八
「難しいんだね」
ケンは頷いて、静かに話を聞いてくれる。
その中で私はポツリと漏らした。
「ケンの感情も麦や桃になればいいのに」
恐怖が兎になって話し出したりしたなら分かりやすいのにと、そう思う。
「僕の感情も形になっているよ」
ケンの返事に驚きが隠せない私は、今すぐに見に行こうとせがむ。
「ちょっと待って。もう遅いから明日にしよう。コヤネはもう帰らないと」
「まだ日付が変わったばっかりなのに?」
「今日も朝までいるつもり? ちゃんと帰って寝ないと。ね?」
「でも……帰りたくない」
ケンが困った顔で私の頭を撫でた。
「今日は僕が送って行くから」
「ケンだって知ってるでしょ? お母さんが帰って来ない事。お父さんは仕事だし、そんな家に私を帰すの? 神様と一緒にいた方が安全だと思うんだけど」
私が必死で訴えると、ついにケンが折れた。
「分かったよ。仕方ないなぁ。もうすぐ終わってしまうしね」
ケンの言葉にハッとする。そうだ、もうすぐケンの姿は見えなくなるのだ。
寂しい思いを抱えながら、私とケンは台所庭に入る。
台所庭の空には相変わらず満天の星が輝いている。
「ねぇ、ケンの感情はどこ?」
「この空」
「え?」
私は驚いて声を上げた。ケンを見上げると、笑い返してくれる。
「本当に?」
「本当だよ。ここはあったか亭の台所、僕の台所庭だからね」
ケンが歩き出して、私はふわふわとした気持ちで付いて行く。
「あの池も、この地面も、向こうの岩山も僕の感情で出来ているんだ」
「空も……星も? 風は?」
「星も風も僕の感情だよ。風は心配。星は愛おしさ。岩山は責任感。ここは僕の感情で出来ているんだよ」
「すごい……!」
知ってしまえば何もかもが優しく見えた。知らないでいた時には気味の悪い場所だと感じた事もあるのに、今は星の輝きがくすぐったい。
「食べられそうな感情がないね。食べてみたかったのにな」
「どこかに湧き水があった気がするけど、探しに行く?」
「行く! 湧き水は何の感情なの?」
「楽しさ、だよ」
「美味しそうだね。早く飲みたいな。そしたら何か分かるかな」
ケンはただ笑顔で、何も答えない。
風が私の周りを何度も撫でるように吹く。くるくると回り、また吹き抜ける。
その風が、見えない糸を解す気がした。
「サグメは、神様にはなれなかったんだね。会いたかったな……」
ケンは立ち止まり、少しだけ考えてから言う。
「……子供は神様にはなれないんだよ。長い時間をかけて何かを極めた人や、努力を辞めなかった人なんかが神様になる事があるんだけど、子供では時間が足りてないんだよ。子供は次の生を始める。同じ場所に留まってなんかいないでね」
「そっか……」
もう少し、もう少しだけ解けない糸がある。それでもサグメの次が幸せであるようにと祈る事で、その糸は柔らかく解けていく気がした。
木々の枝や竹が折り重なって坂道になっている。その上を、ケンは進んでいく。折れない事を知っているかのように、迷いなく進んでいく。
少し前の私なら怖くて歩けなかったかもしれないけれど、今は違う。
私はケンの手を掴んで折り重なる枝や竹の上に歩き出した。
「あったよ」
その道の先でケンが言う。
そこには大きな木があった。木の根元にキラキラと湧き出す水が見える。
私とケンは枝の道から木の根元に下りて、湧き水を飲んだ。
「やっぱり美味しいね。久しぶりに明日が楽しみに思えたかも」
「それは良かった。今度からスープの水にはこれを使おうかな?」
それから幸せそうな感情を二人で食べて歩いて、世話焼きな熊さんのお腹を枕に眠った。
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