三
真空パックみたいな闇の中に映像が見えた。
最初は湯気に隠されるみたいでよく見えなかったけれど、そのうちに見えてくる。
そこは居間のようだった。
知らない家具と知らない絨毯。ソファーに座っているのは知らない男の人だ。
その家の母親らしい女の人がお洒落をして出かけるのを、どうやら父親らしいその男の人と見送った。
それから父親は言う。
「なぁ、ユラ。お父さんは大変なんだよ。働いているんだからね。会社っていうのは病気の製造工場みたいなものだからね。それなのにお父さんはよくやっているだろう?」
耳は父親の声だけを聞き、視界は父親だけを映している。
「もちろん逃げ道は用意されているよ。けど考えてもみなさい。逃げ道の前にはね、必ず負け犬とか弱い奴って書かれた看板が立っているんだよ。そんな道に行けるわけがないだろう? だからね、お父さんは逃げられないんだよ」
視界いっぱいに父親の顔が迫り、話は続く。
「お父さんは自分の誇りを守りたいんだ。その上で逃げたいと思ってる。お父さんはもう十分やったと思うだろう? 誰かに頼ったっていいと思うだろう?」
それから、耳に届くのはありとあらゆる言葉の『助けてくれ』だった。
そこでブツッと視界が真っ暗になる。
すぐ近くに荒い息遣いが聞こえている。
その呼吸音が悲鳴のように思えるのは何故だろうか。
次に暗闇の中に浮かんだ映像は母親だった。
同じ家の食卓机に並んだご飯。キレイに盛り付けられた、量の少ないご飯だ。
ご飯を挟んだ向かいの椅子に母親が座っている。
母親はスマホを弄りながら「もう食べていいわよ」と言った。
喉を鉛が通るような感覚を覚え、ご飯を食べているのだと気付く。これはユラと呼ばれた子の感覚なのかもしれない。
味がしない。美味しくないけれど飲み込んでいく。
母親が言う。
「私はね、毎日とっても頑張っているのよ。何をっていうのは、ユラも見ていて分かるでしょ? だから私の事をもっと労わってね」
苛立ちを感じたらしく、暗闇がざわざわと揺れる。
そんな事は知りもしない母親が続ける。
「頭が痛いの。いつも体のどこかが痛いのよ。それでも耐えているのよ。辛いけれどね。旦那の洗濯物に夕飯の支度、片付け。私は生きるだけで精一杯なのに、日常のやるべき事が襲い掛かってくるの。早くユラに大きくなって助けてもらいたいわ」
ガチャンと大きな音を立ててコップが落ちた。ユラが落としてしまったのだ。
コップの破片を片付けようとしているのか、視界が床に近づいていく。
するとドン! と大きな音がした。
暗闇に囲まれた視界は机を叩く母親を映している。
「コップくらい割らずに飲みなさいよ! 自分で片付けられもしないのに、私の仕事を増やさないでよね! 私が片付けるしかないでしょ! 余計な事しないで! あんたが怪我したらどうせ虐待って言われるんだから! 何もしないで!」
立ち尽くしているらしいユラ。視界はひたすら割れたコップを見ている。
そこにまた怒声が飛んだ。
「雑巾くらい持ってきなさいよ! 言われなきゃ分からないの⁉」
その声を聞いて、視界はトボトボとキッチンに移動する。
けれど視界の主、ユラが手にしたのは包丁だった。
誰かが私に話しかける。
「酷い親でしょ? 毎日こんな風に自分は助けられるべきって言うの。朝も夜も怒鳴ってばかりいるしね。もちろん、皿洗いも洗濯物もお父さんがやっているわ。この時ね、無意識で包丁を握ってたの。その時に私は限界なんだってやっと気付いたのよ」
私はその声を聞きながら、さっきまで曖昧になっていた自分を探す。
殺意に飲み込まれた……そうだった。親が、そう……親は酷い。
そうだ、だから私はあったか亭にいたんだ。
コヤネ。私が自分の名前を思い出すと同時に、目の前にユラの姿が見えた。
「お母さんを、殺したの?」
私が聞くと、ユラが頷く。
「そうよ。でも続きの話があるの」
そう言ってユラはどこか一点を指さす。そこにまた視界が現れた。
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