九
カウンターに座る頃には雑兎も、いつもと同じでよく喋るようになっていた。けれど何となく「さっきのは何だったのか」とは聞けない。
刀の神様と雀の神様は帰って行き、店は昨日までと同じ様子だ。
空はもう暗くなっている。
ケンはスープを作りながら黒い怪物について話してくれた。
「あの台所では様々な感情が勝手に自分の姿を決めてしまうんだ。その場で咲いてみたり、兎になってお喋りしてみたりね。あの黒いのも誰かの感情なんだよ。ただ、感情っていうのは細い糸みたいなものでね、よく絡まるんだよ」
「絡まったら、どうなるの?」
私はケンに質問する。私たちはトトリと雑兎と三人で並んで話しを聞いた。
「解けなくなって、斬るか何とかして解いてやるしかなくなるんだ。その絡まったままの感情が姿を得たのがあの黒い奴らで、僕とか他の神様はそれを解く役目を持っているんだよ。感情を浄化するって言うんだけどね」
「浄化……。それじゃあ、他の神様もあの台所庭に来て浄化してるの?」
ケンは首を横に振って「自由に入れるんだけどね」と言う。そして続けた。
「他の神様が浄化してるのは外の黒いのだよ」
ケンに言われて、竹藪で見た光景を思い出す。
「あれは何?」
「十五年に一度、秋の七日間だけ神様の姿が見える。だからね、あれも神様なんだよ。祟り神。人間たちの感情が解けないくらいに絡まって、膨れ上がって、祟り神になってしまうんだ。神様たちはいつもそれを浄化したり、斬ってしまったりしているんだよ」
ケンは新人の付喪神だから、祟り神になる手前で人間たちの感情を解く役目を受けたのだと言った。
そんな絡まった感情たちは、決まってあの岩の谷に集まるから、私に行ってはいけないと言ったらしい。
あの谷は、さっき出会ったような怪物の巣窟になっているから。
「それじゃあ神様たちは十五年に一度、感情を浄化しに来てるって事?」
「いいや。僕たちはいつだってここにいる。人間たちに見えていない時にだって浄化しているよ」
私がケンの返事に首を傾げていると、トトリが「僕、分かるよ」と言う。
「だって、みんな見えているものしか信じないもんね。お母さんだって……」
冷めた声で言うトトリは、じっと机の一点を見ている。
人間たちが神様の存在を信じられるように、十五年おきに姿を見せているという事だったのだ。
「そうだね。信じて、願ってもらわなくちゃ何もできない。神様は不自由なんだ」
ケンは言いながらトトリにスープを差し出した。
「恐怖蜜柑と決意大根、別れ魚のつみれ汁です。どうぞ」
私の前にはいつもと同じスープが差し出され、何が悲しかったのか、何が寂しいのかをよく咀嚼しながら飲み下す。
相変わらずそこに得体の知れない、空っぽで大きな感情が一つ漂っている。
その感情は、さっき台所庭で私の足をつかんだ怒りとは違う。もっと、疲れ切った夜のような感じがする。
その正体が、何度も飲んでいるうちに少しずつ分かってきている。
これはたぶん麦だ。スープの底に沈む麦を噛むと、カシュッと汁が溢れる。空っぽの所に汁が入り込んだのだろう。
「そっか……」
不意に気付いて声を漏らした私に驚いて、みんながこちらを見る。
「さっきの怪物は私の怒りだったんだよ。ほら、最初の夜の。てことは、私は祟り神になる所だったんだよね?」
ケンが優しく微笑んで、もう大丈夫だと言う。
「コヤネじゃないよ。コヤネの感情だ。さっきは慌てていて斬ってしまったからね。浄化ができていないから、いつかまた向き合わなきゃならない。斬ってしまったものは、今その場から消えるだけなんだ。コヤネの中にはしっかり残ってしまっているんだよ」
「うん。分かった……」
「それじゃあ、トトリ。君も向き合わなきゃいけないね。スープは飲み干したかい?」
ケンが聞く。トトリは力強い視線をケンに向けて頷いた。
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