、一旦静かにしてろって」
風見の言葉に、蒼桔は慌てていた。当然だろう。いきなり話したいことがあると呼び出しておいて、やれ幽霊だなんだと言われたら……正気を疑うだろう。もちろん、音寺もそんなものは信じていない。彼の発言も、幽霊だとかいうものも。
「……また、その手の話ですか。言っておきますけど、私には幽霊は見えませんよ。そもそも、幽霊なんているはずがないでしょう」
「ほら見ろ、呆れてるじゃねぇか」
「呆れもしますよ。何度も何度も……幽霊がいたら、地上は埋め尽くされているでしょうし、第一あなたが幽霊になったらどこに行くと言うんですか。更衣室か浴場でしょう」
「……ほ、ほらな。そもそも、これはもう俺の問題なんだよ。誰に何ができるって訳でもない」
いいからもう行くぞ、と蒼桔はその場から去ろうとする。その後ろ姿を、音寺は見たことがあった。思い出したのは、朝の出来事。公園で子供相手に話しかけている途中、逃げるように去っていった男だ。変な目で見ていたことも、当然覚えている。
「……あなた、朝私のことを見ていましたよね」
「あ? あぁ……いや、まぁ……」
「何を、見ていたんですか?」
「そりゃ、公園にいた……音寺さんを」
その言葉を聞いて、彼女は小さくため息をついた。まったく与太話だ。彼は幽霊が見えるだなんて言っていたが、そんなことはない。そうやってからかってくる人を、もう何度見てきたことか。
「……冷やかしですか、風見さん」
「いや違うんですよ。コイツ、幼馴染の幽霊が見えるって言ってたんですよ。それも、本人は生きていて……出てきた幽霊ってのは、二年前に交通事故で無くした記憶の部分を持っている、だとか」
「交通事故で無くした記憶を持った、幽霊?」
疑問に少し首を傾げる。風見が蒼桔に向かって、説明してやれよと言う。渋々ではあったものの、彼は当時の事件と、そして見えているという幽霊の幼馴染について話してくれた。
その話を聞いても、まったく馬鹿馬鹿しい話だとしか言いようがない。なにせ……。
「生きているのに、幽霊がいるというのは変な話ではないですか」
ごく自然な答え。これに尽きる。死んだ訳でもない、まだ生きている人間の幽霊なんてものはいない。生霊という言葉もあるが、それとこれとは全く別物だろう。
「風見さんの言う通り、それがあなたの目に見えているのは……きっと妄想ですよ。精神的な疲労が溜まりに溜まって、幻覚が見えているんじゃないですか」
妄想だ。何もかも全部。目に見えているのに、他の誰にも知覚できないのだから。それは紛れもなく妄想でしかない。何度も言われてきたその言葉を、そっくりそのまま彼女は蒼桔に伝える。
しかし彼は、その言葉を受けてもまったく動じている様子はなかった。むしろ先程よりも生き生きしているように見える。気怠げな目は細くなり、まるで睨みつけるように音寺を見てきた。
「妄想なんかじゃねぇよ。これは……俺だけにできることだ。絶対にな」
百人いたら、百人が妄想だと言う。そんなことは知ったことではないと、彼は言葉を振り切った。そして、これ以上話すことはないとでも言わんばかりに、その場から去っていく。
階段を下りていき、その姿が見えなくなった頃……風見は大きなため息と共に頭を軽く掻いた。まったく、しょうがない奴だ……と呟く。そして彼女の方を見て、頭を下げて謝ってきた。
「ごめん、音寺さん。少しは他のことに気が向けばいいと思ってたんだけど……」
「他のことにって……どうしてそれが、私なんですか」
「いや、俺も幽霊なんてものを信じているわけじゃないし。音寺さんと初めて会った時に……なんだかホワホワとした不思議ちゃんだなって思って、今の梗平にピッタリかなって思ったってだけですよ」
「まさか……私に色恋を期待していたと」
「まぁ……そうですね。二年生だとどうしても梗平じゃ相性が悪いし、かといって三年じゃ受験も相まって手を出しにくい。なら、一年生で知ってる子はいたかなって感じで……思いついたのが、音寺さんでした」
「……最低ですね」
音寺の歯に衣着せぬ物言いに、しかし風見はどこ吹く風といった様子で聞き流していた。かけていた眼鏡を外して目頭を抑え、困ったように呟く。
「別に俺のことはどうだっていいんだ。アイツが、あの頃にまでとはいかなくても、戻ってくれないと困るんだよ。だからまぁ……少しばかり、気にかけてもらえませんか?」
「……嫌です」
「ですよね……いや、時間かけてすいませんでした。あの馬鹿を追いかけるので……これで」
そう言って、風見は階段を駆け下りていく。人の少なくなってきた一年生の廊下に、彼女はまた佇み始めた。
とんだ騒ぎな上に、無礼な眼鏡だ。頭の良さそうな眼鏡ではなく、頭が悪いのを誤魔化した眼鏡に変えた方がいい。絶対に。
(……あの人は)
先程、啖呵を切って去っていった男のことを思い出す。妄想だなんだと言われても、自分の目に見えるものを信じるのだと言い切った。その時の目の力の入りようは、死人が生き返ったかのように力強く思えるものだ。
その姿は……誰に何を言われようとも、在り方を変えようとはしなかった姉に、少しだけ似ている気がした。
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