第2話
2話
チチチチ、ピピィッ。どこかで小鳥がさえずっている。美しい響きが、僕を常闇から引きずり出す。
僕は……どうなったんだろう。あの夜の出来事が全部夢でありますようにと祈った。でも、非情な現実が僕を刺し抜いた。
目を開けて、体を起こす。僕は葉っぱの上に寝かされていた。大きな、なんのものかはわからないが、摘み取ってきてそこまで時間は経っていないんだろう。空は晴れわたり、飛ぶものたちを歓迎している。小鳥の群れが視界を横切る。
服が無い。上半身だけだったが、服を脱がされている。そして、体には敷かれていたものと同じ大きな葉っぱが掛け布団がわりにされていた。それを払いのけると、僕は左腕がしっかりと手当されていることに気がついた。綺麗な純白の包帯が、僕の腕に巻きついている。
ここはどこなのだろう。森の中、差し込む眩しい木漏れ日に、僕は思わず目を瞑る。再び、小鳥たちがさえずっていた。
まずいな、まだフラフラする。揺れる視界の中、なんとか立ち上がった。敷かれた葉っぱをブーツで踏みしだいて、一歩を踏み出してみた。やはり無理をしてはいけない。がくりと膝をついてしまった。
誰かいないものだろうか、僕を手当した本人はどこへ?よく見れば、焚き火の跡、燻った音を立てて、真っ黒い炭が放置されていた。赤ちゃんに戻った気分で、四つん這いになりながらそこまでいくと、恐る恐る、手を当ててみた。炭で黒く手が染まった。それらはまだほんのりと暖かく、火を灯してからそこまで時間は経っていないことを示していた。つまり、僕の恩人とも言える人はまだそう遠くには行っていないということになる。
しばらくして、近くの茂みに水があることに気づいた。匂いがしたのだ。綺麗な水は、その美しさ相応の匂いがするものだ。祖父に山の歩き方を教えてもらっているので、どういったものかは理解している。
僕は喉がカラカラに渇いていることに気づいた。そのベムの木(湿度の高いところに茂る、中高樹)を思い切りかき分けて、体を入れた。土に手をつこうと思ったが、実はそこは、切り立っていた崖だった。
「あぅ!」
ドボーンッ!
思いっきり顔面から水源にダイブする。透き通った水色の世界が、僕を深く包容した。じんわりと腕の傷口に染みる水は、乾いた夜風と違い、優しくそこを洗い流した。血の塊が服から剥がれ落ちる。もう何もかもがどうでも良くなって、仰向けになって太陽に腹に向けた。水のショーケース越しの、太陽の光が暖かい。
そのままそよ風に煽られ、まるで川に流れる唐木のように、ゆっくりと水面を漂った。
なんて安心するんだろう。束の間の静寂が、僕を包み込んだ。
でも、その静寂は、誰かが僕の顔を覗き込んだ時に壊された。
「よぉ、目ぇ覚めたのか」
ジャブンッ。
女性の声。男らしい喋り方だが、れっきとした女の子の声だった。視界を上に向ければ、裸体を晒す、一人の女の子がいた。その子が、足元の水をかき分けて、ここまで歩いてきた。僕の体が、彼女の出した水紋を留めた。
「うわぁあ!」
人形のように整ったプロポーションに、褐色の肌、大きな黒い瞳。長い黒い髪は腰まである。そして、胸から肩、そして腰に向かって裂けるように、黒い入れ墨が迸っていた。
「ごっ、ごめんなさい!人がいるなんて思わなくて!そのー」
顔が真っ赤になった。
「あ?あー、いーよ。別に見られて減るもんじゃないし。あと、腕、災難だったな」
「……」
僕は、濡れているが真新しい包帯の巻かれた、欠けた左腕を見つめた。別に生えてくるわけじゃない。でも、見つめずにはいられなかった。
彼女は右手に持っていたタオルを担ぐと、僕の方に歩いてきた。さして、見られたことを、彼女は気にしないようだ。
「あ…、あなたが僕の手当てをしてくれたんですか?」
「そうだ。あたしも奴らに追われていたんだ。あの動力車には、偶然飛び乗ったんだけど、あたしはすぐ貨物車に隠れたんだ。奴ら、関係ない乗客も皆殺しにしやがったんだ。あたしはずっと貨物車に隠れて。で、逃げようとした時に列車ん中でぶっ倒れてるお前を見つけてきた。へへっ、意外と苦労したんだぜ」
そうか、あの人たちもみんな、あの後に殺されてしまったんだ。女の人だけじゃなく。どこかで魔物の嘶く声がした。
「お前、名前は?あたしはフラメル」
フラメルと名乗った少女は名乗り、少しはにかんだ。優しい笑みだった。木漏れ日が微風に煽られ、ゆらゆらと揺れる。
「僕はフェリ…。フェリ・フェルディナンド」
僕も返さなければ。無礼だろうか。
「そうか、フェリ。とかく、目が覚めてよかったぜ」
「あなたはどうして、あの列車に?」
「あたしは奴らから逃げていたんだ。あいつらはあたしを殺して皮を剥ぐ気でいるんだ」
身の毛もよだつ、とんでもない奴らだ。でも想像に難しくなかった。何せ、作業みたいに人を銃で撃ち殺せるような連中だ。そんなこと簡単にやってくるだろう。そんなことと言ってはいけないのかもしれないが。
「かっ、皮を剥ぐなんて、なんでそんなことを?そもそも奴らって…?」
「帝国だよ。わかるだろ?あたしのこの印を。あいつらはこれが、喉から手が出るほど欲しい」
フラメルはくるりと一周、僕に体を見せた。その傷痕のような入れ墨、『印』。それらは彼女の体を齲蝕する様に存在していた。
そうか。あの甲冑は、帝国兵のものだったのか。僕は、なんだか鼻に木の棒を突っ込まれたような気分がした。
「だから、お前をこれ以上、危険には晒せない。無関係だからな、もうこれ以上あたしといれば、お前も殺されちまうかもだぞ」
彼女の口調は一転して陰険になった。
帝国に追われて殺されてしまうなんて、そんなふうに死んでしまうのは、正直ごめんだ。同時に、彼女のいっていることは、確かにそうかもしれない。でも、夜になれば魔物の群れが活発になり、いずれこの体では、野垂れ死ぬだけだろう。たとえ僕が貴族でも、奴らにとってはただの肉塊だ。
でも、彼女といれば、なんとかなる気がする。彼女を頼りっぱなしではダメだろうが、それでも今は頼らなければ死んでしまうのだ。
僕は大いなる、人生を大きく変える転換点とも言える決断を下した。
「嫌だ、僕はあなたと逃げる…。ここで、こんなところで野垂れ死ぬのは…、嫌だ」
僕は声を振り絞った。そして、体だけ、水から起こした。
「……。どうしても、ってんなら、いいぜ。ここはあの路線から西に3日ほど離れてる。もっと西に行けば、あたしたちの仲間が待ってる。そいつらに保護してもらうんだ」
彼女はそういうと、肩にかけた布を、僕の顔に落とした。
「きっと過酷な旅になるぜ、ついて来れんのか?」
彼女はそういうと、にっこりと微笑んだ。やはり、優しい笑みだった。
「……、はい」
「お前、幾つだ?」
「14、です」
「お、同い年か!じゃ、敬語やめろよ?堅っ苦しいんだよな」
「は…、うん」
はい、と言いかけたが、何とか止めた。
こうして僕は、彼女の旅についていくことになった。布を手に持って、倒れないように立ち上がる。ここの水源で全身丸洗いした僕は血の塊や、煤などがすっかり落ちて、きれいになった。
どうなってしまうんだろう。強い不安に支配されながら、僕は彼女にどんな顔を向ければいいのか、わからなくなった。涼しい風が、僕の鼻をくすぐった。
「ほら、上がって、干し肉でも食おうぜ。ああそうだ、食糧の確保だけど、二人でやってりゃ、なんとかなるだろ」
彼女についていって、さっきの小さな崖を登ると、すぐ近くに、でも僕が寝ていた位置とは遠い位置に、彼女の荷物があって、体を拭いて着替え始めた。
僕も、びしょ濡れになった服を脱いで、近くの枝に引っ掛けた。
「ほれ、食えよ」
久々に、そして思い出したように、耐え難い空腹を思い出したように感じ始め、僕は、彼女に差し出された干し肉を平らげた。少なくとも、眠っていた時間と、朝ごはんから何も食べていないからだ。
「がっつくねぇ、つまらすなよ」
「うん、ありがとう」
彼女は微笑み、バックから自分の分も出すと、口に運んだ。そして彼女は、口から干し肉の一部をはみ出させながら、上着を羽織った。目が覚めるような紅の長袖だった。
空を見上げれば、もうすぐ、太陽が傾ごうとしていて、暖かな雲の流れがあった。深呼吸すると、湿った吸いなれた空気が体に入って心地がいい。
「どれ、服が乾いたら、夜のうちに出発だ。あたしの魔除ランプがあれば、魔物は寄ってこないぜ」
夜のうちに出発か。なるほど、それなら闇に紛れられるかもしれない。全く経験がないのでわからないが。
下着上下だけになって、さっき体を拭いた布を体に羽織り、木に体を預け、しゃがんだ。木の幹の肌は、ゴツゴツとしていて少し痛かった。
彼女は、バックから僕の腕ほどある立派な短剣を二振り取り出して、手入れを始めた。柔らかそうな布で拭いたり、息を吹き掛けたりして磨いている。それを見た僕は少し手に寂しさを覚えた。
「おっ、暇そうだな?なら、ランプのオイル入れといてくれ。バックに入ってる」
「ああ」
僕も彼女のバックに手を伸ばして、少し漁った。いろいろなものが出てきた-よくわからないガラクタに見えるが大切な御守りらしい-が、僕は何とかランプを片手で探した。何ていうんだろうか、対して物との物理的な距離が遠いわけではないし、視力だってある方なのに、物との距離がだいぶ遠くに感じられた。そうか、うまく距離感が掴めないんだ。腕がないから?
右手だけではどうもうまくランプの給油装置の口を開けられず、ブーツを脱いで、裸足になった。
でもやっぱりクセというか、習慣みたいな物で、キャップを左手で開こうとしてしまった、その瞬間。
激痛が左腕を襲った。二の腕、首、そして脳に痛みの波動が迸り、雪崩のように全身が痙攣した。なんで!?傷口は塞がってるはずなのに!
いや、正確にいうならば、左腕そのものが痛みにのたうっているのではない!欠損した左腕そのものが痛むのだ!
「うううっ!くうっ!ああ…!」
僕は呻き声を上げて蹲った。この正体不明の激痛の前に、僕はそうするしかなかった。
「おい、どうした!?」
彼女が駆け寄って、僕の肩をさすってくれた。でも、全く痛みは無くならなかった。
そして、その痛みは、僕に休息を与えることを阻むように、ずっとずっと、ひたすらに続いた。決して感覚が狂っていたり、麻痺していたわけではない。とかくずっとだ。現状に慣れるまでに数時間を要した。その頃にはもう日は沈んで、出発の時間になってしまっており、僕は無理矢理にでも歩かなければならなくなった。
リュックを持った彼女は、心配そうに僕のことを時折見返しながら、ランプを片手に、暗い森の中を歩いて行った。僕も必死について行ったが、追撃を受ける敗残兵のように、僕は何回も何回も、突き出た木の根に躓いてすっ転んだ。
暗闇に、僕の体の輪郭がドロドロに溶けて無くなって、不甲斐ないという気持ちだけが、少しずつ僕の心を支配していった。
ーザッ、ザッ、ザッ。
ああ、なんて苦しいんだろう。すっ転んで、フラメルさんに起こしてもらうたびに、僕の心は体の奥へと押し込まれていった。いや、逃げていったのかもしれない。どうしてだろうか、どうして僕がこんな目に合わなければいけないんだろう。まるで呪いのように、心にその一部分が突き刺さったまま抜けやしないんだ。心がどんどん、体の奥に逃げてく。もうどれほど歩いたんだろう。
「なぁ、本当に大丈夫なのか?そうだ、街に行って手当を受けよう。そうしたらいい。あたしも付き合うからさぁ?な?」
幾度目だろう。こうやって言われるのは。わかってる。でも、帝国軍から逃げてる彼女が街に出れば、足がついて捕まってしまう。それだけは避けなくちゃならないと思っていた。
「だめ、です……。まだ…、歩けます」
「ああ、たのむ、もう止せ!あたしのことはいい!あたしが悪かったんだ。大丈夫そうだと思い込んだあたしが!無理にでも街に返せばよかった!お前の言葉を信じたあたしが!もういいんだ…!変な意地張るのは止せ!また倒れられたら困る!」
優しいランプの飴色の光が、悲痛な彼女の表情を映し出す。眠っている森に、彼女と僕の慟哭が響く。
「ごめん…なさい」
僕はどうしたらいいのかわからず、謝るしかないと思った。でも彼女は、少しその大きな目に涙を浮かべて、僕を抱きしめた。
「いい…!謝るなんて…!切なくてならないんだ…」
彼女の体が近く、とても暖かかった。なんて彼女は優しいんだろう。
「巻き込んだのはあたし…!全部成り行き…、だけど、もう、お前はあたしの仲間だ…!絶対、町医者んとこまで、連れてってやるから!」
彼女はランプを落とした、でも、もっと強く僕を抱きしめた。
じんわりと傷が暖かくなった。
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