六日目
一
瞼を通り抜ける日差しに目を覚ました時、寝る前には確かに頭の下にあったはずの温かな熊さんのお腹はなかった。代わりに少しゴツゴツするヒザがある。
私に膝枕をしてくれていたらしいケンは、胡坐をかいた姿勢のまま眠っている。
「神様も寝るんだ」
ぽつりと呟いた私の声に、ケンが目を覚ます。
「ん……おはよ」
「おは……よ」
気持ちのいい朝、幸せな気持ちの挨拶を止めさせたのは、視界の端に見えた黒い怪物だ。
「ケン、上!」
慌てて飛び退いたケンに抱きかかえられながら、マジマジと怪物の姿を見た。
子供の落書きのような、黒く塗りたくって書いた似顔絵みたいな姿だ。そいつは、まるで地面を捉える事ができないかのように地面と空中をふわふわと行き来している。
顔なんかない。顔らしい場所はあるのだけれど、そこにはデコボコに歯が生えたニチャッと気味悪く笑う口があるだけだ。
私を抱いているからか、ケンはそいつと距離を取って飛ぶだけで何もしない。
「ヴァ……アァ」
怪物はそんな私たちを馬鹿にするみたいな声を出してから、真っ直ぐ上に飛んで行ってしまった。
「不味い! コヤネ、ここで待っててね」
ケンは私をその場に降ろすと、真っ直ぐ飛び上がり追って行った。
おそらく勝手口に向かったのだろう。
少し呼吸を整え、あれは何だったのだろうかと私は首を傾げる。
今までの怪物はどこか苦しそうだったのに、あれは笑っていたのだ。
それに、人のような姿をしていた。
間違いなく人ではないのだけれど、人によく似た何かだった。
ボトリ、と果実が落ちた。私の思考を止めさせた果実はそのままコロコロと足元まで転がってきた。丸くてナスみたいな色の実だ。
何となく拾ってみると、小さな歯形が付いている。
この実が落ちたであろう木を見てみると、女の子がいた。私より少し年下に見える女の子だ。その子はもう一つの果実を手に持っていて、私と目が合うと慌ててそれを頬張った。
「あ、慌てなくていいよ。なんでも食べていいから」
安心させようと声を掛けると、女の子は荒く呼吸をしながらも木から降りて来る。
あんなの子は真冬に着るようなコートを着ていて、裾からは黄色いスカートが見えている。汗を浮かべているのにコートのボタンは全て閉められている。
「ここの食べ物って、お腹いっぱいにならないでしょ?」
女の子は無言で頷く。私は、女の子がここにいる訳を聞いてみる。
「間違ってここに入っちゃったの? 迷子とか?」
やはり女の子は荒く呼吸をし、無言だ。けれど首を横に振る。
「じゃあ、自分で入ったって事? なんで?」
怖かったでしょ? と言いたかった。けれど女の子は私のその言葉を聞く前に、怯えたように走り出してしまった。
だから私は女の子を追いかけて走り出す。
ケンに待っていてと言われた事を忘れたわけではない。ただ、この台所庭の事を知らない女の子が一人でいるのは危ないと思ったのだ。
あの子を追いかけなきゃという責任感はあっても、怖いとは思わなかった。
「待って! 止まって! 危ないから止まって!」
どういう訳か、女の子はあの谷に向かって走っている。黒い感情が集まっていて危ないのだという、あの谷に。
必死で叫び、追いかけながら女の子が靴を履いていない事に気が付いた。
それだけではない。コートを脱ぎ捨てて走る女の子の服にはたくさんの血が付いているのだ。私はいっそう焦り、追いついて女の子の腕を掴んだ。
その瞬間に女の子が怒鳴る。
「放してよ! 危ないってなに⁉ 私にはここの方が安全なの! あんたなんか殺さなきゃ生きられないって怯えた事もないんでしょ!」
私が驚いた一瞬に、女の子は力まかせに手を振り払って逃げてしまう。
女の子の事情までは分からなくても、怯えているという事は痛いほど分かった。
また追いかけようとすると、私を探すケンの声が聞こえた。
「ケン、ここ!」
着物をバサバサと風に揺らしながらケンが降りて来ると、私は急いでさっきの女の子の事を話した。
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