八
トトリはちゃんと逃げただろうか? と思って、怪物に逆さ吊りにされながら諦めて周りを見ると、雑兎の体がぞわぞわっと膨れ上がっていくところだった。
もうダメなんだ、私はケンに騙されたのだ。そう思うと同時に怪物はずっぷりと私を体内に取り込んだ。
濃い闇で息が苦しい。
そこにお玉が見えた。
何の変哲もない、どこの台所にもあるだろう、あのお玉だ。
それがカッと光を放つと、私は地面に投げ出された。
背中から地面に落ち、痛みに呻くと声が聞こえる。
「コヤネ、大丈夫⁉」
ケンだ。私が声を出せずに頷くと、ケンは柔らかく笑ってから険しい顔で怪物を睨む。
「本当は浄化したいんだけど、お前はもう切るしかない」
そう言うと、ケンは怪物に向かってお玉を振り上げる。そして呆気なく切り裂いた。
怪物は恨めしそうな声を漏らしながら散り散りになり、空気に混じっていく。
「……あ! 雑兎! さっき雑兎が!」
「コヤネの恐怖兎なら、そこにいるよ」
そこには刀の神様が来ていて、トトリと雑兎を宥めるように撫でている。雑兎はいつもよりも毛がボサボサになっている程度で、体が膨れ上がっていたりはしない。
ぶるぶると震えてはいるけれど、何も変わらない姿をしている。
「お、お姉ちゃん……大丈夫?」
トトリが不安そうな声で聞く。
「大丈夫だよ。トトリも、大丈夫? 怪我してない?」
「うん。神様たちが助けてくれたから」
ケンはどこから出したのか、収穫に行く時の籠を背負っていた。そして言う。
「さぁ、温かいスープでも飲もうか」
「ケン、あの……」
「うん。そうだよね、店で話すよ。君がトトリだよね?」
ケンは私に答えてから、トトリの方を向いて聞いた。トトリが頷くと、スタスタと歩き出す。いつも通り、優しい顔をした茶碗の神様だ。
どうやら、雀が刀の神様に知らせに言ってくれたらしい。
私たちを振り返りながらケンが言う。
「怖かったよね。ここは感情が勝手に自分の姿を決めてしまう台所だからね。キレイな感情だけじゃないんだよ。怒ってたり、憎んでたりね」
どうしても黙っていられない私は、ケンに聞いてみようと思った。今なら刀の神様もいるから、聞くなら今しかないと思ったのだ。
「ねぇ、ケン。感情って台所の外にもいるの?」
「雑兎だって、外もうろつけるでしょ? 特に制約はないよ」
「そうじゃなくて……その、ね? 私、公園で黒いのを見たの」
「あぁ! コヤネはあれを見ていたのか。それじゃあ、怖かったはずだよね。もしかして、それで僕に内緒にしてほしいって言ったの?」
どうやら刀の神様が話してしまったみたいで、目が合うと申し訳なさそうに手を合わせる。
「気にしないで。助けに来てくれてありがとう」
私とトトリは刀の神様と雀の神様に、もちろんケンにもお礼を言った。
「信じてくれてよかった。神様は信じてもらわないと何もできないからね」
言いながらケンは、真っ白な蜜柑の生る木の前で立ち止まる。
「この白い蜜柑は誰の?」
「これはトトリの恐怖だよ」
ケンがそう答える。私は刀の神様に抱きかかえられている雑兎とそれを見比べる。
「私の恐怖とはずいぶん違うね」
「そうだね。一人一人、同じ感情でも全く違うんだ」
トトリがケンを見上げながら聞く。
「これが、僕の感情なの?」
「そうだよ。きっと他にもあるはずだから、収穫しに行こうか」
「うん」
返事をするとトトリはその白い蜜柑を自分で収穫する。
「大丈夫。もう怖くないよ。僕が付いてるからね」
明るく言ってお玉を振り上げるケンを見ていると、ようやくその姿に笑えた。
「お玉じゃ格好つかないよ」
「だって、僕は茶碗の神様だもん」
お玉じゃなくちゃ、と言うケンと川に行って『別れ魚』を釣り、扉の裏にひっそりとあった『決意大根』を引っこ抜いたら、やっと扉をくぐってあったか亭に戻る。
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